2011.07.21
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
番外編
福島記8
全2ページ
 国立那須甲子青少年自然の家。
 キャンプなどの野外活動を通じて青少年の育成を目指すこの施設、那須というのは栃木県那須郡那須町の地名であるが(全国的には「那須の御用邸」で知られる地名だろう)、実際には那須町に隣接する「福島県西白河郡西郷村大字真船字村火6-1」に存在する。
 5月27日の「福島」を記す試みは、この施設の所長を務める所長の佐藤修氏へのインタビューから始めようと思う。
 わたしは福島に来てからというもの、正式な取材の申し込みをせずに見聞きして歩くばかりで、潜入取材といえば聞こえはいいが、どちらかというと覗き魔になった気分で、大変精神的によろしくないと感じていた。
 偶然の伝手から、佐藤所長へのインタビューが実った。
 この施設であるが、現在は本来の活動を行わず、被災者の避難指定施設として対応している。
 西郷生まれのわたしにとって、記憶のなかの「那須甲子少年自然の家(当時の名称。現在は“少年”はなく“青少年”であるそうな)」は、「とてもよいところ」であった。初めて訪れたのは、小学校五年のときだったと思う。オリエンテーリングという野外活動のプログラムがあって、地図とコンパスを手に、クラスメイト数名でチームを組んで、林間にあるポイントを探して歩くのである。国立の施設であるから、林間で迷子になったりする心配はないように十分配慮して作られているのだが、那須の緑のなかで、わたしたちは本気で冒険家になった気分であった。林間を探索して、全部のポイントをチェックできたら、ゴールである。先陣を争うのだ。わたしたちは幼いマルコ・ポーロであり、リヴィングストンであり、ダニエル・ブーンであった。
 チームを組んだ4人全員が燃えていた。
 すると仲間にひとり、注意力が散漫な女の子がいて、林間で迷子になった。
 といっても、整備された林のなかなのですぐに発見できる程度の迷子なのだが、この子を捜すので、わたしたちのチームは遅れを取った。
 その子をようやく発見したとき、残る3人は本気で糾弾してしまった。
 その子が顔を覆う力もなく、手をぶらんと下げて、空を見上げてオイオイと泣き出したのを見て、初めて胸が痛んだ。
 他者の心に痛手を負わせたこと。心を殴ってしまったのは自分であること。
 生死をかけた問題でもないのに、どうして楽しいはずの遊びを台無しにしてしまったのだろう。
 少なくともわたしはあれで、なにかひとつ学んだのである。
 福島第一原発で現場の信頼を一身に集める吉田所長の座右の銘は、
「人はタフでなければ生きていけない。優しくなければ、生きる資格がない」
だと言うが、なにかそれに近いものを感じ取ったのである。
 その後も、この一件だけはずっと心に引っかかっていた。
 逆に言えば、わたしはこの施設がどんな設備だかを知っているから、
「ここは避難所としては悪くないだろう」
と推察していた。というのも、大規模な宿泊施設として整備されているし、大浴場もあるし、なんといっても、調理場で作られて出してもらえるご飯が美味しいのである。わたしのクラスメイトの男子などは、ご飯を10杯お代わりするという妙な記録を樹立したほどである。たぶん、食事の美味しさと同時に楽しくて興奮しすぎて、なにがなんだか解らないけれど食べてしまったんだと思う。
 母の車を借りて、那須甲子青少年の家への道を走る。
 相変わらず、那須の新緑は美しかった。
 昭和天皇が、この自然を愛された理由もよく解る。
 陛下がご存命中だった頃は、地元民はよく陛下の避暑に困ったものである。というのも、陛下がルーペ片手に自然観察をされるため、移動のたびに道路が封鎖されてしまうのである。
「遠回りしてもらえませんかねえ?」
と困った顔をして告げる地元の警察官。
「またですか」
と苦笑する地元民。しかしそれは、古き良き昭和の時代の記憶である。
 わたしにもし子供がいて、そしてここまでもが放射性物質で汚染されているという事実さえなければ、どんどん野外活動に参加させてもらって、タフで優しい子供になりなさいと推奨しただろう。
 佐藤所長は、生真面目そうで、それでいて優しい風貌の眼鏡の細身の男性だった。名刺を交換して、過去に那須甲子でお世話になった地元民であるとの簡単な自己紹介をしたのちに、インタビューを始めた。
