7.シオニズムとイスラエル建国(2)
それまでは、差別されながらも、ユダヤ人は各国でとりあえず生き長らえてきた。そのため、シオニズムは一部のユダヤ人に支持されていただけだった。ところが、ナチス・ドイツでホロコーストが行われたことで、「このままではあの惨劇は必ず繰り返されるだろう」とユダヤ人の間で信じられるようになり、シオニストの掲げるユダヤ人国家が必要だという主張に一定の説得力が出てきた。また、ユダヤ人をパレスチナに押し出すことで、自国のユダヤ人問題を解決しようという動きも、西欧や米国に見られた。米国大統領ローズヴェルトの提案によって1938年に開かれたエヴィアン会議でも、参加した32ヶ国のほとんどがナチス第三帝国を追われるユダヤ人難民の受け入れに対して消極的であった。そうした情勢の中で「シオンの丘へ帰ろう」と訴えるシオニズムは勢いを得ていった。
◆1948年 第1次中東戦争
第2次世界大戦後、英国では労働党のアトリー首相の建言で、委任統治していたパレスチナ放棄を決定した。1947年11月に11ヶ国からなる「国連パレスチナ問題特別委員会」は、1948年5月を以って英国の委任統治が終了することを宣言し、パレスチナ分割案を決議した。国連のパレスチナ分割案は、パレスチナを「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」とに分割し、エルサレムを国際管理下に置くというものであった。しかし、総人口に占める比率で3分の1以下、パレスチナの土地の6%しか所有していないユダヤ人に、パレスチナの56%の土地を与えるという内容であり、「ユダヤ人国家」にしても人口の半数はアラブ人であった(厳密にいえば、ユダヤ人が1000人だけ多い)。
当初、この決議案はぎりぎりのところで否決されると予想されていたが、シオニストは投票延期に向けてありとあらゆる手段をとった。米国は当初反対を表明していたソ連を説得し、賛成に回らせた。シオニストに同調する国々の代表は、議事引き延ばしのために「マラソン演説」を行った。投票は延期され、仏国、フィリピン、リベリアなどが賛成に回り、賛成33ヶ国、反対13ヶ国、棄権10ヶ国で決議案は通過した。アラブ諸国は国連の分割案に強く反発した。
1948年に英国が撤退すると、シオニストはイスラエル共和国の成立を宣言した。翌日には、中東地域での米国の影響力が強まるのを嫌った英国の後押しでトランス・ヨルダン、エジプト、シリアの各国がパレスチナに侵攻し、第1次中東戦争(パレスチナ戦争)が始まった。もめごとを嫌ったパレスチナ人は侵攻してきたアラブ軍に非協力的であり、村への立ち入りさえ拒否してしばしば衝突した。実際、パレスチナ人は義勇兵として2000人が参加しただけだった。
なお、英国がトランス・ヨルダンなどを後押ししたのは、サウジアラビアに肩入れしていた米国に対抗して石油利権を確保しておくためであり、さらにスエズ運河の権益を守るためであったといわれている。
事前に入念な準備を整えていたイスラエルは、寄せ集めのアラブ軍を撃破し、圧倒的な勝利をおさめた。1949年の休戦協定では、イスラエルが全土の80%を支配し、20%はヨルダン王国に併合された。イスラエルはパレスチナ人を追放し、100万人以上が難民となった。
1948年から1954年頃にかけて、イスラエル政府は、「緊急法」や「公益のための土地取得法」や「不在者財産没収法」などによってパレスチナ人の村を「合法的に」次々と破壊し、土地を接収してキブツ(集団農場)やモシャブ(キブツに準ずる農業共同体)の手に移した。村人は追放され、難民キャンプに押し込められた。
デイル・ヤーシーン村では、無抵抗の住民254名が虐殺された。この事件の首謀者は、後にイスラエルの首相となったメナヘム・ベギンである。アイン・アゼイト村では、37名の少年がイスラエル軍に連行され、消息不明となった。サフサの村では、少女4名が強姦され、70名が目隠しされた上で射殺された。ドワイマ村では、女性や子どもを含む住民100名ほどがこん棒で頭を割られて殺された。
