1.ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
創造主である唯一神ヤーヴェを信仰し、自らを神に選ばれた民であるとするユダヤ教が中東に生まれた。彼らの聖典は聖書であった。そのユダヤ教の中から「イエスは神の子であり、キリスト(救世主)である」とし、ユダヤ教の聖書を「旧約聖書」と呼び、イエスの生涯などを記述した「新約聖書」をも聖典とするキリスト教が派生した。その後、創造主をアラーと呼び、ユダヤ教の聖書とともに新約聖書の一部とクルアーン(コーラン)を聖典とし、ムハンマド(マホメット)を最高の予言者とするイスラム教が7世紀に誕生したのである。
こうした歴史的経緯があるので、ユダヤ教から見れば、キリスト教やイスラム教は、本来のヤーヴェの教えに余計なものをあれこれと付け加えたものと映る。また、イスラム教からすれば、ユダヤ教やキリスト教はイスラム教以前の段階での信仰であり、不完全であるとされる。
2.ユダヤ人とは?
日本とイスラエルとの関係は、せいぜいダイヤモンドの取引きでのつながりに過ぎない。日本は米国と並んで世界で1、2位を争う(宝石用)ダイヤモンド輸入国であり、イスラエルの日本向け輸出の約8割は、加工ダイヤモンドの輸出なのである。日本に輸入されるダイヤモンドのシェアを見ると、インドが第1位であり、イスラエルは第2位であるが、それを知る人は少ない。ちなみに、イスラエルの輸出総額に占めるダイヤモンド輸出の比率は、約25%である。
おそらく、ユダヤ人といっても、「ノーベル賞受賞者がたくさんいるらしい」とか「アウシュビッツ(アンネの日記)」とか「金儲けの才に長けている」とか「ユリ・ゲラー」とかいった漠然としたイメージぐらいしか日本人にはないかも知れない。『パレスチナ』(岩波新書、1987)の著者である広川隆一氏は「私は、ユダヤ人とはアンネ・フランクとアインシュタインとシャイロックを混ぜ合わせた人々で、アンネは悲劇の、アインシュタインは賢さの、シャイロックは金銭欲の象徴だと信じ込んでいた」(p.2)と述べているが、日本人のユダヤ人観というのは、これと大差ないように思われる。
「ユダヤ人」とは、一体どのような人びとなのであろうか?ジャン・ポール・サルトルは「ユダヤ人とは、他の人々がユダヤ人だと考えている人間である。これが単純な真理であり、ここから出発すべきなのである。(中略)反ユダヤ主義者がユダヤ人を作るのである」と述べている。こうした定義は、レトリックとしては興味深いかも知れないが、オペレーショナルなものとはいい難い。
まず、「ユダヤ人」という「民族」がいるのかどうかである。結論からいえば、ユダヤ人とは、独立した民族ではない。ユダヤ人とは、ユダヤ教を信ずる民を指す。「霊的ユダヤ人」と呼ぶ人びともいるが、早い話が、「ユダヤ教徒」なのである。人種や国籍は、ユダヤ人であるかとは無関係である。新約聖書には、「パリサイ人(びと)」という表現が登場するが、これはユダヤ教の1つの教派であった「ファリサイ派」のことであって、彼らもイエスと同じユダヤ人であった。旧約聖書に登場するソロモン王も、ダビデとヘテ人(ヒッタイト人)の妻との間に生まれた子どもであり、純粋なユダヤ人の血統などというのは、ナチスが唱えた「アーリア人の純血」と変わらない作り話に過ぎない。ニュルンベルク法の2ヶ月後にナチスが定めた条例の中では、「ユダヤ人」とは「祖父母4人のうち3人以上がユダヤ教徒の場合を<ユダヤ人>、1人がユダヤ教徒の場合を<ユダヤ系>」と定義していた。人種主義のナチスといえども、いざ改まって「ユダヤ人」を定義するとなると苦労したようで、結局、祖父母に「ユダヤ教徒」がいるかどうかという点に落ち着かざるを得なかった。