 まずは最初の質問を振る。いま、こちらにはどういった方が避難してきていらっしゃるのでしょう。
「浜通りの方々が中心で、地震や津波の被害を受けた方々も多いんですが、どちらかというと原発事故で10kmから20km圏内が避難区域ですよとなったとき、そして20kmから30kmは自宅退避か、自主避難ですよという発表があったときに、自主避難してきた方がほとんどですね」
 では30km圏内の方もこちらにはいらっしゃっている。
「ええ、いらっしゃってますね。で、当初は、620名ほど受け入れていた時期もあったんです。ただ、現在は違います。ご家族それぞれが、4月6日までの時点で、学校をどこにするか、子供たちのこれから長いスパンでの居場所をと考えたときに、どこに行ったらいいのかということで、移って行かれました」
 ここで避難民の受け入れ人数の推移グラフを見せてもらった。
 3月13日から、グラフの推移が始まる。三号機の水素爆発が3月12日である。しかし、数はごく僅かである。
 佐藤所長が説明してくれる。
「那須甲子は避難所だということがラジオで放送されたのを聴いたご家族8人が、『ラジオで聴いたんですけど、いいですか』とやってきたのが皮切りです」
 14日も同じように、微小だが増加している。
「14日も同じように、ラジオの報道で。翌日から次から一気に増えるのは、県の災害対策本部で動きがあって、特別養護老人ホームの入居者が、職員と共に、避難してきます」
 あの時期に、だれがどれぐらい被曝したかを把握できる「科学者」などは存在しないだろう。こんな事故が起きる前に読んだことがある。反原発派のサイトなので思想的に多少バイアスがかかっているとはいえ、原発が水素爆発を起こしたら、周辺住民に可能なことは、
「逃げる」
である。他に手段はない。その近隣に居れば居ただけ、被曝する。これは事実だと思う、どうしようもなく。
 ラジオというメディアが、案外強力な力を持っていたのを知った。というか、地元のメディアの力、というか。知っていたか知らないかで、被曝の量はかなり変わっただろう。今回、福島第一原発事故を踏まえた報道を見ていても、全国紙では突っ込まないようなことまで、例えば福島民報という地元の新聞社は取材して報道している。わたしは福島民報が3.11以降に緊急出版した写真集を購入した。写真の撮り方ひとつを見ても解る。「絵になるかならないか」というインパクト重視の全国紙と違って(全国紙だと、津波の被害のほうが「絵」としてインパクトがあるせいか、津波の被害に集中した写真の撮り方になっている)、あくまで地元目線で撮っているから、
「ああ、あの風景がこう変わってしまったのか」
と、地元民なら解るのである。おまけに福島の被害は津波だけではない。地震もあれば、そしてなんといっても原発事故があるのである。また、3.11で交通網がストップしたとき、郡山市に雪が吹きすさんだことまで、地元紙は押さえている。バス停で凍える被災者たちの顔も。
 話を戻そう。数は少ないとはいえ、被曝を可能な限り減らせた家族がいたこと、それは地元ラジオ局の力であると称えたい。
 グラフ上の人数は、3月16日に一気に増えている。これはどういう理由だろうかと佐藤所長に尋ねた。
「16日に増えるのは、あとはファミリーです」
 ご家族で逃げてきた、ということか。
 原発の事故の恐怖に逃げ惑った人々の混乱が、グラフからまで伝わってくるようである。
 佐藤所長が説明を続ける。
「いまこの施設の避難者で一番多いのが浪江町(山崎注:福島第一原発より20km圏内)で48名ですが、次が南相馬、そして、いわき市。で、623いたという3月18日のころの人数は、どちらかというと、いわき市ですね。180名くらいいましたから。いわき関係はどちらかというと北風が吹くと原発の風下にあるから(山崎注:お忘れかもしれないが、いわき市は、40歳以下にヨウ素剤を配布された場所です)危ないということで自主避難された方が多かったんです。でもその後の状況からするといわきは、けっこう放射線量が低いことが判明しまして」
 そうなのである、環境放射能の値はいわき市は意外と低いのである。
「どちらかというと、頭の上を飛び越して、茨城とか栃木とか、東京とかへ行っちゃってるというのがだんだん解ってくると、いわき方面は、戻られていく方々も多かったです」