1956年10月29日には、カセム村に住んでいた非武装のパレスチナ人農民47人がイスラエル軍によって虐殺された。当初、イスラエル政府は報道管制を敷いてこの事件を闇に葬ろうとしたが、ヨーロッパにこの事件が報じられるに至って、責任者は裁判にかけられた。しかし、次々と減刑され、判決から1年半の間に全員が釈放された。命令を下した最高責任者は、日本円で10円にも満たない形式だけの罰金を払って釈放された。
イスラエル政府は、「パレスチナ難民は、アラブ最高委員会議長のアミン・フセイニーが人びとに村から離れるよう待避放送をしたからだ。責任はパレスチナ人にあり、ユダヤ人は無人となった村に住みついただけだ」と主張している。しかし、BBCや米国政府が傍受録音していたパレスチナにおける総ての放送を調査しても、イスラエル政府が主張するような内容の放送は見つからなかった。逆に、住民に村に留まるように呼びかけたアラブ側の放送は多数あった。今日に至るまで、イスラエル政府はこの件に関して「アラブ側の待避放送があった」という自らの主張を裏付ける物的証拠を提出していない。
1969年にイスラエルのエシュコル首相は、
ここは砂漠だった。未開発以下だった。何もなかった。彼ら(パレスチナ人)が我々の土地を取り上げることに興味を持ちはじめたのは、我々が砂漠を緑に変えてからのことだ。
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と述べた。また、イスラエルのゴルダー・メイール首相も、
パレスチナ人などいなかった。(中略)我々がやってきて、彼らを追い払い、彼らの国を奪ったなどというのは間違いである。そんな人間(パレスチナ人)など最初から存在しなかったのだ。
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と主張した。現在でも、イスラエルでは学校教育で「パレスチナは無人の荒れ地だった。現在の緑豊かな土地は、ユダヤ人移民の血と汗の結晶なのだ」「アラブ人は怠け者だ」と繰り返し教えられている。
しかし、イスラエル政府のこのような主張は事実に反している。パレスチナを委任統治していた英国が1947年に行った人口調査によれば、パレスチナ住民は130万人であり、そのうち85%がスンニ派イスラム教徒、残りはキリスト教徒、ドルーズ派、シーア派イスラム教徒などであった。1948年のイスラエル建国以前にユダヤ人が不在地主などから買い上げた土地は、パレスチナ全土の6%であり、残り94%はパレスチナ人が所有していた。この辺りの事情については、『パレスチナの真実』の中でパレスチナを訪れたユダヤ人アハッド・ハアムが「国中を通して、まだ耕されていない耕作可能な土地を見つけることは困難だ。(中略)ここに土地を買いに来た私たちの同胞の多くは、何ヶ月もこの国にとどまって、広い範囲に渡って旅行しながら、それでも求める土地を見つけられないでいる」と述べていることでも伺い知ることができる。
◆1956年 第2次中東戦争(スエズ戦争)
エジプトは国土開発のため、アスワン・ハイダムの建設を進めていたが、一旦は資金援助を約束していた米国が突然態度を変えたことで、建設は宙に浮いてしまった。ナセル大統領は、スエズ運河の国有化を宣言し、運河通行税から建設財源を捻出しようとした。イスラエルと英・仏軍はエジプトに侵攻した。国連で即時停戦決議案が可決され、ソ連の圧力で停戦が実施されてからも、翌年の3月までイスラエルは「シナイ半島は我が国の生命線であり、シナイ半島の占領は、我が国の安全保障上必要だ」と主張して撤退を拒み続けた。
第2次中東戦争の後、欧米諸国はアラブの国々と接近し、イスラエルは孤立感を深めた。
ドイツからの巨額の賠償金支払いも終わって、景気は後退していた。この時期、モサド(イスラエルの諜報機関)はエジプトにある米国大使館を爆破しようとして阻止されたが、エジプトと米国との関係悪化を狙ったものだと見られている。
また、イスラエルは核開発に踏み切った。軍事的に強大になることで国家の独立を保とうとしたものと見られている。イスラエルは、モサドの使って仏国でウラン運搬中の25トン積みトレーラを乗っ取ったり、西ドイツの企業を使ってイタリアに輸送されることになっていた酸化ウラン209トンを地中海上でイスラエルの船に積み替えるといった方法で核物質を入手した。後に、こうした核ジャックが困難になると、人種隔離政策をとって黒人を徹底的に差別・弾圧していた南アフリカ共和国に接近するようになった。イスラエルはナミビアの鉱山でウランを入手できるようになった。1979年9月には、南ア近海上空での核爆発が米国の軍事衛星ヴェラによって確認され、CIAはカーター大統領に「南アとイスラエルとの共同核実験である」と報告した。イスラエルには、現在、200以上の核弾頭が貯蔵されている。