シオニスト(Zionist)はイスラエル建国に当たって、ユダヤ人を「民族」であるかのように捉えたが、そうした捉えかたは実態を無視した空論でしかなく、結局、「母親がユダヤ人か、ユダヤ教に改宗したもの」という定義に落ち着いた(これでもいろいろと問題が出てくるが)。
既に見たように、サルトルは「反ユダヤ主義者がユダヤ人を作る」と述べているが、そもそも、「ユダヤ人」なる概念は、キリスト教世界で作られたものであり、イスラム教徒には反ユダヤ主義などという視点はない。それは、キリスト教世界のものだ。十字軍が侵攻してきた当時、エルサレムに住んでいたイスラム教徒から見れば、「ユダヤ人」というのは「ユダヤ教を信じているアラブ人」なのである。身体的な特徴も言語も同じなのだから、そうした見方は当然だったであろう。エルサレムの歴史を振り返ってみても、「ユダヤ教徒とイスラム教徒との骨肉の争い」などというものはない。流血の惨事は、十字軍によって西欧のキリスト教徒がもたらしたものだ。十字軍兵士は、ユダヤ教徒もイスラム教徒も「サラセン人」と一括して呼び、虐殺と略奪の対象にした。
日本では、明治以降、キリスト教が広まっていく過程で反ユダヤ主義が伝わっており、「国際ユダヤ系資本による世界支配」などを説く書籍は、今日でも珍しくない。そうした書物の中に見られるユダヤ陰謀説は、帝政ロシアで秘密警察がユダヤ人弾圧を正当化するために作成した「シオンの賢者の議定書(プロトコル)」を焼き直したものでしかなく、学問的な検討に耐えられるとは思えない。株価にせよ、為替にせよ、その動きは系統的に予想できるものではなく、だれかの陰謀とやらで国際金融市場がどうこうなるなどというのは、経済学(国際金融論)を知らない人びとの妄想である。
日本ではキリスト教の影響力は極めて限定的であり、反ユダヤ主義的傾向も希薄である。ナチス支配下のドイツから日本に亡命したオッペンハイマーやマルクスの疎外概念とヴェーバーの合理化概念の類似性に着目した『ヴェーバーとマルクス』(1932)の著者として知られる哲学者のカール・レーヴィットは、在日ドイツ人(特に、ドイツ公使館やナチス教員同盟などの関係者)による排斥の動きはあったものの、日本の研究者が自分たちに理解と共感を示してくれたとして、大変好意的な感想を述べている。恐らく日本の研究者は、彼らを「ユダヤ人」ではなく、ドイツから来た著名な学者として厚遇したのだろう。日本政府が1938年に策定した「ユダヤ人対策要綱」でも「全面的にユダヤ人を排斥するなどというのは八紘一宇の国是に沿わない」として、ユダヤ人を一般の外国人と同様に扱うことが定められていたが、この規定も当時の日本人にとって「ユダヤ人」がどのような存在であったかを窺い知る上で興味深い。もっとも、ドイツとの同盟関係が強化され、新聞などでの反ユダヤ的風説が流布されるようになると、亡命ユダヤ人学者への圧力は強まっていった。最終的には、慶応義塾大学で教鞭をとっていたオッペンハイマーは滞在許可を剥奪されて、上海への亡命を余儀なくされているし、1941年には東北帝国大学文学部に5年間勤務していたレーヴィットも米国へ亡命した。
さて、話を「ユダヤ人」の定義に戻そう。日本人というとき、日本国籍を有している者という定義はできる。ハワイ出身の力士が日本に帰化すれば、日本国籍を持つようになる。日系ブラジル人とか日系アメリカ人といういい方に倣えば、「ハワイ系日本人」とでも呼べるかも知れない。この場合、身体的特徴その他と国籍とを考えればよいわけだが、ユダヤ人というときには信仰も問題となる。身体的特徴はユダヤ人だが、ユダヤ教徒ではない人も大勢いる。彼らは、ユダヤ人なのだろうか?
