2011.08.18
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
番外編
福島記10
全2ページ
 このあたりからいよいよ、道が不安になった。
 なんとか交通可能にしてはあるものの、何が落ちているか、よく解らない道の汚れ方なのである。パンクしないか、いつJAFを呼ぶことになるのかと冷や冷やしながら車を進めた。震災から2カ月半が過ぎようとしているのに、ボランティアに行くことすら危険な道。どれだけ「福島」が見捨てられているのかを如実に感じる。地元の人間が「どうして福島ばかりが」という気持ちも解るというものだ。原発の20km圏内ということで六号線が封鎖されていなければ、ここにだって多数のボランティアはやってきただろう。
 恐る恐る車を進めていると、ようやく、3台の車が停車してある農道を発見した。
 1台はあきらかに、行政のバンだ。
 3台停車してある車の手前にバックで停車。角型スコップを手にして、車から降りる。 現地ではリーダーの指示に従うように、とのことだった。
 間抜けなことに、移動だけで時間をとられて、すでに昼休みの最中。
 車のなかで昼食をとっている六十代ぐらいの男性ふたりに声をかける。
「失礼します、ボランティアセンターより参りました。足手まといかとは思いますが、よろしくお願いします」
 すると男性はにこやかに微笑んで、
「こちらこそよろしく。リーダーはハウスのなかにいると思いますよ、いまみんな、休憩中だから」
と教えてくれた。
 作業着を着た4人ぐらいの男性の集団が目に入ったので、彼らがリーダーなのかなと考え、挨拶に伺う。 再び似たような挨拶を繰り返す。
「お休みのところ失礼します。ボランティアセンターより参りました。足手まといかとは思いますが、よろしくお願いします」
「お疲れ様です。僕ら、小田原市の職員です」
 小田原市? どうして。
 よくよく彼らを見た。
 若い人で三十代ぐらいがひとり、それからわたしと同じ四十代ぐらいがふたり、そして眼差しが優しい初老の男性がいた。
「皆さん、全員、小田原市からわざわざ?」
「ええ。小田原市は相馬市とつながりがあって、5日交代で派遣されているんですよ。だから僕らも昨日、現地に来たばかりで。ボランティア新米です。リーダーはあちらにいます」
 若い男の子3人と、女の子ひとりが、ハウスのなかで談笑していた。
 挨拶に伺う。
「はじめまして。ボランティアセンターより参りました。足手まといかとは思いますが、よろしくお願いします」
「あーはい。いま、昼休み中ですから、1時から作業お願いします」
 リーダーとおぼしき男の子は、どう見ても二十代前半だった。
「みなさん、どちらからいらっしゃったんですか?」
「全員、相馬」
 地元の子たちだった。
「ずっとボランティアを?」
「そうっスね」
 つい、尋ねた。
「あの、お仕事のほうは?」
「原発で駄目になりましたから」
 20km圏内に勤め先があったということか。
 しまった、突っ込むんじゃなかった。
「そうでしたか。お休みのところ失礼しました。では、1時から」
 楽しそうにやってるところを邪魔してしまった。
 わたしがその場を離れると、また若い笑い声が響いた。
 年代が近いこともあって、小田原市の職員の人たちと会話する。ひとりが、ガイガーカウンターを持っていた。 大きさとしては名刺入れぐらいなのだが、わたしが楽天で購入したものよりは、ずっと性能が高そうだ。デジタルで数値が現れる。 (わたしのは、20ms/hの放射線をいちどきに受けるとようやくカードの色が変わるという、全然使い道のないものだった。英語の説明書きを読んだら、「核戦争のときに、このカードの色が変わったら、ただちにその場を離れろ」みたいなことが書いてあった。なんて無意味な)
