【歴史と教義】



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「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(「ヨハネの手紙第一」4:1)

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ8:15)


 二人組みの外国人宣教師で知られるモルモン教だが、その歴史と教義の概略を見てみよう。

正式な名称:末日聖徒イエス・キリスト教会(通称:モルモン教会)

本部所在地:アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイク市

創設者:ジョセフ・スミス.Jr.




【教会の歴史】

 少年時代の1820年に森の中で神に会ったという経験を持つジョセフ・スミス.Jr.(1805-1844)が、天使モロナイの導きによって掘り出したとされる金版(天使が持ち去ったので、現存しないとされる)をウリムとトンミムという道具を用いて翻訳し、1830年「モルモン書」として出版。ニューヨーク州に「末日聖徒イエス・キリスト教会」を設立する。それに先立ち、1829年の5月に洗礼者ヨハネとペテロ、ヤコブ、ヨハネが訪れ、アロン神権(小神権)とメルキセデク神権(大神権)をジョセフ・スミス.Jr.に与えたとされる。

 その後、神の啓示があったとし、教会幹部を中心に一夫多妻を行う。モルモン教会は、当初、多妻婚を批判していたので、多妻婚を堕落とみなしたモルモン教会の一部の人々がジョセフ・スミスの息子であるジョセフ・スミス3世を指導者とし、復元末日聖徒イエス・キリスト教会(現在は、「コミュニティ・オブ・クライスト」と改称)を創設するなど、組織上の分裂をみた。

 多妻婚は連邦法違反であったため、アメリカ合衆国政府と対立。いわゆる「ユタ戦争」となる。この戦争に敗北したモルモン教会は、「あくまでも多妻婚を続ける」か「多妻婚を止めて、合衆国の州となる」かの選択を迫られ、1890年に多妻婚の一時中止を宣言する(あくまでも、「中止」であり、放棄ではない)。

 創始者のジョセフ・スミス.Jr.は、1844年6月27日にイリノイ州カーセージの監獄で銃撃戦の末に死亡した(モルモン教会はジョセフ・スミスが無抵抗で死んだかのように述べているが、事実ではない)。




【教義の特徴】

 イエスが生まれたのは、紀元前1年の4月6日だとする。また、イエスが生まれた場所は、ベツレヘムでもナザレでもなく、エルサレムだとする(アルマ7:10)。

 古代アメリカ大陸にイエスが現れたとし、ネイティヴ・アメリカンの先祖はイエラエルから船で渡ってきたとする。「モルモン書」は、古代アメリカ大陸の民の記録が刻まれた書物であり、「イエス・キリストのもつ1つの証」であると位置付けられている。モルモン教会は、「聖書」を後世改竄されたとみなし、「モルモン書」「教義と聖約」「高価な真珠」の3冊の書物を「聖書」の原典から失われたわかりやすく貴い部分を述べ伝える聖典とする。

 「父、子、聖霊の3つは1つ」という三位一体を否定しているので、伝統的なキリスト教会(カトリックやプロテスタント諸派)からは、同じく三位一体を否定している「エホバの証人(ものみの塔)」や「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」と並んで、「3大異端」とみなされている。異端ということは、「あれはキリスト教を名乗っているが、本当は全然別物だよ」と見られているということである(もっとも、プロテスタント諸派の中には「カトリック教会は異端だ」と激しく排斥するものもある)。

 キリストの再臨後には、北米大陸がシオンの聖地となり、ソルトレイク市が神権政治の中心となるとしている。なお、「教義と聖約」の84:1-5によると、新エルサレムはミズーリ州の西の境にある神殿用地を基点として建設されるとしている。


 他の教会を「サタンの教会」とし、自らを「唯一の真の生きている教会」と称する。教会の指導者(大管長)を神の言葉(啓示)を伝える預言者とし、大管長を疑わずに従うことが正しい信仰のあり方とする(今日では、他の教会を「サタンの教会」と呼ぶことは、公式には行われていないが、事実上、モルモン教会員の多くはそう信じているし、そうした考えを改めるべきだとの積極的な指導はなされていない。つまり、そうした認識はモルモン教会によって黙認されていることになる)。

