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念のため補足しておくと「正常性バイアス」とは、外界の強烈すぎる刺激に対して理知的動物がそれを心理で抑制して、慌てないようにしてしまうことを指す心理学用語らしい。これは日常性を保護するために必要な心理的措置なのだそうだが、度が過ぎると「本当の危険」にも対処できなくなるという。
ここでまた余談になるが、わたしが原発事故の直後、「正常性バイアス」という言葉も概念もまだ知らなかったけれども最も本能的に毛嫌いしたのは、「理性的」であることをさも誇らしげに他者に押し付けようとする人達だった。
わたしの過去の友人であった女性は「パニックによる行動のほうが災害そのものの被害よりも、被害を甚大にすると教えられたではないか。関東大震災の歴史の教訓から、なぜなにも学べなかったのか」とわたしを罵倒した。その後、伝え聞いたところによると、いまだ彼女は「原発については様子見です」と語っているという。こういう「理性的な大人」の論調が、子供たちの被害を拡大しているようにわたしには見える。
それからもうひとつ、わたしからの反論である。
今回の震災による大地震のあと、「理性的に」行政の津波の高さの予測に従い、3mの高さまでしか避難しなかった人々はどうなったのかを考えて欲しい。悲しくはならないか。
震災で全国的に広がった「津波てんでんこ」。これは三陸海岸に伝承されていた言葉で、記憶がやや曖昧なのだが、わたしが最初にこの言葉に接したのは吉村昭の名著、『三陸海岸大津波』だったように思う。
『三陸海岸大津波』は、明治29年、昭和8年、そして昭和35年の三たびにわたって三陸沿岸を襲った大津波を記録や証言をもとに再現した書で、わたしはずいぶんと衝撃を受けた。
わたしはこの本の影響もあり、学生の頃から幾度か三陸海岸を訪れた。無論、厳しい自然だからこそ保たれていた三陸海岸の美しさも好きであったからなのだが。
津波で幾度か一村全滅しかけた歴史のある田老町の、スーパー堤防の上を歩いた。地上高7.7m、海面高さ10m、総延長2433mという、鉄壁の防潮堤であった。この防潮堤の幅はなんと3m。均台の上を歩くのも恐怖なわたしが、高さ7.7mの上をのんびり歩きながら、田老町を見渡せた。田老町は、この防潮堤の存在で、町が日陰になるほどだった。
しかし今回の震災による大津波で、このスーパー堤防は、約500mにわたって、一瞬にして瓦解したという。
津波てんでんこ。「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」。多くの経験から生み出された知恵のほうが、スーパー堤防を凌駕したのだ。
「理性的」であることを誇る人々よ、「パニックになって逃げ惑う愚民」を見下す人々よ、こうした歴史の教訓からは、なにも学ぶものはないのだろうか。
しつこいようだが、もう少し余談を続けさせてもらう。
今回の大津波で注目したい人物に、茨城県大洗町の小谷隆亮町長がいる。
町長は、役場の自室から海の白波の立ち方でただ事では無いと判断し、防災マニュアルに従わず、防災広報に連絡して「緊急避難命令!」と連呼、そして「速やかに避難せよ!」と、もう一段強い言葉で住民に避難を促したという。わたしは栃木と茨城の県境に住んでいたこともあり、ちょうど震災の五日前に大洗の岸壁で釣りをした(ちなみに、完全な「ぼうず」だった。周囲の人も、みな一匹も釣れていなかった。別に地震や津波とは関係ないのかもしれないが、あるいはと思うので、記録として)。ところが震災当日にテレビの映像で、その岸壁が飲み込まれていくのをリアルタイムで目にした。しかも高さ5mの大津波であったことを知ったときには、
「あ、この津波が五日前だったら確実に死んでたな」
と思ったのだけれども、後に、この小谷町長のいわば「パニックを煽る」通達のおかげで、大洗は車や家の被害はあったものの、犠牲者が出なかったのを知った。一方、通常通りマニュアルに従い「津波警報が発表されました」と連呼するだけだった自治体では、多数の犠牲者が出た。
もっとも、わたしも人のことをとやかく言える立場ではない。原発事故には過敏でも、田老町のスーパー堤防の上を歩いたときに、
「これでもう田老町は津波に勝利しただろう」
と感じた身なのだから。これはわたし自身への戒めでもある。あの日、わたしが田老町を旅行中の身だったとしたら、「津波てんでんこ」など忘れて、スーパー堤防に安心しきって津波の被害に遭っただろう。
さて翌朝、大阪を出発しようとして悩んだ。大阪の環状線を抜けてしまったら、いよいよ東名道である。
高知で手土産の柚子を用意したが、わたしは高知を発つ前から信末さんのことをずっと考えていた。一昨年の夏に素麺を贈ったら、
「山崎マキコは俺に饅頭をくれるって言うから楽しみにしてたのに、素麺を送ってきた! 俺は素麺嫌いなのに」
と、わめいていた。あれは頭が痛かった。柚子は絶対、ウケない。
甘いものが好き、でも、かりんとうのような硬いのは嫌い。とりわけあんこが好き。さてなんだ?
