国家の第一は民主主義である。美しさとか品格はまやかしの国家論である。新聞に掲載されている論文を中心に批判する。
品格より民主そして自由
沖縄教販の本の審査は来週の火曜日
本ができたからといって
すぐに書店に並ぶわけではない。
本の取り次ぎ店(卸や)に依頼しなければならない。
沖縄教販にお願いしようと思い電話をした。
依頼すればすぐにOKが出ると思っていたら、
そうではなかった。
本の審査会があり、審査会で了承されないと、
取り扱うことができないらしい。
淡々とした担当者の声に、
出版社に自費出版を断られたことが
想いだされ、
不安になる。
さっそく、メール便で本を送った。
二日後に、
来週の火曜日に審査会があるので、
私の本を取り扱うどうかを審査すると、
電話があった。
担当者の淡々とした話に、
不安をおぼえる。
断られるかも知れないという
思いが次第に強くなっていく。
自費出版を断られたことが
トラウマになっているようだ。
沖縄教販に断られたらどうしよう。
いしだ文栄堂に依頼するか。
それとも
沖縄トーハンに依頼するか
それとも
取り次ぎ店に依頼するのはあきらめて
ジュンク堂や
宮脇書店と
直接交渉をしようか
などと考えている。
大した本でもないのに、
出版会社は
どうして自費出版を断ったのだろう。
今でも信じられない。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」を当分の間は、狼魔人日記の江崎さんがネット販売をしてくれることになりました。申し込みはメールでやってください。
ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
すぐに書店に並ぶわけではない。
本の取り次ぎ店(卸や)に依頼しなければならない。
沖縄教販にお願いしようと思い電話をした。
依頼すればすぐにOKが出ると思っていたら、
そうではなかった。
本の審査会があり、審査会で了承されないと、
取り扱うことができないらしい。
淡々とした担当者の声に、
出版社に自費出版を断られたことが
想いだされ、
不安になる。
さっそく、メール便で本を送った。
二日後に、
来週の火曜日に審査会があるので、
私の本を取り扱うどうかを審査すると、
電話があった。
担当者の淡々とした話に、
不安をおぼえる。
断られるかも知れないという
思いが次第に強くなっていく。
自費出版を断られたことが
トラウマになっているようだ。
沖縄教販に断られたらどうしよう。
いしだ文栄堂に依頼するか。
それとも
沖縄トーハンに依頼するか
それとも
取り次ぎ店に依頼するのはあきらめて
ジュンク堂や
宮脇書店と
直接交渉をしようか
などと考えている。
大した本でもないのに、
出版会社は
どうして自費出版を断ったのだろう。
今でも信じられない。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」を当分の間は、狼魔人日記の江崎さんがネット販売をしてくれることになりました。申し込みはメールでやってください。
ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
八重山教科書裁判には裏がある
8月1日に行われた八重山教科書問題の裁判の経過について、
狼魔人日記が詳しく書いている。
この裁判は非常に奇妙な裁判である。訴える相手は本来は文科省であるのに、
妙な理屈をつけて石垣市と与那国町の教育長を訴えている。
私の「沖縄に内なる民主主義はあるか」で
八重山教科書問題について詳しく追及しているが、
石垣市と与那国町が育鵬社の教科書を採択したのに落ち度は全然ないし
教育長の行動にも全然落ち度がない
。この裁判は100%原告が負ける。
それなのに裁判をしているのである。
政治集団なら100%負ける裁判でも
思想信条の理由で裁判を起こすのは理解できるが、
この裁判は生徒とその両親である。
つまり一般家庭の人が原告なのだ。
裁判には多額な弁護士料が必要である。
100%負ける可能性が高い裁判を一般家庭がやるのはありえない。
この裁判には裏がある。
この裁判はとてもややこしい内容であり、
一般の人では絶対に思いつかない訴えかたある。
私もうまく説明はできない。
裁判について説明すると、
石垣市と与那国町の小学生または中学生がいずれ中学三年生になるが、
中学三年生の公民を育鵬社にしたのは9月8日の全員協議の決定に違反している。
石垣市と与那国町は東京書籍にするべきであるのにしていないということで
石垣市と与那国町の教育長を訴えている。
しかしだ。8月23日の八重山地区採択協議の採択を有効とし
9月8日の全委員協議の決定を無効と判断して
育鵬社の教科書を無償給付することに
最終的に決定したのは文科省なのだ。
石垣市や与那国町の教育長には無償給付する決定権はない。
それにこの問題は国が無償給付する教科書を決めたことであり、
中学で使用する教科書を決めたわけではない。
ここが八重山教科書問題を知らない人にはややこしい。
八重山地区に国が無償給付する教科書を決めるのが八重山地区採択協議会である。
しかし、八重山地区採択協議会は各市町が使用する教科書を決める組織ではない。
だから、八重山地区採択協議会で決めた教科書を強制することばできない。
しかし、八重山地区採択協議会で決めた教科書以外の教科書は有償となる。
各市町の中学で使用する教科書を決めるのは各市町の教育委員会である。
だから、八重山地区採択協議会や9月8日全委員協議は国が無償給付する教科書を決める会議であって、
二つの会議がどんな教科書を決めようが、
それには束縛されないで
各市町の教育委員会は使用する教科書を決めることができる。
使用する教科書を決めるのは無償措置法ではなく地方教育行政法によるからだ。
つまり、9月8日の全委員協議が東京書籍を採択したことが有効だとしても
石垣市の教育委員会が育鵬社の教科書を採択したことになんの問題もないのだ。
八重山採択地区協議会が有効であるなら育鵬社の教科書が無償給付され、
9月8日の全委員協議が有効なら東京書籍の教科書が無償給付されるだけなのだ。
文科省は八重山地区採択協議会の採択を有効だと判断し、
育鵬社の教科書を無償給付した。
地方教育行政法と無償措置法を正確に読めばわかることだが、
八重山教科書問題で裁判に訴えるとしたら無償給付を決断した文科省しか訴えることができない。
ところが法律の専門家しか考え出すことができないようなややこしい理由をつけて
無理やり石垣市と与那国町の教育長を訴えたのだ。
はっきりいって、
これは政治的意図による裁判だ。
裁判の原告人が自費で裁判を起こしたとは考えられない。
万が一原告が裁判に勝っても
東京書籍の教科書が使用されるだけで原告に賠償金が入るような裁判ではない。
こんな裁判を一般家庭の人がやるはずがない。
東京書籍の教科書も育鵬社の教科書も国の検定を合格している。
一般の人が国の検定を合格した教科書に駄目を出すのはありえないことだ。
育鵬社の教科書を嫌う政治団体が仕掛けた裁判であるのは見え見えだ。
この裁判の目的は裁判に勝つことではなく、裁判の報告会などといって市民集会を開き、自分たちの政治思想を広めていくのが目的だ。
裁判に負けても
市民集会に集まった人たちをオルグして組織拡大をしていけば
十分元が取れるという戦術である。
ある政治集団が得意とする戦術である。
狼魔人日記が詳しく書いている。
この裁判は非常に奇妙な裁判である。訴える相手は本来は文科省であるのに、
妙な理屈をつけて石垣市と与那国町の教育長を訴えている。
私の「沖縄に内なる民主主義はあるか」で
八重山教科書問題について詳しく追及しているが、
石垣市と与那国町が育鵬社の教科書を採択したのに落ち度は全然ないし
教育長の行動にも全然落ち度がない
。この裁判は100%原告が負ける。
それなのに裁判をしているのである。
政治集団なら100%負ける裁判でも
思想信条の理由で裁判を起こすのは理解できるが、
この裁判は生徒とその両親である。
つまり一般家庭の人が原告なのだ。
裁判には多額な弁護士料が必要である。
100%負ける可能性が高い裁判を一般家庭がやるのはありえない。
この裁判には裏がある。
この裁判はとてもややこしい内容であり、
一般の人では絶対に思いつかない訴えかたある。
私もうまく説明はできない。
裁判について説明すると、
石垣市と与那国町の小学生または中学生がいずれ中学三年生になるが、
中学三年生の公民を育鵬社にしたのは9月8日の全員協議の決定に違反している。
石垣市と与那国町は東京書籍にするべきであるのにしていないということで
石垣市と与那国町の教育長を訴えている。
しかしだ。8月23日の八重山地区採択協議の採択を有効とし
9月8日の全委員協議の決定を無効と判断して
育鵬社の教科書を無償給付することに
最終的に決定したのは文科省なのだ。
石垣市や与那国町の教育長には無償給付する決定権はない。
それにこの問題は国が無償給付する教科書を決めたことであり、
中学で使用する教科書を決めたわけではない。
ここが八重山教科書問題を知らない人にはややこしい。
八重山地区に国が無償給付する教科書を決めるのが八重山地区採択協議会である。
しかし、八重山地区採択協議会は各市町が使用する教科書を決める組織ではない。
だから、八重山地区採択協議会で決めた教科書を強制することばできない。
しかし、八重山地区採択協議会で決めた教科書以外の教科書は有償となる。
各市町の中学で使用する教科書を決めるのは各市町の教育委員会である。
だから、八重山地区採択協議会や9月8日全委員協議は国が無償給付する教科書を決める会議であって、
二つの会議がどんな教科書を決めようが、
それには束縛されないで
各市町の教育委員会は使用する教科書を決めることができる。
使用する教科書を決めるのは無償措置法ではなく地方教育行政法によるからだ。
つまり、9月8日の全委員協議が東京書籍を採択したことが有効だとしても
石垣市の教育委員会が育鵬社の教科書を採択したことになんの問題もないのだ。
八重山採択地区協議会が有効であるなら育鵬社の教科書が無償給付され、
9月8日の全委員協議が有効なら東京書籍の教科書が無償給付されるだけなのだ。
文科省は八重山地区採択協議会の採択を有効だと判断し、
育鵬社の教科書を無償給付した。
地方教育行政法と無償措置法を正確に読めばわかることだが、
八重山教科書問題で裁判に訴えるとしたら無償給付を決断した文科省しか訴えることができない。
ところが法律の専門家しか考え出すことができないようなややこしい理由をつけて
無理やり石垣市と与那国町の教育長を訴えたのだ。
はっきりいって、
これは政治的意図による裁判だ。
裁判の原告人が自費で裁判を起こしたとは考えられない。
万が一原告が裁判に勝っても
東京書籍の教科書が使用されるだけで原告に賠償金が入るような裁判ではない。
こんな裁判を一般家庭の人がやるはずがない。
東京書籍の教科書も育鵬社の教科書も国の検定を合格している。
一般の人が国の検定を合格した教科書に駄目を出すのはありえないことだ。
育鵬社の教科書を嫌う政治団体が仕掛けた裁判であるのは見え見えだ。
この裁判の目的は裁判に勝つことではなく、裁判の報告会などといって市民集会を開き、自分たちの政治思想を広めていくのが目的だ。
裁判に負けても
市民集会に集まった人たちをオルグして組織拡大をしていけば
十分元が取れるという戦術である。
ある政治集団が得意とする戦術である。
伊波氏の責任転嫁の理屈
伊波洋一前宜野湾市長の意見が新聞に掲載された。
「アメリカはすべての米軍飛行場に土地利用が禁止されているクリアゾーンを義務付けている。
ところが普天間飛行場では危険なクリアゾーンが施設外にはみ出し、
普天間第二小学校などの約3600人が住む約800戸の住居にまで及んでいた」
と、伊波氏はアメリカ軍はアメリカが義務づけているクリアゾーン設定を
普天間飛行場では違反していると指摘している。
伊波氏の口調では
米軍が違反しているように見えるが、
それはとてもおかしい理屈である。
1969年に普天間第二小学校を創立したが、
普天間第二小学校を
普天間飛行場金網沿いにつくることを決めたのは
宜野湾市政である。
アメリカ政府でもなければ
米軍でもない。
宜野湾市民が選んだ市長と議員が
普天間第二小学校を普天間飛行場の金網沿いにつくったのだ。
普天間飛行場は1945年につくった。
普天間飛行場ができた24年後に普天間第二小学校をつくった。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくれば騒音被害は当然起こる。
ヘリコプターが墜落する危険もある。
それを承知で宜野湾市は普天間第二小学校をつくったのだ。
普天間第二小学校の騒音被害は宜野湾市にあるのは明確である。
普天間飛行場のクリアゾーンを管轄しているのは
アメリカ政府ではない宜野湾市政だ。
クリアゾーンに人が住むのを許可する権限はアメリカ政府ではなく宜野湾市にある。
宜野湾市の権限でクリアゾーンに人を住まわしていながら、
クリアゾーンに人が住んでいるのをまるでアメリカに責任があるように
伊波氏は主張している。
こんなことを平然と述べるのだから伊波氏は厚顔無恥というしかない。
普天間飛行場のクリアゾーン問題ではっきりしているのは
アメリカはクリアゾーンを設定しているが、
宜野湾市は設定していないということだ。
宜野湾市政は普天間飛行場の騒音被害、墜落の危険を全然気にしないで
クリアゾーンに小学校をつくり住宅をつくったということだ。
クリアゾーンの責任は宜野湾市にある。
伊波氏がクリアゾーンに住んでいる人々の安全な場所への移転を要求するのなら、
アメリカ政府ではなく、
宜野湾市に要求するのが正しい要求である。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくったり、
クリアゾーンと呼ばれる危険地帯に3600人もの人を住まわしている宜野湾市には、
子供の人権、市民の生活の安全を守る思想が欠けているのだ。
普天間第二小学校の騒音被害、
ヘリコプターの墜落危険を
アピールしながらも安全な場所に移転しないのは、
普天間第二小学校を利用して
普天間飛行場の危険性をアピールし、
普天間飛行場を撤去させるのが目的だ。
社民党である伊波氏は反米主義に凝り固まった人間であって、
伊波氏には子供の人権や人々の安全を守る思想はない。
普天間第二小学校やクリアゾーンの騒音・危険性のアピールは
すべて米軍を撤去させるために利用しているだけだ。
「アメリカはすべての米軍飛行場に土地利用が禁止されているクリアゾーンを義務付けている。
ところが普天間飛行場では危険なクリアゾーンが施設外にはみ出し、
普天間第二小学校などの約3600人が住む約800戸の住居にまで及んでいた」
と、伊波氏はアメリカ軍はアメリカが義務づけているクリアゾーン設定を
普天間飛行場では違反していると指摘している。
伊波氏の口調では
米軍が違反しているように見えるが、
それはとてもおかしい理屈である。
1969年に普天間第二小学校を創立したが、
普天間第二小学校を
普天間飛行場金網沿いにつくることを決めたのは
宜野湾市政である。
アメリカ政府でもなければ
米軍でもない。
宜野湾市民が選んだ市長と議員が
普天間第二小学校を普天間飛行場の金網沿いにつくったのだ。
普天間飛行場は1945年につくった。
普天間飛行場ができた24年後に普天間第二小学校をつくった。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくれば騒音被害は当然起こる。
ヘリコプターが墜落する危険もある。
それを承知で宜野湾市は普天間第二小学校をつくったのだ。
普天間第二小学校の騒音被害は宜野湾市にあるのは明確である。
普天間飛行場のクリアゾーンを管轄しているのは
アメリカ政府ではない宜野湾市政だ。
クリアゾーンに人が住むのを許可する権限はアメリカ政府ではなく宜野湾市にある。
宜野湾市の権限でクリアゾーンに人を住まわしていながら、
クリアゾーンに人が住んでいるのをまるでアメリカに責任があるように
伊波氏は主張している。
こんなことを平然と述べるのだから伊波氏は厚顔無恥というしかない。
普天間飛行場のクリアゾーン問題ではっきりしているのは
アメリカはクリアゾーンを設定しているが、
宜野湾市は設定していないということだ。
宜野湾市政は普天間飛行場の騒音被害、墜落の危険を全然気にしないで
クリアゾーンに小学校をつくり住宅をつくったということだ。
クリアゾーンの責任は宜野湾市にある。
伊波氏がクリアゾーンに住んでいる人々の安全な場所への移転を要求するのなら、
アメリカ政府ではなく、
宜野湾市に要求するのが正しい要求である。
普天間飛行場の金網沿いに小学校をつくったり、
クリアゾーンと呼ばれる危険地帯に3600人もの人を住まわしている宜野湾市には、
子供の人権、市民の生活の安全を守る思想が欠けているのだ。
普天間第二小学校の騒音被害、
ヘリコプターの墜落危険を
アピールしながらも安全な場所に移転しないのは、
普天間第二小学校を利用して
普天間飛行場の危険性をアピールし、
普天間飛行場を撤去させるのが目的だ。
社民党である伊波氏は反米主義に凝り固まった人間であって、
伊波氏には子供の人権や人々の安全を守る思想はない。
普天間第二小学校やクリアゾーンの騒音・危険性のアピールは
すべて米軍を撤去させるために利用しているだけだ。
カマドゥー小たちはテロリスト
「カマドゥー小たちの集い」は宜野湾市に住む若い母親たちの集団である。政治集団ではなく市民集団だ。彼女たちが米軍普天間飛行場の早期返還、県外移設を求めて立ち上がった。毎年普天間基地に向かって抗議行動をしている。
彼女たちは母親である。子供もいるだろう。母親の立場から普天間基地に隣接する普天間第二小学校の子供たちの安全のためにも普天間基地撤去を訴えるのは理解できるが、普天間基地はアメリカ軍基地であり、アメリカ政府と日本政府のアジア軍事戦略として存在している。普天間基地は国家レベルの問題であり、子供の安全のための感情レベルの問題ではない。
子供の安全のために訴えることのできる行動は普天間基地撤去以外にもうひとつある。それは普天間第二小学校の移転を訴えることである。普天間第二小学校の移転の費用は30億円くらいである。政府もアメリカ軍も普天間第二小学校の移転には賛成であり、協力もする。しかし、過去にPTAから移転要求が出た時、保守系の市長は賛成だったが、革新系の議員が反対して実現しなかった。これは有名な話である。
「カマドゥー小たちの集い」は普天間基地の騒音、危険性を訴え、普天間基地撤去を主張するが、普天間第二小学校の移転については一言もない。母親、市民集団でありながら革新系の政治家と同じ主張である」