 四十代ぐらいの穏やかそうな小田原市の職員の人に尋ねる。
「それ、ガイガーカウンターですよね?」
「そうです。国から借りたもんなんですけど、使い方が解らなくて」
 その男性が地面にガイガーカウンターをかざす。全員で覗き込む。
「うーん、全然数値が変わらない。おかしいなあ? 一応、4μS/hになったら、アラームが鳴るように設定はしたんですけどね」
 なんとなくこれは、使い方が間違っているというよりは、ガイガーカウンターの性能のせいだろうと思えた。4μS/hという数値は、30km圏内に行くか(29km西北西の浪江町で、7〜9μS/hである)、あるいは飯舘村あたりに行かないと叩き出せない。
 福島第一原発から、相馬市は北北西におよそ約42km。
 県の公表では、0.3μS/h前後。県はこの数値を地表から1mで測っているという話だったから、 地表だともっと高くなると思われるが、福島第一原発と並ぶ沿岸部ということで恐れられる相馬市は、連続して爆発のあった日にけっこう難を逃れていた地点なのだろう。
 その後、小田原市の人たちと雑談。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
と尋ねられる。
「今日は実家の新白河より参りましたが、現住所は別です」
「小田原って解ります?」
 当然である。胸を張って答える。というか、東日本の人間と出会えて嬉しい。
「ええ、わたし、小田急線の住人でしたから。当然ですよ、いいところですよね!」
 すると騒がれた。
「えーっ、小田急線のどこですか?」
 雑談の内容なんてどうでもよいだろうと思われるだろうが、この先、重要な会話につながるので記しておく。
「生田です。あとは下北沢、登戸、相武台まで転々と。好きですよ、小田急線。小田原ではよく、釣りに行くときに駅弁買ってました」
「鯵の押し寿司?」
「それです。また行きたいなあ、小田原」
「いらしてくださいよ。とくに、箱根に」
 このとき初めて知ったのだが、箱根も小田原市の管轄なのであるらしい。
「箱根も好きですよ! もちろん。大好き」
「ヤバいんです。震災以降、旅館もホテルも泊り客がいないらしくて」
 著名なホテルや老舗の旅館の名前が挙がった。
 愕然とした。
「一休.comで名前を見かけるところばっかりじゃないですか!」
「そうです、だいたいトップページを飾るようなところが、軒並み」
「それにお名前が挙がったところのひとつには、わたし、泊まったことありますよ。どうして、箱根まで……」
「震災の影響としか、言えないんです。あるいは原発事故。そろそろ軒並み、その……」
 後に続く言葉を、察した。
 日本全体の景気が、どれだけ冷え込んだかを思い知らされる気分だった。
 これをさかのぼること1カ月ほど前、友人がたまたまホテルオークラ近辺を歩いていたら、単独で歩いている温家宝とすれ違ったらしい。「震災後の日本」をこの眼にしたかったのだろうというのが友人の見解。わたしも同意である。これからの日本について震災以前にわたしが考えていたのは、対中国への輸出産業での立国である。春節の日に銀座が中国からの観光客で溢れ、ファンケルのアンテナショップで日本製品を奪い合う中国人観光客を見ていて、
「あ、日本は食やその他の製品での安全性を売りにできる」
と思ったのだ。中国人観光客は温家宝が行くなら安全、ということで若干日本に戻ってきたようだが、わたしが思い描いていたような「日本製品の安全性を売りにしたビジネス」というのは、事実上、不可能になったと思い知る。
 これが地震だけだったら、絶対に違った展開になっていたと、幾度も繰り返し思う。
 気分が暗くなり、遠くに目をやった。すると気づいた。
 地平線のむこうに、かすかに波頭が見える。
 この海が怖い。ここで地震が来たら、確実に、海が襲いかかってくる。
