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時間が近くなってきたので、鏡を見て、適当にメイク。鏡を覗き込んだら、目が充血しているので、ひやりとする。福島にやって来てからというもの、突発的な目の充血が起きては止み、眼科に行こうかなあと思っていると収まるというのを繰り返していた。あと、歯茎が痛かった。どういう理由でかは、医師ではないので解らない。眼科に行こうと思うと翌日には収まっているし、病院にかかったらいいのかどうか、微妙なところだ。
屋内で運動をする学童が鼻血を出す報道が全国紙で流れていたのも、たしかこの時期である。初期被爆の不安は、正直、あった。新聞では、「窓が開けられない屋内での運動のために鼻血を吹く」とあったが、この時期の福島は熱中症になるほど、暑くない。むしろ涼しいぐらいだ。
関係があるかどうか解らないところが、被曝の不安である。証明も不可能に近い。
ええい、わたしに関しては構うものか(被曝こそ青少年に悪影響を与えるのだから十八禁で)。被曝上等。その覚悟の上でやって来た、故郷に。
時間が来たので約束の場所へと向かう。小雨が降りしきるなか、傘もささずに店に入った。いまこそ井上陽水の「傘がない」であるな。「被災地では、自殺する老人が増えている」「だけども、問題は今日の雨、傘がない」って、70年代を通過したことのない人には、なんのことやら解らないか。いや、井上陽水の「傘がない」という大ヒットソングの替え歌なんですよ。
店に入るなり、高校時代の友人たちから拍手の渦。わたしの顔を見た友人の第一声。
「お国のために、お疲れ様です!」
いや。だから服装をよく見ろ。スリットの入ったスカートだろうが。 ヒール履いてるだろうが。こんな格好で瓦礫の撤去なんかできないって。現場は何が転がってるか解らないから、基本、安全靴なんだよ。
行ってないから、ボランティア。
しかしなんだかなあ。いろんな意味で、複雑な気分だ。
ノンフィクション作家、日高恒太朗氏の「不時着」という名著がある。それによると、特攻機に乗ったものの「不時着」してしまった特攻隊員がいたらしいんだな。
戦争末期、特攻隊員というのはちょっとした花形だったらしいんですよ。
これから死ぬんだ、という訳で。ご飯なんかもお腹いっぱい食べられるし、せめて一夜を過ごしましょうという女の子なんかも、若干名いたりする。男女関係には厳しいご時勢でも、特攻隊員だけは特別扱いだった。
わたしのマイミク(mixiでは交流関係にある人をこのように称する)君が指摘していたように、「3.11はいきなり戦争末期」 というのはうまい言い回しだと思う。ないのはひもじさだけで、汚染された食品ならば入手できるし。
すぐに爆撃などで死ぬのか、じわじわと蝕まれて死ぬのか。
どちらがいいとか悪いとか言えないと思う。
4人のクラスメイトが、わたしのために集ってくれていた。
2人が独身で、2人が子持ちである。
非常に打ち明けにくかったのだが、ボランティアには行けなかったことを伝えると、仕方がないよというような反応が返ってきた。
「わたしたちも自分の生活で手一杯だもの。行こうと思うだけで偉いよ」
この辺の会話で知ったのだが、県内の人間でも浜通りは避けているらしい。どうなっているかという質問があったので、見てきた限りのことを伝えた。まあね、誰だって心理的に福島第一原発には近づきたくないよ。
それからはなぜか原発事故の話題を避けるように、昔話ばかりに花が咲く。あとはいま、どんな暮らしをしているのかとか。近況報告のようなもの。
しかし、「のぶちん」と呼ばれていた同級生が、 ケータイに保存された子供の画像を見せ始めたので、 思わず告げた。
「おい、のぶちん、のぶちんの子供ならうちの借家で預かるぞ!」
だけどのぶちんは苦笑するばかりだった。
「あたしがいないと駄目よ、子供たちには」
のぶちんはよりにもよって、環境放射能と国が言うところの、空間線量の高い郡山市に嫁いでいた。郡山市は1.2μSv/hあたりを推移。高い。
もどかしかった。
独身が福島県にとどまるのは、それは当人の判断だと思うんだ、正直なところ。だってわたしたちはみんな四十路だ。わたしは四十三歳、生まれが早ければ四十四歳だ。自然出産は無理な年齢と言える。
