2012.03.01
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
第251回
栃木行 その3
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 わたしは、ときどき自分にうんざりする。
 そしていまがそうだ。だけど同時に、とても醒めた自分がいて、人の流れを観察している。
 この「栃木行 その3」は、この流れのなかでは番外編になるのだが、いまの気持ちを伝えたい。
「人には明かさないほうがいいよ」
と夫には言われたが、わたしに唯一、存在理由があるとしたら、原稿の上では正直になろうと努力することぐらいだろうと思うので打ち明ける。
 先日また、栃木に行ってきた。
 結果から言うと、わたしは栃木の家を売り抜けられそうなのである。
 ごくわずかながら売却益が出そうな雰囲気だ。
 2年前に豊洲のマンションを売却したときに使った3000万特例(というものがあります、3000万以下の売却益に対して税金がかからない、という。一度使ったら5年以上たたないと二度目は使えない)は今回は使えないから、「益」といっても微々たるものなのだが、少なくとも、損はしなかった。
 わたしの自分の住まいに関する他者からの評価というのはいつも、嘲笑から憎悪への推移だった。
 発端はお台場だった。夫と結婚するにあたって新居を探していて、「お台場」という謎の土地に公団住宅ができるのを知ったのである。
 現在は全国的に地名が知られているお台場は、ちょうど「十三号埋立地」から名称が変わったばかりだった。
 わたしはお台場に実際に足を運び、ここにかなり大掛かりな都市計画があるのを知った。伸びるな、と予感した。数年耐えれば、ここは伸びる、と。
 しかしここに新居を決めた当時は、
「山崎が湾岸の妙な埋立地に新居を買った(これは完全な誤解。あくまで賃貸)」
と物笑いの種になった。お台場ってどこだそれ、と尋ねる人に、湾岸の埋立地ですよと答えると、馬鹿にされた。
「埋立地なんて、地震が来たら液状化するんじゃないですかあ?」
「かもしれませんけど。好きなんですよね、埋立地」
 これは負け惜しみでなかった。本音だった。
 お台場が伸びると予感しただけではなく、わたしは冗談抜きで埋立地で暮らすというのが、妙にしっくりきたのである。
 二十二歳のころ、わたしは真夜中に十三号地を歩くのが好きだった。スチールボールやケミカルアンカーで解体されたビルの、コンクリートの瓦礫が投棄された地面が、暗い東京湾まで続いている。埋立地のエッジに着くと、波のない海が待ち受けている。遠くでは東京都の最終処分場が、二十四時間、煌々とした明かりを灯して、埋め立てを続けている。
 荒涼としたその風景は、当時のわたしの心情に響いた。
 世界の果てがあるとしたら、こんな感じかもしれないと思った。
 人の欲望が、壊れて投げ出され、作り出された人工の土地。
 わたしの友人は、人間を「自然界の生んだバグ」だと表現した。
 バグにふさわしい土地だなと思った。
 人は、こういう場所に住めばよい。身を潜めるようにして、住めばよい。
 それから時を経て、二十八歳のわたしが再度発見した十三号地は「お台場」と名称を変えて、コンクリートの瓦礫を表土で覆い、芝生の植生が施され、あたかも自然豊かな土地であるかのような顔を装っていた。
 だが、この薄い表土を剥げば、この土地は瓦礫の山なのだ。
 そこが妙に好ましかった。
 当たり前といえば当たり前なのだが、そんなわたしの心情が理解されるわけもなく、むしろ更なる嘲笑を買った。
「埋立地が好きって。『ああこれは良い埋め立てだなあ』とか『悪い埋め立てだなあ』とかあるんですか?」
 笑って答えなかった。
 理解の糸口さえ見えないときは、黙すること。
 それぐらいの知恵は、わたしにだって、ある。
 しかしお台場は数年も待たずして激変した。