これは去年の8.14に私のブログに掲載した文章である。私は「カマドゥー小たちの集い」は宜野湾市に住む若い母親たちの集団であると信じていた。新聞にそのように書いてあったからだ。しかし、最後に「『カマドゥー小たちの集い』は普天間基地の騒音、危険性を訴え、普天間基地撤去を主張するが、普天間第二小学校の移転については一言もない。母親、市民集団でありながら革新系の政治家と同じ主張である」と書いてあるように、「カマドゥー小たちの集い」は大衆組織を装った政治集団ではないかと私は疑うようになった。私の疑いは間違っていなかった。「カマドゥー小たちの集い」は大衆組織を装った政治集団であったのだ。残念だがこれは事実のようだ。
狼魔人日記を読んで彼女たちが上げる風船はテロ行為であることがわかった。
国際大学の事務職員が凧揚げをした時に、どんどん糸を伸ばして凧を高くあげたら普天間飛行場から飛び立ったヘリコプターが凧を避けるように上昇したという。ヘリコプターは凧と衝突する危険を避けたのだ。
飛行機の一番危険な時は離着陸である。もし、ヘリコプターが飛び立とうとしている時に障害物が現れたら非常に危険である。障害物を避けようとして運転をあやまり墜落する可能性がある。
カマドゥたちの集いの風船上げは単なる風船上げではない。アトバルーン風船である。風船には糸がついている。普天間飛行場から飛び立ったヘリコプターと同じくらいの高さに大きな風船を上げるのだ。ヘリコプターにとってとても危険な障害物である。
彼女たちの風船上げはヘリコブターが墜落する可能性のある行為である。風船が多ければ多いほどヘリコプターが運転を誤って墜落する危険性は高い。
ヘリコプターが簡単に墜落することないと思うが、問題は「カマドゥー小たちの集い」の目的が普天間飛行場から飛び立ったヘリコプターを危険な状態することであることだ。これは尋常な抗議行動ではない。抗議行動を逸脱したテロ行為である。このような危険な行為を一般の主婦の集団がやるはずがない。カマドゥたちの集いが政治集団であるからやるのだ。
風船上げは普通の飛行場なら禁じられている。しかし、米軍基地だから特別に禁じられていない。この法の盲点をついた行為が風船上げである。
「普通の飛行場なら禁じられている」のだから風船あげがとても危険な行為であることに違いはない。カマドゥたちの集いの風船上げは、法律違反でないならなにをやってもいいという人間の倫理を失った行動である。
ネットからのコピーが法律違反ではないからどんどんコピーをしよう。法律で禁じられていない脱法ハーブだからどんどん吸おう、という考えと同じである。
カマドゥたちの集いの風船上げは強い政治思想による行為である。普天間飛行場は危険だから移設しろという大衆的な思想ではない。反米軍基地思想であり、反米主義である。彼女たちのリーダーは社民党員か共産党員であるだろう。
私は「沖縄に内なる民主主義あるか」で普天間第二小学校の移転を訴えた。普天間飛行場問題とは関係なく。普天間第二小学校は一日も移転するべきだ。移転できる場所もあるのだから。
本ができあがった
色々あったが、やっとのことで本が仕上がった。
なかなかかっこいい表紙だ。
しかし、書店にすぐ並ぶわけではない。
沖縄教販さんに本を送った。私の本を取り扱うかどうかは「審査」して決めるそうだ。
私としては大した内容の本とは思わないが、なにしろ三出版社に自費出版を断られた本だ。もしかすると取り扱ってくれないかもしれないという不安がないと言えば嘘になる。
オスプレイやら普天間飛行場やら辺野古やらで盛り上がっている最中にこの本が出る。タイムリーなのかそれとも反発を買うのか。楽しみだ。
書店にこの本が並んだら、徹底して沖縄問題を追及していくつもりだ。
よろしく。
大田氏は沖縄の貧困には目を向けない
再び「星の流れに」に話を戻す。沖縄の歴史を調べて驚くべき沖縄の貧困の事実を見つけたからだ。
18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、
困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、
多くの餓死者をだしていました。
農村がこのような自然環境の変化に大きく
左右されたのは過重な税負担と、
地方役人による不当な取り立てが原因でした。
その為、予測される災害にすら対応がままならず、
まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、
大量の餓死者をだしていったのです。
その上飢きんにみまわれた年でも、
農民の租税免除はその場限りで
、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
農村はますます貧しくなり、
借金のかたに土地を質入れしたり、
身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、
貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。
これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、
これと連動して、上納の責任単位である与(組)が
くずれてしまう与倒れの現象も起こりました。
身売り農民のひきうけもとは、
地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。
農村はしだいに、
ウェーキと
呼ばれる富農層と、
ヒンスーと
呼ばれる貧農層とに
二極分解していきました。
「ジュニア版琉球・沖縄史」
年貢 9000石
芭蕉布 3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ 3800枚
牛皮 200枚
薩摩藩に支配された琉球王府は以上の品々を薩摩藩に献納しなければならなかった。
その負担は琉球王府が負うのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。
薩摩藩への莫大な献納を負わされるのは搾取される農民である。
薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。
しかし、驚いたことに、
沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。
四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直後まで
沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が専門書ではなく
中・高校生用の本に載っている。
中・高校生用の本にだよ。
沖縄の知識人ならみんな知っていて当然と思うが、
ほとんどの沖縄の知識人は沖縄の貧困問題を知らないようだ。
琉球処分は悪いことだと主張するし、
米軍基地があるから沖縄の経済は発展しないなどと
おっしゃるくらいだら。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。
戦前の沖縄の人口は約60万人ほどで、
その7割が農民でした。
しかも、多くは零細農家で、
サトウキビを主作物とする農家をいとなんでいました。
廃藩置県後、
沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、
サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。
砂糖生産中心のこの生活形態は、
自然環境や経済変動の影響をうけやすく、
ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。
それが最悪の形であらわれたのが、
大正末期から昭和初期にかけておこった
ソテツ地獄でした。
沖縄の輸出品は、
砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、
その8割を砂糖が占めていたので、
国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。
国税の滞納額も、
1921(大正10)年以後は40%台を推移し、
銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。
それにおいうちをかけるように、
台風や旱ばつがおそい、
農村は文字どおりソテツを食べて、
飢えをしのばなければならない状態にまでおいつめられていきました。
多額の借金をかかえ、
生活がどうにも立ちゆかない農家では、
最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。
男性は漁業に従事する糸満へ、
女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。
また、海外移住や本土へ出稼ぎとして
沖縄を出ていく人びともふえていきました。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」
昭和の名曲「星の流れに」は、
戦争に翻弄され、
満州から引き揚げてきて、
敗戦後の荒廃した日本で
生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。
しかし、沖縄では
戦争に翻弄される以前から
「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。
戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。
いわゆる女性の辻売りと
男性の糸満売りである。
子供の頃、母親から聞いた話だが、
戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、
「糸満に売り飛ばすぞ」
と脅したそうだある。
すると子供は泣くのをぴたりとやめた。
糸満の漁師に売られた子供は漁師として鍛えられる。
泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。
溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。
もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。
糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。
まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが
糸満売りであった。
辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。
戦前の話なのだ。
私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、
その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、
彼は与那国出身で
糸満売りで沖縄にやってきたと話していた。
戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、
その原因は沖縄の貧しさであった。
大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。
昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが
沖縄では公然と人身売買が行われていたという。
「星の流れに」は日本の敗戦が原因であるが、
沖縄の場合は敗戦が貧困の原因ではなく
それ以前の沖縄の根本的な貧困問題があった。
最近、従軍慰安婦問題を取り上げて日本軍を非難しているが、
彼らは日本軍を非難するだけであり、
沖縄の貧困問題には触れない。
大田氏も同じように触れない。
大田氏は、昔の琉球は平和主義であり
「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、
とんでもないことである。
豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、
多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。
明治時代になり表面上は四民平等になったが
実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。
明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく
沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。
そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、
財産のある士族層が経済界も支配していた。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる
本土出身者と政府の手厚い保護でえた
不動産や資金をもとに、
貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社
などを経営した尚家が支配していた。
人口の70%以上を占めていた小作農民は
貧困生活を強いられていた。
沖縄を問題にすることは貧困生活を強いられていた70%の農民を
無視しては絶対にいけない。
ところが
大田氏は農民を無視しているのである。
沖縄の長い歴史の中で農民を含めた庶民が
人間らしい生活ができるようになったのは戦後である。
人間らしい人権や自由を得たのも戦後である。
戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていた。
多くの農民は搾取され貧困にあえいでいた。
土地のない農民は小作人となり低賃金で
本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。
戦後になり、
アメリカ民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。
士族階層の特権は剥奪され、
土地は小作人に分け与えられた。
そして、商売が誰でも自由にすることができた。
琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人がやりやすくした。
外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。
それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。
戦後の沖縄経済が活発になっていったのは
アメリカ民政府による市場開放の政治を行ったからである。
沖縄の革新政党やマスコミなどが
問題にするのは米軍基地があるゆえの事件・事故である。
アメリカ兵が犯罪を犯した時には米軍が裁判を行い無罪にしたことである。
アメリカ兵が加害者の時は米軍が裁判をする。
沖縄人が加害者の場合は沖縄が裁判するというのが沖縄の裁判だった。
だから、沖縄人が米軍基地内で犯罪を犯しても裁くのは沖縄の裁判所であった。
「戦果」と呼ばれる基地内の物を盗むのは横行していた。
私は「センカ」という意味は米軍基地から物を盗むことであると思っていたほど、
「戦果」は日常的に行われていた。
特にPXからタバコやかんづめなどはものすごい量であり、
米軍の物を横流しして財産を築いた人は多かった。
なぜあれほどまでに戦果が横行したかと言えば
沖縄の警察の取り締まりが弱かったからである。
暴力団などは警察を買収して、
堂々と「戦果」をやっていた。
沖縄人がアメリカ女性を暴行したり殺したりしても
検挙して取り調べるのは沖縄の警察であり、
判決を下すのは沖縄の裁判所であった。
有名なコザ騒動も捜査して検挙したのも沖縄の警察である。
アメリカの圧力は一切なかったと当時の検察官は話している。
このような事実を明らかにしないで、
まるでアメリカ兵に関係した事件・事故は
アメリカ側がすべて裁いたような印象を与えるのはおかしい。
もっと客観的な見方をするべきである。
世界一の経済大国であるアメリカは沖縄を占領したが、
アメリカは沖縄を搾取するのではなく、
多額の金を沖縄に流し入れ、
市場を自由にし沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の経済と戦後の経済を比較すれば
戦後の経済は
自由であり何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。
しかし、大田氏は戦前と戦後の経済を比較しない。
琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、生活状態を比較しない。
大田氏の「こんな沖縄にした」には沖縄の貧しき人々、虐げられた人々や庶民は登場しない。
沖縄の支配者たちが登場するだけである。
18世紀にはいると、台風や干ばつなど異常気象があいつぎ、
困窮した農村はそのたびに飢きんと疫病にみまわれ、
多くの餓死者をだしていました。
農村がこのような自然環境の変化に大きく
左右されたのは過重な税負担と、
地方役人による不当な取り立てが原因でした。
その為、予測される災害にすら対応がままならず、
まったくの無防備な状態で災害にみまわれるありさまでした。
こうした社会にはそれを回復させる余力など残っておらず、
大量の餓死者をだしていったのです。
その上飢きんにみまわれた年でも、
農民の租税免除はその場限りで
、ほとんどの農村が翌年にはようしゃなく年貢を取り立てられました。
農村はますます貧しくなり、
借金のかたに土地を質入れしたり、
身売りしたりする農民があとを絶ちませんでした。
身売りとは、年貢をおさめるために借り入れた米やお金を返せなくなった農民が、
貸主のもとで一定年限、下男下女としてつとめることです。
これによって家族が崩壊することを家内倒れといい、
これと連動して、上納の責任単位である与(組)が
くずれてしまう与倒れの現象も起こりました。
身売り農民のひきうけもとは、
地元の有力者か間切りや村役人などの特権階層でした。
農村はしだいに、
ウェーキと
呼ばれる富農層と、
ヒンスーと
呼ばれる貧農層とに