 モルモン教会は、一夫多妻を神聖な原則としつつ、啓示により再開してよいとされない限りは行わないとの態度を現在はとっている。

 モルモン教会員は、酒、コーヒー、お茶を飲まず、煙草も吸ってはならないなどとする「知恵の言葉」という戒めを守ることが求められる。「知恵の言葉」の中では、酒、熱い飲み物、たばこ、肉類は控えるように述べてある。「教義と聖約」の記述では、ジョセフ・スミスは「これは戒めではなく、挨拶である」としているが、その後拡大解釈が進み、現在のモルモン教会では「戒め」とされ、守っていないとモルモン教会の神殿に入ることができない(「神殿推薦状」が得られない)。また、「熱い飲み物」とはコーヒーやお茶などの「カフェインを含む飲み物」を指しているとされている一方で、肉類は控えるべきとの指摘はほとんど省みられていない。

 自慰行為や婚前交渉、女性の裸体の写真(水着もダメ)の閲覧、肌を露出する服装(女性の場合、ロングスカート以外履いてはいけない)などを禁ずる「純潔の律法」もある。また、日曜日は安息日とされ、労働、買い物、スポーツ、掃除、テレビ鑑賞、インターネットなども禁じられている。「エンダウメント」の儀式を受けた教会員は、ガーメントと呼ばれる特殊な下着を身に着けている。収入の1/10に当たる金額を教会に納める「什分の一」の戒めもあり、教会の財政を潤している。以上のような戒めを守っていないと、モルモン教会の神殿に入る(参入する)ための「神殿推薦状」が出ない。

 若い教会員(特に、男性)には、仕事や学業を中断し、自費で2年間の伝道に出ることが求められる。

 キンボール大管長の時代(1978年)まで「アブラハム書」(1835年に行商人から購入したミイラに付属していたパピルスからジョセフ・スミスが霊感によって翻訳したとされる文書)に基づいて黒人に神権は認められなかった。ジョセフやブリガム・ヤングは奴隷制度を「神が与えた神聖な制度」として奴隷解放論者を非難した(もっとも、今日ではモルモン教会は「ジョセフ・スミスは奴隷制度に反対したため、暴徒に殺害されたのだ」と教会員に説いている。モルモン教会は公民権運動に最後まで抵抗したことでもその超保守派ぶりを知られている。そのモルモン教会の創設者が奴隷解放論者であったとする主張は、にわかには肯首しかねるものである)。今日でも、女性に神権は認められていない。神権を持っているのは、「ふさわしい男性」の教会員のみである。

 モルモン教会が認める方法でバプテスマ(洗礼)を受け、モルモン教会の神殿で結婚(結び固め)をし、戒めを終生守った人だけが神の御下に行ける(昇栄できる)と説く。裏返せば、結婚しない(結婚できない)人はたとえモルモン教会員であっても、昇栄の必須条件である神殿結婚をしていないので、昇栄できないことになる。そのため、独身の教会員は「早く結婚したらどうか?」「なぜ結婚しないのか?」などと頻繁に他の教会員から詰問されることになる(モルモン教会では、救いには3つのランクがある。最もランクが高いのは「日の栄え」と呼ばれ、これを受けることが「昇栄」である。2番目にランクが高いのは「月の栄え」、最もランクが低いのが「星の栄え」である。星の栄えでも一応は救われるわけだが、神殿結婚しない限り、日の栄えを受けることはできない)。神殿結婚後に離婚した場合や夫婦のどちらかがモルモン教会を脱会した場合も、同様に残ったモルモン教会員も昇栄できなくなる。つまり、モルモン教会においては、救いは家族単位で捉えられる。また、現世での家族は死後復活しても家族として続くという「永遠の家族」を説いている。

