2011.07.14
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
番外編
福島記7
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 5月26日の「福島」を記す試みです。
 正直、わたしは疲れてきていた。福島にいて、物を見聞きすること自体に。とはいえ、わたしは期間限定で福島から「脱出」できる身である。「どうにも術がないから、ここに住み続けるしかない」という事実を諦念とともに受け入れている人たちだって沢山、この地には残されているのだ。
 この日わたしは、「ビッグパレットふくしま」に足を運んだ。
 ここは東京で言えばビッグサイトのような場所で、県内の一大コンベンションセンターである。ここがまるごとひとつ、避難所になっているという。
 主に福島第一原発から20km圏内の住民が避難しているとの情報だった。
 正式な取材の申し込みをしている訳でもないし、行ってなにか収穫があるかどうか、よく解らない。こういうときに、出版社名義の名刺とか新聞記者の身分証のようなものをもたない身は辛い。でも、行ってみるしかない。
 地震で地割れを起こした場所に応急処置が施された国道4号線を北上し、 ナビで郡山市を目指す。
このあたりは実は環境放射能が高い。正直、近づくだけでストレスになる。
 西郷村にある実家から小一時間ほど走ると、目的地付近に到着した。
 デザインとしては、ビッグサイトによく似ていて、コンクリート打ちっぱなしの、バブルの後に流行ったデザイン。1995年ごろ、「ばかけんちく探偵団」というサイトが一躍脚光を浴びたことがあって、江戸東京博物館を、「江戸東京“巨大ロボ”博物館」とかくさして、けっこう笑ったもんだけど、湾岸あたりでバブル期に浮かれてデザインされた「ばか建築」は全部あのサイトであげつらわれたもんですよ。たぶん、郡山のビッグパレットも、あそこのサイトの主だったら、なにか一家言あったに違いない。デザインが浮かれすぎていて。
 さてそのビッグパレット。駐車場に入ろうとしたが、 どこも閉鎖されている。一カ所だけ、「関係者以外、立ち入り禁止」という監視のついた入り口だけが開放さているのが判明した。
 どうやら、どさくさにまぎれて入るというのは禁じ手らしい。何回か周回していたら胡乱な目で見られていたので、諦めて、正攻法で。
 車のブレーキを踏みながら入り口で見張っている警備員に、
「恐れ入ります。取材で参りました」
と告げた。するとあっさり、
「それではお通りください」
と、駐車場に通してもらえた。
 なんだ、簡単だった。
 仮設住宅のときに、さんざん用心されたせいで、逆にこちらが及び腰になっていたのを知る。 駐車場は満車状態。喫煙所が建物の外側のあちこちに設けられ、そこで所在なくタバコを吹かす喫煙者たち。
 たまたま喫煙所のそばに空いているスペースを発見した。駐車しようとすると、初心者マークを見たのと、運転が下手なのを見抜かれたせいだと思うんだけど、喫煙所にいる人たちが誘導してくれた、笑いながら。
 今回のことで「変なところで得をしている」と思ったのは、去年の七月に妙な成り行きで免許を取得しておいたのと、35歳の頃になっていきなり喫煙者になったことだ。免許のおかげで、県内のあちこちをそれなりに自力で取材してまわれるし、タバコはコミュニケーションアイテムになる。わたしは、県とかが「見せたい部分」の福島だけを見たいんじゃないんだよな。「本当」の福島を見たいんだよ。
 車を降りるなり、苦笑しながらお礼する。
「ありがとございます!」
「いやいや」
 誘導してくれた人と一緒にタバコに火をつける。
 するとたまたま、そのなかに「川内村」の行政のネームプレートをつけた男性が混じっていた。思わず反射的に尋ねる。
「川内村の行政の方でしょうか?」
「そうです」
「あの、川内村は、福島第一原発からどれぐらいの距離が?」
「ほとんどが20km圏内に入りますね」
「では、現在は行政が全部、このビッグパレットに移転している状態ですか?」
「そうです」
「避難されてきたのはいつだったのでしょう」
「3月15日ですね」
「それは……三号機の爆発のあとですよね?」
 記憶が正しければ、爆発は12日。遅い!
