2011.08.18
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
番外編
福島記10
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 5月31日の「福島」を記す試みです。
 わたしはその前日の5月30日の月曜日に、どうしても胸にもやもやとしたものが残るのを感じていた。特攻隊員になろうとしたのに、「不時着」してしまったような、居心地の悪さである。友達は言った。
「お国のために、ご苦労様です!」
 どうしてこうも気がとがめるのだろう。そもそもボランティアなどする目的もなく、福島にやってきたはずなのに。おかしい。何故?
 5月30日は、必死に、県のサイトを見てまわっていた。どこかに「ボランティア」のニーズはないのかと。
 するとやがて情報がヒット。
「なにも土日でなくても、ボランティア活動は行える」
というのが判明した。
 この時期まだ、県のトップページは涙が出るほど簡素で、それでいて、そこから必要な情報を得るまでに階層を掘って行くのは難しかった。
 わたしは今回の災害、及び、事故による被害を正しく把握するためには、どうしても「相馬市」というのは欠かせない地点になるのではないかと考えていた。
 というのも、相馬市は、「松川浦」という、干潟を抱えている土地なのである。そして福島第一原発からは至近距離。つまり、県内で津波の被害を最も受けやすく、そして、原発事故による影響も受けやすい土地柄であるだろうと睨んでいた。この連載をお読みの方もお忘れかとは思うが、だからわたしは5月22日には、実家が経営する会社の常務に頼んで「相馬市」と行き先を指定したわけだが、浜通りを仙台方向に北上する六号線をルートとして常務が選んだら、20km圏内立ち入り遮断の壁にぶち当たったという次第だ。  しかし調べていたら解ったのである。相馬市が、商工会議所を借りて、仮設のボランティアセンターを用意している。寝泊りはできないようだが、行けば、なんらかの仕事はあるようである。
 行ってみるしかない。心に決めた。
 車は母が通勤用に使っているものだ。取材費があればレンタカーを借りてもっと早朝に飛び出したかったのだが、ここは耐えるしかない。朝、七時半。母が会社に出社した足で、車を借りて、相馬市へと飛び出した。
 東北道を仙台方面に向かって北上する。
 南から順に、白河市、須賀川市、郡山市、そして福島市。中通りを走る東北道は、北に行くほど線量が高い。
 3.11直後は仙台へと向かう自衛隊車両で一杯になったと聞く東北道だが、応急処置的な復旧工事を終え、 80km規制で通行できる。しかし、路面はガタガタだ。
 わたしは今回の震災であちこちの高速道路を走り回るはめになったのだが(事情はいずれ話す)、かつての東北道というのは日本一のインフラだったように思える。首都高を抜けて東北道に入ると、いつもほっとした。まっすぐな三車線が、ひたすら続いている。めいっぱいアクセルを踏んでいても、直線すぎて、眠くなる。だがその素晴らしいインフラは、震災であっけなく、破壊されている。
 初心者マークも、いたずらされて、後ろだけ無くなってしまった。こんなことをされるのは初めてだった。これ、交通違反だ。どこか警察署があったら立ち寄って初心者マークを求めないといけない。
 わたしは編集者に「福島生まれですから、福島県の土地勘があります」と豪語してしまったけれど、故郷を離れて20年経つ人間の「土地勘」なんて、非常にあやふやなものになっているのに、途中で気づかされた。カーナビの、相馬市に到着する予定時刻が、どんなにボコボコの道を飛ばそうが「昼の12時」からほとんど動かない。
 これではほとんどボランティアする時間が取れない。
 そう、途中で気づいたのだ。「あぶくま道」という、浜通りに出る高速道路ができるまでは、中通りと浜通りのあいだは山脈を越える峠道しかなく、非常に行き来も不便であったと。
 途中、中通りを抜ける東北道を降りるようにとの指示があり、福島市内にカーナビの誘導で送り込まれた。これから山脈を越えて浜通りへ向かう。
 するとうっかり道を一本外した。そのおかげで警察署を発見して初心者マークを買い求められたのはいいとしても、次に、カーナビに宮城まで誘導されてしまったのに気づいた。しかし、もう、どうしようもない。県境を越えるしかない。
 途中、阿武隈川沿いの峠道に入った。交通量が極端に減る。ここから先に行けるのかどうか、心細さでいっぱいになる。福島県内の中通りから浜通りに至るまでの道路で、御斉所峠は、山が滑落しているという話だった。道も復旧していないと。
 他の道はどうだ? 行けるのか?
