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ここでわたしは、気になっていたことを尋ねた。
精神的な不調を訴えられる方は多いですか?
「まあ最初はねえ、我慢してたんですよ、皆さん。ただ、だんだん長期化してくると、やはり、精神的なものが出てくる。そういうなかで矢吹病院(この近隣では有名な精神科のある病院である)のボランティアが入ってくれたのは功を奏したかなと。常に相談室を開設していて、いつでもどうぞという感じにやってくれたのがよかったです」
特別養護老人ホームの人たちがケアできる場所に移されていったあと、卒業式もままならずに避難してきた子供たちのために、卒業を祝う集いを催し、那須甲子青少年自然の家の手作り卒業証書を手渡したという話を聞いた。また、プレイホールも、子供たちのために開放されたと。
プレイホールやワンパクルームが開放されたのは、子供たちにとっては大変良いことであった。屋内退避ができて(この連載を連続してお読みになっている方ならご存知かと思うが、屋内退避だけでも外部被曝はかなり避けられる)、なおかつ体が動かせる環境があるというのは、大きな意味がある。あとで聞いた話によれば、基本、外に出るのも自由なのだけれども、子供たちはもっぱらプレイルームやワンパクルームで遊んでいるらしい。
では老人はどうするという話はあるかもしれないが、大変申し訳ないが、わたしは老人と子供のどちらを取るか選べと迫られたら、子供を選ぶ。つい先日、このような報道があった。以下、抜粋。
東日本大震災:お墓にひなんします 南相馬の93歳自殺
自殺した女性が残した遺書=神保圭作撮影 「私はお墓にひなんします ごめんなさい」。福島県南相馬市の緊急時避難準備区域に住む93歳の女性が6月下旬、こう書き残し、自宅で自ら命を絶った。
(中略)
◇女性が家族に宛てた遺書の全文
(原文のまま。人名は伏せています)
このたび3月11日のじしんとつなみでたいへんなのに 原発事故でちかくの人達がひなんめいれいで 3月18日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました 私は相馬市の娘○○(名前)いるので3月17日にひなんさせられました たいちょうくずし入院させられてけんこうになり2ケ月位せわになり 5月3日家に帰った ひとりで一ケ月位いた 毎日テレビで原発のニュースみてるといつよくなるかわからないやうだ またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 家の家ぞくは6月6日に帰ってきましたので私も安心しました 毎日原発のことばかりでいきたここちしません こうするよりしかたありません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい (毎日新聞2011年7月9日付)
抜粋、以上。
遺書を読んだときは、涙を禁じえなかった。
だがわたしは、もし仮に同じ立場に立たされたとしたら、同じ道を選んだだろうと思うのだ。わたしはもう、人生で十分、楽しい部分を生きたと。だからいまここで泡が弾けるように消えてもいいと。国よ、わたし個人に関しては、姥捨て山上等であると。
また、この避難所に足場を置けた人は幸いであるとわたしは個人的に思うのだが、これって施設が偶然にも整っていたというのも大きいけれど、次々とこれから起こりうる状況を察知して動いた那須甲子青少年自然の家のスタッフの方々の功績は大きいなと感じる。
最後に確認のために質問した。
佐藤所長、この施設の空間線量(お役所が言うところの「環境放射能」である。しかしわたしはこちらの表現のほうが、「誤魔化し」がないようで好きだ)ってどうですか?
「今週の月曜日か火曜日で、0.3から0.4μSv/hの間です」
だいたい、西郷村役場と同じでしたか?
「西郷村役場は今日の新聞によると0.58μSv/hだから、それよりも、ちょっと低めですね」
高さはどれぐらいで測ってますか?
「地表1mのところと地表10cmのところで測りました」
地表だとどうですか?
「0.4μSv/hです」
かなりほっとする。(ちなみ那須甲子青少年自然の家の、例えば子供たちがよく利用する「つどいの広場」などだと、7月7日時点で地表50cmで0.22μSv/h、地表1mで0.2μSv/hと落ち着いてきていると、後日、佐藤所長に教えてもらった)。
とはいえ、都内に行くとこれは衝撃的な値だろうが、福島県ではまだ「安心」な数字である。巧い例えが浮かんでこないのだが、わたしの母が大腸がんから肝臓に転移したとき「まだ大丈夫、肺までじゃない」と思ったのに近い。「まだぎりぎり踏ん張れるかもしれない」という状況だ。
わたし個人としては、福島がこの先も子供たちの長く留まる場所になってはいけないと考えている。集団疎開を現実的に考える時期に来ていると。ここはあくまで「緊急避難先」であるべきだと。だから最も頭が痛いのが、どうして国が、福島県内に急ピッチで、しかもたった2年間しか住めないという条件付の仮設住宅の建設などを進めているのか、なのである。
まあ、0.4μSv/hは「とりあえず」いいとしよう。次の問題に移ろう。
食事の野菜とかはどうされてます?