ユダヤ人には、19世紀以降に移民してきた白い肌の欧米系ユダヤ人(アシュケナージ)と浅黒い肌の東洋系ユダヤ人(セファルディ:元は「スペインの」という意味)とがいる。西欧のキリスト教絵画では、白い肌で金髪碧眼の聖母マリアが描かれるが、その後の研究によって実際には浅黒い肌で髪も目も黒かったと推定されている。パレスチナに住み続けていたのは、セファラディであった。
一部には、「主として東欧から移民してきたアシュケナージは、ユダヤ教を国教としたハザール国の末裔である。彼らの祖先は、神からカナンの地を与えられたわけでもないし、カナンの地に住んでいたこともない。アシュケナージは本来の意味でのユダヤ人ではない」という説(「アシュケナージ=ハザール起源」説)もある。アシュケナージはそうした見方を強く否定し、「我々は神に選ばれた正統なユダヤ人である」と主張している。アシュケナージ=ハザール起源説は、なぜ東欧にユダヤ人が多いのかという疑問にそれなりの答えを与えてくれるが、あくまでも仮説の域を出ておらず、DNAを調べるなどして検証していく必要があるだろう。なお、イスラエルでは、「アシュケナージによってセファラディは生活のあらゆる面で差別されている」として差別撤廃を訴える運動もNGOによって行われている。
シオニストは「ユダヤ人は、国を失い、各地へ四散しながらも、自らの信仰を失わなかった」と強調する。これは、必ずしも実態に即してはいないが、仮にそうだとすれば、ユダヤ人なるものは、同じ国に住みながら異なる信仰を持ち、決して同化しようとしない人びとであるとその国の他の人びとには映るであろう。特に、唯一神を奉ずるキリスト教社会ではその傾向が顕著である。キリスト教社会においては、ユダヤ教徒は身近な異教徒であり、「異物」であった。キリスト教社会において、ユダヤ人は土地を持つことができず、卑しいとされた金融などの仕事をするしかなかった。ユダヤ人への偏見の一端は、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にもはっきりと見て取れる。卑しい金貸しシャイロックは、当時のキリスト教社会抱かれていたユダヤ人像の反映であり、シェイクスピアがことさら差別主義的傾向を持っていたわけではない。
3.ユダヤ人とパレスチナ
ユダヤ教では、創造主である唯一神ヤーヴェが救うのは、イスラエルの民だけである。世界の3分の2は滅びてしまうのだ。ユダヤ教徒のユダヤ人は、いつか救世主(メシア:ヘブライ語で「マーシアハ」)が現れて、イスラエルの民を救い出し、イスラエル国家を再建してくれると信じてきた。
ユダヤ教徒のユダヤ人にとって、カナンの地(現在のパレスチナ)は、創造主である唯一神ヤーヴェが自分たちイスラエルの民に与えたものである。ユダヤ人が主張するパレスチナへの領有権は、単に昔そこに住んでいたという点にではなく、「聖書にそう書いてある」という点に求められている。信仰に根差している分、妥協ができない。日本とロシアとの間で交渉が進められている北方領土問題などとは、性格が異なっているのである。
もっとも、シオニストの主張に対して、欧州在住のユダヤ人の多くは当初批判的であった。1896年に『ユダヤ人国家』を著し、最初期のシオニスト運動を組織したテオドール・ヘルツルは、「約束の地カナン(パレスチナ)」にはそれほどこだわっていなかった。彼は、移住先はウガンダでもアルゼンチンでもよいとさえ考えていた。ユダヤ教界は、ユダヤ人が四散しているのは唯一神ヤーヴェのご意思であり、神が許さないうちに勝手に国を作るなどもってのほかだと批判したのだ。ユダヤ人の中でシオニズムに同調する動きが加速したのは、1933年にドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党:NSDAP)が政権を掌握し、「合法的に」ユダヤ人排斥を始めてからであった。シオニズム自体も、「約束の地」にはこだわらないという当初のヘルツルの路線から大きく変化していった。