 曲がりくねった山道を、飛ばせずに、遅々として進む。
 踏めない、怖くて、アクセルを。
 ときどき道が細くなり、一方通行になる。
 ごくたまに、福島方面に抜けていく車。だが、いくら先に進もうが、どれだけのろのろと進もうが、前方にも、バックミラーにも、車の影がない。
 浜通りが原発誘致に狙いを定められるほどの僻地だったのを、走りながら思い知らされる。東北新幹線と東北道が走る中通りと山脈ひとつ隔てて、まるで隔離されているかのようだ。そう、あそこはかつては塩田しかなかった土地。そしてささやかな漁業。貧しい土地だったのだと。
 途中、宮城の県境を越えた。「頑張ろう、宮城」の旗と共に、「道の駅」が営業中なのを知って思わず立ち寄る。
 宮城に入ったとたん、「道の駅」は、賑やかになった。
 ちなみに「丸森町」というところであった。
 わたしが「相馬市」に行くと言い出してから心配していた母親にケータイで連絡を入れた。
「いま、うっかり宮城まできちゃった」
 すると母が声を弾ませる。
「宮城? 野菜を買ってきて」
 とっさに福島県の地図で、現在地を確認した。
「駄目だ! ここ、飯舘村の、県境をはさんだ隣町と言ってもいい!」
 とたんに、母が落胆したような声を聞かせる。
「そうなの?」
「宮城県は、県庁の地上80mから環境放射能を測定してるんだ。 駄目、こんなところのもの、食べさせられない」
 しかしイメージ戦略というのは恐ろしいものだ。だれもが「福島県」のものを恐れても、「宮城県」ならば、とたんに安全と思い込んでいる(現在はセシウムで汚染された家畜のせいで、そうでもなくなってきているようだが)。福島県内の道の駅は、「仏花」ぐらいしか、取り扱いがなくなっているというのに。
 放射性物質が、
「ここが宮城県と福島県の県境ですか? ではここで進行をやめます」
と、越境を思いとどまってくれるなんてはずはないのに。
 しかし宮城県は、まるで無関係なごとく、たけのこなどを販売している。
 福島県内では検査の結果、たけのこの販売は規制されたのに。
 三号機の爆発の日、どう風が吹いたのか。
 浜通りの線量は低い。すると、結論はおのずと導かれる。内陸に向かって、吹いた。飯舘村を抜けて、山脈を越え、福島市にぶち当たり、そこからどこまで宮城よりに吹いたかまでは解らないが、やがて中通りを南下した。
 たぶん、これが結論だ。
 ならば宮城も危ないはずなのである。 だが宮城に入った途端、規制はなく、通常通りに近所の客たちで賑わっている。
 国は、緩やかに福島の経済を滅亡させ、宮城の経済を維持することを選択した。そんな気がした。
 確かにわたしは今の地域経済を守るよりもこれからの世代の先々を考える。
 だが悔しいのだ。なにかが、悔しすぎるのだ。なぜ福島ばかり、という思いは募る。
 ネットの一部の論調では、福島がまるで「原発利権」を独占したから、ばちが当たっているかのような物言いである。だが言ってやりたい。宮城にだって女川原発がある。だが、慎重な土壌調査の結果、津波の影響を受けにくい立地にしたから、今回の難を逃れているのである。ずさんな調査、ずさんな津波対策、ずさんな管理。原発ができるという話を聞かされた、わたしが生まれる以前の福島県民の浜通りの人たちは、国がそんな施設を認可すると考えていただろうか。
 それに本当に「利権」なるものが存在するのなら、なにも首都が独占すればよかっただけの話ではないのか? 中央集権的に、東京だけをいびつに発達させたこの国なのだから。「東京にも原発を!」と誘致すればよかったのだ。かつて13号地と呼ばれたお台場でも、若洲のゴルフ場でも、新木場公園でもいい。いくらでも立地には困るまい。そしてさらに東京を豊かにすればよかったではないか。それから未だに原発が好きな人たちに言ってやりたい。そんなに原発が好きなら、自分の地元に誘致しろ!