1964年に、アラブ連盟は、自らの主導の下でPLO(パレスチナ解放機構)を設立した。PLOはイスラエルを非難したが、具体的な行動は起こさない、名ばかりの組織であった。
1965年には、ファタハ(パレスチナ解放運動)が設立され、イスラエルに対して武装闘争を開始した。ファタハはアラブ諸国で弾圧された。ファタハは当初ユダヤ人の排斥を唱えていたが、後に宗教に関係なく平等に生きられる社会を目指すという方針へと転換した。ファタハの指導者であったアラファトは、1969年にはPLOの執行委員会議長に就任し、ゲリラ勢力がPLOの実権を握った。
◆1967年 第3次中東戦争
イスラエル軍の挑発行為が続き、それに対抗してエジプトがチラン海峡を封鎖すると、イスラエル軍はエジプトを奇襲攻撃し、数百の航空機を破壊することで制空権を握った。ヨルダン川西岸からヨルダン軍が一掃され、ガザ地区、シナイ半島がイスラエル軍の手に落ち、ゴラン高原も制圧された。第3次中東戦争である。イスラエルでは「6日間戦争」と呼ぶ。
第3次中東戦争によってイスラエルは、ヨルダン川東岸を除くものの、1917年のバルフォア宣言で謳われていたパレスチナのほぼ全土を手に入れ、東エルサレムも併合した。イスラエルの領土は、5倍になった。「嘆きの壁」の前にあったパレスチナ人の住宅135軒は直ちにブルドーザで壊され、住民は銃で脅されて追放された。新たに100万人ともいわれるパレスチナ難民が発生した。この勝利によって作戦を指揮したモシェ・ダヤン国防相の名声は高まった。
イツハク・ラビン参謀総長(後の首相)らを従えて、エルサレム旧市街に入城したダヤンは国防相は「嘆きの壁」の前で「我々は他の民族の聖地を占領したのではない。自分たちの最も聖なる場所に戻ってきたのだ」と演説し、戦争の正当性を強調した。
第3次中東戦争のさなか、1967年6月8日にイスラエルの空軍および海軍は、米軍の艦艇「リバティ」を攻撃した。リバティには、最新鋭の高性能レーダーが装備されており、ゴラン高原への侵攻計画を察知されるのをイスラエル軍が嫌ったためであった。38名の乗組員が死亡し、 171名が重軽傷を負った。イスラエル軍用機はリバティを70分間執拗に爆撃した。米国政府から抗議を受けたイスラエル政府は「誤爆であった」と謝罪した。米国内で反イスラエル感情が広まるのを恐れた米国政府は、この事件をその後13年間極秘扱いとした。
1980年にリバティ事件が発覚し、アドレー・スティーヴンソン下院議員は、「米国の対外援助の43%が人口300万人のイスラエルに与えられ、彼らの軍備増強に使われている」と指摘し、イスラエルへの援助の予算を10%削減する修正案を提出した。しかし、修正案は議会で否決された。
1968年以降、テロと報復テロが繰り返された。イスラエル軍は、デモ参加者に容赦なく発砲し、多数の死傷者が出た。デモ参加者は逮捕され、拷問を加えられた。ヨルダン川を渡って戻ろうとしたパレスチナ難民は、女性や子どもの区別なく、無警告で次々と射殺された。「ホロコーストを経験した人びとが、パレスチナ人に対してナチスと同じことを平然とやっている」という話はにわかには信じられなかったが、アムネスティ・インターナショナルや国際赤十字が、占領地におけるイスラエル政府による残虐行為に関して多くの証拠資料を提出したことで、国際社会もイスラエル政府を非難するようになった。
イスラエル政府は、「第3次中東戦争で占領した地域を返還すればイスラエルを認知してもよい」というアラブ諸国からなされた和平会議の提案を拒絶し、エジプトを空爆して小学生30名を含む多数の市民を殺した。
