2011.06.16
山崎マキコの時事音痴 文藝春秋編 日本の論点
番外編
福島記3
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「地産地消」。
 わたしの好きだった言葉のひとつだ。
 その土地で採れたものを、JAなどの団体を通さず、生産者が直接「道の駅」などで販売する。消費者は、安価だけど危険性の高い農薬が使用されている中国産野菜などを買い求めず、地元の野菜を買い求める。
 大変、理想的な流通スタイルであると考えていた。
 福島もそうだった。わたしの実家の近隣の主婦たちの休日の楽しみは、「周辺の道の駅めぐり」であるのが 多々だった。
 JAを通さない地産地消は、農家を潤し、同時に、土地に暮らす人たちにも中国産野菜を買うよりも安全な食を可能にしていた。
 しかしそれが福島第一原発事故以降どうなったか?
 ちょうど、母の車で「道の駅」を通りかかったので、母に尋ねてみた。
「最近、このあたりの『道の駅』ってどうなってるの?」
「さすがにね、出荷してもあんまり野菜を買う人もいないから。細々と仏さんにあげるお花だけ売ってる」
 ちょっと絶句した。そうか。花ならば、確かに人の口には入らない。
 さて、5月18日の「福島」を記す試みを始めよう。
 前回ご報告した通り、県が発表した「環境放射能測定結果・検査結果関連情報」によれば、いま、仮設住宅が急ピッチで建設されている中通りの線量は決して低いとはいえない。だが、県は、あくまで県内にこだわり、県内に被災者たちの仮設住宅を作った。
 わたしは、母や姉から情報を得て、中通りにある某所の仮設住宅の一角を訪ねてみることにした。ここには、福島第一原発の所在地である双葉町や大熊町から避難してきた人たちの仮設住宅もあるのだという。
 実は、わたしはこの取材、大変気乗りがしなかった。
 もともとインタビュー嫌いなのである。おまけに今回は、編集者がお膳立てしてくれたわけでもないし、アポもない。
 しかしどういう理由でか知らないのだけど、妙に母が、
「話を聞きにいってきたら」
と強く言う。もっともわたしだって無駄に福島に来て、
「実家で飯を食って帰りました」
という訳にはいかないので、重い腰をあげることにした。
 ナビに入れた運動公園のそばに、ごつごつとした砂利が敷かれている一区画があった。 地面を這うようにして、ホームセンターで売られている物置のような建物が並んでいる。ここだって線量は低くないというのに。
 仮設住宅の手前には、不用意に立ち入るなという意味合いを持たせているのか、樹木のあいだを結ぶ赤いロープ。
 これを見るだけで、プレッシャーを感じた。
 しかしここまで来たからには致し方ない。行くしかない。
 仮設住宅を歩いて、洗濯物が干してある家をアポなしでノックして回った。
「こんにちは」
 引き戸が開いて、中の住人から訝しそうな視線が送られる。
「お忙しいところ恐れ入ります。わたくしライターの山崎マキコと申しますが、少しお話を伺わせていただきたくて」
 すると即座に断られた。
「すいませんが、ちょっと」
 引き戸はすぐに閉められた。
 なんとなく、これは予想していたようにも思う。だから余分に気が重かった。
 方法を変えることにした。
 他県に行くと福島の人間は邪険にされるという噂が、県内ではもっぱらまことしやかに囁かれていた。事実かどうかはわからない。福島ナンバーで他県で外食をしようとしたら、入店を断られて食事券を貰ったと、妙に具体的な話なので、まったくそうでないとは言い切れない。要するに、よそ者に用心深くなっているのだ。
 別の仮設住宅の引き戸をノックする。出てきた住人に問いかける。
「あの、新白河駅近くの西郷村から来た者です。双葉か大熊から避難してきた方を探しているんですが」
「ああ、西郷ね。ちょっと待ってね」
 これでやっと門前払いはなくなった。
 まるっきりの嘘ではない。 確かにわたしは、今日「西郷村」からやってきたんだから。
 この仮設住宅のなかには、原発の所在地である双葉町や大熊町の住人だけではないのだ。県内に広範囲に地震や津波の被災地があるので、避難民が混在しているのである。
 しかし双葉町から避難してきたといってインタビューを申し出ると、
「うちは確かに双葉だけれど、あっちに大熊の人が」
などとたらいまわし状態になった。
 やがて気づいた。これはもう、立ち話レベルしか不可能であると。わたしがNHKなら別だろうが、わたしは単に「怪しいライター」に過ぎない。