 原発事故の怖さというのは、その後の風向きも多いに関係していることだ。距離だけでは測れない。遠くに逃げるというのは基本としてあるが、重要なのは、その時、風がどこに向いて吹いたか、である。SPEEDIという、今回の事故のために存在していたような緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムを持ちながら、そのデータが国民を素通りしてIAEAにだけ報告されたというのは、福島県民だけでなく、茨城、栃木、群馬といった北関東一体の住民に対する国の裏切りとしか思えない。
 だれが、どこへ、逃げるべきだったのか?
 わたしが一番懸念するのは、乳幼児を含めた子供たちである。
 佐藤所長に尋ねた。
 いま現在、那須甲子には子供さんもけっこういらっしゃるんですか。
「今日現在、川上小中学校に16人が通っています。高校生は3名、旭高校に。転入学試験を受け、合格して、そこに通っています」
 川上小中学校は福島県西白河郡西郷村にある。
 旭高校は、福島県白河市内にある学校だ。
 両者とも福島県のなかでは南限に近い場所にある村と市である。
 ちなみに県が公表している西郷村(福島第一原発より西南西約84km)と白河市(福島第一原発より西南西約81km)の環境放射能の値をここに記そう。5月27日だと、西郷村役場が0.57μSv/hで、白河市が0.56μSv/hあたりを推移している。この値が果たして子供たちに適切かどうか? 確かに浪江町(福島第一原発より西北西約29km)のように、3μSv/h以上を連日記録するような数字ではないのだが。そもそも国の定めた暫定基準値が世界から正気でないと言われているのだ。これが本当に安心といえる値かというと、わたしは首を傾げたくなるのだが、ともあれ、気にかかることを質問していこう。
 いまのところ退去の見通しというのはたたない感じですよね?
「県の災害対策本部からは、七月末をめどに、仮設住宅等を準備する方向で考えているので、それまでは避難所として運営するよう言われています。なので、当施設としては七月末までが、避難所かなとは思ってますが。しかし、本来青少年教育施設ですから、その役割が十分果たせる状況をいち早く取り戻したいという思いもあります」
 過去を思い出す。確かに最初にここを訪れたのは、夏場だった。冬のスキーというのもあったけれど(とはいえ、リフトはない。自力で山を登って、滑り降りてくるのである。わたしなどは2回目で疲弊した)、夏場のほうが圧倒的に楽しい。
 佐藤所長の説明が続く。
「ご覧の通り、いまは新緑のいい時期ですから、学校も使いたくて使いたくてという時期なんですよね。毎月、この時期ですと、月に1万5000名、使っている時期なんですよ」
 この数字には驚いた。どういう算出で「1万5000名」になるのだろうかと思ったら、こういう事態を迎えるまで、連日、400から500の学童が施設にやってきて、30日で1万5000ぐらいの人数が使っているという計算になるらしい。
 ここでふと、妙なことを思い出した。
 そういえば高校のときも来てますね、わたし。県立白河女子高校のとき(現在の旭高校である。避難してきた子供たちが転入学して通っている学校だ。男女共学になったときに、母校の名前が変わったのである)。
「そうかもしれないですね、高校生はクラスのオリエンテーションとか、生徒会の指導者研修とか」
 鮮やかに記憶が蘇える。
 そうです! それで利用させてもらいました。一応、生徒会だったんで、わたし。
「リーダー研修で使いますね、はい」
 そうでした、思い出しました、二段ベッドでしたよね、確か。
「そうです。二段ベッドが八つあって、16人部屋というのが、うちの基本なんです。あいだに十二畳の和室があって、そこも泊めると、500人ぐらい入るんですが。基本的にはベッドの数だけで計算すると400なんですよ」
 ここであっけにとられた。
 3月18日には623人の避難民を受け入れていたと、さっき、佐藤所長の口から聞いたばかりである。よく600人以上入ったものである。
「特別養護老人ホームは、入所者の方がベッドの部屋に入られてしまうと、(特別養護老人ホームの)職員の数が足りないので、できればプレイホールとかのフラットな部屋でお願いしたいということでしたので、そういう部屋に入ってもらいました。そこに布団とかマットレスとかを運んで」
 ここで恐怖する。那須は避暑地であるが、冬は寒いぞ!