1970年にPLOの一部がヨルダンでハイジャック事件を起こした。ヨルダンのフセイン国王は9月にパレスチナ・ゲリラの基地を攻撃し、2万人に及ぶパレスチナ人が死んだ。パレスチナ側ではこの事件を「黒い9月」と呼んだ。後に、同名のテロ組織が誕生し、1972年9月にミュンヘン・オリンピック村のイスラエル選手団宿舎を襲撃して選手2名を射殺した後、選手らを人質にとって獄中の同志200名の釈放をイスラエル政府に要求した。テロリストと西ドイツ警察と間で銃撃戦となり、イスラエル選手団に11名の死者が出た。ミュンヘン・オリンピックは予定通り開催された。
同年の5月には、自動小銃と手投げ弾で武装した日本赤軍のメンバー3名がイスラエルのテルアビブ郊外にあるロッド国際空港で乱射事件を起こし、パレスチナ人を含む26人が死んでいた。日本赤軍のメンバーのうち、その場で2名は手榴弾で自殺し、岡本公三1名が逮捕された。
イスラエルは、報復措置としてレバノンのパレスチナ・キャンプを空爆し、数百名を殺害した他、1973年にはリビア航空機を撃墜して乗客乗員104名を殺した。
◆1973年 第4次中東戦争
失地回復を目指すエジプトおよびシリアは、1973年にイスラエルに対して戦争を起こした。このとき、アラブの産油国は「イスラエルに味方する国々には石油を供給しない」という措置をとった。そのため、西側諸国では石油価格が前年と比べて一気に4倍以上にも高騰し、経済活動に多大なダメージが及んだ。第1次石油危機(オイル・ショック)である。石油のほぼ100%を輸入に依存している日本では、金融緩和政策によってインフレ心理が形成されていたこともあって、消費者物価が前年比で30%以上上昇するとともに、第2次世界大戦後、初めて経済成長率が前年比でマイナスを記録し、それまで1%台であった失業率が2%台に上昇した。不況下で物価が上昇するという、典型的なスタグフレーションであった。
軍事面では、イスラエルが優位に立っていたが、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)の石油戦略が功を奏して西独・米国・日本が次々とイスラエルへの資金援助を停止したため、撤退を余儀なくされた。イスラエル政府は、核兵器の使用もちらつかせて撤退を有利に進めた。
従来、シオニストは「イスラエルは神に導かれた国であり、イスラエル軍は必勝不敗」と唱えてきたが、アラブ側は「第4次中東戦争によってイスラエル必勝神話は崩れた」と主張した。
◆レバノン戦争への道
1974年10月に開かれたアラブ首脳会議では、PLOをパレスチナにおける唯一正当な代表と認め、パレスチナ国家建設の権利を承認した。PLOのアラファト議長は「革命家とテロリストとは何のために戦っているのかという点で違う。イギリスの植民地支配に対して戦った米国人やナチスに対するレジスタンスをテロリズムというのはおかしい」とし、「キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も一緒に民主的な国家の中で生活できるように協力しようではないか」と訴えた。革命家とテロリストとの違いは、結局は彼らの行動が社会によって受容されるかどうかというだけであり、両者を「目的」によって区分することなどできないが、アラファト議長の演説は好意的に評価された。
国連総会は、パレスチナ人の自決権、独立国家樹立、PLOの唯一正当な代表権などを決議し、PLOを承認する国の数はイスラエルを承認する国を上回るまでになった。
1977年にイスラエルでは、右派リクード政権が誕生し、(無抵抗の住民254名が虐殺された)デイル・ヤーシーン村虐殺事件の首謀者であるメナヘム・ベギンが首相に就任した。ベギン政権は、占領地にユダヤ人入植者を増やした。また、米国とイスラエルは、PLO抜きでイスラエルとエジプトとの和平交渉を進め、1978年に米国のカーター大統領、エジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相との間で「キャンプ・デービッド合意」が成立した。エジプトにとっては、イスラエルとの緊張緩和が進めば、膨大な軍事支出を他に転用できるなどメリットが大きかった。パレスチナ人の間では、自分たちを蚊帳の外に置いて進められたキャンプ・デービッド合意への非難が巻き起こった。
