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さてそろそろ小山についての話を再開したい。
信末さんのところをおいとました後、小山にいた頃にたまに訪れていた蕎麦屋に向かった。昭和30年代からあるような、小さな古びた店舗。引き戸を開けると店の真ん中に円筒状の灯油ストーブがある。隙間風が寒いので、コートを脱げない。皮手袋も、脱げない。底冷えがする。しかし出てきた蕎麦は確かに関東の味で、懐かしさに悲しくなる。
このあたりの農家は蕎麦も生産している。道を行くと、自家製のそば粉の販売を行っている農家の登り旗をよく見かけた。だからこのあたりの蕎麦は地元のそば粉を使っている。国内産のそば粉を用いた蕎麦が食べられるのが、かつて、嬉しかった。
なにもかも、原発が変えた。
注文を聞き間違えたのか、夫だけでなくわたしも大盛りになっていたのだが、何も言わなかった。ここで生きていく人たちのこれからの厳しさを思うと何も言わないというより、言えない。それはこれからの時代を生きる全国民に当てはまることなのだが。とはいえ、西の現状はまだ、ましな状況なのだ。
一杯400円の蕎麦で生計を成り立たせて、つましい暮らしをしてきたこの人たちに、なんの罪があるだろう。罪があるといえば、厳密な意味でいえば、この国の成人たちは皆、罪がある。国のエネルギー政策を問いただせなかったという罪だ。贖える罪などないと、最近、時々思う。罪はただ、背負い続けることしか、できないと。
今回の原発事故を含めた東日本大震災で、わたしは寄付をしなかった。
自分自身もある種の被災者であると言えるからではない。また、福島の母たちも被災者であるからという理由でもない。
はした金で、免罪符など買いたくはない。
そんなことで良心の呵責をごまかしたくない。
この蕎麦屋には通おうと、小山にいた時はよく夫と話していた。安いのに、確かな味。しかしもう二度と、味わうことはないだろう。
蕎麦屋を出ると、夫が、
「畑を見に行ってもいい?」
と、わたしに尋ねた。いいよ、と答えた。家に急ぐ気持ちがあるのと同時に、おそらくわたしも夫も怖いのだ。なんとなく遠回りしている。
あの混乱の直前、夫の初の出荷の準備が整いつつあった。
ハウスのなかでは青物が育っていた。完全無農薬で育てた野菜だった。
信末さんの堆肥を買って、土壌改良を依頼した畑だった。
いい土だった。
風景に、封じていた記憶が蘇る。
畑からはハウスが消えているのが遠目にも解った。ハウスの盗難ってあるんだと信末さんが言っていたのを思い出した。夫が資材を買って、友人ふたりに手伝ってもらって、試行錯誤しながら建てたハウスだった。
車から降りた。筑波山が遠くに見えるだけの関東平野。空っ風に吹かれる。
畑だけが残っていた。
この大地を、放射性プルームが舐めた。
ハウスがなくなっているのを見ても、夫はなにも言わなかった。パイプを一生懸命組んでいた姿がよみがえった。地道に畑に通い、ほとんど一人で組み立て、それからどうしても共同作業でないと不可能なビニール張りのときに友人に依頼した。気のいい友人たちがやってきてくれた。
夫はしばらく畑に目をやっていたが、やがて淡々と、
「行こうか」
と告げた。無言でうなずき、車の助手席に納まった。
いよいよ、家が見えてきた。冬の枯れ草に覆われた庭。
さまざま記憶がいちどきに蘇えってきた。
3月12日、15時36分、一号機建屋で水素爆発。
リアルタイムで報道に踏み切ったのは、福島中央テレビのみだったと後に知った。その後、キー局である日本テレビが全国放送したのは、爆発から1時間余りが過ぎた午後4時50分。
わたしは当時、ネットで錯綜する情報を集めていて、ついにその時を迎えたかと深い虚無に襲われた。ECCSが作動しなくなるとメルトダウンとなり、水素爆発が起きたらその場から出来るだけ遠くに逃げるしかないと、かつて反原発系のWebサイトで読んだのを思い出した。
レベル7だ。
報道は否定している。政府の見解ではレベル4であると。
違う、レベル7だ。
どう考えても、レベル7だ。わたしが過去に学んだことに間違いがなければ。