 モルモン教会員はその他の人々よりも霊的により高い階級にあるとする。教会を離れた人々を「滅びの子」と呼んで、永遠に滅びると規定する点も特徴的である。もっとも、教義の上では「モルモン教会を正しいと信じつつ、教会を離れた者」が「滅びの子」となるのであり、「モルモン教会なんて間違っている」という認識の下に脱会した人たちは本来は「滅びの子」ではない。ただし、モルモン教会の中には「脱会者=滅びの子」という(教義上は厳密にいえば誤った)捉え方が浸透しているようであり、「反モルは滅びの子」といった使い方がなされる。

 モルモン教会の神殿では「エンダウメント」の儀式が行われ、4つのことを誓う。従順と犠牲の律法、福音の律法(指導者の批判をしない)、貞潔の律法、貢献の律法(教会のために、自分の時間とお金と才能を捧げる)の4つである。秘密の名前(「神殿名」:オウム真理教の「ホーリー・ネーム」のようなもの)も与えられる。モルモン教会員にとって、エンダウメントの内容を外部に漏らすことは、赦されざる行為とされている。かつては、外部に儀式の内容を漏らすものは、死を宣告された。

 神殿で行われる儀式には、「結び固め」と「エンダウメント」の他に、「死者のためのバプテスマ」もある。死んだ人の身代わりとなって(本人の生前の意思とかかわりなく)、生きている人間がバプテスマを受けることができるという教えである(そのため、故人をモルモン教に勝手に改宗させられた遺族などがモルモン教会に対して抗議することもある)。歴代のローマ法皇も没後にモルモン教に改宗させられているようだ。



【モルモン教会の奥義】

 以上で見たように、モルモン教会の教義は、伝統的なキリスト教の教えとさまざまな点で違うわけですが、中でも「(昇栄した)人は神になれる」とする教えは際立って「異教的」なものといえます。ここでは、それをモルモン教会の奥義と仮に呼んでおきます。

◆「アブラハム書」の要旨◆

 天父(神)のいわゆる「救いの計画 (the plan of salvation) 」なるものを説いているのが、「アブラハム書」です。「アブラハム書」は、ミイラに添付されていたパピルスをジョセフ・スミスが霊感によって翻訳したものとされています。救いの計画については、バプテスマのためのレッスンでも概略を教わります。

 今日のモルモン教会では、「父なる神」「神の御子キリスト(イエス)」「聖霊」の3つは1つ(三位一体)と説く伝統的なキリスト教とは異なって、「父なる神」「神の御子キリスト(イエス)」「聖霊」は別々の存在である(三位同位)としています。以下の説明は、その解釈を踏まえて読んで下さい。


 人間は神の霊的な子供であり、かつては神とともに暮らしていました。そのとき、人間は肉体を持っておらず、霊の状態でした。

 あるとき、神の命によって、人間は肉体を与えられて別の世界(我々の住むこの世界)に送られることとなりました。しかし、人間が再び神の御許に還ってくるためには「救い主(キリスト)」が必要でした。神の御子の1人であるルシフェル(サタン)が名乗り出て、「人間を1人残らず天に連れて還ります」といいました。それに対して、エホバ(イエス)は「人間に自由意志を与え、神の御心に従うか従わないかを自分で選ばせます。そして、御心に従う者を連れて還ります」といいました。2人の答えを聞いて、神はイエスを救い主(キリスト)として選びました。

 ルシフェルに従った者は、神の子のうち三分の一ほどいました。彼らは、エホバ(イエス)を救い主(キリスト)とするという神の決定に納得せず、エホバ(イエス)とエホバ(イエス)に従った神の子たちに戦いを挑みました。しかし、戦いに敗れて、ルシフェルとともに天から投げ落とされました。この戦いの後、エホバ(イエス)に従った神の子たちは、アダムから順にエホバ(イエス)が創ったこの世(我々の住むこの世界)に生まれてきました。



