2012.06.27
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
最終回
それでは皆様、さようなら
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「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)」だとうそぶく。「(ドイツ)国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」

 わたしには反論する術がない。そう、民意だ。すべて、民意だ。歴史は、選択と選択の連続だ。
 ここに言おう。
 この国の成人は、これからおのれの身にどれだけの重篤な健康被害が現れようと、決して、「騙された」などとは口にしてはならない、と。
 騙された、ふりをした。
 騙された、ふりをすれば自分自身に受ける被害よりも貰えるおこぼれのほうが多いと判断したからこそ、騙されてみた。そこにはそろばん勘定がある、と。
「知らなかった」。
 これも、口に、するな。怠惰もまた、選択のひとつだ。自国の原発が爆発したというのに、必死に目を背けて、AKB48の選挙に熱中することを、「選んだ」のだ。
 そう、あなたたちは薄々気づいている。この国の行動の異様さに。封じ込められた核汚染物質が、なぜ拡散されようとしているのかに。その裏にある権力の強大さをひしひしと感じているから、必死におもねって、自分だけは生き残ろうと利己的になる。
 健康被害にしてもそうだ。「子供たちに重篤な健康被害がでようが、おのれの世代は癌になる確率が少しあがるだけ」。そう思えるから、平気で子供たちに高線量の被曝を強いる。声なきものから死んでいくのを、よくよく承知しているからだ。

 わたしは昨日、NHKのドキュメンタリー番組を見ていた。11年前、「地下鉄サリン事件」を起こしたオウム真理教にまつわる番組だった。番組ではナレーターがこう語っていた。
「命じられるままに無差別テロを引き起こしていった若者たち」
 オウム真理教には、高学歴の幹部たちが多かったのも、世間を驚かせた。なぜ、高学歴の若者が、安易に「洗脳された」のかと。違う、逆なのだ。安易に「洗脳される」からこそ、高学歴なのだ。彼らは、洗脳してくれる存在を求めている。そしてその命令をおのれの能力によって実行して、幹部という名誉で「称えられる」ことを欲している。
 オウム真理教が霞ヶ関を狙ったのも、偶然ではないのだ。必然だ。
 なぜなら、彼らは、高学歴の人間から一定の割合で発生する悪性腫瘍であるからだ。霞ヶ関の人間は、自分たち自身の組織が変異して、正常なコントロールを失い、自立的に増殖された細胞によって、攻撃を受けたのだ。
「命じられるままに原発推進を行った若者たち」
「命じられるままに瓦礫の拡散を行った若者たち」
「命じられるままに原発の再稼動を行おうとしている若者たち」
 上祐の喋り方は、なんと、霞ヶ関の役人と似ていることか。彼は平然と嘘をついていたが、それは麻原によって「命じられている」という主体性の放棄が完了していたからだ。自分自身は手を汚していないと、彼は信じている。だから平気でいられるのだ。「ああ言えば上祐」と言われようが、それは、おのれの罪ではない。主体性を持つ「大人」の命令を、素直に実行に移せる「良い子」なのだ、彼らも、霞ヶ関の役人も。そして賞賛を待っている。「素直な良い子ね」。彼らは、「大人」が方針を転換しない限り、永遠にその立場を貫き通すだろう。決して、真の意味で、自分自身で思考しようとはしない。
 ワイマール共和国は、まもなく滅亡する。
 それは事実かもしれない。だが、わたしは、滅亡の先を見ようと思うのだ。自分の足でたどり着けない未来であっても、その先を望むのだ。虚無に喰われていた時間の空虚さと、息をしているのもしんどかった日々を知っているからこそ、望むことを選択する。
 栃木で、産廃に出す荷物の整理を黙々と夫と行っていたとき、玄関のチャイムが鳴った。とっさにわたしは、夫を制した。「わたしが行く」。これ以上、夫が言葉の暴力に晒されるのを、わたしは防御したかった。わたしは平気だ。なぜなら、平気で人を見下せるからだ。嘲笑という武器が、わたしにはある。夫のように、他者と理解しあえる日を、期待しない。
 わたしは荒っぽい足取りで玄関にむかった。
 引き戸をあけた。
 するとそこにいたのは、酪農を営む生産者の若奥さんだった。
「わあ! 本当だ。戻ってきたんだ、戻ってきたんだ!」
 恨むどころか、満面の笑顔でわたしとの再会を喜んだ。何度も全国の品評会で表彰されるような、凄い肉牛を育ている、真剣に生きているご家族だった。その若奥さんだった。綺麗な人だった。
「元気だったんだ、元気だったんだ、よかった、よかった」
 わたしはとっさに彼女と抱擁を交わしていた。
「会えたね、また、また会えたね」
 自分の醜さを認めたら、人の尊さも見えてきた。わたしは正しく、尊い人と再会した。
 生きているってそれだけで素晴らしい。
 こんな時代にあろうが、生きているって、それだけで素晴らしい。
 わたしはまた出会う。そして驚く。目を見張る。世の中にはだれに知られることもなく、尊い努めを果たしている人がいることを知る。
 高知の借家は、生き物の気配で満ちている。
 冬場は野うさぎが家のまわりを徘徊し、山側から春先はうるさいぐらいにホトトギスが鳴き声の練習を重ね、それが終わると田んぼの側からカエルたちが異性を求めてゲコゲコと鳴き、猫が玄関先に殺気を漂わせた目でたたずみ、屋根裏はねずみが猫の捕獲から逃れようと走り回る。
 生きているって、それだけで素晴らしい。
 さよなら、皆様。いつかまた会えるかもしれないし、もう会えないかもしれない。だけどいままでありがとう。それではこれにて「時事音痴」を終了します。さようなら。


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