福井県は7日、来年度政府予算の概算要求に向けた重点要望を発表した。原発は国民生活に不可欠として、将来のエネルギー政策見直しに当たって、引き続き重要な電源と明確に位置付けることを求めた。電力供給地の負担を配慮し、地域振興のための交付金や補助金制度も充実させるよう強く要望した。
要望書の冒頭で、西川一誠知事は「エネルギー政策に貢献し、日本経済を支えてきた立地地域の活力を、国の責任で維持することが必要だ」と強調した。
原発の長期停止が保守点検や修繕工事業者をはじめ、小売業やサービス業に影響を及ぼしているとして経済、雇用対策を要求した。
もちろん福井にも反対派はいるのでしょうけれど、県として上記のような要望を出していることは注目に値しますね。関西広域連合の知事があれこれと原発再稼働に難癖を付けてきたときも福井の知事は苛立ちを露わにしていたわけで、正真正銘の立地自治体の方が、その外部に位置する自治体よりも原発に理解があると言うことは示唆に富んでいるようにも思います。結局、都会の人間にとって原発とは悪の大魔王のような存在であり、しかるに立地自治体にとっては向き合うべき現実である、その差がファンタジー溢れる反原発論の浸透度合いの違いにも繋がっているのかも知れません。とりあえず原発に反対のポーズを取ってみる政治家が目立つ一方で、立地自治体では都市部の新聞から「原発推進派」とレッテルを貼られた候補の当選も相次ぐわけです。立地自治体からすれば、遠く離れた場所で勝手に肥大化した妄想まみれの脱原発論など取り合う気にもなれない人が多いのではないでしょうか。
莫大な補助金と優遇措置で企業を誘致しておきながら、毟り取られるばかりで早期に撤退されて後には何も残らない、みたいなケースも相次ぐ中で確実にお金を落としてくれる原発/電力会社は悪くないパートナーに見えなくもないのですけれど、近年の日本では「(金銭で)対価を払う」という行為が随分と卑しいモノと扱われているフシもあります。原発事故があって、そのリスクが高めに見積もられるようになったならば当然のこととして対価=交付金の増額を要求するのは筋が通っているように思いますが、どうも世間の反応は違うようです。やれ、交付金などなくしてしまえ、やれ札束で頬をひっぱたくやり方だ、やれ金のために命を蔑ろにしているだの、ともあれ立地自治体の判断を、大半はその外にいるであろう人々は否定的に扱いがちです。
加えて自己責任の時代ですから、「自給自足」「自分のことは自分で」的なものが「あるべき姿」として当然視され、その裏側として「持ちつ持たれつ」とか「お互い様」的な感覚はネガティヴに捉えられがちなのかも知れません。原発を引き受けてもらい、その対価を払う、原発を引き受け、その対価を受け取るという「取引」は道徳によって断罪される運命なのでしょう。そして地産地消みたいな実現可能性0のマジックワードが飛び交うわけです。私であれば公正な対価が支払われているかどうかを気にするところですけれど、世間の流行は専ら分業そのものの否定であり、他人(他県、他国)との協力よりも自己完結することの方に満足感を覚えるのが主流のようです。
金銭的な「対価」の支払いをネガティヴに捉える人は少なくありませんが、ではどうすればいいのでしょうか。金のある人(あるいは国、地方)が金を出すのは立派な貢献に思えるのですけれど、これを卑しみ道徳的に断罪する空気は、湾岸戦争の時に大いに盛り上がった物でもあります。専ら資金面での協力に終始した日本の姿を恥じ、金ではなく人を出すべきだ、対価を払うのではなく、自ら参加すべきなのだと、そうした主張の帰結として自衛隊の海外派遣などもあるわけです。日本的な道徳論としては、そういうものなのかも知れません。交付金の扱いも、決して例外ではなさそうです。「先立つもの」での協力は「悪」であり、もっと別の道徳的に正しいものが求められるのでしょう。ただそれが自治体の必要としているものかと言えば、首を傾げるところです。