※以前は、エホバ(イエス)に従った神の子は三分の一とされていました。ルシフェルに従った神の子も三分の一でしたから、あと三分の一が残ります。このどちらにもつかずに、中立を守った三分の一が黒人の先祖だとされていました。黒人(の霊的先祖)は、エホバ(イエス)に逆らわなかったものの、エホバ(イエス)のために積極的に戦ったわけでもなかったので、霊的に一段低い存在だとされたのです。そのため、人種差別撤廃を訴えた公民権運動の後でも、モルモン教会ではキンボール大管長の時代(1978年)まで黒人に神権は与えられませんでした。

※伝統的なキリスト教によれば、元は御使い(天使)のかしらとして造られ、かつて神の玉座の右に座ることさえ許されていたルシフェル(Lucifer)は、自らの罪により天から投げ落とされました。その罪とは、高潔で神に対して非常に謙虚であったルシフェルがいつしか驕り高ぶり、被造物でありながら、自ら神になろうとしたことだとされています。

 なお、「アブラハム書」の元となったとされているパピルスについては、1967年に発見されてモルモン教会に返還された後、すぐに複数のエジプト考古学の専門家の手によって翻訳されました。しかし、翻訳結果は「アブラハム書」の内容とは全く一致せず、ごく一般的な「死者の書」であると結論されています。

【補論1】モルモン教会におけるイエスの位置づけ

 上記で述べた『アブラハム書』を踏まえると、モルモン教会の教義の上でのイエスの位置づけは以下のようになるでしょう。

(1)イエスは大勢いる天父の子の中の1人である(だから、「神の一人子」というわけではない)。
(2)イエスは天父の子らが天の国に戻るために必要な「救い主」として選ばれた。
(3)我々が住んでいるこの世界はイエスが作った(したがって、霊体のイエス=旧約聖書で描かれているエホバ)。

 要するに、モルモン教会によれば、神様には子どもがたくさんいるのです。「救い主」には選ばれたものの、イエスはその中の1人に過ぎません(神の一人子ではない?)。我々も、記憶はありませんが、この世界に生まれてくる前は天父とともに天の国に住んでいた神の子だと説くわけです。「人間はもともと神の子なんだから、霊的に成長してより完全な者となっていき、最後には神になっても不思議ではない」とモルモン教会員は理解しているのです。

【補論2】『アブラハム書』と創世記との整合性

 上記のようなモルモン教会の教えについて私が不思議なのは、『アブラハム書』に示されたこうした理解と創世記における人類創造の記述とは矛盾しないのかという点です。アダムは土(アダマ)から造られて、神に息を吹き込まれることで生きる者となったとされていますから、創世記の記述に沿えば、人間は神が造った被造物であって、神の子ではありません。アダムも天の国から生まれてきたのなら、神が男(アダム)を造り、そのあばらの骨から女(エヴァ)を造ったというあの記述は何なのでしょう?よく解りません。

 この点について、モルモン教会員は「『人が神の子である』とは、霊としては神の子であるという意味だ。土(アダマ)から人が作られたというは、元々あった材料で肉体が造られたということであり、そうして作られた命のない状態の肉体に霊を入れたことを『息を吹き入れた』と比喩的に表現しているに過ぎない。イブのあばら骨云々の箇所は象徴的表現であって、実際はアダムと同じように創造されたのだ」といった見解を表明します。

 確かに、創世記との整合性をとろうとすれば、こういう解釈が出てくるでしょうが、不自然な点もあるように見えます。

 創世記の第2章によれば、神は、アダムを造った後、「人が一人でいるのはよくない」といって、いろいろな動物をアダムの前に連れてきて、アダムがそれらの動物を何と呼ぶのかを観察していたが、「うーん、こりゃあ、ダメだな」と判ったので、アダムを深く眠らせて、そのあばらの骨からエヴァを作ったとあります。

 エヴァも天父の霊的な子どもであるなら、神(天父の子であるエホバ=霊体のイエス)がアダムの前にいろいろな動物を連れてきた理由が解りません。そんな必要はなかったはずです。アダムの伴侶はエヴァであると天の国で霊体であった時点から決まっていたのではないのでしょうか。