キャンプ・デービッド合意には、パレスチナ自治交渉に関する事柄も含まれていたが、イスラエルは合意を無視して1980年の7月には東西エルサレムを永久にイスラエルの首都とする法案を国会で通過させた。エルサレム首都法案は世界中のほとんどの国から反対された。大統領選挙が間近だった米国では、キャンプ・デービッド合意の意義を印象づけようとし、サダト大統領とベギン首相にノーベル平和賞を授与するよう根回しをした。
エジプトとイスラエルとの間で平和条約が調印されると、アラブ諸国はバクダードで外相・経済相会議を開催し、エジプトへの制裁措置を決定した。制裁措置には、アラブ連盟へのエジプト加盟資格の停止、アラブ連盟本部のエジプトのカイロからチュニジアのチェニスへの移転、エジプトに対する経済援助の停止などが盛り込まれていた。さらに、アラブ諸国は「アラブの大義」を裏切ったエジプトとの国交を断絶した(エジプトがアラブ連盟に正式に復帰したのは、1989年のことであり、本部がチュニスからカイロに戻ったのは、翌1990年になってからであった)。
1981年10月6日、軍事パレードの閲兵中にサダト大統領は暗殺された。イスラム原理主義者(ファンダメンタリスト)による犯行であった。
◆レバノン戦争
エジプトを気にせずに済むようになったことで、レバノンのPLOとシリアに対して全面的に軍事攻勢をかけるための準備が整った。1982年6月にイスラエルは、「ガラリヤの平和作戦」と称してレバノン南部に大規模な無差別空爆を行い、最新鋭戦車メルカバを含む機甲部隊もレバノン国境を越えた。総兵力は、イスラエル軍が50万人、PLOは1万人弱であった。開戦の理由は、イスラエルの駐英大使が何者かに襲撃されたからとされたが、実際にはレバノン侵攻ははるか以前から周到に準備されていた。
空爆は、一般市民の住宅、病院、学校も標的としていた。触れただけで爆発するクラスター爆弾、黄燐爆弾、シェルター専用爆弾といった対人殺傷を主目的とする残虐兵器が多数使用された。レバノンは、米国製の最新兵器の実験場となった。
イスラエル軍は、レバノンのキリスト教右派民兵(ファランジスト)と共同作戦をとり、一般市民を虐殺した。イスラエル軍は、国際赤十字の緊急救援物資や人道援助を目的とした世界各国からの救援物資のベイルート搬入を武力で阻止した。
さらに、イスラエル軍は、パレスチナ・キャンプ内の病院を制圧すると、負傷者の治療に当たっていた医師らに拷問を加えた。また、レバノン人捕虜の背中には黒い×印を、パレスチナ人捕虜の背中には白い×印をつけた。こうした行為は「かつてのナチスと変わらないもの」として世界各国から激しい非難を浴びた。イスラエル軍は、フランス国営放送、UPI、AP通信社の施設を破壊して国際世論の非難に答えた。
1982年6月17日付けの「タイムズ」紙によれば、あるイスラエル兵士は「連中は全員死んだ方がいい。パレスチナ人はどこにいようが病気のようなものだから、全部死んでほしい」と答えた
国連の停戦案をPLOとレバノンは受諾したが、イスラエルは拒否した。国連安保理事会のイスラエル非難決議案に対して、米国は拒否権を行使した。
イスラエル軍による破壊と殺戮の中でレバノンでは「PLOがいるから我々がこんな目に遭うのだ」という世論が起こり、各国のマスコミもなぜかイスラエル軍ではなくPLOの撤退を求め始めた。PLOは、イスラエルから「残ったパレスチナ人の生命の安全は保証する」という約束を取り付けた上で、仏・伊・米軍の監視の下でレバノンから撤退した。死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児6000人、家を失った者60万人を出し、9月1日にレバノン戦争は終わった。
現在、イスラエルは世界で第3位の武器輸出国であるが、各国に売り込む際には「レバノン戦争で優秀さが実証されたイスラエル製兵器」であると宣伝している。エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、チリ、パラグアイ、ソモサ時代のニカラグア、軍事政権下のアルゼンチンなど南米のほとんどの軍事独裁政権にも、イスラエルは武器・兵器を供与している。また、モサドが治安部隊の訓練にも出向き、反政府運動の弾圧に協力している。
◆レバノン戦争の後
