【モルモン教との出会い】



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 私が生身のモルモン教会員と出会ったのは、私が大学に入ったときでした。同じクラスで割と親しくなった人物がモルモン教会員だったのです。彼はいわゆるモルモン二世というやつで、両親もモルモン教会員という家庭に育って、モルモン教会員になったという人でした。小柄で気の弱そうな、どちらかというと線の細い人物だったと記憶しています。

 彼と会うまでの私のモルモン教会に関する知識は、本部が米国のソルトレイクシティにあること、コーヒーなどを飲まないこと、地面から掘り出したモルモン経という書物を聖典としていること、2人連れの宣教師を日本に送り込んでいること、ぐらいでした。

 モルモン二世の彼とどんな話をしたのかはよく覚えていませんが、夏休み明けだったか正月明けだったかに会ったときに、彼が創価学会に入っていたのには、正直驚きました。彼は楽しそうな表情をしていましたし、その頃は彼とそれほど話もしなくなっていたので、どういう理由で彼がモルモン教会を離れたのかは分かりません。ただ、その一件があったので、モルモン教の存在は強く私の記憶に残りました。

【2度目の出会い】

 その後、長い間、私とモルモン教と間には接点はありませんでした。昨年の暮れに宣教師が夜間訪問してきたとき、どういう教えなのか興味が湧きました。知的好奇心というやつで、入信するとかそういう気持ちではありませんでした。そして、宣教師は分厚い「モルモン書」を私にくれました。

 私はとりあえず宣教師が指示してきた場所を読みました。それから、それ以外のところも興味の赴くままに読みました。で、分からない点を宣教師に尋ねました。私が最初に引っかかったのは、「アメリカ・インディアンの主な先祖はイスラエルから渡ってきた」という点でした。これは「モルモン書」の序文に書いてあるのですが、アメリカ・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)がモンゴロイドであり、氷結したベーリング海を渡ってアメリカ大陸に移住したことは、多少歴史や地理の勉強した人間には常識です。ところが、宣教師はそれを知らないんですね。「私はそのことについて知りませんが、祈ってみて真実だと御霊の答えがあるのでモルモン書は真実です。私はイエス・キリストを愛しています」というのです。

 まぁ、知らないのは悪いわけではないし、イエス・キリストを愛しても構いませんが、「祈ってみて正しいと分かるから」というのは、大いに納得がいきませんでした。

 私が「じゃあ、どこから上陸したのですか?」と尋ねると、宣教師は「知りません」と答える。私が「遺跡など裏づけとなる物証は出ているのですか?」と尋ねると、宣教師は「知りません」と答える。で、「祈りによって正しいことが分かっているので、真実です」とニッコリ微笑むんですよ。うーん、分からんヤツらだと正直思いましたね。

【バプテスマ・チャレンジ】

 とにかく、「モルモン書」を毎日1時間以上は読みました。宣教師が「モルモン書が真実かどうか、ジョセフ・スミスが真の預言者であるかどうか祈って下さい」というので、これも祈ってみました。 ちなみに、ジョセフ・スミスというのは、19世紀の人物で、少年時代に森の中で神様に会い、その後、天使の導きで「モルモン書」の元になる金版を掘り出したという人です。モルモン教会の創設者ですね。

 とにかく、毎日「モルモン書」を読み、毎日祈りました。傍から見ていたら、熱心な求道者と見えたかも知れません。何度か教会(といっても、ごく普通の建物なんですが)に出向き、宣教師と「モルモン書」の疑問点について話し合いました。しかし、論点はすれ違ったままでした。最後は、「祈りによって真実だと分かるので・・・」になってしまいます。私は答えを求めて、インターネットで検索し、モルモン教会を脱会された方々のケアをしておられる方の掲示板などにも書き込みをさせていただくようになりました。モルモン教会員の方が主宰しておられる掲示板でもよかったのですが、適当なのが見当たらなかったので、少々場違いかなとためらいつつも書き込みを続けました。現役のモルモン教会員の方ともお話する機会がそこで持てました。きちんと議論のできる方もいれば、わけのわからない悪口しかいわない人もいることが分かりました。