二極分解していきました。
「ジュニア版琉球・沖縄史」
年貢 9000石
芭蕉布 3000反
琉球上布 6000反
琉球下布 10000反
むしろ 3800枚
牛皮 200枚
薩摩藩に支配された琉球王府は以上の品々を薩摩藩に献納しなければならなかった。
その負担は琉球王府が負うのではない。琉球王府は支配者として贅沢三昧の生活をしていた。
薩摩藩への莫大な献納を負わされるのは搾取される農民である。
薩摩に支配された琉球の農民は重税に苦しんだ。
吉屋チルーのように遊郭に売られていく子供は後を絶たなかった。
しかし、驚いたことに、
沖縄の貧困は琉球王朝時代で終わらなかった。
四民平等になったはずの明治から昭和の戦争直後まで
沖縄の農民の貧困は変わらなかったのである。
その歴史的事実が専門書ではなく
中・高校生用の本に載っている。
中・高校生用の本にだよ。
沖縄の知識人ならみんな知っていて当然と思うが、
ほとんどの沖縄の知識人は沖縄の貧困問題を知らないようだ。
琉球処分は悪いことだと主張するし、
米軍基地があるから沖縄の経済は発展しないなどと
おっしゃるくらいだら。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」から引用する。
戦前の沖縄の人口は約60万人ほどで、
その7割が農民でした。
しかも、多くは零細農家で、
サトウキビを主作物とする農家をいとなんでいました。
廃藩置県後、
沖縄では換金作物としてサトウキビを栽培する農家が増え、
サツマイモ畑や水田までもキビ畑にかえていました。
砂糖生産中心のこの生活形態は、
自然環境や経済変動の影響をうけやすく、
ことあれば、すぐさま食糧不足と経済危機にみまわれるという弱さを持っていました。
それが最悪の形であらわれたのが、
大正末期から昭和初期にかけておこった
ソテツ地獄でした。
沖縄の輸出品は、
砂糖のほかに、泡盛・パナマ帽子・畳表・鰹節・漆器などがありましたが、
その8割を砂糖が占めていたので、
国際的な糖価の暴落は県経済に深刻な影響を与えました。
国税の滞納額も、
1921(大正10)年以後は40%台を推移し、
銀行などの金融機関にも大きな打撃を与えました。
それにおいうちをかけるように、
台風や旱ばつがおそい、
農村は文字どおりソテツを食べて、
飢えをしのばなければならない状態にまでおいつめられていきました。
多額の借金をかかえ、
生活がどうにも立ちゆかない農家では、
最後の手段として身売りが公然とおこなわれました。
男性は漁業に従事する糸満へ、
女性は遊女として辻の遊郭へ売られました。
また、海外移住や本土へ出稼ぎとして
沖縄を出ていく人びともふえていきました。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」
昭和の名曲「星の流れに」は、
戦争に翻弄され、
満州から引き揚げてきて、
敗戦後の荒廃した日本で
生き抜くために身を落とした女性の歌であることを説明した。
しかし、沖縄では
戦争に翻弄される以前から
「星の流れに」のような娼婦に身を落とす女性が多かった。
戦前の沖縄では、身売りされるのは女性だけでなく男性も多くいた。
いわゆる女性の辻売りと
男性の糸満売りである。
子供の頃、母親から聞いた話だが、
戦前は男の子供が駄々をこねて泣くと、
「糸満に売り飛ばすぞ」
と脅したそうだある。
すると子供は泣くのをぴたりとやめた。
糸満の漁師に売られた子供は漁師として鍛えられる。
泳げない子供でも縄で縛って海に放り込んだそうだ。
溺れて死にそうになってもなかなか引き上げない。
もし、訓練中に死んだとしても事故として片づけられる。
糸満に売られたら殺されても文句が言えないということである。
まさに子供にとって死ぬかもしれない過酷な運命に放り投げられるのが
糸満売りであった。
辻売りや糸満売りは琉球王朝時代の話ではない。
戦前の話なのだ。
私の家の前に三〇〇坪ほどの空き地があり、
その空き地を借りて畑をやっていたじいさんがいたが、
彼は与那国出身で
糸満売りで沖縄にやってきたと話していた。
戦前までは辻売りや糸満売りが公然と行われていたが、
その原因は沖縄の貧しさであった。
大正末期から昭和にかけて沖縄ではソテツ地獄があった。
昭和時代になってまで沖縄はソテツ地獄と呼ばれる飢餓があったのである。
明治以後は人身売買は法律で禁じられていたが
沖縄では公然と人身売買が行われていたという。
「星の流れに」は日本の敗戦が原因であるが、
沖縄の場合は敗戦が貧困の原因ではなく
それ以前の沖縄の根本的な貧困問題があった。
最近、従軍慰安婦問題を取り上げて日本軍を非難しているが、
彼らは日本軍を非難するだけであり、
沖縄の貧困問題には触れない。
大田氏も同じように触れない。
大田氏は、昔の琉球は平和主義であり
「命どぅ宝」を合い言葉に他者と有効的共生の生き方をして沖縄は豊かであったような印象を与えているが、
とんでもないことである。
豊かであったのは少数の士族階級の人間たちであり、
多くの農民は貧困生活を強いられていた。
明治以降も同じであった。
明治時代になり表面上は四民平等になったが
実際は富む士族階級と貧しき農民階級の関係は続いていた。
明治政府は人材不足であり沖縄に派遣できる人材は少なく
沖縄県の政治は統治能力のある沖縄の士族層に任せた。
そのためにほとんどの役人は士族出身者が占め、
財産のある士族層が経済界も支配していた。
戦前の沖縄の産業は寄留商人と呼ばれる
本土出身者と政府の手厚い保護でえた
不動産や資金をもとに、
貿易・金融・開墾・鉱業開発・新聞社
などを経営した尚家が支配していた。
人口の70%以上を占めていた小作農民は
貧困生活を強いられていた。
沖縄を問題にすることは貧困生活を強いられていた70%の農民を
無視しては絶対にいけない。
ところが
大田氏は農民を無視しているのである。
沖縄の長い歴史の中で農民を含めた庶民が
人間らしい生活ができるようになったのは戦後である。
人間らしい人権や自由を得たのも戦後である。
戦前は士族階層と本土の寄留商人が政治と経済を牛耳っていた。
多くの農民は搾取され貧困にあえいでいた。
土地のない農民は小作人となり低賃金で
本土資本の製糖工場のさとうきび畑で働かされていた。
戦後になり、
アメリカ民政府によって寄留商人は沖縄から排除された。
士族階層の特権は剥奪され、
土地は小作人に分け与えられた。
そして、商売が誰でも自由にすることができた。
琉球銀行を設立して商売や起業を一般の人がやりやすくした。
外国資本の参入も自由にしたので外国の資本が沖縄に流入した。
それをやったのは沖縄の政治家ではなく米民政府であった。
戦後の沖縄経済が活発になっていったのは
アメリカ民政府による市場開放の政治を行ったからである。
沖縄の革新政党やマスコミなどが
問題にするのは米軍基地があるゆえの事件・事故である。
アメリカ兵が犯罪を犯した時には米軍が裁判を行い無罪にしたことである。
アメリカ兵が加害者の時は米軍が裁判をする。
沖縄人が加害者の場合は沖縄が裁判するというのが沖縄の裁判だった。
だから、沖縄人が米軍基地内で犯罪を犯しても裁くのは沖縄の裁判所であった。
「戦果」と呼ばれる基地内の物を盗むのは横行していた。
私は「センカ」という意味は米軍基地から物を盗むことであると思っていたほど、
「戦果」は日常的に行われていた。
特にPXからタバコやかんづめなどはものすごい量であり、
米軍の物を横流しして財産を築いた人は多かった。
なぜあれほどまでに戦果が横行したかと言えば
沖縄の警察の取り締まりが弱かったからである。
暴力団などは警察を買収して、
堂々と「戦果」をやっていた。
沖縄人がアメリカ女性を暴行したり殺したりしても
検挙して取り調べるのは沖縄の警察であり、
判決を下すのは沖縄の裁判所であった。
有名なコザ騒動も捜査して検挙したのも沖縄の警察である。
アメリカの圧力は一切なかったと当時の検察官は話している。
このような事実を明らかにしないで、
まるでアメリカ兵に関係した事件・事故は
アメリカ側がすべて裁いたような印象を与えるのはおかしい。
もっと客観的な見方をするべきである。
世界一の経済大国であるアメリカは沖縄を占領したが、
アメリカは沖縄を搾取するのではなく、
多額の金を沖縄に流し入れ、
市場を自由にし沖縄の産業を育成して沖縄経済を活性化させていった。
戦前の経済と戦後の経済を比較すれば
戦後の経済は
自由であり何倍も発展していて庶民の生活も向上していることが分かる。
しかし、大田氏は戦前と戦後の経済を比較しない。
琉球王朝時代、戦前、戦後の市民レベルでの人権、自由、生活状態を比較しない。
大田氏の「こんな沖縄にした」には沖縄の貧しき人々、虐げられた人々や庶民は登場しない。
沖縄の支配者たちが登場するだけである。
大田元県知事はどうしてみえみえの嘘をつく
「こんな沖縄に誰がした」の5ページに
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」
と大田氏は述べている。
私は沖縄の歴史をあまり知らないが、
尚巴志が三山を統一したのは有名な話だ。
三山を統一したということは武力で制圧したことである。
私は中学・高校生用の沖縄歴史の本を買ってきて調べてみた。
昔の歴史を調べてみた。
1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。
「ジュニア版 琉球・沖縄歴史」によると、
1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなったことがあったらしい。
争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。
後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだ。
護佐丸・阿痲和利の乱もある。
金丸が尚円になったときも武力によるクーデターと言われており、
王位継承争いの解決は話し合いではなく武力争いで解決したというのが歴史的事実だ。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼす
というのは武力で滅ぼすということだ。
つまり琉球王朝は軍隊で持ち、
戦争をしていたということであり、
太田氏のいう
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」
という歴史的な事実はどこにもないし、
それは嘘である。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。
「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」という事実はない。
むしろ暴力で解決したというのが正しい。
薩摩藩の支配下になった琉球王朝は軍事力を剥奪され、
戦争をする能力は失われたのであり、
太田氏のいうように
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」
というのは歴史的な事実はない。
それに
「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」という歴史的な証拠もない。
それどころか琉球人が乱暴であり、中国に嫌われた事実の記録があるのだ。
琉球は明国への朝貢がゆるされると、
毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、
しかし、そうほうの間に何の問題もなく、
平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。
琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、
信頼を損なう事件も起こっていました。
1475年には中国皇帝から尚円王に対し、
「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」
と命令がありペナルティーとして
「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」
ことが言い渡された。
琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、
従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、
1時期は1年1貢にもどったことがあったが、
1年1貢は許されなかった。
理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、
違法な取引をしたり、
不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」より
琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。
中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田氏がなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」
と大田氏は述べている。
私は沖縄の歴史をあまり知らないが、
尚巴志が三山を統一したのは有名な話だ。
三山を統一したということは武力で制圧したことである。
私は中学・高校生用の沖縄歴史の本を買ってきて調べてみた。
昔の歴史を調べてみた。
1187年頃 舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年 尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年 尚巴志、北山を滅ぼす
1429年 尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年 八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年 尚元王、奄美大島を征服。
1609年 薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。
「ジュニア版 琉球・沖縄歴史」によると、
1453年五代王・尚金福がなくなると後継争いは激しくなったことがあったらしい。
争いとは口喧嘩ではない。武力による争いであり、戦争である。
後継争いの戦火で首里城は焼け、後継争いをした二人も死んだ。
護佐丸・阿痲和利の乱もある。
金丸が尚円になったときも武力によるクーデターと言われており、
王位継承争いの解決は話し合いではなく武力争いで解決したというのが歴史的事実だ。
武寧を滅ぼす、北山を滅ぼす、南山を滅ぼす
というのは武力で滅ぼすということだ。
つまり琉球王朝は軍隊で持ち、
戦争をしていたということであり、
太田氏のいう
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」
という歴史的な事実はどこにもないし、
それは嘘である。
琉球王朝は八重山や奄美大島も武力で制圧して、植民地にしている。
「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」という事実はない。
むしろ暴力で解決したというのが正しい。
薩摩藩の支配下になった琉球王朝は軍事力を剥奪され、
戦争をする能力は失われたのであり、
太田氏のいうように
「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」
というのは歴史的な事実はない。
それに
「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」という歴史的な証拠もない。
それどころか琉球人が乱暴であり、中国に嫌われた事実の記録があるのだ。
琉球は明国への朝貢がゆるされると、
毎年、中国へ行って貿易をおこなうようになりました、
しかし、そうほうの間に何の問題もなく、
平穏に朝貢貿易がつづけられていたのではありませんでした。
琉球人の中には、不法行為によって厳しく処罰される者もおり、
信頼を損なう事件も起こっていました。
1475年には中国皇帝から尚円王に対し、
「琉球使者の中に、殺人、放火によって強盗を働いた者がいる。犯人をつかまえて処罰せよ」
と命令がありペナルティーとして
「今後、中国への朝貢は2年に1貢とする」
ことが言い渡された。
琉球王府は、この事件に琉球人がかかわっていないことを報告し、
従来通り1年1貢にもどすように嘆願を繰り返したが、
1時期は1年1貢にもどったことがあったが、
1年1貢は許されなかった。
理由は使節にしたがってやってきた琉球人が、
違法な取引をしたり、
不法滞在で地元住民とのあいだでトラブルをおこしたりしていたからである。
「ジュニア版 琉球・沖縄史」より
琉球人が暴力を用いずに話し合いで解決したというのは嘘である。
中国で暴力をふるってトラブルを起こしていた事実が歴史にちゃんと残っている。
学者である太田氏がなぜこんなみえみえの嘘をつくのか不思議でならない。
大田元知事の驚くべき妄想
大田氏の驚くべき妄想
ハンビー・タウンが軍用地だった頃は
地代と従業員の給料はアメリカ政府か日本政府が払っていた。
アメリカ軍関係から入る金は県外から入ってくることになる。
だから、県全体の収入になる。
しかし、ハンビー・タウンの商業地で入る金は県内での金の移動でしかない。
県全体からみれば軍用地関係から入る金のほうが潤うのだ。
大田氏はハンビータウンの経済発展を根拠にして、
普天間飛行場が返還された場合の経済効果を推察している。
「現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、
このハンビー飛行場の11倍の大きさにあるにもかかわらず、
一〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。」
「こんな沖縄に誰がした」
大田氏は普天間飛行場はハンビー飛行場の一一倍だから、
経済効果も11倍であると推測している。
ハンビー飛行場では一万人の雇用効果が生まれたから
普天間飛行場なら11万人の雇用効果生まれるということになる。
しかし、普天間飛行場が若者の街になるとハンビーの客は
11倍も広い普天間飛行場に流れるのは確実である。
ハンビーの街は確実に廃れる。
普天間飛行場の返還を現実的に考える専門家の中で
大田氏のようにハンビーと同じ街を普天間飛行場跡に