 アダムに息を吹き込んで生きる者としたら、次にエヴァにも同様に息を吹き込んで生きる者としたと述べればよいことでしょう。なぜ、ここで「象徴的」に表現する必要があるんでしょうか。モルモン教会においてポピュラーな解釈には、かなり不自然さを感じてしまいます。

 それから、「天父の子であるエホバ=霊体のイエス=この世界の創造主」という理解が正しいとして、エホバは創世記の時点では霊体のままなんですから、成長して神になるというプロセスを踏んでいないのではありませんか。にもかかわらず、いきなりこの世界を作っているわけです。世界を造るなんて大業は神様じゃないとムリでしょう。

 以下で述べるように、モルモン教会では、「人の生涯は試しの生涯であって、儀式を行ったり戒めを守り抜いたりすることで霊的に成長し、段々と完全な者となっていき、最後には神となり得る」としているわけですが、エホバは一体どこで霊的に成長したんでしょう?



◆「キング・フォレット説教」の要旨◆

 次に、「キング・フォレット説教」を取り上げます。これは、ジョセフ・スミスが1844年4月の教会の大会でキング・フォレット長老を追悼した際に述べたとされ、モルモン教会の聖典のどこかに書かれているわけではありません。「キング・フォレット説教」では、人間の生涯にはどのような意味があるのかについて、モルモン教会の立場からの説明を与えています。

 「キング・フォレット説教」では、人間の生涯を「試しの生涯」であるとします。人間には自由意志が与えられ、神の御心に従うことも反することも原理的には可能です。そして、神の御心に従った者だけが再び神の御許へ還ることができるとします。人の生涯とは、神の御許へ還るだけの資格があるのか見極めるためのテスト期間であるという見方です。人間は不完全な存在だが、モルモン教会の定める方法でバプテスマを受け、モルモン教会の神殿で結婚(結び固めの儀式)をし、モルモン教会の定めた戒めを生涯守り抜いて霊的に成長すれば、死後神の御許へ戻れる(昇栄できる)と説きます(「教義と聖約」)。霊的に成長し、昇栄を果たすことで人間は不死不滅の肉体をも手に入れて神になるという教えです。そして、神の御許へ還り、神となることが人間をこの世に送り出した父なる神の愛に応える唯一の道であり、正しい信仰のあり方なのだとするのです。

 私はキリスト者ではありませんが、被造物に過ぎない人間が神になるなど、伝統的なキリスト教ではまず唱えられることはない教えでしょう。「神は神であり、人は人」というのが、伝統的なキリスト教の教えの大原則・教理の中核であって、人は逆立ちしても神様にはなれないとされているのですから。

 さて、この「キング・フォレット説教」には、神も元は人間だったという解釈が出てきます。つまり、この世に住む我々人間の父なる神も、かつては人としてどこかの世界で人生を送り、霊的に成長を遂げて昇栄して神になったのだという解釈です。このような教義は、モルモン教会内ではよく口にされますが、伝統的なキリスト者が聞けば大変奇異に感ずるはずです。率直にいって、キリスト教というよりも、仏教の輪廻の思想に近いとも思えます。

 モルモン教会員は、モルモン教会の教義しか知らない場合がほとんどですので、伝統的なキリスト者と議論する場合でも、「キング・フォレット説教」を下敷きにして話してしまう場合が多いように思います。当然、話は噛み合わないわけですが。

 ちなみに、モルモン書では永遠の過去から未来に存在し続ける1人の神しか登場しません。いつの間に、神様に父親や母親がいることになったのでしょうか?