 そのうち、宣教師は私に「バプテスマを受けて下さいますか?」といい出しました。バプテスマというのは、洗礼のことです。要するに、モルモン教徒にならないかという話です。私はそんなつもりはそもそもなかったので、「教義にも納得がいかないし、祈ってみてもあなたがたのいう御霊の答えというのを全然感じない。こんな状態でバプテスマは受けられない」といいました。すると、宣教師は「教義について分からない点があっても構いません」といい、「1月29日までに御霊(みたま)の答えが必ずあります」と自信たっぷりにいい切りました。私はそこまでいうのなら、やるだけやってみるかという気になりました。

 レッスンが始まりました。6段階に分けてモルモン教会の教義について勉強しました。いろいろ疑問はありましたが、宣教師は急いでいました。レッスンも終盤に入って、別の地域から宣教師がやってきて、私を面接することになりました。バプテスマを受ける準備が整っているかどうか、受けるだけの資質があるかどうか調べるためのようでした。面接の結果は「大丈夫です」というものでしたが、私は御霊の答えは未だに受けていないし、教義にも納得できない旨訴えました。でも、「大丈夫です。私もあなたが必ず御霊の答えを受けることが分かります」とその宣教師も答えました。

 バプテスマ予定日が近づくにつれて、私は精神的な圧迫感を強く覚えました。祈りました。でも、何も感じません。何の答えも受けません。いよいよ、前日の夜、日本人のモルモン教会員から「明日のバプテスマの司会を頼まれたので、あなたのプロフィールを教えてほしい」との電話がありました。こちらはそれどころではない状態だったので、「御霊の答えがあれば、バプテスマは受けますが、なければ受けません。このことは宣教師にも伝えておいたはずです」とやや強い口調で申し上げました。

 とうとう29日が終わりました。結局、私は何も感じなかったので、翌朝宣教師のアパートに電話して、その旨を伝え、バプテスマをキャンセルさせていただきました。


【その後1】

 私が接触していた支部ではバプテスマは数年ぶりとかで期待も大きかったようですが、不発に終わりました。宣教師は、しばらく気にしていましたが、伝道部長に話したところ、「それはその求道者が戒めを守らなかったからじゃないか」といわれたそうです。戒めというのは、「コーヒーを飲まない」「お茶を飲まない」「お酒を飲まない」「タバコを吸わない」などなどこまごました決まりごとです。これらは「知恵の言葉」と呼ばれています。あと、教会員になると、収入の10分の1を教会に納める「什分の一」という戒めもあって、これはきちんと納めているかどうか面接までされるそうで、重視されているようです。私は、やる以上はちゃんとやりたかったので、毎日のように飲んでいたお茶を止めました。お茶ののど飴さえ断りました。タバコはもともと吸いませんし、お酒も宴席で勧められれば飲んでいた程度だったので、「知恵の言葉」を守ること自体は大した困難はともないませんでした。お茶はいまでも飲んでいませんし。

 にもかかわらず、調べもせずに、「戒めを守らなかったからだろう」と伝道部長が決めつけたのは、非常に不愉快でした。結局、「祈りの答えが受けられなかったのは、祈った方に何か問題があったから」と責任を転嫁するものです。実際、そのあと、教会にいったところ、ある教会員からは「疑って祈ってもダメです」などともいわれました。「私は、モルモン書は真実だと思いますし、信じたいと思っています。これは真実だと示して下さい」と祈らないとダメだというのです。これは宣教師にもいわれましたが、おかしいと思います。初めから信じているんですから、祈るまでもないことでしょう。「祈りの答えが必ずある」といい、結局何の答えも受けなかったら、「戒めを守らなかったのではないか?」と疑い、「祈り方が悪い」と責めるわけです。一体何なのでしょうか?

 私が反発したので、宣教師は「答えを受けても、分からないこともあります」などともいい出しました。「分からないのでは答えじゃないでしょう?答えという以上は、少なくとも本人には答えだと分かるはずです」と私がいうと彼は何もいいませんでした。

 その後、私の家庭の事情や私自身が手術で入院したことなどもあって、宣教師との接触機会はずいぶんと減りました。でも、まだ訪問はしてきますし、「教会に来て下さい」とも誘われます。