なお、「パレスチナ人」という表現が出てくるが、正確にいえば、「パレスチナ・アラブ人」を指す。パレスチナの地に住み続けてきたアラブ人という意味である。パレスチナ人の中には、イスラム教徒もいれば、ユダヤ教徒(セファラディ)やキリスト者もいる。イスラム教徒の比率は確かに高いが、「パレスチナ人=イスラム教徒」とし、パレスチナ紛争を「ユダヤ教徒とイスラム教徒との宗教対立」として捉えるのは、必ずしも正鵠を射ていない。パレスチナ人の身体的特徴はその他のアラブ人と変わらない。「ユダヤ人」が宗教による区分だとすれば、「パレスチナ人」は居住地による区分といえる。
4.ユダヤ人差別の聖書的根拠
キリスト教社会でユダヤ人は差別されてきたが、その根拠の1つは新約聖書に求められる。キリスト教におけるユダヤ人は「イエスを十字架にかけたとんでもない連中」ということになる(マタイ27:23−26他)。
ただし、「一切罪のないイエスが全人類の罪を一身に背負って、自らの血で贖罪した」というキリスト贖罪説に立てば、ユダヤ人によってイエスが十字架にかけられて死んだことが人類救済のために不可欠であったともいえるので、「イスカリオテのユダの裏切りやユダヤ人の行為も神の人類救済計画の一環であった」といった解釈も出てくる。
余談だが、最古の福音書とされるマルコの福音書では、十字架にかけられたイエスは「神よ、神よ、なぜあなたは私を見捨てたのですか(エリ・エリ・サバクタニ)」と悲痛な叫びを上げるが、ルカの福音書では、イエスは「神よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分で何をやっているのか分からないのです」と祈り、静かに十字架の上で死を受け容れる。こうした描写の違いは、福音書が編纂された時期の相違に帰着するだろう。ルカによる福音書が編纂された時期には、既にキリスト贖罪説ができあがっていたと考えられる。
5.ホロコーストとキリスト教
ナチスによるホロコースト(元々は、ユダヤ教で神に「犠牲を捧げる」という意味)が広まったのは、ローマ・カソリック教会がこれを傍観・黙認したことによる。ローマ法皇庁は2000年3月に「ホロコーストを傍観していたのは間違いであった」と公式に認めたが、ユダヤ人に対しては謝罪していない。新約聖書の中にイエスを十字架にかけたのはユダヤ人であり、その血のせいで末代までも呪われてよいといったと伝えられているからだ。キリスト教の総本山を以って任ずるローマ法皇庁がユダヤ人に謝罪しないのは、新約聖書に基づく限り当然であろう。もし、謝罪すれば、新約聖書が誤っていると認めたことになるからだ。
ヒトラーのユダヤ人への数々の迫害を知っても、カソリック教会を始めとしてキリスト者がユダヤ人を救うために積極的に行動しなかったのは、新約聖書の記述からすれば不思議ではない。「ユダヤ人は当然の報いを受けているのだ」という気持ちをキリスト者が抱いたであろうことは、容易に想像できる。「インディアン(ネイティヴ・アメリカン)は、堕落して神に呪われたレーマン人の子孫」とするモルモン教会員が、白人によるネイティヴ・アメリカンへの数々の迫害を「神の怒り」であるとして傍観していたのと同じである。実際、一部には、マルチン・ニーメラー牧師(1892−1984)の「信仰告白教会会議」のように、「バルメン宣言」を出してナチスの教会介入に反対して国家と教会の分離を求める動きも見られたが、ユダヤ人に対する迫害をほとんどのキリスト者は傍観した。
注意してほしいのだが、ホロコーストは単なる大虐殺(ジェノサイド:genocide)とはイコールではない。ホロコーストは、旧日本軍が1937年の12月に中国南京を占領する際に引き起こしたといわれる虐殺事件(南京事件:南京大虐殺とも呼ばれる)などとは性格が異なる。
南京事件の場合、一部は、満足な補給もないまま苦戦を強いられた兵士たちが激昂や敗残兵への不安感から虐殺に走ったものと考えられており、いわば戦場における狂気が生み出したものといえる。また、戦時国際法についての認識が甘く、軍律裁判を行うといった正規の手続きを経ずに、便衣兵(平服のゲリラ)容疑者を処刑してしまったものであった。一方、ホロコーストに至るユダヤ人へのさまざまな迫害は、ヒトラーに率いられて、選挙を通じて形の上では合法的に政権を掌握したナチス党が、ドイツ国民の支持の下に1935年にニュルンベルク法(「ドイツ人の血と名誉を守るための法」では、ユダヤ人とドイツ人との婚姻や性的関係を禁止し、違反者には死刑を以って臨んだ。また、「ドイツ国公民法」では、ユダヤ人の公民としての権利を剥奪した)を制定し、同法に基づいて推進した政策だった。ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッぺルスは、日記の中で次のように述べている。