つくろうと考えている人はいない。
今、提案されているのは
国が土地を買って大きな公園をつくることだ。
国が土地を買い取ることで普天間飛行場の地主に大金が入ってくる。
地主は返還されても土地が売れるから一安心というわけだ。
普天間飛行場の軍用地料は年間六〇億円である。
普天間飛行場の経済効果は一〇〇億円を軽く超すだろう。
普天間基地経済に匹敵する経済効果はまだ提案されていない。
というより、ないといったほうがいい。
泡瀬ゴルフ場跡にはイオンモールができる。
七月には宜野湾市の西海岸に大店舗サンエーコンベンションシティー店が開店した。
ドンキーも進出する予定だ。
もし、普天間飛行場跡全体がハンビー・美浜と同じように小売店専門の街できるとしたら、
ハンビー・美浜・泡瀬ゴルフ場跡、宜野湾市西海岸、
普天間飛行場は車で数分の場所であるから小売店の供給過剰になる。
普天間飛行場からの収入一〇〇億円近くが減少するのに
小売店だけが激増すれば破綻する店舗がどんどん増える。
宜野湾市の軍用地は普天間飛行場だけではない。
全ての軍用地が返還されれば恐らく二〇〇億円近くの収入が減るだろう。
このマイナスの経済効果について大田元県知事の頭の中には全然ない。
普天間飛行場が返還されればハンビー・美浜のように
経済発展すると妄想しているのだ。
おめでたいお人である。
大田氏の妄想はまだまだ続く
「.嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。
しかし、2734人しか雇っていない。
それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されている。
このように軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、
雇用が10倍にふえるという試算がなされているが、
それはあながち誇張ではない。
「こんな沖縄に誰がした」
それは誇張ではない。誇張をはるかに超えた妄想だ。
嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、
嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができるという妄想をすることが
なぜできるのだろうか。
とても不思議である。
大田氏は嘉手納基地について書く前に
成田空港の旅客数と那覇空港の旅客数を調査比較しただろうか。
もし、嘉手納空港が成田空港のような民間空港になると想定したら、
成田空港と那覇空港の旅客数について調査するのは常識である。
こんな常識的な調査もしないで書くのは無責任である。
成田空港の年間旅客数は約二八〇六万人(二〇一一年)である。
それに比べて、那覇空港の平成二一年度の旅客数は一四〇六二万人である。
那覇空港の旅客数は成田空港の半分である。
大田氏は嘉手納飛行場は成田空港の二倍の広さがあるから、
嘉手納飛行場が返還されれば成田空港の二倍の旅客が
嘉手納飛行場を利用すると想定している。
実に那覇空港の四倍の旅客数だ。
どうして、
飛行場が成田空港の二倍だから旅客数も二倍になるとかんがえるのだろう。
こんなことは奇跡でも起こらないことである。
沖縄県の観光業界は
観光客を増やすためにあの手この手を使って苦労している。
飛行場の広さを二倍にすれば観光客も二倍になるのなら、
どんどん飛行場を拡張すればいい。
こんな簡単に観光客や旅客数が増えるわけがない。
もし、嘉手納飛行場が民間空港になったら、
那覇空港の旅客の奪い合いになり、
それぞれの空港の旅客数は半分の七三一万人になり、
二つの空港が莫大な赤字経営をすることになる。
その補てんのために県民の税金が使われる。
県知事体験者ならば
沖縄県の経済発展を真剣に追及するはずであるが、
大田氏は経済破綻をさせてしまう考えしかない。
不思議な人である。
ハンビー・タウンが軍用地だった頃は
地代と従業員の給料はアメリカ政府か日本政府が払っていた。
アメリカ軍関係から入る金は県外から入ってくることになる。
だから、県全体の収入になる。
しかし、ハンビー・タウンの商業地で入る金は県内での金の移動でしかない。
県全体からみれば軍用地関係から入る金のほうが潤うのだ。
大田氏はハンビータウンの経済発展を根拠にして、
普天間飛行場が返還された場合の経済効果を推察している。
「現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、
このハンビー飛行場の11倍の大きさにあるにもかかわらず、
一〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。」
「こんな沖縄に誰がした」
大田氏は普天間飛行場はハンビー飛行場の一一倍だから、
経済効果も11倍であると推測している。
ハンビー飛行場では一万人の雇用効果が生まれたから
普天間飛行場なら11万人の雇用効果生まれるということになる。
しかし、普天間飛行場が若者の街になるとハンビーの客は
11倍も広い普天間飛行場に流れるのは確実である。
ハンビーの街は確実に廃れる。
普天間飛行場の返還を現実的に考える専門家の中で
大田氏のようにハンビーと同じ街を普天間飛行場跡に
つくろうと考えている人はいない。
今、提案されているのは
国が土地を買って大きな公園をつくることだ。
国が土地を買い取ることで普天間飛行場の地主に大金が入ってくる。
地主は返還されても土地が売れるから一安心というわけだ。
普天間飛行場の軍用地料は年間六〇億円である。
普天間飛行場の経済効果は一〇〇億円を軽く超すだろう。
普天間基地経済に匹敵する経済効果はまだ提案されていない。
というより、ないといったほうがいい。
泡瀬ゴルフ場跡にはイオンモールができる。
七月には宜野湾市の西海岸に大店舗サンエーコンベンションシティー店が開店した。
ドンキーも進出する予定だ。
もし、普天間飛行場跡全体がハンビー・美浜と同じように小売店専門の街できるとしたら、
ハンビー・美浜・泡瀬ゴルフ場跡、宜野湾市西海岸、
普天間飛行場は車で数分の場所であるから小売店の供給過剰になる。
普天間飛行場からの収入一〇〇億円近くが減少するのに
小売店だけが激増すれば破綻する店舗がどんどん増える。
宜野湾市の軍用地は普天間飛行場だけではない。
全ての軍用地が返還されれば恐らく二〇〇億円近くの収入が減るだろう。
このマイナスの経済効果について大田元県知事の頭の中には全然ない。
普天間飛行場が返還されればハンビー・美浜のように
経済発展すると妄想しているのだ。
おめでたいお人である。
大田氏の妄想はまだまだ続く
「.嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。
しかし、2734人しか雇っていない。
それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されている。
このように軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、
雇用が10倍にふえるという試算がなされているが、
それはあながち誇張ではない。
「こんな沖縄に誰がした」
それは誇張ではない。誇張をはるかに超えた妄想だ。
嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、
嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができるという妄想をすることが
なぜできるのだろうか。
とても不思議である。
大田氏は嘉手納基地について書く前に
成田空港の旅客数と那覇空港の旅客数を調査比較しただろうか。
もし、嘉手納空港が成田空港のような民間空港になると想定したら、
成田空港と那覇空港の旅客数について調査するのは常識である。
こんな常識的な調査もしないで書くのは無責任である。
成田空港の年間旅客数は約二八〇六万人(二〇一一年)である。
それに比べて、那覇空港の平成二一年度の旅客数は一四〇六二万人である。
那覇空港の旅客数は成田空港の半分である。
大田氏は嘉手納飛行場は成田空港の二倍の広さがあるから、
嘉手納飛行場が返還されれば成田空港の二倍の旅客が
嘉手納飛行場を利用すると想定している。
実に那覇空港の四倍の旅客数だ。
どうして、
飛行場が成田空港の二倍だから旅客数も二倍になるとかんがえるのだろう。
こんなことは奇跡でも起こらないことである。
沖縄県の観光業界は
観光客を増やすためにあの手この手を使って苦労している。
飛行場の広さを二倍にすれば観光客も二倍になるのなら、
どんどん飛行場を拡張すればいい。
こんな簡単に観光客や旅客数が増えるわけがない。
もし、嘉手納飛行場が民間空港になったら、
那覇空港の旅客の奪い合いになり、
それぞれの空港の旅客数は半分の七三一万人になり、
二つの空港が莫大な赤字経営をすることになる。
その補てんのために県民の税金が使われる。
県知事体験者ならば
沖縄県の経済発展を真剣に追及するはずであるが、
大田氏は経済破綻をさせてしまう考えしかない。
不思議な人である。
元県知事大田氏の基地返還論は沖縄県破産論である
無名人が短期間で有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやぃ方法である。
私は無名人である。私は有名人になりたい。だから沖縄の有名にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた末に、一番最初にかみつくのは太田昌秀氏にした。
なにしろ太田昌秀氏は沖縄で超がつく有名人だ。太田昌秀氏にかみつけば私は有名になれるだろう。
こんな私の思いつきを、安直なやり方だと笑う者がいるだろう。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。えげつないやり方だと軽蔑する者がいるだろう。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。
太田昌秀氏をはじめ多くの沖縄の有名人にかみつけば、いつかは私も有名人になれる。
そう信じている。
そう信じて、最初にかみつくことにしたのが太田昌秀氏だ。
なにしろ、太田昌秀氏は元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では最高に地位の高いお人なのだ。
沖縄の三冠王とか沖縄の天皇と呼ばれているという噂を聞いたことがあるような気がするくらい太田昌秀氏は沖縄の最高の権威者であり有名な人間なのだ。
いや、天皇と呼ばれた人は初代沖縄県知事の屋良朝苗だったかな。どっちだったかな。はっきりとは覚えていない。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、最初にかみつくのは大田昌秀氏が最適だと私は考えた。
さて、かみつくにはどうすればいいか。
それは決まっている。
太田昌秀氏の書いた本を買って読むことだ。読みながら、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
さて、大田氏のどの本を買おうか。ネットで調べるとなんと大田氏の書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いているのかと私は驚いた。
沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの沖縄の民衆意識現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの、伊波普猷−人と思想−(共)、「伊波普猷の思想とその時代」、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、『憲法改悪反対運動入門』(共)、沖縄−戦争と平和、「人間が人間でなくなるとき」ジェノサイド、留魂の碑−鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ふう、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。
どの本がかみつきやすいのかは本の題名からはわからない。全部の本を読めば分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。
それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私には10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいないし全部読むのは私には不可能だ。
私が買うのは一冊にしよう。三冊も四冊も買えば読むのが大変だ。
どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。
本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。
悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。
ああ、わかった。歌に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なのでスナックのカラオケで時々歌う。
星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎
星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした
私が生まれる一年前の歌だ。
ぐっとくる詞だねえ。
昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌ってヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。
私は感心したね。
戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も身を落としたと大田氏は書いたというわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。
私は「こんな沖縄に誰がした」を本屋で買ってきた。
私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。
30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。
たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本だった。あの頃は学習塾をやっていたから、「そうだそうだ。沖縄はあまりにも学力が低すぎる。それは教師の教え方が悪いからだ」と本の題名に賛同するのがあったから買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。
本の表紙は全体が朱色だった。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。
すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き食台にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。テレビをつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じるからテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。
ページをめくった。
すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
と書いてあった。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
と私は思わず口にしていた。
「こんな沖縄に誰がした」という本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ねた本でなければならないはずだ。
ところが最初の一行で「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねているではないか。大田氏は昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
大陸から帰った来た女性はまだ家族にも会えていない。
妹は飢えていないだろうか、
お母さんに一目会いたい。
必死に生きながら女性は妹や母親の無事を願っている。
戦争が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にはたくさん居ただろう。
戦争の悲劇の真っただ中をを生きている女性の心情を大田氏は「泣き言」と冷たく突き放した。戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田氏に私は失望した。
菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの人に愛され、
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。
なんと美輪明宏もカバー曲を出している。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」ファンのコメントを紹介しよう。
菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声¬は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸¬し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。
戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ち¬を知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠¬償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。
はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを¬覚えております。