【その後2】

 同じ街の中ですが、引越してモルモン教会の支部から遠く離れたことで、宣教師が訪問してくることはなくなりました。ごく稀に電話がかかってきます。どうやら、求道者のリストのようなものがあり、それに私の名前と連絡先が載っているようなのです。で、「何か失礼なことがあったのでしょうか?」とか尋ねられることもありました。まぁ、失礼といえば失礼なこと(伝道部長に「戒めを守らなかったんじゃないか」などと疑われた)もあったわけですが、基本的には教義に納得がいかないし、あなたたちの伝道のやり方にも大いに問題があるという指摘をしたところ、「そうですか」といって電話は切れました。でも、しばらくすると、別の人から同じような電話がかかってくるんですよね。宣教師の間で全然引継ぎができていないようです。私などはどうということはありませんが、中には精神的にすっかりまいってしまった人たちもおられるわけです。そうした人たちのところにも同様に電話をかけ続けているのでは、「もう辞めたのにしつこく電話がかかってくる」と苦情をいわれても、反論できないでしょう。最低限、名簿の引継ぎぐらいはきちんとやるべきですね。


【勘違いキリスト者さんによる的外れな感想】

 モルモン教のことを「あれは異端です!」と吐き捨てるようにいう正統派キリスト者さんが結構いますが、正統派と異端とは三位一体を認めるか認めないかという違いでしかなく、キリスト教の枠内での争いに過ぎません。キリスト教の「外野」にいる私のような非キリスト者にとってはどうでもよい話です。実際、「神癒」を売り物にして信者をかき集めるとか、「終末」や「地獄」を無闇やたらと強調するとか、正統派を名乗るキリスト教会の中にもモルモン教などよりよほどアブナイ教会もあるわけですね。正統派だから大丈夫なんてことはいえません。「わたしたちはエホバの証人、統一教会、モルモン教会とは関係ありません」とチラシに書いてあっても、何の保証にもならないわけです。

 ここをお読みになって、「流木さんはモルモン教に引っかかりそうになった」とかトンチンカンなことを述べるキリスト者さんがちらほら見えます。中には、「イエスさまの愛に恵まれたい、イエスさまを信じたいという人なのでしょうか」とかいい出すキリスト者さんまで出る始末です。以下は、私が書き込みをさせていただいている「キリスト教否定論入門」というサイトの掲示板「信じる者は騙される」でその手の勘違いキリスト者さんによる的外れな感想に答えたものです。

7196 他人は自分とは違います 流木 2006/10/22 23:09

*アラーキーさん

 西洋の諺(ことわざ)に「カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る」というのがあるそうです。神と違って人間には他人の心の中を直接見通すことはできませんから、自分のものの見方や考え方を基準として他人のことをアレコレ想像することになります。相手の言動から他人の心の中を推し量るわけです。

 さて、

>  モルモン教に引っかかりそうになったのは、流木さんは家庭的に恵まれない人なのでしょうか?
>  それで本当はイエスさまの愛に恵まれたい、イエスさまを
> 信じたい人なのに、知的誠実性に欠ける一部のキリスト教徒
> のため、今一歩のところでキリスト教に入信できない?


 こういうのは、一部のキリスト者にありがちな反応なのですが、なぜこういう反応になるのかといえば、自分の興味・関心が自分が救われることにしかないからです。だから、他人もそうだと思ってしまうのです。

 はっきり申し上げますが、世の中には「救われたい」とかそういうことを思っていない人間の方が圧倒的に多いのですよ。少なくとも、非キリスト教国である日本ではそういっても間違いではないでしょう。ご自分が救われたいということだけでアタマが一杯だからといって、他人もそうに違いないと信じこむのは、想像力が足りなさ過ぎるといえるのではないでしょうか。

 なお、私のサイトをお読みになって、私が「モルモン教に引っかかりそうになった」と読んでしまわれたとしたら、アラーキーの読解力にも私は疑問符をつけざるを得ません。もっとも、これは知的能力の問題というよりも、思い込みのせいなのでしょう。他人も自分と同様に「イエスさまの愛に恵まれたい」と願っているに違いないそうに決まっているという激しい思い込みがあることで、見えるものも見えなくなるのです。

 自分と他人とは違います。あなたの興味・関心は他人にとってはどうでもよいことかも知れません。あなたの感じ方と他人の感じ方は全く異なっているかも知れません。あなたは信仰の世界にどっぷりとクビまで浸かっていて、他の世界があることなど想像もできないようですが、他人はあなたと同じように考えたり感じたりするわけではありません。あなたはそのことはしっかりと理解しておかれた方がよいと思います。