1942年2月14日:
総統は、欧州のユダヤ人を情け容赦なく一掃する彼の決定を、今一度表明した。それに関して、神経質なセンチメンタリズムなどあってはならない。ユダヤ人は破滅に値するのであり、今こそその運命が彼らを襲ったのだ。彼らの絶滅は我々の敵の絶滅と同一歩調をとってなされるだろう。我々は、冷たい無慈悲さでもって、この過程を促進せねばならない。
1942年3月27日:
手続きはきわめて野蛮なものであり、ここにより正確に描写すべきではない。ユダヤ人のうち残るのは、決して多くはないだろう。概して、彼らの約60%が消され、しかるに40%のみが強制労働に使用可能だ。
|
ナチス支配下のドイツでは、ユダヤ人は「合法的に」職を追われ、財産を没収された。ナチスは、ユダヤ人を国外へ追放させる政策を当初とっていた。しかし、戦況の悪化によって追放計画は実行不可能となっていった。1942年の1月に、ベルリン郊外のワンゼー湖畔でナチス高官による秘密会議が開かれ、ユダヤ人問題の「最終的解決」として絶滅政策が決定された。ワンゼー会議に基づいてユダヤ人は収容所に送り込まれた。絶滅収容所では、ユダヤ人は「チクロンB」(「チクロンB」というのは、製造元のデゲシュ社の登録商標であり、欧州では当時広く使用されていた市販の害虫駆除剤)から遊離する水素シアン化物ガス(hydrogen cyanide gas)で殺された。水素シアン化物ガスは、濃度300ppmで人間などの哺乳動物を数分で殺してしまうほど強い毒性を持っている。ナチスでは、ガス殺を「特別措置」と呼んだ。老人や幼い子どもを含む、労働力として役に立たないと判断された者はガス室に送られた。ガス殺を免れた者も、過酷な労働と飢餓、不衛生に起因する発疹チフスの蔓延などで苦しめられた。ヒトラーの指示を受けてナチス親衛隊(SS)が指揮したユダヤ人絶滅作戦によって、約600万人のユダヤ人が死んだと推計されている(「殺されたユダヤ人はもっと少なかった」「いや、そもそもホロコーストなどなかった」といった異論があるのは、南京事件と同様である)。
日本では、1997年にアイリス・チャンが出版した『ザ・レイプ・オブ・南京』の影響なのか、進歩的文化人と称する人びとの一部に南京事件とホロコーストとを同列に並べて論ずる傾向が認められる。だが、仮に、中国政府が主張しているように、南京一帯で「軍民合わせて30万人」が虐殺されていたとしても、その背景は全く異なっている。南京事件は、特定の「民族」を地上から根絶やしにするといった目的で、計画に基づいて淡々と行われたわけではない。もっとも、殺される側からすれば、そんな理屈はどうでもよいのだが。
6.シオニズムとイスラエル建国(1)
1882年以来、ロシアではユダヤ人虐殺(ポグロム)が起こっていた。東欧のユダヤ人青年らは、西欧で成功したユダヤ系大資本家ロスチャイルドによってパレスチナの地へ送り込まれた。送り込まれたユダヤ人は、現地で不在地主から土地を手に入れ、そこに住んでいたパレスチナ農民を暴力的に追い出し、行き場を失った彼らを低賃金で雇うことで農園を広げていった。ユダヤ人の入植はこうして始まった。
こうした動きの後に、仏国でドレフェス事件が起き、1896年にテオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』を著して、「同化によって迫害を免れることができるというのは幻想であり、やはりユダヤ人の独立国家を樹立するしか道はない」と主張した。ヘルツルが中心となって1897年には、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開かれ、シオニズムが広まっていく。シオニズムとは、植民地主義政策を進めていたヨーロッパ諸国の支援の下に約束の地カナン(パレスチナ)にイスラエル国家を作ろうという思想・運動である。ヘルツルは「[シオニズムは]アジアに対するヨーロッパの防壁となり、野蛮に対する文明の前哨」となるとして、西欧列強に支持を求めた。