報道に食い入る夫を部屋に残して、ぼんやりと庭に出た。ガーデンチェアに腰を降ろし、タバコを吹かした。庭では小鳥が鳴いていた。
樹木にとまったその姿に微笑みながら、
「お前、お逃げ。翼があるのだから、お逃げ」
と語りかけた。小鳥はその場で囀りつづけた。原発事故など知るよしもない、罪なきもの。
どうしたら罪が贖えるのかをぼんやりと考えた。
日没が美しかった。
こんな事態に陥っても、世界は、美しかった。
チェルノブイリを思い出していた。リクビダートルになるぐらいしか道はないのかなあと考えた。原発事故の処理作業員。チェルノブイリで石棺を作った人々。自分の姪のことを思い浮かべた。あの子が生まれたとき、嬉しかった。なぜか無条件に嬉しかった。天から素晴らしいなにかを託されたひとりになれたことが嬉しくてたまらなかった。
姉は、出産前に読んでいた育児書で「乳幼児突然死症候群」という原因不明とされる病死を強度に恐れ、不眠に陥った。自分が寝ているあいだにこの子が死んでしまうかもしれないから、息をしているかどうか見ていてくれというのである。わたしは実を言うと、この時期からすでに乳幼児突発死症候群の影には虐待が潜んでいるような気がしてならなかったのだが、姉の不安に寄り添うことにした。姉が眠っているあいだにキーボードを叩き、姉が目覚めると姪の傍らで眠った。いつも美しい夢を見た。この夢はこの子が運んでくれたのだと思った。生まれてくれて、ありがとう。
父と母、姉とわたしと姪の5人で、沖縄を旅した思い出も蘇った。
現地はあいにくの雨だった。姪が四歳のころだったと思う。海で遊ばせてやることもできず、わたしたちはJALプライベートリゾートオクマの庭をただ歩いた。姪を喜ばせたかった。赤い合羽を着ていたので、
「赤魔道士さんだね」
と言うと、すでにわたしが買い与えたファイナル・ファンタジーで遊んでいた姪は、「あかまどうし、あかまどうし」と言って飛び跳ねた。最終日まで、降ったり止んだり、ときおりしか青空は垣間見えなかった。ホテル日航アリビラのオーシャンビューの部屋も意味がないとわたしは落胆していた。
だが、姪は小さな手を窓にぺたりとくっつけて、寂しそうにつぶやいた。
「さよなら。沖縄の青い空、青い海」
幼い詩人よ。どんな言葉よりも、わたしを打つ。
こんな世界に、わたしはあの子を置いていくのか。何故、こんな世界しか残してやれなかったのだ。
ぼんやりと不安だったのは、バスに揺られていたリクビダートルが、全員男性だったことだけだった。女でも、石棺は作れるのだろうか。現場仕事では、ただの足手まといだろうか。ウランの燃料棒を素手でつかんで、石棺に投げ入れるぐらいはできるかもしれないが。
小鳥はただ羽ばたいていた。無色透明な放射性プルームが襲い掛かる空を。
追想のなか、わたしと夫は玄関の施錠を解いて家に入った。
わたしはトイレに直行した。住友林業の、しっかりとした家。3.11の日も、網戸が外れたぐらいでびくともしなかった。いま住んでいるボロ家となんて違う。和室だって全部、京壁だ。いまの家のように、塗り壁のようなクロスが貼ってあるだけの安普請ではない。なのにわたしはもう、この家に価値を見いだせない。
トイレに入ると、センサーで感知して自動的に蓋があく作りの便座が作動しなかった。電気を止めていったように思ったので、気にしなかった。便座は冷えていた。座ると自動的に流れる音楽もなかった。しかし、困ったのはその後だった。
立ち上がると自動的に流れる作りになっているのだが、これも、当然、作動しないのである。つまりわたしは、水を流せなかった。
憤怒した。なんて、なんてくだらないことに、電気を使っていたのだろう。
豊かさって、なんだ。なにを追い求めてきたのだ。わたしはいままで、なにを追い求めてきたのだ。なんと、くだらない。なんとくだらない生だったのだ。
そのとき、だれかが訪ねてきた。
一郎さんという、地道な農業を実践している、口数の少ない男性だった。夫はとてもこの初老の男性に好意を寄せていた。
悲しげに玄関先に、一郎さんが立っていた。
続く
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