「私(モルモン)は神が・・・変りたもう神でもなく、無限の過去から無限の未来にわたって同じにましますことを知っている」 (モロナイ8:18)


 さて、モルモン教会員と思われる方から以下のようなメールをいただきました。

yas_kana 黒人差別について 2005 4/3(日) 13:16

当時の末日聖徒がどう思っていたかはわかりませんが、教会への奉仕の上で祝福を制限されることと、実際の社会生活で差別を受けることは、分けて考えるべきでしょう。ホームティーチャーを通して神権者の持つ祝福を得られたでしょう。
前世の業(カルマ)を背負って生まれるのは、仏教では当たり前ですが、キリスト教では考えられないことなのですかね。



 黒人を霊的に低く扱いつつ、実際の社会生活では彼らを白人と同等に扱うということがあり得るのでしょうか。事実は逆でしょう。実際の社会生活で黒人を差別することを、モルモン教会の教義は信仰の面で根拠づけ、合理化したのです。「あいつらの先祖は霊的にこれこれだったのだから、差別されても当然だ」という理屈です。モルモン教会員は「モルモン教会は『インディアンの友』と呼ばれた」などといいますが、『モルモン書』の中ではネイティヴ・アメリカンの先祖は不信仰のために呪われて肌の色が浅黒くなったとか、あらゆる忌まわしい習慣を行うようになったとか、怠惰で狡猾な民になったとか述べていますし、白人入植者がネイティヴ・アメリカンに対して行った数々の殺戮や文化破壊も「神の怒り」であるとして合理化・正当化しています。モルモン教会にとっては、ネイティヴ・アメリカンは改宗の対象であり、実際にネイティヴ・アメリカンの子供たちを引き取ってモルモン教に基づく教育を行ったりしたわけですが、そうした行為はネイティヴ・アメリカンの伝統や文化を否定するものでしかありませんでした。

 「俺たちの神の教えではお前たちの先祖は俺たちの先祖と同じだ」といい、「だから、俺たちの神を信じろ」と迫ったわけです。モルモン教会が正しいとする立場ではこうした行為は正しいものとみなされるのでしょうが、ネイティヴ・アメリカンの主な先祖がイスラエルから来たなどとするモルモン教会の主張に学術的な根拠はありませんし、信仰の自由は尊重されるにせよ、モルモン教会の教義がネイティヴ・アメリカンに対する白人入植者の迫害を神の怒りとして肯定・黙認させ、ネイティヴ・アメリカンの伝統や文化の破壊をも助長したという点は否定できないでしょう(キリスト者の中には「植民地化は人間の誤りだったが、住民の多くがキリスト教に改宗したのだから、よかった」などと評する向きもありますが、結果論に過ぎず無神経としか思えません)。

 私は仏教徒ではありませんから、仏教でカルマ云々が常識なのかどうかは判りませんが、いわゆる正統派のキリスト教で因果応報的な見方や輪廻を是認していないことだけは確かでしょう。「義人の苦難(信仰の面で正しい人がなぜ苦しむのか)」を題材としたヨブ記では、義人ヨブの息子たちが天災で倒壊した家屋の下敷きになって死んだり、財産を失ったり、ヨブ本人が重い皮膚病にかかったりしたのも、「ヨブがあなたを敬うのは、あなたがヨブを保護してやるからではないのか」というサタンの疑いに対して、そうではないことを神が示そうとしたからだけであり、ヨブ本人の言動とは何の関係もありません。ヨブの苦難は、創造主である神の都合です(ヨブ記そのものは、申命記に見られるモーセ律法の応報主義への痛烈な批判です)。また、正統派を自認するキリスト教会が自分たちとは異なる立場のキリスト教の会派を「異端」として排斥する際に、「輪廻」や「生まれ変わり」を教義で認めている点を異端の動かぬ証拠の1つとして挙げていたことも知られています。

 目の見えない人について、弟子たちが「この人の目が見えないのは、この人の罪のせいなのですか、それともこの人の家族の罪のせいなのですか」と尋ねたとき、イエスはそうした因果応報的な見方を否定して、「主の御業(みわざ)がこの人の上に現れるためです」と答えています。この方は聖書を読んだことがないのでしょうか。


 モルモン教会に在籍しつつ、同教会の問題点を真面目に考察されているトゥゲザーさんのWebサイト「モルモン教会の考察」(http://www.mitchan.jp/som/)も参考にして下さい。私は、同氏のサイトで多くを学びました。

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