7197 Re:他人は自分とは違います 流木 2006/10/22 23:27

*アラーキーさん

 例えば、ここの掲示板にもいわゆる「出会い系サイト」の広告を貼り付ける人たちがいますよね。あなたのところにも、その手の迷惑メールが届いているかも知れません。

 確かに、世の中にはその手のサイトで異性と知り合ってウハウハ(?)になりたいとか、その手のことでアタマが一杯で寝ても覚めてもそればかりという人たちもいるでしょう。しかし、そうでない人もいるわけです。そうでない人たちがあの手の広告をみたら、「何が『出会い』だよ。バッカじゃねぇの!」という反応になるでしょう。

 ところが、自分が四六時中異性との「出会い」のことばかり考えていると、他人も当然そうだろうと思ってしまうのです。異性との出会いがあるといえば、他人は当然飛びついてくるだろうと信じているわけです。しかし、世の中のすべての人が異性との出会いなど望んでいるわけではありません。そんなことはどうでもいいとか、面倒だとか、むしろ出会いたくないとか思っている人たちもいるわけです。しかし、自分が異性との出会いのことばかり考えている人たちには自分とは違うそんな人たちがいることさえ想像できません。

 さて、一部のキリスト者さんはご自分が救われることでアタマが一杯です。自分以外の他人も当然そうだと思っています。しかし、世の中の人たちは彼らと同じように考えているわけではありません。その結果、他人が「イエスさまの愛に恵まれたい」とか「救われたい」とか思っているに違いないとしてしまうわけです。これは異性との出会いのことでアタマの中が一杯の人たちが他人もそうだと思い込むのと何も違いはありません。要するに、自分と他人とは違うのだというごく当たり前のことがわかっていないのです。

 なお、上記で「出会い系サイト」の話をしましたが、これはキリスト教信仰が「出会い系サイト」と同じだとかそういう話をしたのではありません。「自分と他人とは違う」という例として挙げたまでです。お間違いのないようにお願いします。



 lightofwayさんも読解力に著しく欠ける人物のようですが、以下で見るように、この「アラーキー」という方も少なくとも読解力の点においてはlightofwayさんと何ら変らないように見えます。勘違いキリスト者さんというのは、読解力の足りない人たちなのでしょうか?

7226 Re:他人は自分とは違います 流木 2006/10/28 17:58

*アラーキーさん

>  ということは流木さんはそう思ってないということですね。

 私は「イエスさまの愛に恵まれたい」とか「救われたい」とか思っているわけではありません。あなたはそういう気持ちなのでしょうが、他人はあなたとは同じではないのですよ。

>  このような例を引き合いに出して、LightOfWayさんが奇跡を売り物にする詐欺師のような人物といいたいのでしょうか?

 やれやれ、わざわざ

>上記で「出会い系サイト」の話をしましたが、これはキリスト教信仰が「出会い系サイト」と同じだとかそういう話をしたのではありません。

と注意しておいたのに、あなたは一体何を読んでいるのですか。「他人は自分と同じように考えているとは限らない」という例として、このところここの掲示板に連続して貼りつけられており、かつ多分あなたには興味も関心もなさそうな「出会い系サイト」の話を例に挙げたのです。あなたが興味を抱いていないのなら、「出会い系サイト」でなくても何でも構いません。あなたがグルメや旅行に興味も関心もなければ、それでもよいし、ファッションやクルマに関心がないのなら、それでもよいのです。そういったことでアタマが一杯の人ももちろんいるでしょうが、そんなことには全然無関心という人もいるわけですよね。私が指摘しているのはそういうことです。「出会い系サイト」という例自体には何の意味もありません。

>LightOfWayさんへの人間不信を流木さんが持っているといいたいのでしょうか?

 私はlightofwayさんという個人には何の関心もありません。私が興味を持つとしたら、lightofwayさんの言動、そこに示されるある種のパターンに対してだけです。いい換えれば、「勘違いキリスト者」の1つのサンプルとしてlightofwayさんに興味はありますが、それだけのことです。

>  モルモンで傷つけられたのでかなりの人間不信となり、キリスト教そのものも同類だとみるようになったのでしょうね。

 やれやれ、私はモルモン教に入信したわけでもありませんし、モルモン教会に傷つけられたわけでもありません。あなたの読解力というのも、相当に欠けておられるようですね。

>最初からカルトのうわさの高いモルモン教を選んでしまったことが原因ですか?

