2012.04.12
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第253回
栃木行 その5
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 更新のあいまに、一郎さんのことを思い出していた。
 集落でいちばん物静かで、そして農業に真剣だった一郎さんについてだ。一郎さんの畑のひとつはわたしたちの家の境界線のむこうにあった。一郎さんはその畑で淡々と作業に励んでいた。一郎さんの白い軽トラックが去っていくのを見て、わたしはたびたび夕暮れに気づいた。
 ああ、一郎さんが、今日もその務めを終えて帰っていく。
 一郎さんは、往年の映画俳優だと言われたら信じてしまうような整った風貌の男性だった。白髪交じりの髪の毛も、年齢なりに下がった口角も、むしろ魅力になっていた。一郎さんの奥さんはロシアの民芸人形、マトリョーシュカのような女性で、初めて一郎さんと奥さんが一緒にいるのを目撃したときは、正直、違和感を抱いた。だがやがてその理由を察した。
 わたしはよくパーコレーターでコーヒーをわかして庭に出た。一郎さんの姿を見かけると、コーヒーを飲みませんかと声をかけた。こちらは素人だから、作業の邪魔になっているかなっていないかの判断がつかなかったのだが、一郎さんはその時の状況に応じて、誘いを断ったり、受けたりしてくれた。おかげで気軽に声をかけられた。断れない人だったら、こちらとしても声がかけにくい。人の好意というのは、案外、上手に受け取るのが難しいものだが、一郎さんはごく自然に受け取れる資質を備えていた。
 一郎さんは、とても美味しそうにコーヒーを飲む人だった。無口な人なので、コーヒーの味についてなんて語りはしなかったけど、一杯のコーヒーを楽しんでいる様子が伝わってくるので、わたしも静かな時を過ごせた。
 そんなことがあると、後日、必ず奥さんが満面の笑みを浮かべてわたしにお礼を言った。「このあいだは、お父さんがお世話になって」。一郎さんの奥さんは、自分になにかしてもらうよりも、夫である一郎さんが大事にされることのほうを喜ぶような女性なのだなと、次第に理解した。わたしは奥さんにお礼を言われるたび、一郎さんがその日の出来事を奥さんに伝えていることと、そして一郎さんにとってわずかでも良いことがあると、それを嬉しく思う奥さんがいることを、知った。
 かつて、父がわたしに伝えようとした言葉を思い出した。
「なあ、俺は、本当に偉い人っていうのは、歴史上の人物だったりしないんじゃないかと思うんだ。本当に偉い人というのは、市井にいて、だれに認められなくても、だれに知られなくても、静かに自分の役割を果たして生涯を終えるんじゃないかなあ」
 そのころわたしは司馬遼太郎に夢中で、『坂の上の雲』を通読したりとかして、ご他聞に漏れず、秋山兄弟に入れ込んでいた。父もわたしの影響で司馬遼太郎の本を片っ端から読んでいた時期だったのだが、途中でなにか考えるところがあったようで、こんな言葉を紡いだのだ。
 そのときは自分が夢中になっている対象を否定されたような気がして不快だったのだが、それでもなにか考えさせられるものがあったらしい。
 生きていくうえで何がいちばん真剣に追い求めるべきものなのか。
 世間の尺度ではなく、自分の基準で、はからなければならない何か。それがこの世には存在しているのではないか。父がわたしに遺したのは、そんな問いかけだったように思う。
 あの日、最初に栃木の家を訪れてくれたのは一郎さんだった。あとでよくよく振り返ってみると、一郎さんはわたしたちが戻ってきたのに気づいたときに、ある種の危機感を抱いて駆けつけてくれたのだろうと思えた。
 わたしは、どうして一郎さんがわたしたちを庇ってくれたのか、とても不思議に感じていた。
 一郎さんの人柄の良さは重々承知しているし、確かに庭で一緒にコーヒーを飲んだりもした。だがそれだけで全てを説明するには、わたしたちと一郎さんの接点がなさすぎた。そもそも、わたしたちは、あの集落に半年ほども暮らせなかったのだから。
 ぼんやり振り返っているうちに、あの三月の混乱のさなかの断片的な記憶の映像がふいによみがえってきた。
 海苔だ。たぶんそうだ。あの韓国海苔だ。