 しかしとにかく、走る。相馬を目指して、走る。不安に耐えながら、走る。
 峠道を越えていく。
 右には一昨日と、昨日の雨で、濁流となった阿武隈川。
 先を走る車の影を見たい。
 しかし、一向に見えない。
 やがて、阿武隈と分かれて、いよいよ相馬へと近づいてきたその時だった。相馬へと向かう自衛隊車両を発見した。
 嬉かった。心から、嬉しかった。頼もしかった。
 ずっと後ろについていった。
 やがて「うつくしま、ふくしま」の看板。いまとなっては空しいキャッチフレーズ。宮城と福島の県境を示している。
 自衛隊車両は、がらんとした道を、走っていく。
 しかしそれでも後を追って行くと、道端に人影を見つけた。
 あ! 人だ。 まだ、人がいる。ここにも。
 こんなことが嬉しかった。
 しかしそれは、虚ろな目をした老人で、道端に座り込み、看板をかざしている。
「死後、裁きにあう」
 なぜこんなところで、そんな看板を掲げているのかと責めたい気持ちすらした。虚無に飲まれそうになる。無駄、無駄、無駄。全部が、無駄。そう、薄々わかっている。全部が、無駄。
 しかし、とにかく走る。自分の感情を封鎖して、走る。
 だが長時間の運転で疲れてきていた。
 ナビの行き先はまさに自衛隊車両の背後を追っているし、そのままついていこうと思ったのだが、途中、コンビニが営業中なのに気づき、つい、休みが取りたいのと、人の気配を感じたくて立ち寄ってしまった。物資があることと、ここでも働いている人がいるのを確認したかったのだ。店のなかには普通に物資があって、無表情な店員が会計してくれた。ブラック、無糖のコーヒーを買って戻ると、もちろんのこと、自衛隊車両はどこに行ったのか解らなくなっていた。またひとりだ、という思いが募る。
 ひとりぼっちで戦っている気がしてならない。だけどなにと?
 解らない。
 やがて市内に入った。相馬市内は、昔の佇まいをそのまま残していた。
 城下町ならではの、クランクの多い道。
 そこに古くからある商店街がある。
 この町がいかに大規模開発から取り残されていたかが解る。もっとも、おかげで地域経済は、大型店舗の進出などがあまりなく、保たれていたともいえるのだが。
 市内に入ると、交通量がありふれた雰囲気になった。
 人がいる、というだけで、なんだかほっとする。
 途中、体育館のような場所が、避難所になっているのを見かけた。生活臭が漂っていて、申し訳なくて直視できない。
 それから、あまり書きたくないことなのだが記しておくと、「マグナム」という、北関東から東北南部あたりでよく見かけるパチンコ屋の系列店(全国展開かもしれないが、他の地域を確認したことがないから不明)の駐車場だけは、車が溢れるばかりに停められている。ギャンブル依存症者というのはこれだから、と若干苦々しく思う。
 地震の直後の栃木県小山市でも、「マグナム」の駐車場だけは混雑していた。これが被災地のイメージを悪くする。一部の人間がしていることなのに、まるで全員が避難所からパチンコに通っているかのように語られる。
 やがて目的地付近に到着した。11時40分。結局、片道だけで160kmは走ったように思う。最低でも。高速だけならもっと短時間で到着できたであろう距離でも、一般道で、しかも峠道というのが、痛い。
 ナビが示した先には、いかにも急場に設置されたとおぼしきボランティアセンターが見えてくる。
 ホームページに記載されていたボランティア道具一式、防塵ゴーグル、防塵マスク、ゴム手、そして角型スコップ(こんな妙なスコップが、どういう場面で役立つのか、よく理解していなかった)を持参して、ボランティアセンターへの階段を上がる。
 足元は安全靴。一応、完全装備、だと思う。
「すいません、とくに事前予約とかないんですが、ボランティアで可能なことがあればお手伝いしたいと思い、参りました」
 すると即座に市の職員とおぼしき人が応対してくれた。ちなみに職員の人の服装は、全員が作業着。そして、オレンジ色のメッシュの多機能ベスト。だれもスーツなんて着ていない。嫌でも緊張してくる。紛争地帯の取材にでも来たようだ。
 口頭で尋ねられた。
「現地へと向かう交通手段はありますか?」
「はい。自家用車で参りました」
「それではハウス内の泥の除去作業をお願いします。書類に書き込んでいただいて、現地へと向かってください」
 書面には、名前、住所、連絡先、ボランティア保険に加入したいかどうか、そして「ボランティア証明書」なるものの発行が必要かどうかを記す必要があった。
 ボランティア保険は速攻で丸をした。
 自分の怪我のこととかはさておいて、他人様の壷とかを壊して弁償するという、実に短期的な側面においての影響が怖い。わたしはそんなに豊かではない。
 そして「ボランティア証明書」の申請。まともに勤めたことがあるのは学生のときの編集プロダクションの契約社員だけ、あとは短期のアルバイトぐらいという社会経験のわたしには、最初、これの必然性の有無がよく理解できずにいた。 あとで「あほですか?」と友人から指摘されたのだが、これは会社勤めの人が、「ボランティアに参加するために」ということで 休暇をとったときに必要なものだった。
 わたしはてっきり、
「ん? この証明書があると、他のボランティアを必要にする地域でもボランティア活動が可能になるとかの、実力証明書みたいなもんか?」
と、訳の解らない想像をして、丸をつけた。
 あとで事実を知ってから恥ずかしくなった。
 県のサイトでは「飲み物持参、マスク持参」とあったが職員の人が在庫のマスクを薦めてくれた。
「これ、かなりの性能のマスクなんです」
 気密性が高い。しかしこれからの活動時間の短さを思うと申し訳なくて遠慮したのだが、強く勧められる。
「いえ、是非、ご使用ください」
 なんだか非常に申し訳ない気になりながらも、ひとつ頂戴した。それから「お〜い お茶」のペットボトルを貰った。本当に申し訳ない。
 とにかく、行政はここまで対応してくれていたということだけは記しておきたい。
 職員の人が言う。
「現地にはお手洗いとかないので、こちらで利用していってください」
 この一言で、本当に現地に向かうんだなあという実感が増した。商工会議所のトイレを借りると、
「断水中につき、水を流すときはバケツから柄杓で水をすくってお使いください」
の貼り紙があって、焦った。
 え、相馬市内も、まだ断水してるのか?