 ということは、和室を割り当ててもらった避難民は布団なしで寝たの? 怯えて思わず「うわあ」と叫ぶ。
 すると佐藤所長はにっこり笑った。
「うちはキャンプ場もあるので、キャンプ場から寝袋運んできて畳の部屋で寝ていただいたんです」
 胸を撫で下ろす。なるほど、その手があったか。
 実はここに来る前に、佐藤所長は大変人望の厚い方だという噂をちょっと聞きかじっていたのだが、これは頼りになる方だよなと納得した。優しいだけじゃないぞ、タフでもある。
 さて質問を再開しよう。
 各部屋の部屋割りというのはどうされたんですか?
「その時点で埋めていきました。最初は状況を聞いていたんです。足腰が悪いとか、年齢的にトイレから遠くなるのは困る、といった状況を。ただ、人数が一気に増えたとき、丁寧にやっていると対応が追いつかないので、空いているところに次々に入ってもらうという形をとりました。その後、状況が落ち着いてから、高齢者や身障者の方々に配慮した部屋割りに変えました。そして現時点で124名ですから、各部屋一ファミリーの部屋割りになっていますね」
 ああ、よかったです。
 ここを避難所に選んだ人々が、ビッグパレットで段ボールによる「パーテーション」で過ごさなくてはいけない避難者よりも、はるかに良い状況に置かれているのを知り、本当にほっとする。おまけに環境放射能の値も、ビッグパレットよりもずっとましなのである。「運がいいとか悪いとか、人はときどき口にするけど」という昭和の歌謡曲のフレーズがあったが、まさにいま、福島県内で避難生活を強いられている人には当てはまるよなと思う。
 佐藤所長が続ける。
「段ボールで仕切ったりする避難所にくらべると、うちはかなりましかなと思いますし、4日目からうちの食堂のスタッフも頑張ってくれて、限られた物資のなかで、温かい味噌汁を作って出したり、冷たいお握りをわざわざ崩して炒飯にしたり、とにかく温かいものを出すのを目標にしてやってました。また、お風呂も6日目から、なんとか入れるように手配していきましたので」
 これはちょっと驚いた。
 大浴場があるので、当日からすぐにお風呂は利用できたと思っていたのだけれども、実際に使用可能になったのは6日目からなのか。
 このときするっと聞き流してしまったのだが、あとで佐藤所長に確認を取ったところ、「水道管が5カ所で破裂して断水」していたのだという。ここにも地震の爪あとはあったのだ。で、那須甲子はスチーム暖房を使っている。いまある水で暖房をしないと、全員が凍えてしまう。だからお風呂は断念して、まず暖房に残りの水をまわし、ようやく点検が終わってから、今度は3日目に「炊事」を始めた。いよいよ大丈夫そうだ、問題ないようだとなって6日目にお風呂、である。避難民を受け入れる側であった那須甲子青少年自然の家も、かなりアクロバティックな綱渡りをしたのが伺えて、3.12(福島においては、3.11より3.12が重い意味を持つので、わたしはこちらの表現を選ぶ)以降の、福島に親兄弟を残すわたし自身の混乱と恐怖も同時に思い出した。
 ちなみに、ここからすぐ近くの奥甲子温泉には「大黒屋」という温泉旅館があって(凄く、良い宿です。こういう事態を迎える前は、3カ月前でないと予約不可能であった)、そこが被災者に無料でお風呂を使用させてくれるという情報に、わたしは接したことがある。日付までは思い出せないのだが、福島県内は断水している場所が多かった。なにせマグニチュード9である。わたしの姉の自宅も、断水が続いていた。