 恐怖を紛らわせるために喋る。
「それにしても凄まじいですね、一面、松の木ばかりだ。ため息が出ます。ここ、田んぼですよね、地図から読むと」
 年輩の小田原市の職員の男性が応じた。
「うん、全部、畑か、田んぼだった。でも見てみな、ほら、あの家の軒先、船が転覆したまんまだ」
 おそらくはわたしの立っているところから300mほど先の一軒家なのだが、 視界を遮るものがないからよく見えた。確かに、船が転覆している。
 震災から2カ月半。
 なのに、なにもかもが、手付かずに放置されているように見える。ヘドロに折り重なる茶色く枯れた松の木だけが、時間の経過を示している。
 この広大な土地を埋め尽くした松の木を、どこに、どう持って行き、処分すればいいのか。
 もし、単なる津波の被害であったら、まだ話は簡単だったように思う。乾いた時点で、片っ端から燃やす。重油でもぶっかけて。
 そしてヘドロは重機で取り除く。
 しかしそこに原発事故である。ヘドロの捨て場がない。放射性物質を含んだヘドロを、どこに移動させても大問題である。
 わたしはここに何をしにきたのだろう? 自分のなかで答えが出ない。
 そうこうしているうちに作業開始時間を迎えた。ハウスのなかのヘドロの撤去作業である。人海戦術だ。
 年輩の男性が尋ねられた。
「どうする? ネコやりたい? それともスコップ?」
 ネコというのは一輪車のことである。
「ネコは……酪農家のお宅で住み込みで働いていたときに牛舎で牛の糞を出すので泣いたんですよね」
「そりゃいい。なら、ネコだ」
 いや、だからあれはキツいって。
 後で現場仕事をしていた友人からも言われた。「普通、女の人にネコやらせますかねえ? あれ、体力がなくてコツが解らないとただの拷問ですよ?」。たぶん、小田原市の職員の人は、現場を知らなかったのだと思う。
 ここに至って知った。純粋なボランティアは、湘南からやってきた還暦ぐらいの男性ふたりと、地元の男女4人、そしてわたしだけであると。あとの4人は、小田原市からの職員だ。
 ちなみに女性はというと、わたしが来るまでは、地元の若い女の子だけであった。  実際の作業が始まって。
 板を渡して足場が作られ、シャベルですくわれたヘドロが、どさどさとネコ車に投棄される。
 まずい、と思う。
「すいません、これで行かせてもらいます!」
 ネコ車は、わたしと、地元の女の子と、それから年輩の男性3人に任されていたのだが、わたしは自分の体力がないのをとことん知ってる。 他人の判断を仰いでいたら、絶対に、ネコ車ごとヘドロのなかに横転する。
 ヘドロはどうするのかというと、ネコ車でハウスの外まで運んで、松の木が折り重なったヘドロのあたりに積み重ねていくだけ、である。
 他に処置の方法がないようだ。
 案の定、何往復もしないうちに、息が切れてきた。
 気密性の高いマスクが苦しい。
 そんなとき、小田原市の職員の人の足が、どちらもヘドロに沈んでしまい、騒ぎになる。
「抜けない!」
 焦る小田原市の職員の人。
 現場の知恵だなあと思ったのは、このとき、地元の男の子が、ごく冷静に、
「長靴だけそのままにして、足を引き抜いてください」
と指示したことだ。そして、小田原市の職員の人がその通りに片足だけ足を引き抜くと、長靴を救出。比較的足場のよい場所に片足を置かせ、今度は逆の足に同じ処置を施す。
 これでめでたく救助されたのだが、わたしを含めて小田原市の行政の人たちは、全員で焦って、その人の腕を引っ張ってなんとかしようと奮闘していた。あれでは話にならなかった。
 やがてなんとか50分の作業を終えて、休憩。
 ヘドロを掻いたときに粉塵が舞い上がるからということで着用していたほうがいいよと言われていたマスクを外す。
 肩で息をしながら、つい、つぶやいていた。
