今朝の朝日新聞のインタビュー記事で私が「その通り」と思った部分を引用します。
<引用開始>
― 「原発事故の最大の問題は、専門家の想像力の欠如」とかねて指摘されています。
「原発を推進してきた専門家、政府、電力会社のすべてに共通するのは、原子力技術への自信過剰です。それが『安全神話』を浸透させ、万が一の事故に備える発想の芽をつんでしまいました。自分自身や家族が原発事故によって自宅も仕事も田畑も捨て、いつ戻れないかもしれない避難生活を強いられてらどうなるだろうか。そういう被害者の視点から発想して原発システムと地域防災計画を厳しくチェックし、事故対策を立てれば、違った展開になっていただろうと思うのです」
<中略>
「周辺住民の命を見る官僚や専門家は『三人称の視点』で見ているわけです。客観性、平等性を重視するので、どうしても乾いた冷たい目で事故や災害を見がちです。『もしこれが自分や家族だったら』という被害者側に寄り添う視点があれば、避難計画の策定もより真剣になっていたでしょう。私は客観性のある三人称と二人称の間の『2.5人称』の視点を提唱しています」
<引用終了>
柳田氏は事故調査を「死ぬ気でやってますから」と記者に伝えています。私と同じです。
このブログに私は以前に、このように記しました。
2012年07月19日
「人間愛」なき日本テレビの記者死亡事故の件
http://dream333.seesaa.net/article/281867020.html
<開始>
ポイントは一つです。
「日本テレビの報道局長は、取材班である部下に自分の子どもが含まれていたら、埼玉県警から出されていた死亡事故現場への現場取材の自粛指導を無視してまでも、取材を強行したのか、否か」
マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という名言を残されました。人間愛なき日本テレビは、部下の命には全く無関心であったということが分かります。
私は、講演で「ディズニーランドでは、パレードを柵の上や岩山の上で見ている人に声をかけ降りていただきます。それは、危ない行為をしている自分の子どもに注意する実の親と同じ気持ちだからです。他人であっても同じ空間と時間を分かち合っているファミリーです。皆さんは自分の子どもや大切な人が落下して大けがをしたら『自己責任』と考えるでしょうか。決して『自己責任』などとは考えないでしょう。ディズニーランドのキャストも同じなのです。このことがディズニーの『人間愛』の全てを物語っているのです」と語ります。
起きてはいけない事故が起き、二人の尊い命がまた奪われました。この事故は自然災害でも、労働災害でもありません。明らかに人災であり、遺族はこの事故に対し毅然たる態度で臨むべきであると考えます。
現在は、トラックや観光バスの運転手が重大事故を起こした場合、個人の責任以外に会社側の管理責任が問われる時代です。これは、マスコミの「営利」に対する厳しい追求がもたらした結果です。
そのマスコミが「取り返しのつかない」事故を生みだしたのです。犠牲者の死を無駄死にしないためにも、理性的な原因究明が行われなくてはならないと考えます。
<終了>
山田洋次監督は以下のように発言されています。
「たとえばイラク戦争の空爆で死んでいく子どもや女性たちがどんなにつらい思いをしているのか。想像することは、つまり思いやること」
東京ディズニーランドの実質的な創建者である上澤昇元オリエンタルランド副社長は「思いやりの心をもつ企業は顧客を必ず満足させ、従業員の志気と世間の評判を必ず高める事ができる」と著書に示され、私も講演では必ず上澤さんのことば「思いやりの心の大切さ」を述べてきました。
読売新聞がでっち上げた最後のパレード冤罪事件も同じです。私や私の家族への思いやりが門間順平記者に少しでもあれば、と思うと悲しくて涙が出てきます。
日本テレビに「記者が危険にさらされるかもしれない」という想像力が欠落していなければ、尊い人命は失われなかったでしょう。「会社側に責任はない」と開き直ることもなかったでしょう。
柳田邦男氏が指摘するように、国や東電が「上から目線」でなく、ディズニーランドの「ファミリー目線」で想像力を働かせていれば、この最悪の事故は起きなかったでしょう。
私は、口をすっぱくして語ってきました。「出来事は思想から生み出される」と。
安全文化は思いやり文化から生み出される、そう信じて疑いません。