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正直に言うと、わたしは浜通りに来るのが本当に怖かった。
浜通りの現在の線量は、中通りより低いのだろう。これは県の発表を信じていいと思う。だが、原発事故はまったく収束していないし、初期の段階で多くの人とともにおそらくはわたしも栃木県小山市にいて被曝したとはいえ、いまも放射性物質をミスト状にして放出している原発がそばにあるということは、それだけで心理的な圧迫感を伴う。
ご飯の心配をしている場合じゃないと思うんだけどなあ。
しかし、とにかく母に食事はさせないとならない。割烹の駐車場に停車。
すると若い板前さんが、ランチ営業中だった。
土木関係者みたいな人たちが食事をしている。
この段階までは、軽く倒壊した家屋を見かけるだけで、特に異変なし、という感じである。
カウンター席に座って、中通りから来ましたというと板前さんが歓迎してくれた。
「この店の200m手前まで津波が来たんですよね」
まずいぞ、こっから瓦礫三昧なのか? 行けるのか、久之浜?
福島は宮城と違って、瓦礫の処理が進んでいないという話が頭を過ぎった。不安が増大する。
ここからの板前さんの話が凄かった。
「このあたりも、一時、40歳以下にヨードが配られたんですよね」
生の声を聞くというのは、それだけで怖いものがある。
ヨードを配るような事態……それはそうだ。レベル7で、しかも、4基一度に、である。食欲がうせる。
「自分も一時的に東京の妹のところに避難したんですけど。妹も結婚していて家族がいるし。5日ほどで店の営業のために戻ってきました」
質問を振る。
「いま、福島の水揚げってどうなってるんですか?」
「全面禁止になってます」
「仕入れはどうしてるんですか?」
「もともと築地から送ってもらったりもしてましたし。小名浜だけに頼っていたわけじゃないですからね」
実は、小名浜名物「メヒカリのから揚げ」というのがランチメニューにあったんだけど(売り上げの一部を寄付金にまわすということだった)、わたしはスルーして、母に松花堂弁当を進め、「このあたりではマグロの水揚げはなかったはずだ」と思い、 自分はチラシ寿司にしたという経緯があった。
しかしよくよく見てみたら、メヒカリは愛知からの水揚げのものだった。
そうか、全面禁漁かあ。政府も少しはまとも……いや待て、「ダイバー漂流230km」は(そういう事故があった)、確か3日で230km流されたはず。これからは全面的に魚を食うなという中部大学の武田先生の言うことがやっぱり正しいように思える。
さて食事を終えて。津波の被害を目にするのを覚悟しつつ、まず小名浜港に向かう。
しかし、わたしの実感を言えば「壊滅的」に見えるような被害はなかった。瓦礫はすでに道路からは撤去され、道も復旧していた。
船も、使えそうなものがきちんと残っていた。
屋根の上に船が乗っているという光景もない。
これ、津波の被害だけだったら、小名浜は復興できたんじゃないの?
それがわたしの率直な感想である。
すいません、本職が漁業関係者じゃないので、現実は直接その仕事に関わってる人に伺ってみないことには解りませんが。インタビューしようにも、港に人影はなかったですし。
ここから「久之浜町」に向かう。
ナビで「久之浜町」と入れると、「久之浜町」もそれなりに広いことが解った。「久之浜町久之浜」というのが沿岸部であるのが解ったので、とりあえずそこを目指して走り出した。
すると途中から、母が騒ぎ出した。
「マキコ! 家があきらかに津波で倒壊してるわ!」
しかしわたしはそれどころではなくなっていた。
母のギャーギャー騒ぐ声を聞いているだけで、風景など目にする余裕はない。
というのも、周囲を走ってる車の運転が「気が狂ってる」としか言いようがないんである。
「えっ、この状況で右折? 勘弁してよ!」
などと内心絶叫。 つねに「高いメモリ使用率」状態。
栃木の運転って地方にありがちに荒くて、一般道なのに「時速100km」を出さないと流れに乗れないバイパスもあった。また、たまに行く都内でも、夜に首都高を走っていると、飛ばす車はいた。でも、そういう人たちって普通にテクニックがあるから、こちらは「抜かすなら抜かして下さい」とお任せしてればよかった。
しかしここは違う。あきらかに、常軌を逸している。
わたしが状況判断をしないと、母を巻き添えにして死なせてしまう。