「そうですね」
 あの日、だれがどれだけ放射線を浴びたかなんて、把握している人がいるんだろうか。 どうしてECCS、非常用炉心冷却装置が作動しなくなった時点で、非常事態宣言を出して、住民を避難させなかったのだ? 遅い、なにもかもが後手、後手だ。
「そうですか……。あの、今後はどうなさるんでしょう。行政の機能ごと、川内村の移転という話になっているのでしょうか?」
 これはほとんど確認のために尋ねたような気分だった。
 すると、男性の答えは違った。
「いいえ、帰ります! 安全性が確認され次第、川内村に帰ります」
 正気か? 20km圏内だぞ? そこにはプルトニウムも飛散しているだろうと、海外の専門家たちも指摘している場所だぞ?
 気分が悪くなる。
 飯舘村の行政といい、どうして「土地にしがみつく」という発想以外、浮かんでこないのだろう。日本には過疎で悩む村や町があるではないか。現にわたしが現在、仮住まいをしているのは、限界集落である。休耕田だって沢山あるのだ。確かに素人がいきなり農業を始めようとしたら、非常にコストがかかる。わたしは夫が農業をはじめたときに思った。「なんてコストのかかるジョブチェンジなんだ!」と。しかしむしろこれから国に求めていくべきなのは、ここではない場所への「移住の手段と費用」なのではないのか?
 男性が立ち去ったので、とりあえずビッグパレットに入る。
 一歩入って、足がすくんだ。
 近代的な建物のなかに、段ボールを「パーテーション」にしただけの区間が広がっている。 布団を敷くだけのスペースしかない。大人の背丈ならば、内部が丸見えの状態だ。これではプライバシーもあったものではない。
 もう、二カ月以上も経つのに、この有様だ。
 見るのが申し訳なくて、目線を伏せて歩いた。
 スペースを訪問して体調などを尋ねてまわっている医療関係者たちがちらりと視界に入った。
 すると大画面のテレビの前で、呆然と、眺めるでもなく、居座る人たちがいた。
 でも、なにも直視できない。
 たまに視界に入ってくる人は、表情が疲れきっている。
 やがて壁に突き当たり、避難所の人たちに対する呼びかけの紙が貼られているのが目に入った。
 女性専用スペースというのが設けられているらしい。
「女性だけでおしゃべりがしたいとき」「赤ちゃんの夜泣きが酷いとき」「ほっとくつろぎたいとき」などと書かれている。
 ここに行ってみよう、と思った。
 少なくとも、こういう場所ならば、まだ、コミュニケーションを求めるだけの気力がある人がいるはずだ。
 広大なコンベンションセンターなので、現在地からして把握できなかった。そばを歩いている中年女性に声をかけた。
「すいません、女性専用スペースってどちらでしょう?」
「ああ、こっちこっち」
 親切に、その場所まで歩いて連れて行ってくれた。
「ありがとうございます」
 お辞儀をするとにっこり笑った。よかった、まだ笑えるのだ。
 女性専用スペースのドアをあけた。小さな会議室に40代から50代ぐらいの女性たちが集っている。 少しだけ明るく振舞おうと努める。
「失礼します。この席いいですかあ?」
 するとみんなから、
「どうぞ、どうぞ」
と席を勧められた。
 全員、なにか手芸品みたいのを作っている。
「なにを作っていらっしゃるんですか?」
 隣に座っている、穏やかそうな少しわたしより年上の女性に声をかけた。
「匂い袋なの。やってみる?」
「いや。不器用ですから」
 これは本当である。中学のときに夏休みの宿題で「パジャマを縫え」というのがあったのだけど、やり方がわからず母親に教えを請うたら、
「お前がそんなことを学んでも、中国人の人件費にかないません!」
と一喝された。母はドライで経済優先の女なのだ。心の潤いとかなにもなし。しかし、 「それもそうか……。これで食っていくのは確かに難しいわ」
と納得してしまったため、結局、わたしひとりだけ、パジャマを完成させられずに提出した過去がある。 しかしこの話を夫に漏らしたら、
「なんだかその話って言い難いけど、なんだか品がないね。君ってお母さんからそういう部分を沢山貰ってるよ?」
と言われた。すいませんねえ!