「食材料の調達及び調理については、委託業者に入ってもらっているので、任せていますが、放射線量等も含めて安全安心なものを提供してもらっています。なにせ妊産婦さんも乳幼児もいるもんですから。高い線量のものを食べさせるわけにはいかないのですよね」
基準値はどうなっていますか?
「ほうれん草だと500ベクレル以下とか。政府の一覧表以下でやってます。500ベクレル以下で、500ベクレル近い数字のものではないと思います。水自体も、西郷の下のところの堀川ダムで測ったときは15ベクレル。上の源泉近くに行くと、針が振れません。6ベクレル以下は針が振れないということだったので、6ベクレル以下」
上の源泉近くの水を使っているんですね?
「そうです。一応放射線関係については、いまのところ基準値以下に入っているかと思います。安全値のなかに入っていると思います。特に妊産婦もいるので、村にお願いしたら、ちょうど村のほうでも、環境放射能を毎日巡回して何箇所か測定しているので、那須甲子も巡回地に入れてあげましょうということになりまして、今日から毎日、測ってくれることになってます」
よし、水は守られているぞ。これだけでずいぶん違うだろう。だが、問題は、外部被曝と、他の食品から否応もなく受ける内部被曝だ。どうしても福島近辺にいるというだけで、外部からも内部からも被曝から免れられない。流通の関係で。
例えば西郷村にあるジャスコに行く。売られている野菜などは「がんばろう! ふくしま」の文字がかえって寒々しい地場産の野菜か、北関東のものなのである。直撃、である。白河市のイトーヨーカドーも同じだ。わたしは福島にいるあいだ、母親に、
「これからは食生活を全部変える気持ちで生きろ」
と伝えた。高知産のナスやピーマン、しし唐などは手に入るし、沖縄のゴーヤやかぼちゃなども手に入ったので、こういう物ばかりを買わせていた。終いには「酒が飲みたければ、これからはチリワインを飲め」とまで言った。母親はワインが不得手なので、「JINROにする」としょんぼりしていたが。ま、自分の母親に関してはまあ、年も年なので、いいとしよう。
なので、再び個人的に思うのだが、福島県がいま進めるべきなのは仮設住宅の設置ではなく、福島から可能な限り遠隔地にある子供たちの収容施設である。こういう、那須甲子青少年自然の家のような。西に行けば、西の生鮮食品が流通しているのだから。あるいは北海道でもいいのだ。
テレビで学童の集団疎開に関する討論番組を見たのだけれども、医師サイドのほうが怒っていて(ブルーレイに録画していなかったので、再度の確認が取れず記憶のみだが、国立がんセンターの医師だったように思う)、政府は早急に学童を疎開させろと迫る。すると民主党サイドが、
「疎開させた先でいじめが」
と答える。
いじめと甲状腺がんのどっちが不幸かなんて、あなたが決められることか?
なによりも大事なのは「命」だろう? 幸も不幸も、生きていてこそだ。
確かに、三宅島の全島避難のときみたいに、子供を廃校予定の学校の寮に集団疎開させて、かならずしもうまくいったとはいえない例もある。以下、内閣府のHPから抜粋。
【区分】
第4期 被災地応急対応期(9/4全島避難〜平成14年3/12一時帰宅)
4-3.長期避難と避難生活
4.避難生活の問題点
【教訓情報】
05.児童が学校生活の中で癒しとなったのは、親や家族との電話だった。
【文献】
◆九月当初、緑の公衆電話が男子棟女子棟に一台ずつ設置されていた。小中高とあわせて二〇〇名の児童生徒に一台だけであった。それまでは子どもたちが両親と連絡があっても、寂しくても、なにも連絡を取る手段はなかった。急な避難でもあり、携帯電話を持っている子はもちろん誰もいなかった。
テレホンカードがまもなく支援者の方から届けられるようになった。電話が入ってから数ヶ月は電話の前が行列だった。特に、小学校の夜の学習時間が終わり、就寝準備をする八時四五分からがピークである。寝間着を着た子どもたちが一〇数人は並ぶ。電話している子どもは「お母さん、迎えに来て!。」とか「お母さんに会いたい。」と話している。私にもその必死の思いが伝わってくる。ほとんどの子は電話で話している時には決まって涙を流したり、目を赤くしている。お母さんの声を聞くだけで今まで我慢していた緊張が解けるのだろう。
それを待っている子も、その声を聞いて早く電話がしたくてたまらないという様子で待っている。でも、「早くしろ」などと言う子はいない。電話している子どもの気持ちが自分の気持ちでもあることがわかるのだ。電話の番が回ってくると急いでカードを入れて、「お母さん。」とまず呼びかける。そして「お母さんに会いたい。」「帰りたい。」というふうになる。そこで、お母さんからいろいろと慰めの言葉がかけられる。しばらくする寮の中や学校の中であったことをおかあさんにいろいろと報告する。最後にはうんうんとうなずいて電話を切るという様子である。
一週間後には各棟に二台の電話が増えて、計三台ずつになった。この頃も電話をする子どもたちはどんどん増えているという状況だった。いままで我慢していた子も電話が三台に増えて、テレホンカードも支援の方からたくさん寄せられていたので、使い切った子どもにはどんどん追加して配布していた。この頃も小学生のピークは同じ、午後八時四五分から九時二〇分程までである。その時間になると各電話機に数人が並び、あちこちから泣き声が聞こえて来るという状況であった。この傾向は、特に女子の方に多かった。泣き声をあげるのは女の子が多かった。[『三宅島 こどもたちとの365日』小笠原康夫(2002/2),p.86-88]
抜粋、以上。
だが大丈夫だ。問題ない。いまや「テレホンカード」の時代ではないのである! そんなときこそ孫正義のSoftBankのスマートフォンがあるではないか!