 わたしが引っ越してすぐにフジテレビが移転してきて、メディアはお台場を連呼するようになった。すると名刺を差し出すときの人の受け止め方が変わった。事務所を構えているような稼ぎのある人は別として、基本、貧乏なフリーライターの名刺に書く住所というのは、自分の住まいである。
「凄い、お台場にお住まいなんですね!」
 東京という場所は、他者の住まいで、その人の社会的地位を推し量る。そういう土地だ。
 港区台場。
 この虚栄が、わたしの仕事を楽にした。
 その一方で、なにかに醒めていく自分を感じていた。
 次の住居は豊洲だった。これまた埋立地である。
 発展しても、お台場というのは生活には不便な場所で、ある日わたしは「亀の子たわし」を求めて、自転車で門前仲町に向かった。
 その帰り、夕暮れのなかで倉庫街にぽつんと、マンションのパビリオンの明かりが灯っていた。ちょっと興味を引かれた。どんな物好きがここにマンションを買い求めるのだろうとからかうような気分で立ち寄った。
 するとデベロッパーから、豊洲には大規模な都市開発計画があるのを教えて貰った。
 ここもまた、第二の台場になるな、と感じた。
 新橋から続く新交通ゆりかもめの終点、銀座から4キロメートルという距離、地下鉄有楽町線で銀座一丁目から3駅。東京駅への路線バス。これでデベロッパーからの説明通り複合商業施設などが出揃えば、ここは伸びる。
 お台場から豊洲に引っ越すと、また物笑いの種になった。
「山崎さん、都市に暮らすということは、利便性を求めるということだよ」
 一方、かげでは、吐き捨てるようにこう言われていたらしい。
「山崎は台場を売り抜け、豊洲とかいうところに広いマンションを買ったらしい」
 台場は賃貸物件なので完全な誤解なのだが、まあ、憎悪されたり嘲笑されたり、忙しいことだ。
 豊洲のマンションに遊びに来た吉祥寺住まいの友人も嗤った。鼻で歌う。
「窓を開けたら、倉庫ぉ、倉庫ぉ」
 もっともわたしは当時、彼女の「利口さ」を尊敬していたので、苦笑するばかりで気にしなかった。利口な人より賢明な人と付き合いたいと感じるように至る以前の話だ。
 やがて豊洲に住まう人を、メディアが「キャナリーゼ(日本語っぽく訳すと“運河人”になるのだが、なんだそれは)」などと称して、持ち上げる時代がやってきた。豊洲の発展はお台場のときほどはスピーディーではなく、6、7年、かかったのだが。
 ちょっと考えれば誰だって解ることだ。
 デベロッパーという仕掛け人がいて、煽っている。
 バブルが弾けたって不動産業界がつぶれないのは、こうして小さなバブルをあちこちで展開していたからだ。
 その時点で誰もが羨む場所に不動産を求めるということは、その人は、一番高値掴みをしているということだ。なぜか、ここに皆、気づかない。
 見栄を取るか実を取るかで、大半の人は見栄を選ぶ。
 わたしにはそこがいつも不思議だ。
 まあ、見栄を取ることで得る実がある人がいるのも解るけれども。
 本当に豊洲を高値で売り抜けるとすればリーマンショックの直前がよかったのだが、不動産の値崩れというのはデベロッパーが慌てて抑える。抑えてくれているあいだに、わたしは遅ればせながら売り抜けた。
 不動産売買はデベロッパーが胴元をつとめる賭け事だ。
 わたしはせいぜい、パチンコ屋の新装開店に並んで、ちょっとしたおこぼれに預かった程度に過ぎないのだが。
 夫はまったく、こういうことに嗅覚が働かない。
 そういう夫を、実は密かに、そして最も気に入ってるのは、わたしだろう。当人には絶対言わないけれど(夫はわたしの原稿を一切読まない。そこも、気に入りの理由のひとつだ。人の原稿を読んであれこれ批評がましいことを言うような相手なら、わたしは縁を切る)。


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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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