都市のほうが美味しいものは手に入りやすいわけだが。だから大阪で入手していったほうがいいのだろうが。甘くて柔らかいもの。難題である。贈答品の定番、虎屋の羊羹にしておいたら無難かなとも考えたのだが、最近思うのに、こういう、それなりの価格のものを贈り物に選ぶというのは、なにかの嘘が混じるように感じる。そこには体裁を整えておきたいという見得や、あるいは損得勘定、普段の無礼を品物で威圧してごまかすといった気持ちは含まれていないといえるのか。
そうこう悩んでいるうちに、ふと、三重に住む友人を思い出した。そうだ、三重の隣の愛知県、名古屋あたりを通過するときに彼女にケータイで一言だけ挨拶しようか。
その瞬間、電撃のように思いついた。
そうだ、赤福!
あれならもしかすると、信末さんの笑みがまた見られるかもしれない。そして、わたしの気持ちにもまた、嘘がないと胸を張れる気がする。
環状線を抜けてもらったところで、相方からハンドルを譲り受けた。
走ろう、東名道。栃木に、小山に行くのだ。
少しずつ、東へと近づいていく。相方が助手席で眠りこけているあいだに、途中のサービスエリアで赤福を買った。
それにしても遠いのだった。
浜名湖で相方に運転を代わってもらおうと思っていたのに、名古屋を過ぎても延々続く東名道。金正恩が少年の頃にお忍びで来日して、新幹線が大好きになったというのも納得である。長いよ、大阪、東京間。
浜名湖目前で泣きが入った。どう頑張っても注意力が保てない。
わたしは3月15日に決断して小山から避難したのだけれども、あのときは北陸道を一晩中走れた。あの日、夕方に小山を発ったのに、翌日の昼には岡山に到着した。助手席で30分も仮眠を取れば、頭が冴え冴えと覚醒した。火事場の馬鹿力というのは一回こっきりだと、運転しながら思った。
予定より早く運転を代わってもらった。しばらくすると、富士山が見えてきた。やはり、東の象徴の山だ。仕事で樹海を歩いた思い出や、同じく仕事で富士五湖でバス釣りをした思い出が蘇えってきた(ずいぶんと昔、ニンテンドーのゲームボーイで、魚群探知機ポケットソナーという商品が発売になった。それが使い物になるかどうかを試す、という仕事だった)。さまざまな思い出が、この山に染み付いている。
やはり富士山は美しく、それだけに悲しかった。
わたしは原発事故のあと、なにかにつけ怒っていたわけだが、いまはなぜか、誰も責める気がしない。この国のエネルギー政策を正せなかったすべての人、無論、わたしを含めてだが、それぞれに大なり小なり罪があるように感じられる。ただ巻き添えになった次世代に申し訳なく思い、そして汚染された国土が悲しいだけだ。
小山への道中、首都高を降りて、都内で食事を済ませた。
十九の頃、『東京に原発を!』という広瀬隆の著書を読み、「都市部の人間は地方の人間の顔を札びらで叩いた」と若い怒りをたぎらせた。そのくせして自分自身はすでに首都圏に住み、冷暖房に電気を用いた。思えばずいぶんな矛盾だ。
都市部の人間だけを責めるのも何かが違うし、電源三法交付金に飛びついた自治体の住民を責めるのも、同様に違うと感じる。東京のあちこちにホットスポットがある。福島にも、無論、ある。この事態を前にしてどちらか一方を責めたとしても、ただのガス抜きにしかならないように思える。
夜半、小山に到着した。
まだ1年も経っていないというのに、かつてこの街に住んでいたというのが、いまとなっては夢のなかの記憶のように感じられた。
つづく
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