最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷¬ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を¬振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。
そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と錯覚している大田氏の精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私はまえがきを読み進めていった。
一週間後。
一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。
読後の感想は「まいったな」だ。かみつくところを見つけるところがないという意味で「まいったな」だではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができる。こんなにかみつきやすい本でいいのか。元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。私のような底辺の人間が簡単に噛みつくことはできないだろうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところに噛みつけるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。
本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられない。
私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
「こんな沖縄に誰がした」
と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人が「沖縄の現状」を理解することができるのだろうか。憲法という上から沖縄という下を見ているが、上から目線で地べたの沖縄の現状を見ても沖縄の現状を真摯に理解できるはずがない。どうやらこの本はそんな本なのだ。
さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀氏にかみついて私が有名人になるのが目的だ。なにがなんでも噛みついて噛みついて噛みついてやるのだ。噛みつくのはどのページでもかまわないな。
気まぐれにぱーっとめくってぱたっと止めよう。そのページに噛みついてやる。開いてみると117ページであった。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だった。
大田氏は、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいるといい、地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。
以上の統計の事実から大田氏は、軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。
大田氏は本当に県知事だったのかと疑わせる発言である。大田氏が北谷町長であったらハンビー飛行場が返還されてハンビータウンとなり若者の街と栄えていったことはとても歓迎することである。そのお蔭で北谷町の税収がぐーんとあがったからな。
でも大田氏は北谷町長ではない。沖縄県知事だった。県の経済発展の責任を持たなければならないお人であった。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないのなら県知事であった大田氏が手放しで喜ぶのはおかしい。
沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。しかし、モッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷の客は増えたが沖縄市の客は減った。
美浜タウンの国道58号線沿いに新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。元々ぎりぎりの経営状態だったのに北谷町や嘉手納町の客が美浜に流れたことが影響して赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。
モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビータウン・美浜流れた。
客がハンビータウン・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店も多い。ハンビータウン・美浜のお客は他の市場から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビータウン・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店は北谷町に客を奪われたのだ。
県全体から見ればハンビータウン・美浜の繁盛はプラスマイナスゼロである。
ハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶ人が県知事だったとは信じられないことである。県知事なら沖縄市などのハンビータウン・美浜の周辺の店がどれほどの売り上げが落ちたかを調査して、ハンビータウン・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。
返還された泡瀬ゴルフ場跡に大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田氏なら返還された泡瀬ゴルフ場にイオンモールができて経済が発展したと手放しで喜ぶのだろう。
一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れていくのが現実だ。
そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・タウン・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。
このようなとても簡単な経済法則さえ知らない大田氏が県知事だったのだ。大田氏のあきれる経済論はこれだけにとどまらない。
現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
「こんな沖縄に誰がした」
と述べ、もし普天間飛行場が返還されたらハンビータウン・美浜のように経済発展すると推測している。
普天間飛行場とハンビータウン・美浜は車で数分の距離である。ハンビータウン・美浜より何倍も広い普天間飛行場に若者の街ができたらハンビータウン・美浜の客は普天間飛行場に流れてしまうだろう。ハンビータウン・美浜は廃れてしまうのは確実だ。こんな明々白々なことを大田氏は知らないのだ。大田氏の頭は大丈夫かと疑ってしまう。しかし、大田氏の妄想はこれだけでは終わらない。
さらに例を挙げると、極東最大の空軍基地と言われる嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されているのが実情だ。-このように、軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が一〇倍に増えるという試算が試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
「こんな沖縄に誰がした」
それは明らかな誇張だ。いや、妄想だ。嘉手納飛行場が民間空港になったら成田と同じ客数になると考えるほうがおかしい。沖縄にやってくる観光客は限られている。嘉手納飛行場が民間空港になったからといって観光客が増えるわけではない。嘉手納飛行場の客が増えただけ那覇空港の客が減るだけのことだ。客が減れば経営が赤字になり、倒産の危機に陥る。
もし、嘉手納飛行場が民間飛行場になったら、二つの飛行場が赤字になり倒産の危機に陥る。嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができるなんて妄想だ。
普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。普天間飛行場のほとんどは私有地であるから60億円の多くは宜野湾市の地主に入る。普天間飛行場が返還されれば軍用地料はゼロになる。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってくるお金だ。ハンビータウン・美浜に入ってくるお金は県内のお金が移動しただけである。それどころか本土から仕入れた商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。
軍用地返還跡に小売店の商業街ができるということは、県内に入ってくるお金は絶たれ、県外にお金が出ていくシステムが増えるということである。
米軍基地が存在することによって日本政府やアメリカから年間3000億円近くのお金が県内に入ってくる。もし、軍用地が返還され、返還跡地にはハンビータウン・美浜のような街や泡瀬ゴルフ場跡のイオンモールのような小売店ができると、年間3000億円の県内への流入はストップする一方県内から県外へお金がどんどん出ていくシステムが増える。それでは沖縄県が破産する。
元県知事大田氏の基地返還論は沖縄経済の破産論である。
私は無名人である。私は有名人になりたい。だから沖縄の有名にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた末に、一番最初にかみつくのは太田昌秀氏にした。
なにしろ太田昌秀氏は沖縄で超がつく有名人だ。太田昌秀氏にかみつけば私は有名になれるだろう。
こんな私の思いつきを、安直なやり方だと笑う者がいるだろう。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。えげつないやり方だと軽蔑する者がいるだろう。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。
太田昌秀氏をはじめ多くの沖縄の有名人にかみつけば、いつかは私も有名人になれる。
そう信じている。
そう信じて、最初にかみつくことにしたのが太田昌秀氏だ。
なにしろ、太田昌秀氏は元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では最高に地位の高いお人なのだ。
沖縄の三冠王とか沖縄の天皇と呼ばれているという噂を聞いたことがあるような気がするくらい太田昌秀氏は沖縄の最高の権威者であり有名な人間なのだ。
いや、天皇と呼ばれた人は初代沖縄県知事の屋良朝苗だったかな。どっちだったかな。はっきりとは覚えていない。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、最初にかみつくのは大田昌秀氏が最適だと私は考えた。
さて、かみつくにはどうすればいいか。
それは決まっている。
太田昌秀氏の書いた本を買って読むことだ。読みながら、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
さて、大田氏のどの本を買おうか。ネットで調べるとなんと大田氏の書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いているのかと私は驚いた。
沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの沖縄の民衆意識現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの、伊波普猷−人と思想−(共)、「伊波普猷の思想とその時代」、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、『憲法改悪反対運動入門』(共)、沖縄−戦争と平和、「人間が人間でなくなるとき」ジェノサイド、留魂の碑−鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ふう、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。
どの本がかみつきやすいのかは本の題名からはわからない。全部の本を読めば分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。
それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私には10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいないし全部読むのは私には不可能だ。
私が買うのは一冊にしよう。三冊も四冊も買えば読むのが大変だ。
どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。
本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。
悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。
ああ、わかった。歌に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なのでスナックのカラオケで時々歌う。
星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎
星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした
私が生まれる一年前の歌だ。
ぐっとくる詞だねえ。
昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌ってヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。
私は感心したね。
戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も身を落としたと大田氏は書いたというわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。
私は「こんな沖縄に誰がした」を本屋で買ってきた。
私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。
30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。
たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本だった。あの頃は学習塾をやっていたから、「そうだそうだ。沖縄はあまりにも学力が低すぎる。それは教師の教え方が悪いからだ」と本の題名に賛同するのがあったから買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。
本の表紙は全体が朱色だった。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。
すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き食台にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。テレビをつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じるからテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。
ページをめくった。
すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
と書いてあった。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
と私は思わず口にしていた。
「こんな沖縄に誰がした」という本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ねた本でなければならないはずだ。
ところが最初の一行で「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねているではないか。大田氏は昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
大陸から帰った来た女性はまだ家族にも会えていない。
妹は飢えていないだろうか、
お母さんに一目会いたい。
必死に生きながら女性は妹や母親の無事を願っている。
戦争が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にはたくさん居ただろう。
戦争の悲劇の真っただ中をを生きている女性の心情を大田氏は「泣き言」と冷たく突き放した。戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田氏に私は失望した。
菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの人に愛され、
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。
なんと美輪明宏もカバー曲を出している。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」ファンのコメントを紹介しよう。
菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声¬は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸¬し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。
戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ち¬を知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠¬償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。
はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを¬覚えております。
最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷¬ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を¬振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。
そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と錯覚している大田氏の精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私はまえがきを読み進めていった。
一週間後。
一応「こんな沖縄に誰がした」を読み終わった。
読後の感想は「まいったな」だ。かみつくところを見つけるところがないという意味で「まいったな」だではない。むしろ逆だ。かみつくところがあまりにも多すぎる。最初のページから最後までみんなかみつくことができる。こんなにかみつきやすい本でいいのか。元琉球大学教授で、県知事になり、国会議員までなったお人だ。私のような底辺の人間が簡単に噛みつくことはできないだろうと思っていたのに、意外や意外である。いたるところに噛みつけるのだ。こんなでたらめなことをよくも書けたものだと妙な感心をしたくらいだ。
本当にこのお人は県知事になった人物なのか。信じられない。
私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい。
「こんな沖縄に誰がした」
と、かっこいいことを述べているが、「星の流れに」から見える戦後の日本の悲惨な現実を見ることができないお人が「沖縄の現状」を理解することができるのだろうか。憲法という上から沖縄という下を見ているが、上から目線で地べたの沖縄の現状を見ても沖縄の現状を真摯に理解できるはずがない。どうやらこの本はそんな本なのだ。
さて、かみつくとするか。この本を買った目的は有名人の大田昌秀氏にかみついて私が有名人になるのが目的だ。なにがなんでも噛みついて噛みついて噛みついてやるのだ。噛みつくのはどのページでもかまわないな。
気まぐれにぱーっとめくってぱたっと止めよう。そのページに噛みついてやる。開いてみると117ページであった。117ページに書いてある題名は「基地返還前後の経済変動」だった。
大田氏は、ハンビータウンがヘリコプター基地だった頃の雇用は100人そこそこであったが、1981年に返還されてからは若者の街に変貌して、ヘリコプター基地だったころよりも経済発展し、雇用は数千人から一万人にも及んでいるといい、地元自治体に入る固定資産税は約257万円から1億9507万円に及んでいると述べている。
以上の統計の事実から大田氏は、軍事基地であるよりも民間に開放されたほうが経済発展をするのだと主張している。
大田氏は本当に県知事だったのかと疑わせる発言である。大田氏が北谷町長であったらハンビー飛行場が返還されてハンビータウンとなり若者の街と栄えていったことはとても歓迎することである。そのお蔭で北谷町の税収がぐーんとあがったからな。
でも大田氏は北谷町長ではない。沖縄県知事だった。県の経済発展の責任を持たなければならないお人であった。北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながるのなら大いに喜ばしいことであるが、北谷町の経済発展が県全体の経済発展につながらないのなら県知事であった大田氏が手放しで喜ぶのはおかしい。
沖縄市の園田にモッズというライブハウスがあった。国道331号線沿いにあり、モッズでは民謡からジャズまで多くのミュージシャンがライブをし、沖縄では有名なライブハウスだった。しかし、モッズは新しい街ハンビータウンができると園田より集客力がいいハンビータウンに引っ越した。当然のことながらモッズの客は沖縄市から北谷町に流れた。北谷の客は増えたが沖縄市の客は減った。
美浜タウンの国道58号線沿いに新しいパソコン専門店ができた。すると沖縄市のコリンザの一階にあったパソコン専門店は閉店に追い込まれた。元々ぎりぎりの経営状態だったのに北谷町や嘉手納町の客が美浜に流れたことが影響して赤字経営に転落したのが原因だと考えられる。コリンザのパソコン店が閉店すれば美浜のパソコン店に客は流れる。
モッズのように沖縄市から北谷町のハンビータウン・美浜に移転した店舗がいくつもあり、多くの客がハンビータウン・美浜流れた。
客がハンビータウン・美浜に流れたためにコリンザのパソコン店のように閉店した沖縄市や宜野湾市の店も多い。ハンビータウン・美浜のお客は他の市場から流れた人たちであり、他の市場から客を奪うことによって北谷町のハンビータウン・美浜は繁盛した。沖縄市、嘉手納町、宜野湾市などの店は北谷町に客を奪われたのだ。
県全体から見ればハンビータウン・美浜の繁盛はプラスマイナスゼロである。
ハンビータウンの経済発展をまるで県全体の経済発展だと錯覚して手放しで喜ぶ人が県知事だったとは信じられないことである。県知事なら沖縄市などのハンビータウン・美浜の周辺の店がどれほどの売り上げが落ちたかを調査して、ハンビータウン・美浜が県全体に及ぼすメリットとデメリットについて分析するべきだ。
返還された泡瀬ゴルフ場跡に大型店舗のイオンモールができる。沖縄市の商店経営者たちはイオンモールが開店すると壊滅的な打撃を受けるだろうと心配している。しかし、大田氏なら返還された泡瀬ゴルフ場にイオンモールができて経済が発展したと手放しで喜ぶのだろう。
一方が繁栄すれば一方は廃れる。それがサービス業の経済法則だ。例えば、大型スーパーが繁栄することによって個人商店やスーパーは廃れた。コンビニエンスが繁盛することによって個人商店、書店、弁当屋、パーラーなどが廃れた。新しい商業地が繁栄している裏には古い商業地が廃れていくのが現実だ。
そこにはプラスとマイナスの関係がある。ハンビー・タウン・美浜が栄えた分だけ他の商業地の売り上げは落ちたのであり、県経済の全体が成長したとは言えない。
このようなとても簡単な経済法則さえ知らない大田氏が県知事だったのだ。大田氏のあきれる経済論はこれだけにとどまらない。
現在返還問題で揺れている普天間飛行場は、このハンビー飛行場の11倍の大きさにも関わらず、二〇〇九年三月末現在で二〇七人しか雇用していない。
「こんな沖縄に誰がした」
と述べ、もし普天間飛行場が返還されたらハンビータウン・美浜のように経済発展すると推測している。
普天間飛行場とハンビータウン・美浜は車で数分の距離である。ハンビータウン・美浜より何倍も広い普天間飛行場に若者の街ができたらハンビータウン・美浜の客は普天間飛行場に流れてしまうだろう。ハンビータウン・美浜は廃れてしまうのは確実だ。こんな明々白々なことを大田氏は知らないのだ。大田氏の頭は大丈夫かと疑ってしまう。しかし、大田氏の妄想はこれだけでは終わらない。
さらに例を挙げると、極東最大の空軍基地と言われる嘉手納基地は成田空港の二倍の広さがある。しかし、2734人しか雇っていない。それに比べ、民間空港の成田は4万人以上が雇用されているのが実情だ。-このように、軍事基地が返還され、その跡地が、民間に利活用されるようになると、雇用が一〇倍に増えるという試算が試算がなされているが、それはあながち誇張ではない。
「こんな沖縄に誰がした」
それは明らかな誇張だ。いや、妄想だ。嘉手納飛行場が民間空港になったら成田と同じ客数になると考えるほうがおかしい。沖縄にやってくる観光客は限られている。嘉手納飛行場が民間空港になったからといって観光客が増えるわけではない。嘉手納飛行場の客が増えただけ那覇空港の客が減るだけのことだ。客が減れば経営が赤字になり、倒産の危機に陥る。
もし、嘉手納飛行場が民間飛行場になったら、二つの飛行場が赤字になり倒産の危機に陥る。嘉手納基地が返還されて、民間空港になったら、嘉手納空港は成田なみに4万人の雇用ができるなんて妄想だ。
普天間飛行場の軍用地料金は年間60億円である。普天間飛行場のほとんどは私有地であるから60億円の多くは宜野湾市の地主に入る。普天間飛行場が返還されれば軍用地料はゼロになる。軍用地料は日本政府から沖縄県内に入ってくるお金だ。ハンビータウン・美浜に入ってくるお金は県内のお金が移動しただけである。それどころか本土から仕入れた商品が売れれば売れるほど商品の原価の分だけ本土にお金が出ていく。
軍用地返還跡に小売店の商業街ができるということは、県内に入ってくるお金は絶たれ、県外にお金が出ていくシステムが増えるということである。
米軍基地が存在することによって日本政府やアメリカから年間3000億円近くのお金が県内に入ってくる。もし、軍用地が返還され、返還跡地にはハンビータウン・美浜のような街や泡瀬ゴルフ場跡のイオンモールのような小売店ができると、年間3000億円の県内への流入はストップする一方県内から県外へお金がどんどん出ていくシステムが増える。それでは沖縄県が破産する。
元県知事大田氏の基地返還論は沖縄経済の破産論である。
太田昌秀氏にヒジャイがかみつく
無名人が短期間で有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやぃ方法である。
私は無名人である。私は有名人になりたい。だから沖縄の有名にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた末に、一番最初にかみつくのは太田昌秀氏にした。
なにしろ太田昌秀氏は沖縄で超がつく有名人だ。太田昌秀氏にかみつけば私は有名になれるだろう。
こんな私の思いつきを、安直なやり方だと笑う者がいるだろう。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。えげつないやり方だと軽蔑する者がいるだろう。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。
太田昌秀氏をはじめ多くの沖縄の有名人にかみつけば、いつかは私も有名人になれる。
そう信じている。
そう信じて、最初にかみつくことにしたのが太田昌秀氏だ。
なにしろ、太田昌秀氏は元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では最高に地位の高いお人なのだ。
沖縄の三冠王とか沖縄の天皇と呼ばれているという噂を聞いたことがあるような気がするくらい太田昌秀氏は沖縄の最高の権威者であり有名な人間なのだ。
いや、天皇と呼ばれた人は初代沖縄県知事の屋良朝苗だったかな。どっちだったかな。はっきりとは覚えていない。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、最初にかみつくのは大田昌秀氏が最適だと私は考えた。
さて、かみつくにはどうすればいいか。
それは決まっている。
太田昌秀氏の書いた本を買って読むことだ。読みながら、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
さて、大田氏のどの本を買おうか。ネットで調べるとなんと大田氏の書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いているのかと私は驚いた。
沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの沖縄の民衆意識現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの、伊波普猷−人と思想−(共)、「伊波普猷の思想とその時代」、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、『憲法改悪反対運動入門』(共)、沖縄−戦争と平和、「人間が人間でなくなるとき」ジェノサイド、留魂の碑−鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ふう、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。
どの本がかみつきやすいのかは本の題名からはわからない。全部の本を読めば分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。
それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私には10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいないし全部読むのは私には不可能だ。
私が買うのは一冊にしよう。三冊も四冊も買えば読むのが大変だ。
どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。
本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。
悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。
ああ、わかった。歌に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なのでスナックのカラオケで時々歌う。
星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎
星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした
私が生まれる一年前の歌だ。
ぐっとくる詞だねえ。
昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌ってヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。
私は感心したね。
戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も身を落としたと大田氏は書いたというわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。
私は「こんな沖縄に誰がした」を本屋で買ってきた。
私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。
30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。
たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本だった。あの頃は学習塾をやっていたから、「そうだそうだ。沖縄はあまりにも学力が低すぎる。それは教師の教え方が悪いからだ」と本の題名に賛同するのがあったから買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。
本の表紙は全体が朱色だった。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。
すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き食台にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。テレビをつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じるからテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。
ページをめくった。
すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
と書いてあった。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
と私は思わず口にしていた。
「こんな沖縄に誰がした」という本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ねた本でなければならないはずだ。
ところが最初の一行で「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねているではないか。大田氏は昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
大陸から帰った来た女性はまだ家族にも会えていない。
妹は飢えていないだろうか、
お母さんに一目会いたい。
必死に生きながら女性は妹や母親の無事を願っている。
戦争が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にはたくさん居ただろう。
戦争の悲劇の真っただ中をを生きている女性の心情を大田氏は「泣き言」と冷たく突き放した。戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田氏に私は失望した。
菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの人に愛され、
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。
なんと美輪明宏もカバー曲を出している。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」ファンのコメントを紹介しよう。
菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声¬は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸¬し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。
戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ち¬を知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠¬償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。
はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを¬覚えております。
最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷¬ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を¬振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。
そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と錯覚している大田氏の精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私はまえがきを読み進めていった。
私は無名人である。私は有名人になりたい。だから沖縄の有名にかみつくことにした。最初に誰にかみつくかあれこれと考えた末に、一番最初にかみつくのは太田昌秀氏にした。
なにしろ太田昌秀氏は沖縄で超がつく有名人だ。太田昌秀氏にかみつけば私は有名になれるだろう。
こんな私の思いつきを、安直なやり方だと笑う者がいるだろう。なんと身の程知らずの人間だとあきれる者がいるだろう。えげつないやり方だと軽蔑する者がいるだろう。勇気のある人間だと感心する人間がいるかどうかは知らないが、とにかく、無名な人間が有名人になるには有名人にかみつくのが一番てっとりばやいのは確かなのだ。
太田昌秀氏をはじめ多くの沖縄の有名人にかみつけば、いつかは私も有名人になれる。
そう信じている。
そう信じて、最初にかみつくことにしたのが太田昌秀氏だ。
なにしろ、太田昌秀氏は元琉大教授であり、元沖縄県知事であり、元国会議員である。沖縄では最高に地位の高いお人なのだ。
沖縄の三冠王とか沖縄の天皇と呼ばれているという噂を聞いたことがあるような気がするくらい太田昌秀氏は沖縄の最高の権威者であり有名な人間なのだ。
いや、天皇と呼ばれた人は初代沖縄県知事の屋良朝苗だったかな。どっちだったかな。はっきりとは覚えていない。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、最初にかみつくのは大田昌秀氏が最適だと私は考えた。
さて、かみつくにはどうすればいいか。
それは決まっている。
太田昌秀氏の書いた本を買って読むことだ。読みながら、本の中からかみつくことができそうな文章を探すのだ。
さて、大田氏のどの本を買おうか。ネットで調べるとなんと大田氏の書いた本は70冊以上もある。こんなにたくさんの本を書いているのかと私は驚いた。
沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの沖縄の民衆意識現代の差別と偏見(共) 、近代沖縄の政治構造沖縄健児隊(共)、「血であがなったもの、伊波普猷−人と思想−(共)、「伊波普猷の思想とその時代」、沖縄崩壊、沖縄人とは何か、日高六郎編「軍備は民衆を守りうるか」、『憲法改悪反対運動入門』(共)、沖縄−戦争と平和、「人間が人間でなくなるとき」ジェノサイド、留魂の碑−鉄血勤皇師範隊はいかに戦塵をくぐったか、沖縄の決断、沖縄差別と平和憲法―日本国憲法が死ねば、「戦後日本」も死ぬ、死者たちは、未だ眠れ・・・・・・・・・
ふう、みんな難しそうな本だ。どの本を買えばいいのか私は困った。
どの本がかみつきやすいのかは本の題名からはわからない。全部の本を読めば分かるのだが、70冊もの本を読むなんて読書嫌いの私には無理な話だ。
それに70冊もの本を買うと本代が10万円は超すだろう。貧乏人の私には10万円は大金だ。とてもじゃないが70冊もの本を買うのは無理だ。お金がもったいないし全部読むのは私には不可能だ。
私が買うのは一冊にしよう。三冊も四冊も買えば読むのが大変だ。
どの本を買うか。私は考えた。私は悩んだ。
本の題名を見比べてもどれがかみつきやすい本か見当がつかない。
悩んだ末に私が決断したのは一番新しい本を買うことだった。一番新しい本を買うことに特に理由はない。
一番新しい本の題名は「こんな沖縄に誰がした」だった。え、どこかで聞いたような題名だ。
ああ、わかった。歌に「こんな女に誰がした」という歌があった。いや違う。歌の題名は「星の流れに」だ。ずい分昔の歌であるがなかなかいい歌なのでスナックのカラオケで時々歌う。
星の流れに
作詞:清水みのる 作曲:利根一郎
星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
すさむ心で いるのじゃないが
泣いて涙も枯れはてた
こんな女に 誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の わびしさよ
こんな女に 誰がした
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に 誰がした
私が生まれる一年前の歌だ。
ぐっとくる詞だねえ。
昭和の名曲「星の流れに」は、菊池章子という歌手が歌ってヒットした。
この歌は戦争に翻弄され、満州から引き揚げてきて、生き抜くために身を落とした女性の手記(新聞への投書)を見た「清水みのる」が、そのやるせなさを思い作詞したそうだ。最初にこの曲を貰った歌手は、「こんな娼婦の歌など唄えない」と断ったのを、菊池章子さんが引き受けて歌ったといういきさつがある。
娼婦の女と沖縄をひっかけて「こんな沖縄に誰がした」と本の題名にした大田昌秀さんもなかなか味なことをやるじゃないか。
私は感心したね。
戦争に翻弄された女性が娼婦に身を落としたように、戦争に翻弄された沖縄も身を落としたと大田氏は書いたというわけだ。娼婦と沖縄か。意味深な題名だな。
私は「こんな沖縄に誰がした」を本屋で買ってきた。
私が沖縄関係の本を買うなんて何年ぶりだろう。
30年以上になるのではないか。いや、もっと前かもしれない。
たしか、大浜方栄さんという大浜病院の院長が書いた「教師は学力低下の最大責任者」という本だった。あの頃は学習塾をやっていたから、「そうだそうだ。沖縄はあまりにも学力が低すぎる。それは教師の教え方が悪いからだ」と本の題名に賛同するのがあったから買った。沖縄の本を買うのはあれ以来だ。
本の表紙は全体が朱色だった。
真ん中には白い円を描いている。
黄色の字で元沖縄県知事と書いてあり、黒字で太田昌秀著と書いてある。
文字の上には黄色の沖縄本島の図がある。そして、黒字で大きく「こんな沖縄に誰がした」と書いてある。
題名を見た瞬間に「お前がしたのじゃないのか」とからかいの言葉が脳裏にひらめいた。
すぐ相手をケチつけようとする私の悪いくせだ。
私は冷蔵庫から2リットルのおーいお茶のボトルを出しコップについだ。居間に行き食台にコップを置いて「こんな沖縄に誰がした」を開いた。テレビをつけたままだ。独り暮らしだから、テレビを消すと家中が静かになり独り暮らしのわびしさを感じるからテレビは一日中かけっぱなしだ。
本を開いた。
朱色の紙があり、それをめくると、「こんな沖縄に誰がした」と大文字で書いてあり、その下に沖縄本島の地図、さらにその下に大田昌秀著と書かれてある。
ページをめくった。
すると「まえがき」という太文字が右上に小さく申し訳なさそうに立っている。私はまえがきを読んだとたんに、「え」と驚きの声を発した。
「私は、本書で『こんな女に誰がした』もどきの泣き言を並べたてようと思ってはいない」
と書いてあった。私の予想とは違いすぎる書き出しだ。
「それはないよ、太田さん」
と私は思わず口にしていた。
「こんな沖縄に誰がした」という本の題名にしたのなら娼婦に身を挺した「こんな女に誰がした」の深い悲しみと沖縄の悲しみを重ねた本でなければならないはずだ。
ところが最初の一行で「『こんな女に誰がした』もどきの泣き言」と戦争に翻弄された女性の悲しみを冷たくつっぱねているではないか。大田氏は昭和の名曲「星の流れに」をあっさりと切り捨てた。
飢えて今ごろ 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
大陸から帰った来た女性はまだ家族にも会えていない。
妹は飢えていないだろうか、
お母さんに一目会いたい。
必死に生きながら女性は妹や母親の無事を願っている。
戦争が原因で娼婦に身を落としながらも妹や母の身の上を心配している女性。
そんな女性は戦後の日本にはたくさん居ただろう。
戦争の悲劇の真っただ中をを生きている女性の心情を大田氏は「泣き言」と冷たく突き放した。戦後の名曲「星の流れに」を冷たく突き放した大田氏に私は失望した。
菊池章子が歌った昭和の名曲「星の流れに」は多くの人に愛され、
藤圭子、戸川純、倍賞千恵子、島倉千代子、美空ひばり、ちあきなおみ、石川さゆり、秋吉久美子、小柳ルミ子など多くの歌手がカバーしている。
なんと美輪明宏もカバー曲を出している。
ユーチューブに掲載されている「星の流れに」ファンのコメントを紹介しよう。
菊池章子の歌声は当時の世情そのものである。ちあきなおみの歌声¬は高度成長期に聞く戦後のイメージである。倍賞千恵子の歌声はその清純さのイメージとかけ離れた落差が大きいゆえに別な何かを醸¬し出す。藤圭子は不幸をキャッチフレーズに売り出した人なのでこの歌を聴くとなんか空々しい。
戦後の疲弊した世の中で否応なく身を持ち崩す女の心情を吐露するような曲ではあるが、そんな女にも会いたい母の面影を追う気持ち¬を知らされる。当然と言えば当然すぎる人間の心。菊池章子が歌ったものとは違った味が賠償千恵子の清純な声から窺える。まさか賠¬償千恵子が唄うとは思ってもいませんでした。
はい、チョコレート色の国電(こんにちのJR中央線)の中で白装¬束の傷痍兵さんが松葉杖をつきながらコッツコッツ歩いていたのを¬覚えております。
最近の日本はあまり元気がないようですが、人生と同じく山あり谷¬ありです。ころんだら、這い上がって、立ち上がって。長い歴史を¬振り返ってもこれの繰り返しですよね。これらの写真を見てつくづく日本人は立派だと思いました。がんばれニッポン
「私たちの愛する沖縄の現状が日本国憲法の理念をもろもろの規定と余りにも異なり過ぎている事態を直視し、それが何に起因するのかを明らかにしたいのである。と同時に、できる限りその解決の処方箋を読者と一緒に考えてみたい」
昭和の名曲「星の流れに」は戦争で苦労した戦前生まれの人たちだけでなく、私のような多くの戦後生まれの人たちにも愛されている歌だ。
そんな「星の流れに」を単なる女の泣き言と錯覚している大田氏の精神を疑う。この人に人間の情というものはあるのだろうかと思いながら私はまえがきを読み進めていった。
田原総一郎に反論する
田原総一朗です。
7月5日午前、関西電力は
安全基準をクリアしたとして、
大飯原発3号機の
発電を開始した。
日本全国の原発が
停止しているなか、
昨年3月の福島原発事故以来、
定期検査で止まっていた国内の原発が
再稼働するのは
これが初めてになる。
この大飯原発の再稼働に抗議し、
原発のある、おおい町では、
役場周辺でデモ行進をするなど、
全国から集まった市民が
再稼働に抗議した。
大飯原発につながる道路は
市民グループによって封鎖された。
東京でも永田町の首相官邸前で
大規模なデモが何度も
おこなわれている。
6月29日のデモでは
主催者発表で20万人もの
人が集まった。
僕も原発はなくなったほうが
よいと思っている。
これほど危険なものはない。
3・11の福島原発の事故をみても、
とても人類が制御できるものではない、
ということは明らかである。
将来的には全廃すべきだろう。
ただ、原発再稼働は
これとは別の問題ではないだろうか。
今年の夏という
すぐ目の前の問題だからだ。
例えば関西電力が数字を出している。
もし大飯原発が再稼働しなければ、
今年の夏は、15パーセントの
節電が必要になるという。
このままでは電力が
不足することを政府も認めている。
橋下徹・大阪市長は、
原発再稼働に断固反対だった。
しかし、その橋下さんが
今夏に限って再稼働容認に転じた。
なぜか。
大阪には中小企業がたくさんある。
彼らが大阪の経済を支えていると
言ってよい。
その中小企業の経営者たちが
橋下さんにお願いしたのだ。
「再稼働をせずに夏を迎えれば
停電が起きるだろう。
停電が起きても、大企業は
自家発電機があるから大丈夫だ。
しかし自分たち中小企業は
そんな設備はとても持てない。
停電の被害をもろに被るのは
われわれなんだ」
これで橋下さんは、再稼働を
容認せざるを得なくなった。
「原発事故の危険性より、
目の前のリスクに腰が引けた」
という橋下さんの発言には、
こういう背景もあった。
だが、これをメディアは
きちんと報じていない。
先日、僕は大阪の新聞記者と話をした。
20年以上のキャリアを持つベテラン記者だ。
彼は再稼働に反対だ。
僕は彼に尋ねた。
「東京の新聞は、なぜ橋下さんが
反対から再稼働に転じたのかを、
ちゃんと報道しない。どうしてなんだ」
ベテラン記者は、大阪では
ちゃんと報じていると答えた。
東京にも記事を渡しているが、
東京本社が受け付けないのだ、と。
どういうことかというと、
地方は地方でやっていろ、
東京は別だという
意識なんだそうだ。
そして、これは
どの新聞も同じなのだ。
先ほど、東京でのデモの話をした。
この原発反対運動の中心は、
ツイッターだった。
チュニジアやエジプトで次々に革命が起き、
独裁政権が倒されていった。
ジャスミン革命である。
このとき、ツイッターや
フェイスブックが原動力になった。
マスコミは買収され、
政権の意のままの報道しか
しなかったからだ。
しかし、国民はツイッターや
フェイスブックで情報を分け合い、
互いに声をかけて、
デモがどんどん広がっていった。
これと同じ動きが
日本でも起きている。
とてもおもしろいことだと
僕は思う。
メディアが報じないことも
ツイッターで広がっていく。
さらに、ツイッターなどのネットで、
「脱原発派」と「推進・必要派」が
議論をしている。
なかには、かみ合わない
やりとりもあるだろう。
だが、続けていけば
議論は必ず深まっていくものだ。
僕は、ここに新たなジャーナリズムの
可能性を感じるのである。
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田原総一郎への反論
田原総一郎氏は「僕も原発はなくなったほうがよいと思っている。これほど危険なものはない。3・11の福島原発の事故をみても、とても人類が制御できるものではない、ということは明らかである。将来的には全廃すべきだろう」と述べている。
3・11の福島原発の事故の前に深刻な問題として問われ続けてきたのは地球の温暖化問題であった。
今年も日本は異常気象に襲われている。竜巻、豪雨、早すぎる猛暑は地球温暖化の性だと考えられる。ところが原発反対が起こると日本の異常気象に対するコメントが一切なくなった。原発反対を正義の旗印にするために地球温暖化問題は隅に追いやったのだ。
あんなに大問題にしていた地球温暖化問題に蓋をするのなら反原発を主張しやすい。しかし、地球温暖化もまったなしの問題であり目を背けることはできない。
地球温暖化問題を無視すれば原発反対は簡単に主張することができる。原発事故が起きれば広範囲の人たちが被害を受ける。処理できない核燃料棒は永遠に増え続ける。それを考えると原発はないほうがいいと考えるのが当然である。
しかし、原発問題はそんな単純な問題ではない。原発を廃止すれば化石燃料の発電所だらけになってしまい地球温暖化に拍車をかける。自然エネルギーを利用した発電はまだまだ時間がかかる。それに自然エネルギーは電気料が高い。自然エネルギーが増えれば増えるほどに産業の国際競争力が落ちる。
田原氏のようなベテランジャーナリストは日本の複雑な電気エネルギー問題を常に念頭に置いて原発問題を追及するべきであって、「「僕も原発はなくなったほうがよいと思っている。これほど危険なものはない」と単純に考えるのは避けてもらいたい。
もし、反原発運動の圧力で原発が全廃されたら、数年後には電気料金の高騰、地球温暖化問題が深刻な問題になって、原発再開運動が起こるだろう。それに原発発電所のある地帯の過疎化も深刻な問題になる。
私たちは複雑な問題を念頭に置きながら原発廃止問題を考えていかなければならない。
ところが、学者やマスコミは下記のような記事で国民の不安をあおる。
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「南海トラフ地震死者40万人、関西大教授が試算
読売新聞 7月6日(金)21時5分配信
東海、東南海、南海地震などが同時発生する「南海トラフの巨大地震」で想定される死者数は、静岡県から高知県の太平洋沿岸を中心に最大で約40万人に上るという試算を、河田恵昭・関西大教授が6日、大阪市で開かれた講演会で明らかにした。
河田教授は、同地震による人的被害の想定をまとめる内閣府の作業部会の代表で、8月下旬に公表される予定の被害想定の死者数も同規模になるとの見通しを示した。
東海・東南海・南海の三連動地震(マグニチュード=M8・7)による最大の死者数に関する従来の推計は、国の中央防災会議が2003年にまとめた約2万5000人だった。東日本大震災を機に内閣府は、南海トラフで起きる地震の規模をM9・0に引き上げ、今年3月に最大震度と津波の高さの予測を公表。現在、死者数など新たな被害想定の策定も進めている。」
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学者やマスコミがおかしいのは東日本が大津波に襲われたのをきっかけにして、今までの地震予測を大幅に変更して、日本が巨大地震、巨大津波に襲われる予測を出し、明日にでも第二の東日本大震災がやってくるような話をして国民に恐怖を植え付けていることである。
過去のデータを調べれば次に大津波がやってくる確率は出せる。恐らく次に大津波に襲われるのは数百年から千年後ではないか。自然のことだから予測はできなくても過去のデータからある程度の予測はできる。
ところが日本のマスコミと学者は過去のデータから次に大津波がやってくる可能性は発表しないで、まるで明日にでも大津波や大地震がやってくるような予測を次々と発表して国民を恐怖させている。
学者やマスコミが群集の恐怖連鎖をかきたてる発表をしているために、一部の国民は大地震への恐怖、大津波への恐怖がいっそう高まり、激しい反原発運動に走っている。
原発をすべて廃止して化石燃料の発電でいいのか。地球温暖化の問題は放置していいのかを客観的なデータのもとに討論するべきであるのにマスコミも学者も恐怖をあおるだけである。