シオニストは、ユダヤ人だけの国家を作るためにパレスチナ人を排斥したので、パレスチナ人を労働力として低賃金で酷使していた入植ユダヤ人(ロスチャイルド家に送り込まれた人びと)との間でしばしば衝突し、ユダヤ人同士での流血事件も起きた。
第1次世界大戦のさなか、パレスチナを含む中東地域をどのように分割するかについて英国と仏国の間で秘密協定(サイクス・ピコ秘密協定)が結ばれた。この協定に基づいて、そこに住む人びとの意向とは無関係に国境線が引かれていった。仏国は、レバノンを統治するためにマロン派キリスト者にテコ入れし、彼らがレバノンで多数派となるように山岳地帯の国境線を引いた。英国は、ヨーロッパで迫害されているユダヤ人をパレスチナに送り込むことでパレスチナ人と対立させて統治を行おうとした。
1915年にメッカの首長ハーシム家のフセインは、英国の高等弁務官ヘンリー・マクマホンに書簡を送って、アラブ国家の独立を支援してくれるよう協力を求めた。アラブ国家には、パレスチナも含まれていた。英国は、反トルコ側につけておきたかったので、アラブ人の独立を承認するという書簡を送った。世にいう「フセイン・マクマホン協定」である。
英国の外相バルフォアは、第1次世界大戦へのユダヤ人の資金協力の見返りとして、英国がユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設の後盾となることを1917年に約束した。「バルフォア宣言」である。シオニストは「バルフォア宣言」を根拠として、パレスチナへの移民を増やした。
アラブ国家の独立とシオニストのユダヤ人国家とは両立できるはずもない。アラブとシオニストと両方にいい顔をすることで、オスマン・トルコ帝国との戦いを有利に進めようという英国の二枚舌外交であった。
そんなこととは知らず、英国の要請を受けたフセインは、オスマン・トルコ帝国に反旗を翻した。欧米では、英国の諜報部員ロレンス(「アラビアのロレンス」として知られる)の働きが大きかったかのように描かれているが、実際には彼は連絡員に過ぎなかった(アラブ人の一団を率いてラクダで灼熱の砂漠を駆け巡り、鉄道の爆破を指揮するといった「アラビアのロレンス」像は、米国人ジャーナリストのローウェル・トマスの創作である)。
多くの犠牲を出しつつ、1918年にフセインの息子ファイサルはダマスカスに入城した。アラブの民衆は熱狂し、パレスチナを含むアラブの独立を誓い、パレスチナにユダヤ人国家を作ろうとしていたシオニズムへの反対を掲げた。しかし、サイクス・ピコ秘密協定に基づいて、用済みとなったファイサルは仏軍によってダマスカスを追放され、アラブ独立は成し遂げられなかった。
ファイサルの兄であったアブダラーは、英国の裏切りを知って怒り狂いダマスカスを攻撃しようとした。アブダラーの剣幕に驚いた英国は、アブダラーにトランス・ヨルダンを、ファイサルにはイラクを与えると提案し、2人はこれを受け容れた。当初、英国は、東西にまたがるヨルダン川の両岸をパレスチナとして委任統治しようとしていたが、1921年にヨルダン川西岸のみを「パレスチナ」と定め、バルフォア宣言の該当地域もこの部分に狭めた。右派のシオニストはこの決定を「修正」するよう求め、シオニスト修正派を創り、「ヨルダン川の東と西、こちらもあちらも我らのもの」と唱え続けている。
シオニストの中では、ヘルツルを弱腰と批判するワイツマンの「実践シオニズム」が主流となり、やがてベングリオン(後に初代イスラエル首相となる)の「建国強硬路線」に取って代られた。ベングリオンの指導の下、ユダヤ人国家樹立の基盤が準備された。
シオニストは「ユダヤ人の商品だけを買う運動」なるものを展開し、パレスチナ人商店を襲撃したり、そこで買い物をするユダヤ人に対して嫌がらせを繰り返した。これは、後にナチスがユダヤ人に対して行ったのとそっくりな行為である。
ドイツで1933年にヒトラーが政権を掌握すると、ユダヤ人排斥の動きが強まり、パレスチナへのユダヤ人移民は激増した。それにともなってパレスチナ人による反英・反シオニズムを掲げた蜂起が相次いだ。パレスチナ指導者の中には、フセイニー家のように、反英・反シオニズムという点だけでナチスと手を組むものさえ現れた。1942年には、シオニストは「ビルトモア綱領」を採択し、ユダヤ人国家建設要求を初めて明確に打ち出した。彼らは、一挙に国家を作り、既成事実化しようと考えたのである。