しかし、PLO撤退直後の9月13日には、イスラエル軍は今度はベカー高原を空爆した。小学校や薬局が破壊された。15日には、レバノンで大統領就任式を待つばかりであったジェマイエルが暗殺され、それを口実にイスラエル軍が西ベイルートに侵攻した。ベイルートのパレスチナ・キャンプはイスラエル軍に完全に包囲され、イスラエル軍に手引きされたキリスト教右派民兵(ファランジスト)が非武装のパレスチナ住民を虐殺した。交渉のため白旗を掲げて近づいたパレスチナ人の長老は、イスラエル軍に至近距離から射殺された。イスラエル国防省は「難民キャンプはテロリストの巣窟である」と発表した。
9月17日に、イスラエル放送は、イスラエル政府が「キャンプを清める」仕事を右派民兵に任せたと伝えた。アッカ病院では、白旗を掲げて投降した医師3名が手榴弾を投げつけられて殺された。身動きできない負傷者はベッドの上で殺された。19歳の看護婦は、多数の右派民兵に輪姦されたあげく、全身を切り刻まれて殺された。虐殺行為が続く中、イスラエル軍は、助けを求めるパレスチナ住民を追い返し、右派民兵へ水と食料を提供し続けた。耳や鼻をそがれた遺体がキャンプの側に投げ捨てられていた。右派民兵の司令官は「キャンプを清めるには、もう少し時間が必要だ」といい、イスラエル軍司令官はこれを了承した。イスラエル軍が照明弾を打ち上げる中、虐殺は夜も続いた。虐殺の模様は、シャロン国防相やエイタン参謀総長をはじめ、ツィポーリ通信相、シャミール外相らイスラエル政府首脳部に逐一報告されていた。シャロン国防相は、右派民兵を「友人たち」と呼び、「友人たちの作戦は正しい」と述べた。
3000人以上が殺されたというが、虐殺された人びとの遺体は直ちにブルドーザで瓦礫の下に埋められてしまったので、詳細は不明である。9月18日になって、ベギン首相は「キャンプ内で虐殺があったとは知らなかった。BBC放送を聞いて初めて知った」と述べた。9月25日には、エイタン参謀総長は「虐殺は右派民兵が勝手にやったことで、極めて遺憾である。無実の者を殺害する罪は、最も重い」と発表した。
その後、PLO内部では深刻な路線対立が起きたが、イスラエル軍に対する抵抗運動は続き、イスラエル軍は1985年6月にレバノンから撤退した。
8.中東紛争の背景
中東紛争は、1つには英国の二枚舌外交に原因があったのは間違いない。また、一部のユダヤ人の運動に過ぎなかったシオニズムが第2次大戦後に広く支持されるようになったのは、ナチスによるホロコーストの影響が大きい。そして、ホロコーストの背景には、キリスト教社会における長年のユダヤ人に対する差別・抑圧の歴史がある。
さらに、米ソ冷戦の影響も非常に大きいだろう。アラブ諸国は、英国や仏国などの西側諸国(旧植民地宗主国)がイスラエルに対して支援を行ったことに反発して、ソ連に接近して軍事支援を受けていった。ベトナムや中南米でもそうだったが、共産主義恐怖症国家とでも呼ぶべき米国は、反ソ・反共の砦としてイスラエルに軍事面その他で強力なテコ入れをしたのである。米国が、イスラエルによるパレスチナ人に対する虐殺行為を見て見ぬふりをし、国連安保理でイスラエル非難決議に対して繰り返し拒否権を行使してきた理由は、イスラエルを中東地域における「共産主義の防波堤」としたかったからに他ならない。1989年6月の天安門事件
(注)を人権抑圧と呼んで中国を非難した米国が、天安門事件並みの出来事を占領地区でほとんど日常的に起こしているイスラエルをあそこまでかばいだてする理由は、共産主義の脅威を説いた「ドミノ理論」以外にないだろう。
米国政府にとって「国益」とは、結局は反共産主義なのである。米国は、自由と民主主義の総本山なのではなく、単に反共主義の権化なのだ。反共勢力であれば、やっていることがスターリンと変わらない人権抑圧であっても、「米国の友人」として容認されるのだ。
イスラエルは、中南米その他の地域の軍事独裁政権に武器・兵器を供給してきたが、それらの国々の多くは、「確かに反共かもしれないが、あまりにも人権抑圧がひど過ぎる」として米国の国内世論の支持を得られず、米国が武器・兵器の供与ができなかったところなのだ。そういった国々へ武器・兵器を供給するというのも、米国がイスラエルに期待している役割なのだ。今日、イスラエルは「死の商人」と呼ぶのがふさわしい状況にあるが、米国の反共主義がその背景にある。