 仮設住宅の外に出てきた老人がいた。
 あとで話を聞いたところ、八十代に入っているとのことだったが足腰が若い。老人はタバコに火をつけた。
「すいません、西郷村から来た者です。双葉、大熊から避難してきた人を探しているんですが、タバコをご一緒させて いだけませんか?」
 ようやく仮設住宅で朗らかな笑みを見た。
「おお、アンタ吸うのかい? 吸うよな。口元を見れば解る」
 たしかにわたしはヘビースモーカーだが、ホワイトニングが必要なほど歳月をかけて吸ってない。 なにせ喫煙デビューが三十路後半という阿呆である。本当はわたしの歯は黄歯症といって、幼い頃に抗生剤を大量投与された後遺症なんだが、まあ、ヤニ歯だと思われるのはいいということで。
 だからこれはオフィシャルな取材ではない。
 あくまで、仮設住宅の軒先で聞いた立ち話である。
「どちらから避難していらっしゃったんですか?」
「浪江町よ」
 近い。
 双葉郡だ。
 福島第一原発は、太平洋沿岸に位置して、東京寄りに大熊町、そして仙台よりに双葉町とまたがっていて、その仙台よりの隣町が浪江町である。
「ああ、浪江町ですか!」
「知ってるの、浪江」
「ええ、子供の頃に父に連れられて相馬に釣りに行くときによく通りました。今回は津波で被災されたんですか?」
 ここは、嘘ではない。事実である。
「津波と原発と両方よ」
「あれっ、浪江町って福島第一原発からの距離ってどれぐらいでしたっけ?」
「俺んところは6キロぐらいだなあ。仕事から帰ってきて昼飯食ってたんだよ、そこに11日の地震があってよう」
「お仕事は何を?」
「俺は漁師だから。メバル、アイナメ、ヒラメとか、その日も2万なんぼか水揚げがあって、よかったねえって母ちゃんが言ってて、メシ食ってたらグラグラッて。もう、床に這ってるしかなくてよ」
 マグニチュード9というのには、東電が賠償責任を逃れるために捏造された数字だという説もあるが、それなり激震ではあったのだろう。
 なにせ漁師の足腰である。揺れる船の上が彼らの職場だ。
 それと同時に、見た目に反して、妙に足腰が若い老人であるのに納得する。
「そのあとにすぐに津波警報よ。着の身着のまま近所の人が出してくれた車に飛び乗ってよ。逃げた。逃げ遅れた人は、半数ぐらいが俺の集落では死んだな」
「船は無事でしたか?」
「そんなの、山の上よ。浪江は100ぐらい漁船があったけど、ひとつも残ってねえだろうな。家はぶっ潰れるわ、船は山にあがるわで、その夜は浪江サンシャインでしょんぼりしてたんだわ」
 浪江サンシャインというのは、後で調べたところ、浪江町の役所の側にある「サンシャイン浪江」という体育館だった。原発からの距離は、およそ10Km。
「そしたら12日の3時だったな」
と、老人ははっきりと時刻まで告げた。
 現場を体験した人の記憶力の明瞭さに驚いた。わたしは実は、ここらへんの記憶があいまいなので、あとで確認をとって、時刻がほぼ正確なのに驚いたのだ。
「2回、爆発の音が響いたのよ。ドガーン、ドガーンって、2回。腹の底に響くような音がした」
 現場の証人に出会って、ため息をつきながら認めた。
 2回。1回ではなく、2回だ。大きく意味が異なる。
 それにしても激しい爆発だ。10キロ先まで響くとは。
「それから1時間後だったな。役所がバスを出して逃げることになった。でも六号線はあちこち寸断されててガタガタだしよ、道は車で溢れていて全然動かないわでよ」
 6号線というのは、仙台方面から福島県の浜通りを経由して首都圏へと至る幹線道路である。浜通りの大動脈だ。そこが避難民で溢れた、ということか。


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山崎マキコ自画像
山崎マキコ
1967年福島県生まれ。明治大学在学中、『健康ソフトハウス物語』でライターデビュー。パソコン雑誌を中心に活躍する。小説は別冊文藝春秋に連載された『ためらいもイエス』のほか、『マリモ』『さよなら、スナフキン』『声だけが耳に残る』。笑いと涙を誘うマキコ節には誰もがやみつきになる。『日本の論点』創刊時、「パソコンのプロ」として索引の作成を担当していた。その当時の編集部の様子はエッセイ集『恋愛音痴』に活写されている。
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