「酸素がうまいです! 全然タバコが吸いたくない」
 すると小田原市の職員の年輩の人が言った。
「やめればいいのよ、タバコも原発も。原発なんて、悪魔の火だよ。人類を滅ぼす」
 なんだかその場がしんとなった。
 みんな感じている。いま、わたしたちは無駄なあがきをしていると。
 ここで小田原市の行政の人のひとりが、励ますようにわたしに声をかけた。
「ここに飲み物とかありますよ? どうですか」
「あ、はい。いただきます」
 現地にはトイレがないということで水分の補給を控えてきたのだが、汗が流れて、水分は欲しかった。わたしはなにげなくペットボトルを手にとってしまったのだが、現地の子とかは手をつけなかった。ここで気づけばよかった。
 後に気づいた。これは、被災者の、せめてものお礼の飲み物だったのだ。
 行政が用意してくれたのだと思い、飲んでしまった。
 そのときだった。家のなかから、被災者のご夫婦が現れた。六十代後半ぐらいだろうか。なまりの強い言葉でしゃべる。 少しおどおどしながら、だけどわたしたちに笑いかける。
「これ、よがったらもっでっで(よかったら持っていって)。カブトムシの幼虫。ほら、立派だがら」
 ヘドロを撤去しても、このハウスのなかはおそらくあと何年も、塩害に苦しむ。
 それは作業に取りかかる前から感じていたこと。
 なのにこの人たちは、また土作りをしようとして。
 わたしは唐突に気づいた。
 自分がずっと怒っていたのは、悲しかったからだと。
 一生懸命、カブトムシの幼虫を差し出す、素朴な顔立ちの農夫の男性。
「ほら、立派だがら」
 津波に襲われて家も一階部分はおそらく水に浸かり、なにもなくて、せめてもの品が飲み物とカブトムシの幼虫で。
 このあたり一帯は塩田で。
 知ってる。
 相馬市は本当に産業なんて何もなくて。
 原発すらもなくて、相馬市の財政は厳しくて。
 なのに、何故、こんな人たちまで被害を蒙るのだ。
 気を緩めたら泣きそうだ。苦しい。
 農夫の男性が差し出すカブトムシの幼虫を、湘南から来たという明るい六十代ぐらいの男性が軽妙に引き受けた。
「うわあ、いいんですかあ? じゃあ貰っちゃおうと」
 救われた気分だった。
 この男性には心から感謝した。
 この湘南文化的な軽妙さが、本当にありがたかった。わたしは凍りつくばかりで、相手の心の負担を減らすことすらできなかったから。
 休憩時間をはさんで作業を開始すると、わたしが動かしているネコ車がブレ始めた。
 腕の筋肉がつりそうだ。 まずい。
 小田原市の年輩の男性は、よく目配りが利いた。
「彼女、もう疲れてる。シャベルに廻して」
 シャベルに廻ったとしても、たいして掬えないし、ようするに使い物にならないのだが、ネコ車ごとヘドロに突っ込んでいったら、それこそ大騒ぎである。実際、午前中、小田原市の職員の人がそれで騒動を起こしたという。 そうなっても仕方ないので、おとなしくシャベルに廻る。
 しかし、ヘドロが重い。
 なんていう重さだろう。他の人の半分ぐらいしか掬えてないのに、つい、口走った。
「重いっ」
 すると小田原市の年輩の職員の人が、励ますように言ってくれた。
「なあほら、いくらヘドロの掻き出しが大変だって聞かされても、実際にやってみないと解らないだろう? なんでもまずは自分でやってみることだ」
 それからさりげなく教えてくれた。
「真っ黒になってるところまでがヘドロだ。そこまで掬えばいいから」
 深さ20cmぐらいのところに、土の色が真っ黒な重油のように変わる部分が現れる。そこまでを掬い取る。
 ちなみにスコップは現場にいくらでも転がっていて、持参したものを使う必要はなかった。角型スコップの出番はどこなんだろう、と思ったら、表土を薄く掻きだすときで、
内心、
「ん? このスコップって、力が分散しちゃって全然掻きだせないんですが、どうしたらいいんでしょう」