いや別に、ドコモでもいいんだけど。一応、100億円寄付してくれた男だし、きっと「お願い、孫正義!」と訴えていれば、疎開する子供たちにもスマートフォンぐらい配布してくれそうな気がする。「ホワイト家族24」なら、家族への国内通話・メールが、24時間、無料である。(という訳で、スマートフォンの宣伝もしたから、孫氏には疎開する子供たちにはスマートフォンを配布して欲しいな、と)。
わたしなら携帯があろうがなかろうが、即座に、自分の子供を疎開させるね。そして「福島出身者だ」といじめられたと泣きついてきたら「目には目と歯と肋骨を。リアルで殴れ」と教えるね。
それから念のため、佐藤所長に、子供たちから直接話を伺うことは可能かのかを尋ねた。
しかしこれに関しては、メンタルヘルスの観点からいかがかと思うとのことで断られた。佐藤所長、鉄壁の防御壁。かえって安心したかも。わたしが、子供の心をかき混ぜる必要はなにもない。
子供こそが、この失墜していく国の、唯一の、本当の宝である。
これを守らずして、なにを守る?
わたしは提言したい。四国、九州、沖縄などの遠隔地に、早急に那須甲子青少年自然の家のような施設を作り、子供たちを疎開させるべきだと。既存の施設を利用するのも多いにけっこうなことだと思う。
ちなみに、佐藤所長に教わったところによると、四国には「国立大洲青少年交流の家」、「国立室戸青少年自然の家」、九州には「国立阿蘇青少年交流自然の家」、「国立夜須高原青少年自然の家」、「国立諫早青少年自然の家」、「国立大隈青少年自然の家」、沖縄には「国立沖縄青少年交流の家」の七施設があるそうだ。こういう施設を利用しない手はないんじゃないだろうか。
なあに、「親」なんてもんは、いたっていなくたって子供なんて自然と育つものである。むしろ虐待するような親から離されてほっとする子だっているかもしれないじゃないか。いや、「いじめ」っていう意味不明の切り札を乱用する民主党議員への嫌味でもあるんだがね。要するになにもする気ないんだろう。
声を大にして何度も訴えよう。この国の最後の福祉として、この提言を実現に移していただきたい。
取材の最後の頃、わたしと入れ替わりでタイからの医師団が佐藤所長に挨拶に訪れた。それでわたしは那須甲子青少年自然の家を後にしたのだが、これがわたしがこの目で見た「福島」のなかで、最も心休まった場所となった。無論、これは施設を管理している佐藤所長が語ってくれた内容なので、「那須甲子にいれば安心して避難していられる」という、わたしの望む実態とは恐らく完全には重ならないと思う。そして残念なことは「那須甲子青少年自然の家までもが汚染されたのだ」という事実は、ごろんと、転がっているのだ。否応も無く。
佐藤所長の言葉によれば、これから那須甲子青少年自然の家は、仮設住宅が県内の用地に設置されて避難者の退去が済み次第、通常の業務に戻るとのことだった。だが県内の他地域と比較しての空間線量のことを思うと、まだしばらく、ここを拠点に本当の生活の場を探せる人たちを匿ってあげて欲しいと心から願っての帰路となった。無論これは国や県が決めることであり、佐藤所長には権限がないのは重々承知した上でのことなのだが。
美しかった。昭和天皇が愛された那須の新緑は、目にしみるほど美しかった。悲しくなるほど、美しかった。
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