その前に「お茶」とは何か、という問題に答えを出していかなくてはなりません。
その答えは「毒性が極めて低い良薬」の一つが「お茶」なのです。もちろん、この「お茶健康法」は5000年の歴史を有する中国漢方の思想と数千年の「人体実験」から生み出された健康維持管理システムそのものです。
このシステムは茶祖栄西禅師が臨済禅宗とともに中国から「仕入れた」のです。お茶は健康の維持管理だけでなく、臨済宗の修行僧の「眠気防止」にも役だっていました。
この大事な要素を狭山茶の歴史を探る出発点にしないと、歴史の連続性が失われ、まさに根拠のない「あてずっぽう」の狭山茶歴史観を生み出してしまいます。
もう一つの要素は、鎌倉時代には「影武者的公務員」という「1192(良い国)づくり」の公務執行組織が存在し、源氏や北条家のリーダーシップの下で、幕府領地(以下天領)の民とともに、禅宗に必要な「茶」「桑」「梅干し」「豆腐」「納豆」などをつくらせました。
その「影武者的公務員」チームの中核をなした「家」が「中村家」です。「中村家」の起源はあの「おごった平家」です。誇り高き「平(たいら)」の名を捨て「中村」姓を名乗り、決しておごらず、源氏や北条氏、時の政権に忠誠を尽くしてきたのです。
全国に散らばった「中村」は、この「影武者的公務員」という鎌倉幕府が築き上げた「1192(良い国)づくり」政策の成果物といって間違いないと断言します。
入間市の旧元狭山村二本木の「中村家」が中心になり、狭山地域では禅宗である曹洞宗の大本山、鶴見の総持寺で用いられる「茶」をつくっていました。その記録は、入間市宮寺の出雲祝神社の「茶碑」にしっかりと残されています。
臨済宗と曹洞宗の違いと禅について
<引用開始>
中世を通じて、京都と鎌倉と二つの政権と文化の中心には、臨済宗が、世・出世を通じて、支配的な力をふるった。両都にそれぞれ五山をはじめ禅宗の大伽藍が甍をならべ軒を競うて、時の権力者、文化の指導者であった公家・武家の上層部の信仰をあつめた。一方、曹洞宗はおもに地方に発展して、これまた地方豪族・武士・民衆の帰依を得たのであり、かくして禅は中央・地方にわたり、わが国の仏教を代表する一大勢力となった。勢いの及ぶ所、日本の文化の禅宗化の風を馴致(なじませる)し、思想・芸術ないしは政治・外交・経済より、日常の行儀・風俗から飲食・言語に至るまで、禅を離れてほとんど存じ得ず、考えざるに至った。
<引用終了>
中世の歴史と「禅」と「茶」栄西 多賀宗隼 吉川弘文館
鎌倉時代初期に「中村家」を中心とする「五人組」が、鎌倉街道や秩父街道、青梅街道が交わる地点である、二本木地区に派遣されました。「五人組」は源頼朝に忠誠を尽くした武家の上層部集団でしたが、彼らには2つの天命が与えられました。
一つは「宿(しゅく)」をつくり運営することです。「宿」と言っても「やど」とは異なり、飛脚のターミナルのような「物」「金」「情報」の中継点であり、大化の改新政策の「駅馬」の発展したものだったと勘案されます。
もうひとつの天命は、禅寺用の茶の栽培です。鎌倉幕府は、青梅の天領の民に「梅干し」を、秩父の天領の民に「桑」をつくらせました。同様に、元狭山村の天領の民に茶をつくらせました。
茶祖栄西が中国から「仕入れ」栂尾高山寺の三本木に蒔かれた茶の「種(しゅ)」は厳重に管理されなければなりません。東の国牟佐志の地でその管理を任されたのが二本木の「中村家」であろうことは容易に推察されます。
埼玉県は、狭山茶の起源は河越茶と宣伝していますが、臨済宗の寺院が無い川越に鎌倉幕府が「種」の管理を任せるはずがありません。反対に、川越「宿」とは比べ物にならないほど小さい元狭山村二本木「宿」には、北条政子が建立し茶祖栄西が初代住職を努めた臨済宗建長寺の建長寺派寺院が二つあります。
住職の墓を守るかのように、「中村家」「清水家」「森田家」「友野家」「田中家」の「鷹の羽紋章」集団の墓や、藤原の紋章の「加藤家」、織田の紋章の「栗原家」、徳川の紋章の「古谷家」、諏訪の武士「手塚家」などが並んでいます。鎌倉幕府は、このような武士集団「影武者的公務員」を全国に配置し、治安や産業育成にあたらせたに違いありません。私は「中村家システム」が全国で機能していたと確信しています。その理由は、町の中心が「中村区、中村町」である名古屋のように、「中村家」に与えられた地名「中村」が全国に何百も残っていることからそう判断されます。
秩父で栽培された「桑茶」や青梅で栽培された「梅干し」は秩父街道、青梅街道により二本木宿に運ばれたものと考えられます。二本木宿に出張してきた鎌倉幕府の「公務員」が、受け取り、対価を支払い、曹洞宗の大本山である総持寺や川越の曹洞宗寺院などに運んだのでしょう。