と、表土を撫で回すだけ、みたいな無為を繰り返していたら、地元の女の子から、
「おら! 足を使え、足を! おらー!」
と怒鳴られた。あ、そうですか、すいません。
 彼女からはあとで聞こえよがしに、
「トロトロしてると、ホント、ムカつくよねー!」
などと言われたのだが、肉体労働の世界には苛めはありがちである。
 仕方がない。
 実際、使えない奴だったしなあ。
 役立ったのかどうか、さっぱり解らない作業を終えて。
 リーダーの子が挨拶する。
「以上で作業は終了となります。ありがとうございました!」
 なるほど、こう言えばいいのか。わたしなら、
「お役に立てずに、申し訳ございませんでした」
と謝っちゃう場面だな。しかしそのマイナスな表現だと、きっと相手まで落ち込ませるよな。この表現は、とても正しいと思う。
 ボランティアセンターに一度戻って、安否を伝える。それから車の足回りをジェット水流で流してくれるというので、お願いした。車の移動で汚染物質が運ばれるのが怖かった。
 帰路につくと、また峠道。
 ひとりきりになって、行きかう車もなくなってから思った。
 わたしだって言いたかった。「がんばろう、福島」と言いたかった。
「がんばろう、相馬」。「がんばろう、いわき」。
 言いたかった。あの事故さえなければ、積極的に福島の物を買って欲しいと、広く伝えたかった。
 でも、言えない。わたしはそれを「風評被害」で片付けられない。
 けれど、この地で生きていく人たちのことも切り捨てられない。カブトムシの幼虫を差し出した農夫の人を、わたしは生涯、忘れない。
 泣いてもいいんだ、わたしは弱いから。
 そう決めた途端、涙が溢れてきた。
 ごめんなさい、いわき。ごめんなさい、相馬、こめんなさい、福島。 わたしは故郷に仇をなす人間です。


 余談となるが、わたしは『チェルノブイリ原発事故10年後』に関する映像を見た。小児の甲状腺がんだけに留まらず、大人にまで広がるさまざまな疾患。記録に留められている。
 わたしの記録はほんのささやかなもので、単にひとりの人間が福島で右往左往しただけの3週間を記したもの。しかも故郷に仇をなす人間の記録だ。
 批判はあるだろうと思う。だが、それでも仕方ないと思うのだ。
 細野原発事故担当大臣は、福島市で記者団に対し、放射性物質を帯びた瓦礫などについて、一時的に福島県内の市町村で保管することになるものの、最終処分の場所は福島県外とする方向で検討したいという考えを示したという。
 わたしは瓦礫を他県で処分するのは反対する。汚染は封じ込めるのが基本だ。拡散させてはいけない。いまの「福島」をその場しのぎで助けるために、他県まで巻き添えにしてどうしようというのだ。
 現在、福島では苦渋の決断で、汚染された地域から移住する人々も目だってきているという。その意味すら、瓦礫を他県で最終処分したら失われる。
「復興」という事が事実上不可能なのを素直に受け入れずに足掻くのは、原爆の悲劇が二度も繰り返されるまで延々と「敗戦」を認めなかった精神に相通じるものを感じる。全員玉砕こそがこの国の望みなのか?
 八月だ。否が応でも、わたしはあの戦争を連想する。わたしが生きていなかった時代のことなのに、まるでそこに転がっているかのように、この国の精神性は当時から変わっていないように思う。
 わたしは全員で「玉砕」することを「美」とは思わない。
 ひとりでもより多くの人に、健やかに、生き延びて欲しいのだ。
 わたしの願いはただそれだけである。
 長らくお付き合いいただいた「福島記」ですが、これをもって終わりとさせていただきます。ありがとうございました。


前のページへ
全2ページ
バックナンバー一覧へ

閉じる
Copyright Bungeishunju Ltd.