どのみち風力や太陽光などの不安定発電では原発の代わりにはならない、かといって化石燃料を際限なく燃やし続けるわけにも行かない中では、少なくとも向こう数十年にわたって原発は必要であり続けるわけです。もうちょっと既存原発を抱える立地自治体への敬意と協力があっても良さそうなものですが、原発を「悪」として糾弾することにばかり躍起になっている人にはどうでもいいことなのでしょうか。ともあれ、原発に限らず「好む人は少ないが、誰かがやらなければいけない」役割や仕事は色々とあります(各種当直勤務など深夜労働然り、肉体的あるいは精神的にキツイ仕事、汚れる仕事――満足に水も使えなかった避難所でのトイレ掃除など非常に大変だったそうで――等々)。しかるに原発や放射線、被曝というものがあまりにも特別視され、それだけが人間にとってのリスクであるかのような誤謬や偏見を基盤とした上で極論が振り回されているのが現状と言えます。
ところが現実には、原発に起因するレベルの被曝とは比べものにならないリスクが渦巻いているわけです。でも、それが見えなくなっている、目を背けている人も多いのかも知れません。宇宙飛行士みたいに原発作業員よりも格段に被曝量の多い正真正銘の被曝労働もあれば、林業のように労務災害で死ぬ人が続出する危険極まりない仕事もあります。あるいは過労死や鬱病になって自殺するまで追い込まれる超長時間労働が一般化している業界も少なくありません(率直に言えば原発作業員の方がまだしも、林業や飲食の店長業務に比べればマトモに扱われている、安全面で配慮されていると思います)。そうでなくとも人間は放射線量とは無関係に病気になったり事故に遭ったりするものです。あるいは傷害や疾病を抱えていたりすると健常者の言う「過剰な便利さ」が実は生きていくのに必須のものだったりもしますし、一昨年に失業して「平日昼間の仕事」を探すだけでも一苦労だった自分にとって、節電のために操業時間を土日や深夜にシフトさせる動きはまさに身に迫る危機でした。放射線のことばかりを心配している人は、要するに他のことは心配しないでいられる、無縁もしくは無自覚でいられる「お幸せな」人なんだろうなと。
とりわけ蔑ろにされがちなのが、経済面でのリスクですね。貧困はまさに人間を不幸にするもの、しばしば健康格差にまで繋がる因子でもあります。にも関わらず、金がなくても愛があれば、と貧困への想像力が根底から欠落している人は軽々しく口にします。国際会議の場で新興国や発展途上国に向けて「GDPに代わる豊かさの物差し」と称して「幸福度」を押しつけようとするくらい無神経な日本という国柄を反映してのことでもあるでしょうか。ゆえに経済的な利益を求める行動が「道徳的」に断罪されがち、ワタミの社長よろしく「金のためではなく幸せのため」みたいに宣う人も幅を利かせるわけです。どうあっても産業は都心部に集中しがちな中で、地方に金と雇用を引っ張ってこようとする努力を首都圏の人間が「金より大事なものがあるでしょ」と上から目線で説教している、原発立地自治体と「外」の住民の反応は、そういう構図を思わせます。
こういった行為は脱原発を進めるために本来必要であるはずの長期的なプランを考えることの放棄につながり、最終的には運動そのものを破滅に導くだけでしょうが。
貧困問題とかにも色々と言及していて、その辺に心を砕いている「つもり」の人でも、原発がらみだと色々と怪しいことを言い出していたりするんですよね。それでも弱者切り捨てではないと強弁するために「電力は足りている」云々と陰謀論が出てきて、それでは「世界」より「世界観」を守ることの方に主眼が移っていると私なんかは説いてきたわけですが、まぁ陰謀論に傾倒する人は常に頑固です。そうして先鋭化すればするほど世間からは孤立していくのでしょうけれど、世間の「無理解」をも陰謀論で解釈してしまうことで、ますますもって深みにはまっていくと……
結局、起こったことには取り返しが付かない場合が多くて、どこかで「折り合い」を付けなければいけない、そういう場合は金銭的な補償や賠償で手打ちにするしかないのでしょうけれど、これを道徳的に断罪する人が多いわけですね。代わりに、「誰が悪いか」を争い、それを糾弾することを以て是とするみたいな発想が幅を利かせていると言えます。霞を食べて生きている人なら、それでもいいのでしょうけれど!