原発再開に賛成しているのは、原発が事故を起こしたら直接被害を受ける原発のある地域の人々である。原発は過疎の村人に仕事を与えて地域経済の活性化の推進役を担っているからだ。原発は都市の富を地域に還元するシステムでもあるのだ。
原発に反対しているのは原発のない都市部の人々であるが、彼らは停電や電気料金値上がりを体験していないから正義ぶることができる。停電が起こっても原発反対を主張し続けるか疑問である。
地球温暖化、地域経済、中小企業、電気料金の価格などの多くの問題を原発問題は抱えている。すべての問題を見つめながら原発問題は考えていくべきだ。
私は原発に賛成である。しかし、核燃料棒を最終処理できないから原発の数はできるだけ限定するべきだ。そして、核燃料棒を処理できないのなら将来は廃止するべきであるが、それは将来の人々の判断にゆだねる問題である。
自然エネルギーの電力化はどんどん進めるべきである。しかし、自然エネルギーは出力を調整できないので、原発で自然エネルギーの調整をすればいい。
地球温暖化を防ぐために火力発電を減らしていくのは人類の重要な課題である。3.11で福島原発が大事故を起こしたから原発反対するのは単純すぎる発想だ。
田原氏は、東京に原発反対運動のデモがツイッターの呼びかけで20万人もの人たちが集まったことを、「チュニジアやエジプトで次々に革命が起き、
独裁政権が倒されていった。ジャスミン革命である。このとき、ツイッターやフェイスブックが原動力になった」とジャスミン革命重ね合わせて高く評価しているが、それは田原氏のかいかぶりすぎだ。
ジャスミン革命は「民主化」運動であり、人間の生存をかけた戦いだった。しかし、日本はすでに民主化されている。情報は自由に報道されているし政治運動も自由にできる。ツイッターで軽い気持ちで呼びかけて、軽い気持ちで参加したのが今度の東京デモであり、お祭りのようなものだ。
「ツイッターなどのネットで、『脱原発派』と『推進・必要派』が議論をしている。なかには、かみ合わないやりとりもあるだろう。だが、続けていけば
議論は必ず深まっていくものだ。僕は、ここに新たなジャーナリズムの
可能性を感じるのである」
と田原氏は述べている。ベテランジャーナリストとしては無責任な発言である。そのまま放置していたら、大地震は起こらなくなり、大津波もやってこないと思うようになると原発問題への興味は次第にしぼんでいき、別の社会問題が起こればそっちのほうに話題が移っていって、いつの間にか反原発を話題にしなくなっていく。それが日本ツイッタージャーナリストだろう。
ジャーナリストには原発問題を一般大衆より深く観察し、一般大衆が気付かない問題を提供しして、一般大衆の考えを深めていく使命がある。
田原氏はそうあってほしい。
沖縄の学者のだらしなさ
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の本の原稿つくりは最終段階にはいった。文章のほうは完成した。カバーのデザインがまだ完成していない。カバーが完成すれば印刷所との交渉だ。
印刷団地に見積もりを依頼し、先週の月曜日には見積もりを知らせる約束をしたのだがまだ電話もメールも来ない。どうしてこんなにルーズなのだろうか。まいってしまう。今日か明日にでも印刷団地に電話しよう。
桜井沖大教授は沖縄の世論と本土の世論の断絶を加速させている例として本土ジャーナリスの書いた新潮45の6月号での「沖縄叩き」の記事を取り上げている。本土ジャーナリスの主張を取り上げたのだから本土ジャーナリストに反論をするかと思いきや反論をしていない。「沖縄叩きに走っている」でチョンチョンである。
本土ジャーナリストは彼らの視点から沖縄を判断し、沖縄はこうこうであると述べているのであって「沖縄叩き」を目的にしているのではない。沖縄の私たちがやるべきは彼らの主張に賛同するかそれとも反対して反論するかである。それを賛同もしないし反論もしないで「沖縄叩き」などといって弱者意識をもろに出すなんてみっともない。沖縄の学者たちはどうしてこんなに主義主張がないのか。
新潮45の「沖縄の不都合な真実」は私も読んだ。彼らの主張に賛同するところもあったが、反発するところもあった。
反発する理由のひとつに沖縄に莫大な交付金をあげた裏には自民党の金権政治があったことを彼らは見逃していることだ。日本政府は沖縄に莫大な交付金をあげ、その裏では公共工事会社から多額の献金が自民党のある派閥に回った。
残念ながら、沖縄は「ゆすりの名人」になれるほど頭はよくないし知恵も回らない。沖縄を「ゆすりの名人」にしたのは自民党の派閥政治だ。
自民党政府は戦争被害の大きい沖縄に同情し沖縄の経済を発展させる名目でどんどん莫大なお金をあげた。次から次へと新しい公共工事を増やしていった。
自民党政府は沖縄をとても優遇した。それは自民党の派閥が潤うからだ。
自民党政府が沖縄問題で見向きもしなかったことがひとつある。それは尖閣諸島の領海問題だ。自民党政府は領海を守る努力を怠った。だから中国漁船や台湾漁船が沖縄の漁師を追い払って日本領海で堂々と漁をした。八重山近海の赤サンゴは台湾や中国の漁師の密漁で壊滅状態にされた。
なぜ、自民党政府は尖閣諸島の領海を真剣に守らなかったか。
海には公共工事はできないからだ。つまり自民党にお金が入ってくるシステムを領海問題ではつくれない。領海を守るのに懸命になってもお金が全然入ってこないから金権主義である自民党のどの派閥も尖閣諸島の領海を守るのに熱心になれなかった。
復帰当時から自民党政府が尖閣諸島の領海を守るのに真剣であったら中国漁船が大挙して尖閣諸島の領海に侵入することはなかった。日本の自衛隊は強いし尖閣諸島に外国の漁船を一歩も侵入させない気になればできた。できたのにやらなかったから中国漁船は侵入したのだ。警戒が厳しくなった今は一隻の中国漁船さえ侵入してこない。それが証拠だ。
中国漁船や台湾漁船が日本の領海に堂々と侵入できたのは自民党の金の亡者であった派閥政治が原因であるし、沖縄が「ゆすりの名人」といわれるほどに沖縄に莫大な交付金が入ってきたのは自民党の派閥政治が原因だ。
民主党政権はぐらぐら揺れていて沖縄どころではないから、今までの流れに乗っているだけだ。まあ、民主党政権であれ自民党政権であれ政権がぐらついている間は沖縄どころではないから沖縄への高額交付金は続くだろう。
沖縄対外問題研究会(我部政明代表)の学者たちが「沖縄は、今、どこに立っているのか、そしてどこに向かうのか」を理性のバトルを通じて明らかにするという。「理性のバトル」だとよ。理性が一体どんなバトルするというのか。本土のジャーナリストとバトルできない沖縄の学者になにができるのだ。
普天間飛行場の騒音被害は日本の法律と宜野湾市政の責任
本をつくるのに忙しくブログを更新する余裕がなかった。日本図書コード管理センターに申し込んでISBN出版者記号がもらえた。本の裏側に印刷されている二段のバーコードだ。これがあれば全国の書店やコンビニなどで販売できる。後は本の原稿を仕上げて印刷所にもっていけばいいが、本つくりに悪戦苦闘している。カバー、目次、前書き、本文、後書きなど、1ページから200ページ余まで完璧に仕上げなければならないから大変だ。でも楽しい。
新聞がとっても滑稽な記事を掲載した。
普天間飛行場とハワイのカネオヘベイ基地の図を掲載して、二つの基地の環境を比べて、「ハワイの学校で米軍機からの騒音はほとんど聞こえず、防音ガラスなどもない。日常的に騒音に苦しみ、定期的に米軍機墜落を想定した避難訓練をしなければならない沖縄の状況とはあまりにも違いすぎる」とハワイの米軍基地周辺と比べて普天間飛行場周辺の小中学校の環境の悪さを訴えている。
ハワイのほうは環境のことを考慮して騒音被害を徹底して抑えているのに、普天間飛行場では騒音をまき散らしていると新聞は暗にアメリカ対して怒っているが、それはおかしい。ハワイの基地の周辺はアメリカの法律が適用されるが、普天間飛行場の周囲は日本の法律が適用される。米軍基地の周囲の環境状況はアメリカの法律と日本の法律の違いである。
ハワイの米軍基地の環境に比べて普天間飛行場の環境が悪いのは日本の法律や普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった宜野湾市政の責任であって、アメリカの責任でもなければアメリカ軍の責任でもない。アメリカ軍は普天間飛行場の外側に対してはなんの政治的権限も持っていないのだ。新聞はアメリカの法律を普天間飛行場の周辺に適用しろと主張しているのだろうか。
それならば日本政府にアメリカの法律を普天間飛行場周辺に適用しろと要求すればいい。普天間飛行場の周辺の環境がハワイの米軍基地より環境が悪いのはアメリカや米軍の性ではなく、日本の法律と宜野湾市政の性である。悪いのはなにもかもアメリカ軍の性にするのはおかしい。
新聞がとっても滑稽な記事を掲載した。
普天間飛行場とハワイのカネオヘベイ基地の図を掲載して、二つの基地の環境を比べて、「ハワイの学校で米軍機からの騒音はほとんど聞こえず、防音ガラスなどもない。日常的に騒音に苦しみ、定期的に米軍機墜落を想定した避難訓練をしなければならない沖縄の状況とはあまりにも違いすぎる」とハワイの米軍基地周辺と比べて普天間飛行場周辺の小中学校の環境の悪さを訴えている。
ハワイのほうは環境のことを考慮して騒音被害を徹底して抑えているのに、普天間飛行場では騒音をまき散らしていると新聞は暗にアメリカ対して怒っているが、それはおかしい。ハワイの基地の周辺はアメリカの法律が適用されるが、普天間飛行場の周囲は日本の法律が適用される。米軍基地の周囲の環境状況はアメリカの法律と日本の法律の違いである。
ハワイの米軍基地の環境に比べて普天間飛行場の環境が悪いのは日本の法律や普天間飛行場の金網沿いに普天間第二小学校をつくった宜野湾市政の責任であって、アメリカの責任でもなければアメリカ軍の責任でもない。アメリカ軍は普天間飛行場の外側に対してはなんの政治的権限も持っていないのだ。新聞はアメリカの法律を普天間飛行場の周辺に適用しろと主張しているのだろうか。
それならば日本政府にアメリカの法律を普天間飛行場周辺に適用しろと要求すればいい。普天間飛行場の周辺の環境がハワイの米軍基地より環境が悪いのはアメリカや米軍の性ではなく、日本の法律と宜野湾市政の性である。悪いのはなにもかもアメリカ軍の性にするのはおかしい。
沖縄産業界の恩人サムエル・C・オグレスビー
サムエル・C・オグレスビー氏は、1911(明治44)年10月25日、アメリカ合衆国バージニア州で生まれた。1933(昭和8)年、メリーランド大学博士課程を卒業。1942年(昭和17)年米国陸軍に従軍し、1945(昭和20)年3月、米陸軍政府将校として来沖した。その後エール大学のファーイースタン・シビル・アフェア・スクールで極東問題と日本語の研鑽を積んだ。
同氏は、1950(昭和25)年3月、第二次世界大戦終焉の激戦地として灰燼化した沖縄に米国民政府職員として赴任され、沖縄の良き理解者として沖縄の経済、特に工業の振興に献身的に尽くされた。沖縄に勤務した16年間、同氏は、琉球工業連合会(現沖縄県工業連合会)のよきアドバイザーとして深くかかわり多くの産業を育てた。製糖、味噌醤油、食油、ビール、セメント、鉄筋、合板、菓子類に至る各製造業の90%は同氏の後援・指導を受けた。
以下、オグレスビー氏産業開発基金編「沖縄産業の恩人(故)サムエル・C・オグレスビー氏を讃えて」(昭和61年)に寄せられた寄稿より。
「彼は自分がいったんこうだと思ったことは、上司が難色を示そうと、粘り強く説得して自分の主張を通す、そういう信念と勇気の持ち主であった。」−具志堅宗精
「氏は、自分がアメリカで仕事をしても虫眼鏡で見る程のこともできない、日本の諺にもある通り、「牛の尾たるより、鶏頭たれ」とある。沖縄のために全力を尽くしたいといつも言っておられた。」 −宮城仁四郎
☆琉球工業連合会創立10周年記念事業
1963(昭和38)年5月21日に琉球工業連合会は創立10周年を迎え、これを記念して、会員の芳志を募り、会の発展に大きく寄与したオグレスビー氏の胸像を制作することを決定した。やがて、オグレスビー氏の等身大の、高さ約1.8mの胸像が完成し、翌64(昭和39)年12月2日、那覇市内の琉球東急ホテルで贈呈式と祝賀会が行われた。
☆オグレスビー氏産業開発基金の設立
胸像贈呈の2年後、1966(昭和41)年12月20日、オグレスビー氏逝去の報が琉球工業連合会に届いた。享年55歳。「沖縄に埋葬してほしい」との遺言があり、遺体は泊国際墓地に埋葬された。
翌67(昭和42)年に同氏の長年の功績を記念して、工業関係有志の浄財によりオグレスビー氏産業開発基金を設立し、現在まで奨学金授与並びに工業功労者表彰を毎年行っている。
(1)オグレスビー氏工業功労者賞
同賞の審査基準は、沖縄の工業発展に著しく功績のあった者に授与しようというもので、
○新規企業を導入して成功した者
○新製品を開発して成功した者
○その経営する企業によって沖縄経済に大きく貢献した者
○人格高潔なる者
○その他
また、沖縄の産業開発に有益な事業を興した者となっている。
(2)工業関係学生の学資援助
オグレスビー氏奨学金は、工業関係学科の在学生に対して、心身健全、志操堅固、学業優秀で、経済的に学資の支出が困難な学生に学資の一部を支給している。
☆オグレスビー氏顕彰墓碑建立
1968(昭和43)年には、沖縄財界人の浄財により、那覇市泊の国際墓地に顕彰墓碑を建立し、以後、命日(12月20日)には追悼式を墓前で行っている。
めじろと拳銃
冬になるとめじろが村にやってきて、がしゅまるの実や椿の蜜を食べる。
村の大通り沿いに空き屋敷があった。屋敷の中は雑草が茂っていた。屋敷の大通りに面している側に大きながじゅまるの木が植わっていて実を食べにやってきためじろが枝から枝へ飛び回っていた。私たちががじゅまるの下で遊んでいるとスペイン系のアメリカ青年とウチナーの彼女がやってきた。アメリカ青年は背が低くウチナーンチュと同じくらいであった。彼女は陽気で派手な格好をしていた。まだ十代のようであった。二人はがじゅまるを見上げてめじろを見ながら話し合った。彼女はめじろを指さしながら話した。するとアメリカ青年は内ポケットから小型の拳銃を出して、めじろに向けると一発撃った。しかし、めじろは何事もなかったように飛び回っている。彼女は笑いながらアメリカ青年をからかった。めじろに命中させることができなかったので「へたくそ」とでも言ったのだろう。二人の会話はざっくばらんで少年と少女の会話のようであった。
アメリカ青年はむきになってめじろに向かって数発撃った。ところがめじろは何事もなかったように平気で枝から枝へ飛び回っていた。彼女は大笑いした。アメリカ青年は弁解しながら拳銃をポケットに戻した。
彼女はアメリカ青年をからかい、アメリカ青年は弁解しながら去っていった。
「へたくそだなあ」
二人が去った後にヨシ坊が言った。飛び回っているめじろに命中させるのは非常に難しいことであるが、私たちは赤城圭一郎のファンで、抜き打ちの竜と呼ばれている拳銃の名手の映画を見ていた。竜は振り向きざまに拳銃を撃って、相手の拳銃を弾き飛ばした。竜はいつも敵の拳銃に命中させて拳銃を弾き飛ばして体に命中させることはしなかった。どんなに拳銃の名手でも竜のようなことはできるはずないが、小学生の私たちはできるものだと信じていた。だから、アメリカ青年がめじろを撃ち落とすことができなかったのをへたくそと思ったのだ。
このアメリカ青年は拳銃を撃つのが好きなようで、一号線を超えた場所に輸送管に沿って車道があったが、そこでカジノで使うチップを道路の反対側に立てて、チップに向けて撃っていた。
弾はチップに当たったり外れたりした。木の枝に自転車のチューブを細く切って取り付けたゴムカンという本土ではパンコと呼ぶ小石を飛ばすのを私たちは持っていたが、彼の拳銃の腕より私のほうが上だと思った。彼に勝負を挑みたかったが英語は話せないし、彼は私たちを無視して彼女とばかりいちゃついていたので勝負を挑むのを止めた。
勝負をしなかったのは心残りである。
拳銃を撃つのを見たのは彼が最初で最後だった。彼以外に拳銃を持ち歩いているアメリカ人はいなかった。
村の大通り沿いに空き屋敷があった。屋敷の中は雑草が茂っていた。屋敷の大通りに面している側に大きながじゅまるの木が植わっていて実を食べにやってきためじろが枝から枝へ飛び回っていた。私たちががじゅまるの下で遊んでいるとスペイン系のアメリカ青年とウチナーの彼女がやってきた。アメリカ青年は背が低くウチナーンチュと同じくらいであった。彼女は陽気で派手な格好をしていた。まだ十代のようであった。二人はがじゅまるを見上げてめじろを見ながら話し合った。彼女はめじろを指さしながら話した。するとアメリカ青年は内ポケットから小型の拳銃を出して、めじろに向けると一発撃った。しかし、めじろは何事もなかったように飛び回っている。彼女は笑いながらアメリカ青年をからかった。めじろに命中させることができなかったので「へたくそ」とでも言ったのだろう。二人の会話はざっくばらんで少年と少女の会話のようであった。
アメリカ青年はむきになってめじろに向かって数発撃った。ところがめじろは何事もなかったように平気で枝から枝へ飛び回っていた。彼女は大笑いした。アメリカ青年は弁解しながら拳銃をポケットに戻した。
彼女はアメリカ青年をからかい、アメリカ青年は弁解しながら去っていった。
「へたくそだなあ」
二人が去った後にヨシ坊が言った。飛び回っているめじろに命中させるのは非常に難しいことであるが、私たちは赤城圭一郎のファンで、抜き打ちの竜と呼ばれている拳銃の名手の映画を見ていた。竜は振り向きざまに拳銃を撃って、相手の拳銃を弾き飛ばした。竜はいつも敵の拳銃に命中させて拳銃を弾き飛ばして体に命中させることはしなかった。どんなに拳銃の名手でも竜のようなことはできるはずないが、小学生の私たちはできるものだと信じていた。だから、アメリカ青年がめじろを撃ち落とすことができなかったのをへたくそと思ったのだ。
このアメリカ青年は拳銃を撃つのが好きなようで、一号線を超えた場所に輸送管に沿って車道があったが、そこでカジノで使うチップを道路の反対側に立てて、チップに向けて撃っていた。
弾はチップに当たったり外れたりした。木の枝に自転車のチューブを細く切って取り付けたゴムカンという本土ではパンコと呼ぶ小石を飛ばすのを私たちは持っていたが、彼の拳銃の腕より私のほうが上だと思った。彼に勝負を挑みたかったが英語は話せないし、彼は私たちを無視して彼女とばかりいちゃついていたので勝負を挑むのを止めた。
勝負をしなかったのは心残りである。
拳銃を撃つのを見たのは彼が最初で最後だった。彼以外に拳銃を持ち歩いているアメリカ人はいなかった。
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