 穏やかそうな女性に尋ねる。
「匂い袋を作ってどうするんですか?」
「息子のね、車が臭いのよ。喫煙者だから。だからせめてと思って」
 嫌だ。耳が痛い。わたしの車は臭いと思う、非喫煙者からしたら。
「どうしてあんなもの吸うのかしら。車もね、あちこちに穴があいたりして」
 すいません、わたしもそうです。熱い灰がこぼれちゃうと、どうしてもね。灰が落ちてもハンドルもキープしないといけませんし。
 テーブルの上には、女性用下着メーカーの「トリンプ」が、サイズなどを指定すると物資として送ってくれるので、ブラのサイズを書いて申し込むようにとの紙が置いてあった。
 これって切実な問題だろうなと思った。
 ちらっと視界に入ってきた人たちは、ほとんどが「ジャージ」なのである。着の身着のまま逃げてきたのは察することができる。いちばん困るのは、下着の代えだろう。
 胸に赤いリボンをつけている人たちが多かった。
「どちらから避難されていらしたんですか?」
 穏やかそうな奥さんに尋ねる。すると胸のリボンを示された。
「ほら、富岡」
 20km圏内だ。
「そのリボンが目印なんですか?」
「そおよ。あなたはどちらから?」
 ここで迷った。すごく正直なことを言うと、わたしは小山に一軒家と土地を残したまま、わずかな荷物を梱包して、西に逃げた。ここで今、仮住まいしている場所を正確に伝えると、構えられる可能性は大きい。少しの真実と、ひとつの嘘を混ぜる。
「西郷村から参りました。解りますか? 東北新幹線の新白河駅のある場所から5分ぐらいのところです」
「あらあ、西郷村なんだ。西郷からここに避難?」
「いえ、避難というわけじゃなくて。でも西郷あたりの地震の被害も凄いんです。よければデジカメのデータ、見ますか?」
「うん。見たい」
 いままで会って会話した女性のなかで、この女性がいちばん構えないのに 気づいた。記憶のためにデジカメに残してきた、地盤ごと滑り落ちた住宅などを見せた。
「酷いわねえ。うちは地震も津波の被害もなかったのよ」
 なのに、あなたは帰れない。たぶん、生きているあいだは絶対に無理だ。きっと納得がいかない。天災で家が壊れるのは誰だって納得がいく。だけど原発事故は人災だ。
 友人から聞いた。この国で初めて原発が稼動しだしたときのニュース。 「遂に夢のエネルギーが」とアナウンサーが報道する。夢なんかじゃない。悪夢のエネルギーだ。

 そもそもどうして日本がアメリカからGM製の原発を買わされたかといえば、本当に逆説的で悲しいことではあるが、「日本が唯一の被曝国」だったからだ。
 アメリカとソ連という二大国は核兵器の開発を競い合っていた。しかし日本は、その後の第五福竜丸事件(1954年、アメリカによりビキニ環礁で行われた水爆実験に、遠洋マグロ漁業を行っていた第五福竜丸が遭遇した事件である。念のため。話は少しずれるが、たまたまわたしは夢の島公園を訪れたとき、遺族の追悼式に出くわしたことがある)もあって、核の力というものにアレルギーがあった。
 だからこそ「原子力は夢のエネルギー」と、アメリカは一大キャンペーンを行い、同盟国で核の力を共有しようとした。それと同時に、核兵器に転用されるのを抑止しながら、IAEAで核の力を共有しようと提案したのだ。日本テレビの生みの親である柴田秀利、この男は1955年ころ 原子力委員会の初代委員長となる正力松太郎と共に、反核感情が高まるもとで原子力発電を導入するために「毒をもって毒を制する」大キャンペーンを展開。この国に原発を持ち込んだ。原子力へのアレルギーは、原子力を持って制する、ということだ。いま生きていたら中性子を浴びせてやりたいほど、わたしはこの男に怒りを抱いているのだが、この男、1986年にアメリカへ旅行中、フロリダで客死しているそうだ。原発で美味しい思いをした連中は、みんなすでに墓の中だ。
 そして事実だけがごろんと転がっている。
 福島の、核で汚染された大地、という事実だけが、ごろんと。
 辛くて、話をそらした。
 せっせと毛糸でガーター編みをしているグループもいる。丸い、石鹸みたいな形のものを作っている。奥さんに尋ねた。
「これ、なにするものなんですか?」
「タワシの代わりに使うの。洗剤もほとんどいらないのよ」
 そこで奥さんは手を休め、
「あー、わたし、それよりレース編みがしたい!」
と言った。
「えっ、レース編み?」
「そう。好きなの、レース編み。すごく落ち着くし、楽しいの」
「難しいでしょう、大変でしょう」
「そんなことないのよ。わたしはパイナップル編みが好きなんだけど、本当に楽しいわ。糸がちょっと高いんだけど、糸を買いにいってね、よく作ったりしてたの」
 そこには富岡町で、普通に、つましく暮らしていた人の姿があった。
「凄い! わたしなんかには絶対できない」
 いや、お世辞じゃなくて、真面目に。
 ああいうの編んだりしてるの見ると、「神業!」としか思えない。わたしはキーボードを叩く以外は無能の人である。
 ちょうどそこに、司法書士の先生から電話が入った。そっと席を立ち、隅で会話。
「もしもし、お世話になります。山崎です。あ、はい。それで結構です。進めてください」
 すると奥さんが温和な表情でわたしに尋ねた。
「なにかお仕事してらっしゃるの?」
 構えられるのを覚悟の上で、でも嘘もつけなくて名乗る。
「わたし、フリーライターの山崎と申します」
 すると奥さんが身を乗り出した。
「あら、文章を書いているの? すごいわあ。雑誌とかに載るの?」
「そういうときもありますし、いま、出版社がインターネット上で情報を発信してまして。そういうところに連載を持ってます」
「お子さんは?」
 ここでひとつ得なこと。わたしは、不妊だ!