母は車窓の風景にパニックになってるけど、わたしはハンドルキープしてるだけで本当に精一杯だった。
すると途中で気づいた。
あ! 信号が、ついてない。
消えたままだ。ああ、全部、消えている。
完全に統制のなくなった道を、相手の呼吸を読みながら走る。
ようやく目的地付近に到着した。たぶんわたしは、青ざめていたと思う。しかし、本当の目的地には、「立ち入り禁止」という意味なのだろう、コーンがひとつ立っているだけで 道がふさがれていて、行けない。
手前の住宅街の駐車場に、勝手に駐車する。
久之浜町は、確かに、津波の被害は受けていた。住宅が「転んで」いる。瓦屋根のほうが下になって、土台のほうが上に来たり、している。人の気配は、すでにない。避難所などに居るのだろう。
母は怯えていて、「怖い、怖い」と言い出した。
被災地をデジカメで撮影するのは気がとがめたが、ここは勘弁してもらうしかない。使い道もない個人的記憶のメモのために、母の「怖い」連発を無視してデジカメで風景を収めつづけたが、やはりここでの感想もまた、
「いや、これなら宮城や岩手のほうが津波の被害としては酷い。報道される写真で見る限りだけれども」
というのが実感だった。
気になったのは、なぜかビニールに包まれたまま放置された衣類などが瓦礫のあいまにおきざりにされていること。
「このビニール、なんだろう?」
これは長く疑問に残った。いまなお、解らない。とにかく、あちこちに、「ビニールに包まれたままの衣類」が放置されているのである。
ほとんど人の気配のない浜辺の町を、パワーシャベルを扱う作業員が瓦礫撤去の作業を続けている。
すると浜辺に、釣りをしてる五十代ぐらいの男性を見つけた。
驚いた。
さすがにキャッチ&リリースだろうと思われたが、あるいは別に目的があってのことかなとも考え、 声をかけようと倒壊しかけた住宅のあいまを歩いていると、母に腕を強く引かれた。
「帰るわよ、マキコ! 危ないわ」
母というのは本当に困り者である。
わたしは今回、福島に来るのを、母の意向も汲んで決めたという経緯がある。福島だけどうして見捨てられるのだと、電話口で泣いていたから。怖いというなら、現時点で福島第一原発の80km圏内に留まるほうがよほどわたしには怖いと思うし、おそらく、全国の大半の人もそう感じると思う。だが、そういう場所に娘を迎えて喜んでいるのは母なのだ。
津波の被害は、確かに見て解りやすい。だが、わたしは原発のほうが、もっと怖い。なぜ解らないかなあ?
しかし仕方がないので、車を停めた場所まで引き返す。
疑問はなかなか解けない。
それにしてもなぜ、あの場所に枢機卿が?
中通りに戻ると、地震で大きな被害を受けた店舗が解体中だった。
助手席に乗っている母に、思わずつぶやいた。
「なんだかこの店、津波の被害に遭ったみたいだね」
すると母は、建築関係が本業なので、声を荒げた。
「酷いでしょう? このやり方、どう見ても素人なのよ。本来だったらまず建具を外して、屋根を外して、外壁を外していって、それから骨組みにかかるのが本当なの。それなのに滅茶苦茶だわ。おそろしい。どうしてバックホーだけでぶち壊しているだけなのかしら」
なんだか荒れている、全体的に。
実家に戻ってから調べた。
久之浜町の正確な位置を、である。
ずいぶんと宮城寄りに北上した感じがあった。
そして、ようやく意味を理解した。
久之浜町は、福島第一原発から31km地点だった。
どうりでみんな、狂ったような運転をするわけである。
解らないよなあ、残された人間には。
どうして30kmと31kmの違いがあるのか。
政府が国民の安全性を十分に考えて、ある程度の余裕を持たせた避難指示範囲を設定してくれてるなら納得もいくだろう。だが、あまりそうとは言えないようにわたしは感じる。そして漁業で食べていた町なのに、その漁業まで禁じられて身動きできなく取り残されたら、それは荒れる。どうやって食べていけばいいというのだ。まだ、被災地には寄付金すらも分配されていない。
薄々感じていたこと、「福島は国に“棄民”されたのではないか?」という思いが、ますます強まった。
後日、わたしのつけていた初心者マークが後方だけ、悪戯されて消えていた(そう、お忘れだと思いますが、わたしは去年の七月に免許を取ったばかりの初心者です)。こんなことをされたのは初めてだった。
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