 そうか、一郎さんは、あの韓国海苔のことを憶えていてくれたのか。
 たったそれだけのために。
 2011年3月15日、福島第一原発三号機の爆発を知ったわたしは、決断した。
 夫を、逃がさなければ。
 当初、わたしは政府が避難範囲を次第に拡大していくのだろうと想像していた。だからわたしは行政の指示があったら、それに従おうと思っていた。しかしこの国が原発事故に際して選択した(そう、不可抗力ではない。これは、国の意思が働いている)方針は、常にわたしの予想の斜め上を行った。
 一向に拡大されない避難範囲。
 福島県民は棄民された、と感じた瞬間だ。
 もう待っていられない。フォールアウトにむざむざ晒されている暇はない。
 西に走ろうとしてキャンプ道具と通帳や印鑑など、最低限の荷物を車に詰め込み、家を出ようとしたときに、夫がふいに言い出したのだ。
「一郎さんにだけは挨拶していこう。俺たちは家を空けるって」
 信末さんの紹介で一郎さんと知り合ったという経緯もあったのだが、なにより、近隣の人のなかで、わたしたちが頼りにしていたのが一郎さんだったんだろうと思う。具体的になにかしてもらうというより、精神的な支えという意味で。
 連続する原発の爆発。どこまで被害が拡大するかなんて、まったく見えない。ここに帰ってこれるかどうかも怪しい見通しだとわたしは感じていた。この事態に危機感がなかった人から見ると、なにを発狂しているのだと思われそうだが、残念ながら、わたしはこの事態を甘くはみていない。とても、残念なことに。民主党元代表の小沢一郎の「福島の分は日本の領土から減った」、「ここまま行けば東京は人が住めなくなる」という発言は、わたしは事実だと思う。彼は、とてもリアリストだ。ただ事実をみつめて、発言しているだけだと思う。多くの人間が差し迫る危機から目を逸らそうとしているなかで、彼はただ、リアリストとして発言したのだと思う。
 わたしはこのまま別れになる可能性があることを、夫の言葉で気づかされた。
「そうだね、一郎さんにだけは挨拶していこう」
 いずれ一郎さんから、信末さんにも伝えてもらえるだろうと思った。わたしは逃げると決めたとたんに、ありありとした恐怖に晒されていた。
 あとで夫から、「3.11のあと、マキちゃんが毎日ちゃんと寝てたから、どうして眠れるんだって驚いてた」と言われたのだが、寝てないといざというときに体力が持たないと考えていたからである。恐怖に関しても、いま感じてはまずいと察していたからである。自分の体験から考えるに、人は正しい情報さえあれば、意外とパニックをコントロールできるものである。わたしのような凡人でさえ、だ。
 一刻を争うような緊張感のなかで、わたしたちは一郎さんの家に立ち寄った。広い門扉を走りぬけ、エンジンをかけっぱなしで停車した。
 一郎さんの家はいつも施錠していないので、引き戸をあけて、
「すいません! 山崎です」
と声を張り上げた。奥さんが現れ、それに続いて一郎さんが現れた。
 あとで考えてみると、一郎さんも奥さんもこの時期、農作業をやめて、伝えられるニュースに見入っていたのだと解る。あのときは、午後三時ごろであったはずなのだ。
 そこで、一郎さんと奥さんに、何をどのように話をしたのかが、記憶から欠落している。ただ、ありありと記憶に残っているのは、廊下のむこうからあどけない顔の一郎さんのお孫さんが玄関にむかって歩いてきたことだ。
 はっとした。
 まだ幼い子供が、放射性プルームにむざむざと晒される。ヨウ素剤はこれから行政によって配られるだろうか? この流れでは、大いに疑問だ。わたしが記憶していたことが正しければ、チェルノブイリでは4、5年後に、甲状腺がんが多発した。確かに甲状腺がんは生存率の高い病だとはいえ、一生、ホルモン剤の服用を余儀なくされるのだ。甲状腺がんなんてたいしたことないという主張は、「足を切られても、命は助かったのだから平気でしょう?」と言うのと、まったく変わらない。


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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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