「お姉ちゃん、大黒屋が被災者にお風呂を無料で開放してるよ」
と伝えると、凄く暗い声で、
「そこまで行くガソリンがないわ」
と言われてしまい、二の句が告げられなかった。住所からすると、大黒屋は、那須甲子青少年自然の家と至近距離にあったのだが、佐藤所長によると、
「大黒屋さんと、ちゃっぽランド(地元のスーパー銭湯です)はお風呂を無料で提供していますよという情報だけは出しましたけど、往復で何キロもありますからね。何人か元気のいい人たちは出かけていきましたけど、なにぶん、燃料が」
と言葉を濁した。
 個人的な話になるが、わたしは「大黒屋」は思いいれの強い宿なのである。実は実家の経営するガラス屋がこの現場を任せてもらっていたので、新装オープンの直前にヘルメットをかぶって内部に立ち入っちゃった、さも工事関係者のようなフリをして。奥甲子の大自然をたっぷりと満喫できる露天風呂を目撃して、にんまりと笑い、「よし! 今度まとまった入金があったら3カ月先の予約を入れてやろう」と思ったものだ。実現しないうちに今回のような事態になり、「よし! ならば避難民に代わってお礼に一泊」と思っていたのだが、自分の手持ちの福島取材の予算が尽きた。ごめんなさい、大黒屋。
 しかし、6日目からここの大浴場が使えるようになったというのは、体育館などでの避難生活を強いられた人たちよりも、かなり楽であっただろう。最初に仮設住宅に「潜入取材もどき」をしたときは、老人が語っていた。「女でも臭う」と。
 佐藤所長と話す。
 大浴場もいいんですよね、ここ。
「ええ。身障者用の浴場もありますので、車椅子のまま入れるようになっていますし」
 いや、ここはいいなあと思ったんですよ、避難所として。ビッグパレットを見たときに、これはないだろうと思って。
 わたしがそう言うと、佐藤所長は、 「うーん、ビッグパレットだとお風呂も仮設のお風呂になっちゃうし、大変ですよ。そういう意味ではここは、凄くいいです、と言ってもらっています。各市町村が二次避難所として会津のホテルとか旅館を斡旋してくるんですが、そちらに行った方々で、戻ってきた方もいる」
と笑った。
 思わずわたしも釣られて笑った。だってご飯、美味しいですもんね。
「ええ、お風呂もいいしご飯も美味しいというのもあったんですが、もっと重要だと被災者の方々が訴えられていたのがコミュニケーションなんです。ホテルとか旅館に行くと、各部屋に割り振られて、入れられたらそのまんまなので、情報がない。那須甲子では玄関に情報が貼り付けてあるし、緊急時は放送も入りますから」
 鍼の治療まであるんですね。
「ええ、マッサージ治療もしてますしね」
 タイから医療の相談も来るようですね。
「そうなんです。今日もね、午後2時からタイ王国の医療団が来て。最初は岐阜県の医療チーム、それから北海道医療チームなどに入ってもらったり。この医療チームとはまた別に、世田谷にある災害ボランティアの団体から、看護師だったり、整体師だったり、理学療法士だったり、マッサージ師だったりという方が、三泊四日ずつ被るようにしながら、引継ぎを自分たちでやりながら、入ってくれてます」


次のページへ
全2ページ
バックナンバー一覧へ
山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
閉じる
Copyright Bungeishunju Ltd.