 「選んでしまった」といったいい方がそもそもあなたの発想ですね。私は入信しようとしていたわけではありません。

>統一教会やエホバの証人は普通のカルトといわれてますが、こちらのほうの興味はなかったのでしょうか?

 あなたのおっしゃる「普通のカルト」とは何ですか。

>  わたしとしては、まだモルモンのほうがましのようですが。

 実際に入信でもされて比較した上でのご意見でしょうか。

 いずれにせよ、私はlightofwayさんのことを「奇蹟を売り物にする詐欺師のような人物」だといいたくて「出会い系サイト」の例を挙げたわけでもありませんし、lightofwayさんに個人的な不信感を抱いているわけでもありませんし、モルモン教会で傷つけられたわけでもありません。要するに、あなたのご意見はあらゆる面でピントが外れまくっているとしか思えませんね。老婆心ながら申し上げますが、もう少し読解力を身につけられた方がよいのではありませんか。ご自分の思い込みだけで世の中を見るのは問題でしょう。


7228 勘違いキリスト者の論理 流木 2006/10/28 20:52

 URLを載せられないので、私のサイトに以前書いたものを転載しておきます。読みにくいので、適宜改行をいれてあります。なお、文中に「このサイト」とあるのは、私のWebサイト(「流木のWebサイト」)のことです。

> なお、ごく稀に、このサイトの上っ面だけ眺めて、「流木はわざわざキリスト教批判のサイトを立ち上げている」とか「反キリストだ」とか「キリスト教はマインドコントロールだとかカルトだとかいっているけど」とかわめき立てるキリスト者さんが一部におられるわけですが、相当に読解力に問題があるといわざるを得ません。

> 私は、非キリスト者ですが、キリスト教に反対しているわけではありません。ご自分がキリスト者に「なる」前にキリスト教を攻撃していたからといって、他人もそうだとか信じ込んでいるキリスト者さんもいますが、想像力が足りないとしかいえませんね。少なくとも日本に住む非キリスト者のほとんどは、キリスト教を敵視してはいませんよ。そもそも、キリスト教を敵視する非キリスト者が多いなら、誰がクリスマスを祝うでしょうか。クリスマスを祝う非キリスト者がほとんどだという事実は、キリスト教が日本では敵視されていないということです(もっとも、正月は神社に初詣に出かけることでもわかるように、クリスマスを祝うことに関して宗教的な意味合いは全くなくなっています)。それぐらいのことは、考えるまでもなくわかることです。

> まして、「反キリスト」とは失礼です。キリスト教の一般的な解釈では、反キリストというのは、「イエス=キリストの教えに背く者であり、悪魔の具現化であると解釈され、最後の審判の際に苦しみが与えられ、救いは決して得られない」とされています。要するに、最大級の罵りの言葉なわけです。こういう決め付けを極めて安易にするんですよね。で、そうまで罵るのなら、証拠を示せというと、そのまま逃げてしまう。謝罪の一言もない。本当に立派なキリスト者さんでいらっしゃいますね(笑)。こういう方々は、自分がキリスト者に「なった」(召された・信仰を恵まれた)のは、自分が他人よりも優れているからだとか錯覚している勘違いさんに過ぎません。パウロが「コリント人への手紙第一」で述べているように、ある人がキリスト者に「なった」のは、その人に知恵があるからでも、権力があるからでも、身分が高いからでもありません。むしろ、その対極にある社会的にはいないも同然な弱い立場の者を神は選んだとされています。ところが、神様に選ばれた自分は特別で、世俗的な意味で他人よりも優れているのだとか思い上がるようなどうにも頭のよろしくない方々がパウロの時代だけではなく今日でもいらっしゃいます。こういう手に負えない皆様は、信仰者である自分を誇り、信仰を恵まれていない非キリスト者を見下すわけです。