だけど「のぶちん」には子供がいるのだ。
逃げろよ、と叫ぶように伝えたかった。
「のぶちん」は薬剤師じゃないか。
君ひとりでも食べていけるほど稼げるじゃないか。子供に君が必要だというのなら、子供を抱えて逃げろ。
そう伝えたかったが、取り合ってもらえそうになかったので全部を腹のなかに収めた。無力感に襲われた。
本当に、なにもできない。
これから起きる不幸に対して。
飲み会が終わると、Wという同級生が車で送ってくれることになった。
外は雨。
霧のような、核の雨。
わたしともう一人のゆかさんという同級生が送ってもらうことになり、車に乗ると、Wが、
「昔はよく、ゆかさんと車であっちこっちふらふらしたよね」
と懐かしむ。
車中で、わたしは呟いた。
「うーん、雪割橋が見たいな」
するとWという同級生が、
「行ってみる?」
と言い出してくれたので、連れていってと頼んだ。
わたしの故郷、福島県西白河郡西郷村には、阿武隈川が流れている。高村光太郎の『智恵子抄』の「樹下の二人」で、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」と詠われた阿武隈川である。阿武隈川は、福島県および宮城県を流れる一級河川だ。おそらくは今回の事故でかなり汚染されただろう。
阿武隈川の源流近くにかかった雪割橋は、地元の観光名所であると同時に、自殺の名所でもある。
霧のような雨が降る、真っ暗な雪割橋から、傘もささずに塗れそぼりながら真下を覗き込んだ。
Wが、見えない川面に目をやるわたしに教えてくれた。
「2ちゃんにメンヘル板ってあるじゃない。そこに、“これから自殺する人のスレ”ってあるんだよね。(未確認、Wとの会話の記憶のみ)たまたまさあ、わたし、リアルタイムで覗いていたんだけど、雪割橋から飛び降りるっていう書き込みがあって。その子、死んだよ」
自分に置換して、可能かどうか考えた。橋の上から真下を覗き込んだ。
真っ暗な、遥か眼下にある見えない川面が怖かった。
心から、怖かった。 人の命を簡単に奪い取れる力のある高度が、怖かった。
わたしは明日消えてもかまわない。たったいま消えてもかまわない。けれど、暗闇に身を乗り出して飛び降りる勇気は、わたしにはない。
実は晶ちゃん(西宮署国賠事件の、あの晶ちゃんです)から情報を貰っていた。スイスには安楽死幇助センター「Dignitas」という施設があり、費用は現在の日本円にして70万ほど。「最悪、70万円とスイスまでの片道切符を握り締めてDignitasだ!」というのは、この時期、ほとんどふたりの合言葉になっていた。そのためにハイパーインフレーションに備えて、地金を購入しておこうかと。生活がにっちもさっちもいかなくなったら、そうやって終止符を打とうぜ、と。
人間は恐怖に支配されて生きている生き物であると、ある友人は言った。
恐怖が暗闇に火を灯し、それがテクノロジーの原点となったと。原発もそのテクノロジーの延長にある。
生きたいから生きているのではない。死を恐れているから生きながらえているのだ、とも。
だがわたしは死よりも、苦痛が怖い。遥か眼下にある渓流に体を叩きつけられたときの衝撃、脳が飛び散るほどの。それはたぶん一瞬のことだと思うが、そう想像すると怖かった。
「……無理だ。わたしにはできない。怖くて」
2人が笑った。
「そりゃそうだよ、誰だって怖い」
また会おうね、絶対だよ。
地元に残る2人に告げて、車を降りた。
なんて頼りない約束だろうか。
どこかで感じている。この2人にこうして会えるのも、最後なのかもしれないと。嫌な予感。それを振り払いたくて、必死に約束に約束を重ねている自分がいた。
ああ、人が果たせないかもしれない約束を口にするのは、嘘で人生を塗り固めたいからじゃない。未来が不確定だからなのだ。それでせめてもの安心を望んで、約束を交わすのだ。
いまもなぜか、雪割橋の見えない川面を覗き込んでいる気分が残る。
核の雨に打たれながら。真っ暗な、川面を。
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