「欲しかったんですけど、不妊治療を受けたけど駄目でして」
 同情の視線。いや、それほど哀れまれるほどじゃあない。大して気にしちゃいない。 「おかげで気楽な身です」
 これは本音だ。わたし、不妊治療の薬の副作用に耐えられなくて逃げ出したし。根性あるなら続けてたし。
 勇気付けるように、奥さんが言う。
「でも凄いわ。文才があるのね」
「あんなの、慣れです。文豪ともなれば違うんでしょうけど、わたしはバイト先で原稿書かされて、それからですから。慣れたら誰でもできる程度の文章しか書いてないし、書けません。それよりもレース編みのほうが凄いですよ」
「それもね、慣れよ」
 いや絶対に適正があると思うけど。まあいいや。
 奥さんが尋ねる。
「文章を書くだけじゃなくて、お料理とかも得意なの?」
「や! もう、全然駄目で」
「あら嬉しい。なにもかも出来る人っているじゃない? 英語も話せます、フランス語も得意です、仕事もばりばりやってます、すると近寄りがたい感じがしちゃうけど。料理が出来ませんって言われるとほっとしちゃう」
「いやー、いいことじゃないんでしょうけど。特に山菜の処理とかまったく解らなくて」
 仮住まいの限界集落に移住してから、貰った山菜をどう処理するか悩んでいたわたしには、切実な問題だった。
「あれはねえ、年配の方に尋ねるのが一番なの」
 そこからしばらく、奥さんは熱心に、山菜の処理方法について教えてくれた。
「葉わさびはね、砂糖を少しまぶして、熱湯をかけるの。すると辛み成分が出るんですって。栄養士の人なんかは、みんな知ってることらしいわ」
「あっ、そうなんですか!」
「ご近所の人が山菜を持ってらっしゃるでしょう? そういうときにきちんとお料理して返すと、また来年も持ってきてくれるようになるわよ」
 そこで奥さんは小さくため息をついて、言った。
「自分でも山菜を取ったわ。フキとか、ワラビとか……。そういうこともできないのは、正直、ストレスね」
 わたしは東京から栃木県小山市に移住するにあたり、相当な覚悟の上だった。覚悟の上とはいえ、ストレスはあった。小山市長の大久保氏によくしてもらったりとか、いい出会いもあったけれども、長く住んだ東京のライフスタイルから地方都市の生活に馴染むにはそれなりの苦痛が伴った。その後、今の仮住まいに移住したときは、
「もうどうにでもなあれ!」
と、いっそ開き直れたけれど。
 奥さんは、突然、自分たちの都合でもなんでもなく、行政のバスに乗せられ、このビッグパレットでの避難生活を余儀なくされたのだ。
 帰れない故郷。
 もう、元には戻れない。
 そしてこういう言い方は非常に酷ではあるが、わたしは内心思っている。
 20km圏内の人々は、いきなり「ホームレス」に叩き落されたのだ、と(しかし避難指示を拡大させて欲しいのも本音だ)。それをどこまで行政は援助して生活の再建をさせるのだろう。責任は取っていただきたい。
 わたしは思わず、言葉を逃がした。
「今年は、ちょっと無理ですね」
 奥さんは賢い人だったらしい。こう、言葉を続けた。
「これからどうするのか、家族で話し合うわ。 するとね、必ず、揉める。毎日のように、喧嘩よ」
 戻れないことを、よくよく承知しているらしい。 そして、行政が「がんばろう、ふくしま」などと綺麗ごとを言って、ほとんど生活再建の援助をする気がないことも。そしてこの国にそんな力もなければ、指導力のある政治家もいないことも。


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山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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