> そのくせ、彼らは無知で不勉強です。ちょっと調べればわかる程度のことも調べようとしません。最初から知識のある人はいませんから、無知は仕方のないことかも知れません。しかし、無知にあぐらをかいて、無知でいいんだといわんばかりの態度は問題でしょう。例えば、パソコン関係の掲示板で二言目には「初心者だから」といい訳する人たちがいますが、初心者だと自分で思うのであれば、そこから抜け出そうとする姿勢を見せてほしいものです。いつまでも、「初心者だから」といって、あれもこれも全部手取り足取り教えてもらおうという態度では、早晩誰からも相手にしてもらえなくなるのは明らかでしょう。到達している「レベル」の高い低いではなく、向いている方向、いわば「ベクトル」の問題なのです。そうした点を批判されると、逆ギレして、「無神論者ならそのことを理屈で示して下さいね」とか意味不明なたわごとを述べるのです。私は、カントが『純粋理性批判』で示したように、「神の存在も不在も人間には証明できない」という立場です。無神論者というのは、その人なりの神についての考えに基づいて「神はいない」とする立場ですから、当然、私は無神論者ではあり得ません。「神様がいるかいないかわからないといっているのは、神様はいないといっているのと同じだ」とおっしゃった方もおられましたが、「サイコロを投げて6の目が出るか出ないかはわからない」といったら、「6の目が出ないといったのと同じだ」となるんでしょうか。生きているうちにもう少し頭を使いましょうね。

 しばしば誤解されますが、私はキリスト教そのものを否定しているわけではありません。信仰を恵まれたことでへりくだり柔和な人となる例もあることを私は知っています。キリスト教信仰はそのような「善い実」を結ぶこともあります。しかし、他方では口先では「愛」を連発し綺麗事を並べた証をしながらも心の中では信仰の高みから他者を見下すような勘違いキリスト者さんも大勢生み出しているわけです。新約聖書の「ルカによる福音書」には、パリサイ人と徴税人との話が載っていますが、ちょうどあの話のパリサイ人のように自分の信仰を誇り他人を見下す下劣な偽善者もキリスト者の中には間違いなくいるのです。私は、キリスト教(とは限りませんが)のよい面=肯定的な(ポジティヴな)面を活かしつつ、悪い面=否定的な(ネガティヴな)面をどうしたら抑えることができるだろうと考えています。キリスト教そのものを撲滅しようとしているわけではありません。

 ご自分を「模範的な信仰者」だと錯覚している勘違いキリスト者さんにとっては、ご自分の考え=キリスト教=イエスの教えですから、私からご自分の勘違いぶりを指摘されると、キリスト教そのものを否定されたみたいに思い込むわけです。そうした思い込みに基づいて私をキリスト教否定論者だと誤解した上で、「流木はモルモン教によって傷つけられたことで極度の人間不信に陥って、その結果、キリスト教を撲滅しようとしているのだ」とか妄想しておられるようです。全くバカバカしい話です。

 はっきりいっておきますが、私はモルモン教会のせいで別に傷ついてもいませんし、モルモン教会と接触したことで人間不信に陥ってもいません。さらに、キリスト教を撲滅しようとしているわけでもありません。

 「普通と違う意味を込めて言葉を使うのなら、自分がどういう意味でその言葉を使っているのかをきちんと明らかにしましょう」とか「前後矛盾することをいわないようにしましょう。自分の主張をコロコロ変えるのではまともな議論にはなりません」とかいうのは、議論をする上では当然のことです。これは信仰とは何の関係もない話です。この当然の指摘に対して、信仰の話にスリ替えようとしたり、「問いかけにスルーしなければ、ずるずると中身の重要な問題、それは、神の御存在と聖書の言わんとしていることからずれていって、無用な議論に引きずり込まれていくからです」とかあれこれいい訳を繰り返してきたのがlightofwayさんです。

 「中身の重要な問題」とは何ですか?ご自分の主張をコロコロ変えているlightofwayさんにとって重要な中身などあるのでしょうか。議論は意見の交換であって勝ち負けではありませんから、議論を勝ち負けで捉えることは全く愚かな誤りですが、lightofwayさんは議論を依然として勝ち負けで捉えようとされています。そんなlightofwayさんにとって重要なのは議論に負けないこと、そして、ご自分のプライドを守ること、ただそれだけです。lightofwayさんには元々主張したい中身など何もありはしないのです。訴えたいことが最初から何もないからいい逃れるためにいっていることをコロコロ変えることができるのです。訴えたいことが何もないにもかかわらず、lightofwayさんがここ(「キリスト教否定論入門」の掲示板「信じる者は騙される」)に出入りし続ける理由は、結局のところ、ご自分のことを「模範的な信仰者」だと誰かに誉めてほしいからでしょう。そして、アラーキーさんはlightofwayさんのそうした知的に不誠実極まりない態度を擁護しようとされるわけです。愚かなことです。


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