それにしても、イスラエルの歴史を見ると、ホロコーストを経験した人びとが、パレスチナの地でパレスチナ人に対してナチスと同じことを平然とやっている事実にある種の驚きを禁じ得ない。追放・拷問・虐殺・占領・破壊・略奪といったありとあらゆる恥ずべき行為も、それをユダヤ人がやるときは正義となり、誰かがユダヤ人に対してやれば悪となる。
自分たちユダヤ人が神に選ばれた特別な民族なのだと信じているシオニストは「神が与えたカナンの地から異教徒を追い出すのは当然だ。彼らに情けをかける必要などない」と考えている。自国の安全保障のためと称して挑発行為を繰り返しては次々と戦争を起こすイスラエルは、自国を「萬世一系の天皇を頂く神の国」としていた数十年前の日本を彷彿とさせる。日本も、「満州・蒙古は日本の生命線」と称し、数々の挑発行為や柳条湖(南満州鉄道爆破)事件など自作自演の事件を引き起こした。
日本は敗戦によって正気に戻ったが、今日に至るまでイスラエルは、神がかりの軍事国家であり続けている。シオニストの率いるイスラエルは、領土拡張主義と異質なものに対する凄まじいまでの排他性を特徴としてきたといえるだろう。そして、そういった神がかり国家の傍若無人な行動を国際的に容認・支援してきたのは米国であって、その背後には米ソ冷戦があった。
(注)天安門事件(第2次天安門事件)
1989年4月、胡耀邦前総書記(1981年に中国共産党主席に就任。思想解放を掲げて改革を推進したが、共産党内の反発を受けて1987年に失脚)の追悼集会を契機に学生や知識人が共産党内の腐敗一掃や民主化を要求して、天安門広場を平和的に占拠した。学生らに理解を示した改革派の趙紫陽総書記は解任され、後任には上海市党委員会書記だった江沢民が就任した。中国政府は民主化要求運動を「反革命暴乱」とみなし、5月20日に北京は戒厳令下におかれた。6月4日未明には人民解放軍が戦車や装甲車を投入して広場の学生らを武力で鎮圧した。中国政府によれば、この事件で319人が死亡したという(犠牲者については数千人以上という説もある)。
当時、北京には各国の多くのメディアが詰めかけており、事件の生々しい映像がリアルタイムで流れたため、欧米諸国では中国の人権抑圧に対する厳しい非難が巻き起こった。各国の経済制裁措置により、中国は国際的な孤立を一時余儀なくされた。
※参考までに、イスラエルおよび占領地域の状況に関するアムネスティ・インターナショナル(国際人権保護団体)派遣団による声明(2002年2月5日公表)を示しておく。
原文は下記のサイトにある。
http://web.amnesty.org/web/news.nsf/WebAll/7BEAA32737D8E97480256B57005D5D86?
「アムネスティひろしま」の野間伸次氏による邦訳はこちら。
http://www.egroups.co.jp/message/hgr/1042
海外ニュース - 2003年9月30日(火)22時15分
<国連>人権委報告官がイスラエル非難の報告書
【ジュネーブ大木俊治】国連人権委員会のドガー特別報告官は、イスラエルがヨルダン川西岸パレスチナ自治区の領域に壁を築いているのは、国連憲章で禁止されている違法な「領土の併合」だとして、厳しく非難する報告書をまとめた。同報告官は国際社会に対し、イスラエルの行為を認めないよう要請している。報告書は来春ジュネーブで開く国連人権委員会に提出される。
同報告官は、6月22〜29日にヨルダン川西岸のラマラ、ナブルスやガザ地区、エルサレムなどを訪れ、人権状況を調査、報告書にまとめた。
報告書では、イスラエルの自衛権に留意しながらも、イスラエルとパレスチナ自治区の事実上の境界線であるグリーン・ラインを越えて壁を構築しているのは、自衛権を逸脱した「併合」にあたるとして、国連憲章や、国際人道法のジュネーブ条約への違反と指摘。また、イスラエルは4者協議の約束に反して「許容しがたいペースで」入植地を拡大しており、占領地の拡大政策を続けていることは明らかだと非難している。
さらに、イスラエルによるテロ容疑者への報復攻撃は、無実の市民を多く巻き込んでおり、国際法上「きわめて疑問」だと懸念を表明している。(毎日新聞)
[9月30日22時15分更新]