 しかし、その肝心のバケツもなければ柄杓もないのである。
 試しにトイレの水を流してみたら普通に流れるので、災害直後の貼り紙がそのままになって誰も気づいていないのを知った。現場は、これに気づかないほど混乱しているのを察した。
 トイレから出ると、今日のボランティアの作業場だという住所と電話番号、そして地図をコピーしたものを手渡された。
 地図で場所を見ると、案の定、現地は、松川浦の近所だ。
「よろしくお願いします!」
と送り出される。
 いよいよ、相馬市郊外へ。海が、近くなる。
 細い道に入り、住宅街を抜けた。
 すると突然に開けた視界。
 平地に、松の大木が延々と散乱していて、海まで続いている。遠くに水平線が見える。
 ここは海から2.5kmから3km地点のはずなのに。
 素人目にも解る。松川浦の美しい海岸沿いに生えていた松が、津波とともに凶器となって、このあたり一帯を襲った。
 折り重なる松とヘドロが続く大地。
 一瞬、恐怖と絶望でどうしていいか解らなくなった。これを、どうやって復興させるというのだ。
 そのなかで、五十代ぐらいの女性がひとり、ヘドロで汚れた家電製品を動かしている。 なんの目的があって動かしているのかは、不明だ。
 ナビの目標地点だと、このあたりのはずなのだが、ボランティアの影が見えない。
 しかし、車を農道に寄せて停車するのが怖い。
 農道がヘドロに埋まってて、車体ごと沈みそうだからだ。被災地に来て、JAFを呼んでいたらあまりにも間抜けである。
 少し乾いているあたりになんとか停車して、車から降りる。そしてヘドロで汚れた家電製品を動かしている女性に思い切って声をかけた。
「お忙しいところ恐れ入ります、ボランティアセンターから参りました。××さんのお住まいはこちらでしょうか」
 個人宅のハウス内のヘドロの除去作業。これが今日の作業だとボランティアセンターで聞いてきた。
 すると女性がいぶかしむ。
「××さん? だれだべ、それは」
 地図を見せた。
「この方のお宅にお伺いするようにとの指示だったのですが」
「八龍なら、こっからまだ先だな。ここが新田だから」
 地名というのは、昔の知恵が現れているように思う。
 新田、新しく開発された田。塩田だったのだと思う。
 津波でまるごと、飲まれている。 今回の取材を続けているうちに、過去に「貞観地震」というのがあったのを知った。これはこのボランティア「めいたもの」に行く前々日の、福島県白河市で行われた佐藤栄佐久前福島県知事の講演で仕入れた知識である。いでよ、ウィキペディア! ということで、情報を抜粋して貼る。以下、ウィキペディアより。


 貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の日本で起こった巨大地震である。貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日[2]、 グレゴリオ暦換算7月13日)に陸奥国東方の海底を震源として発生した。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったと推定されている。(略)
 古い時代の東北日本の地震災害においては珍しく、詳細な文献記録が残っている(後述)。史料には甚大な津波被害の発生が記述されており、三陸地震の1つとして理解され、貞観三陸地震と呼称されることがある。津波堆積物等の詳細な研究結果による想定震源域は、宮城県沖から福島県沖とされている。更に、宮城県沖・福島県沖に加えて、三陸沖も震源域となった巨大地震であったとする説もある。(略)
 仙台平野で津波が仙台湾の海岸線から3km侵入したことは、既に1990年に東北電力が女川原子力発電所建設のために調査して発表されていた。


 抜粋、以上。この最後のセンテンスに非常に怒りを憶える。女川は、きちんとボーリングして調査した。だが福島は? きちんと調査したのか。その上で立地したのか?
 しかしその悔しさを思い出している場合ではない。
 いまは、とにかくボランティアに向かわなければ。
 けれど八龍という地名、つまりボランティアに向かう先は過去にも、津波の被害を受けたことがあるのではないか? 龍という字は、しばしば、水害に襲われた地域に残る。
 道を教えてくれた女性に礼を述べて、再びハンドルを握る。


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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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