元狭山村、青梅、秩父の天領の民は二本木「宿」で交流したに違いありません。天領の民として公家ことばを理解し、方言化して共通語として使っていました。その共通語である元狭山村の方言は、昭和30年代頃まで通用していましたが、今は一部のお年寄りが話すだけです。
入間史誌には「明治2年1月、二本木村では製茶焙炉調査が行われ、各戸ごとの反数、人数、焙炉数が調査された。」と記されています。「五人組」が機能し、時の政権に対する「業務報告」を行っていた二本木では、それこそ「お茶のこさいさい(簡単の意味)」の作業であったでしょう。
ここで、「狭山」という地名について触れておきます。当たり前ですが、狭山の地の始まりは東京都瑞穂町の狭山神社にあります。狭山神社に隣接して狭山池もあります。
大阪狭山池
ウィキペディアより
<引用開始>
『日本書紀』の記述―崇神天皇62年7月2日の条
「農は天下の大本なり。…今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」
『古事記』の記述―垂仁天皇の段
「印色入日子命(編者注;垂仁天皇の皇子)、血沼池又狭山池を作る」
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E6%B1%A0_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C)
狭山とは日本書紀や古事記に記された地名です。とするならば、狭山と名付けられるのは、日本書紀や古事記を理解する人々ということになり、常識的に考えると鎌倉幕府の要人でしょう。
この記事の表題は、「狭山茶の歴史は『中村茶』の歴史そのもの」です。狭山茶と中村茶、何が違うのでしょうか。それはこの言葉に表顕されています。
「色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山でとどめさす.」
狭山茶宣伝用のコピーなのでしょうが、入間市二本木に居を構える「中村家」15代(江戸時代から)の当主、茶師中村誠忠(のぶただ)は、昭和63年(1988)10月15日発行のアサヒタウンズ多摩版に以下のように話しています。
<引用開始>
「外観、香気(かおり)、水色、味の四拍子揃った、より完成度の高いものをつくりたい。形を良くしようとすると味が落ちる。味を良くしようとすると水色が悪くなる。どうしても反比例してしまうものをなんとか今以上においしくしたい。」
私は水色にこだわります。白い茶碗に注がれた薄緑色の中村茶を見るだけで「和」という日本文化を感じ快くなります。梅干しを見ただけで唾がでてくる感覚と同じです。反対に「味」だけにこだわったかのような「深緑色」のお茶は好みません。
京都は日本人の心の故郷と言えますが、その京都を「感じる」お茶こそが銘茶であると考えます。茶祖栄西がもたらした「茶文化」を受け継ぐ中村家のお茶づくりは、明治から今日まで高く評価され、「農林大臣賞最多受賞工場」として孤高の地位にあります。
その中村家のお茶が埼玉県に正しく認識されていないのには理由があります。それは、昭和28年からの「昭和の大合併」の悲劇が生み出したのです。元狭山村は東京都瑞穂町と合併しようとしたのですが、埼玉県は「県会議員定数が減る」という理由で、元狭山村を無理やりに分村させたのです。
その不正に怒った「中村家」は、以後埼玉県や入間市を無視し続け、東京狭山茶、本狭山茶として品評会に出品したり、販売したりしてきました。そのために、入間市の茶業者、入間市、埼玉県は日本一の製茶工場が入間市にあることを知らないのです。ですから「味は狭山でとどめ打つ」という一言で「鬼の首をとった」かのように傲慢にふるまってしまうのです。
「知らないのは罪、知ったかぶりはもっと罪、嘘を言うのはもっと もっと罪」、この言葉は語り部をしていた水俣病認定患者の故・杉本栄子さんの言葉だそうです。
埼玉県や入間市は猛省し、正しい狭山茶の歴史を全国に発信する義務が生じていると考えます。昨日は入間市博物館に行き、狭山茶関係の展示内容を見ましたが、見るに堪えられるものではありませんでした。館内の「専門家」の方は、努力はされていますが良い結果を出せていません。金子地区の木蓮寺にある桂川神社の由緒には、「入間市大字木蓮寺字元狭山八百七十八番地と明記されていることもご存知でなかったようです。
今春お会いした埼玉県の副室長宛に手紙を書いてみたいと思います。本来の狭山茶は、こんなに文化的で高貴な香りがするものであるということをお伝えするために。
分村合併に関する記事はこちら
http://dream333.seesaa.net/article/278152778.html