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体調不良のため、1カ月以上遅れた時事音痴の更新です。
すでに年明けて時も経ったので昨年の話になってしまうが、12月21日から6日ほど、栃木に滞在してきた。残してきた荷物を処分して、家を売却する手続きをとるためである。それからもうひとつ自分に課していたのは、栃木で縁のあった人達への、せめてもの誠意がある別れだった。
「自分に課す」なんていうと、とても大袈裟に聞こえるかもしれないが、「絆」という言葉が昨年の流行語大賞に選ばれている風潮のなか、「絆」をぶった切って早々と逃亡した人間は常に後ろめたい。たとえそれがわたしのなかで最良の解答であっても、だ。これは西の土地に住んでいる人には理解しにくい感覚かもしれないが、わたしにとって栃木の人たちとの別れは、自分なりの課題だった。
昨年の5月に栃木に戻ったときは、若干の荷物を運び出す手配はしたものの、その選別だけでわたしは精神的に困憊した。荷物を限界まで絞ったのは、汚染物質の運び屋になるのに強い抵抗があったからだ。とはいえ、わたしは全ての持ち物を手放すだけの勇気も経済力もないし、個人で除染をするといっても、おのずと限界がある。確実に汚染物質を運んだだろう。これもまた、とても後ろめたく感じている。
5月のわたしは情けないことに、運び屋になる自分を責めて鬱々とするばかりで少しも前向きになれず、周囲の人達との別れをなおざりにした。挨拶回りをすることはしたが、ほとんど遁走するような別れだった。
わたしたちの就農のために市役所の職員の方々を集合させ、会議まで開いてくれた小山市長の大久保氏、そして温かくわたしたちを受け入れ、営農集団に誘ってくれた集落の人々、なにより、いつも良き農業の指導者であってくれた有機農業界の顔、栃木太陽の会の信末さんに合わせる顔がなく、儀礼的に別れを告げて慌しく栃木を離れてきた。
12月20日、早朝に高知を出発するつもりが夕方になった。
なかなか覚悟が定まらなかった。だけどわたしは知っている。この借家に運んだわずかばかりの荷物の梱包が、いまだ全部は解かれずに残されている理由をだ。うまく言えないけれど、テンポラリファイルの処理ができていないからパソコンをシャットダウンさせられずにディスプレイを呆然と眺め続けているような、そんな感じで、次に進めずにいる。
薄暮のなかでようやく自分を奮い立たせて、パソコンとケータイ、若干の着替えを車に乗せて高知を発った。逃げないこと。向き合うこと。せめてわたしの可能な限りに。心のなかで自分に言い聞かせるのに、瀬戸大橋を渡る頃にはもう高知に逃げ戻りたくなっている。こういうときに自分の今までのつけがまわってくる。人として成長する苦しみを避けてまわっていたのを思い知らされてしまう。
その日は大阪で一泊になった。名古屋までが目標だったのだが、案外、進めないものだ。こういうときにやっぱり便利だなと思うのが、PCを使った公衆無線LANによる宿泊予約だ。豊洲に住んでいたころは、タリーズだのプロントだの珈琲館だので気分転換しながら原稿を書くのに無線LANを多用していたのだが、高知に来てからはさっぱり機会が減った。そもそも、14km先まで行かないと、カフェがない。しかし様々な通信手段を確保しておくというのは災害時に強いような気がして、解約を思いとどまってきた。
ホテルの近くで、てっさを食べた。なんだかTwitterでいちいち「大阪なう!(かなり古い表現だなあ……)」とか、旅行のあいまにつぶやかれているように感じるかもしれないが(わたしはフォローしている人にこれをやられるのが嫌で、Twitterのアカウントを削除した)、思うところがあって書いているので、少々お付き合いいただければ幸いです。
わたしは現在、高知の山間部で暮らしているわけだが、食堂での定番メニューが「しし丼」なのである。そう、イノシシである。祭りのときは「しし汁」、消防の集まりでも「しし汁」。うっかりしてると、散弾銃の玉を噛む。山野で育ったイノシシを仕留めるのは害獣の駆除の効果をもたらすだけでなく、山間部にたんぱく質を供給する行為ともなっている。とはいえ、元々はイノシシばかり食べていたわけではない。大阪人の父を持つわたしは、年末が近づけば「てっさ」である。てっさと、ひれ酒。これでようやく「ああ、今年も暮れがきたなあ」という気分になれるというものだ。
ところが、だ。
久しぶりの美食は悪くはなかったけれど、なんだか不思議な気がした。
かつて確かにわたしはこういうものを食するのを楽しんでいたはずで、それをなぞっているはずなのに、当時の心境と重ならないのだ。なにかに戸惑っている。たぶん、理由はふたつあるのだろうと思う。物資というものが極端に貧弱な地域で暮らしている上に、わたしは自分の口に入るものには比較的鈍感でも(汚染された食品をネットジャーゴンで「ベクレている」と表現するが、わたし自身は食品が多少ベクレていても、あまり気にしない。まあ、少しは不気味だなと思うが)、相方の食への責任はそれなりに感じている。だから「手に入らないもの、汚染の酷そうなものは、そもそも無かったものと思え」と自分に言い聞かせているうちに、本当に「無かったもの」と思い込み始めていること。それから、わたし同様、ふぐを食べている人たちが、現在の食の危険性をどう認識しているのかの、ぼんやりとした疑問があった気がする。
美食というのは、それほどまでして追求するものだろうか?
さほどベクレていない食品でも、現代の日本では、それなりに美味だと思うのだが。
料理はひとつの文化だと認識してるし、それを貶めるつもりはない。
むしろ今回の事故で失われる可能性が大きい、日本の食文化の今後を憂う。出汁の重要性があまりにも高い食文化であるのに、シイタケは放射性物質を集めやすい性質を持ち、いりこやカツオの恵みをもたらす海は高濃度で汚染された。世界から一目をおかれた健康的な日本の食文化は、真剣に食の安全性を考えるならば、残念ながら根底から変わらざるを得ないと感じる。
しかし、原発事故の直後、国が定めていた暫定基準値の500Bq/kgは、全面核戦争に陥った場合に「餓死」を避けるためにやむを得ず口にする食物の汚染上限だという。現在はその基準値が徐々に引き下げられているとはいえ、以前の基準値に戻る日、というか、以前の基準値を満たしていたとしても、この国土に汚染がほとんど無かった時代の食物の安全性を取り戻せる日は遥か未来のことだろう。なのにこの国の都市に来れば、外食産業は美食を楽しむ人々で溢れ、「飢餓」など、まるで無縁の生活を送っている。
それがわたしには、とても奇妙な光景に映った。
なんだろう、この違和感は。
変わらない日常。それを大切にする気持ちはわたしも同じだ。だから世界で何事が起きようが、淡々と昨日の連続を生きる選択をする人たちがいるのもまったく不思議ではない。ただ、震災後、たびたび耳にするようになった「正常性バイアス」という概念については、一度は考えてみたほうがいい気もした。
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