モルモン教



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【はじめに】

 1999年の暮れ頃からいわゆるモルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)の宣教師と接触する機会を持ったので、その体験をもとに「カルト的なるもの」についてお話をしてみたいと思います。予め申し上げておけば、現時点でモルモン教会の教義が正しいとは、私には思えません。


【モルモン教との出会い】

 私がモルモン教とかかわった経緯について述べています。念のために申し上げておけば、私はモルモン教会に入信したことはありませんから、「元モルモン」教会員ではありません。

 しばしば誤解されますが、私はキリスト教そのものを否定しているわけではありません。信仰を恵まれたことでへりくだり柔和な人となる例もあることを私は知っています。キリスト教信仰はそのような「善い実」を結ぶこともあります。しかし、他方では口先では「愛」を連発し綺麗事を並べた証をしながらも心の中では信仰の高みから他者を見下すような勘違いキリスト者さんも大勢生み出しているわけです。新約聖書の「ルカによる福音書」には、パリサイ人と徴税人との話が載っていますが、ちょうどあの話のパリサイ人のように自分の信仰を誇り他人を見下す下劣な偽善者もキリスト者の中には間違いなくいるのです。私は、キリスト教(とは限りませんが)のよい面=肯定的な(ポジティヴな)面を活かしつつ、悪い面=否定的な(ネガティヴな)面をどうしたら抑えることができるだろうと考えています。キリスト教そのものを撲滅しようとしているわけではありません。

 ご自分を「模範的な信仰者」だと錯覚している勘違いキリスト者さんにとっては、ご自分の考え=キリスト教=イエスの教えですから、私からご自分の勘違いぶりを指摘されると、キリスト教そのものを否定されたみたいに思い込むわけです。そうした思い込みに基づいて私をキリスト教否定論者だと誤解した上で、「流木はモルモン教によって傷つけられたことで極度の人間不信に陥って、その結果、キリスト教を撲滅しようとしているのだ」とか妄想しておられるようです。全くバカバカしい話です。

 はっきりいっておきますが、私はモルモン教会のせいで別に傷ついてもいませんし、モルモン教会と接触したことで人間不信に陥ってもいません。さらに、キリスト教を撲滅しようとしているわけでもありません。


【教義への疑問点】

 いろいろあるのですが、思いつくままにいくつか挙げてみましょう。なお、熱心なモルモン教会員で信仰を損ないたくない方はこれ以降は見ないで下さい。見た結果、不愉快な気持ちになられたとしても、当方では責任を負いかねます。

 モルモン教会に集うのを最近辞めたが、「滅びの子になるのではないか」と不安でしかたがないという方は、是非お読み下さい。あなたの不安にはモルモン教の枠内ですら根拠がないということが分かるでしょう。なお、モルモン教会を離れるからといって、どこか別のキリスト教会に集わなければいけないわけではありませんし、まして「反モルモン」にならなければいけないわけでもありません。そんな義務も義理も、あなたには一切ありません。ご安心下さい。「モルモンはカルト」とやたらといいたがる正統派のキリスト者さんがおられますが、三位一体説を信奉している正統派のキリスト教会の中には、モルモン教会よりよほど「カルト」っぽいところがいくらでもあるという事実は十分に知っておかれるべきでしょう。「地獄」や「終末」をむやみやたらと強調して恐怖心を煽り、牧師への絶対服従を強いるような教会というのは別に珍しくもありません。

 また、モルモン教会に最近集い始めたが、親切な宣教師からバプテスマを受けるように求められてどうしようか迷っている方にも、一読されるようにお勧めします。あなたがよりよい選択をする上で有用な情報が含まれていると思います。ベストな選択は、「最初から相手にしないこと」ですが、あなたは宣教師とかかわりを持ってしまったわけです。次善の策を考えましょう。



【歴史と教義】

 モルモン教会の歴史と教義の特徴、およびその「奥義」(?)をごくごくかいつまんで説明します。教義の特徴は、体系的に挙げていません。



【活発モルモンさんたちの言動】

 とある掲示板への「活発モルモン」を自称される方々の投稿です。これらの投稿を読むことで、モルモン教会が、実際にはどんなところなのかその一端を窺い知ることができるでしょう。もっとも、総てのモルモン教会員がここに登場するような活発モルモンさんと同じだというわけではありません。いつの時代にも、どんな社会でも、いろいろな人たちがいるものです。ここでの実例だけで「モルモン教会員=悪人」「モルモン教会員=社会のクズ」といった短絡的な見方をするのは正しくありませんし、伝統的なキリスト教会に集い、神の愛を説いている方々の中にも、他の教派を口汚く罵られる方がおられることも知っております。さらに、モルモン教会を批判しているからといって、人格高潔で立派な人だと即断してはいけません。反モルモンを名乗る人たちの中にも、社会通念上どうしようもない人もいるのです。ある主義主張を掲げる集団に所属しているから立派な人だとか、世の中、そんなに単純ではないのです。「モルモンは異端でカルトだったからダメで、今度の教会は大丈夫」といった考え方そのものが問題なのです。そういう安直な考え方を続けている限り、あちこちの教会で痛めつけられることになるでしょう。それは誰のせいでもなく、そういう安直な考え方を抱きつづけていることの当然の結果なのです。



【モルモン教会へ求めるもの】

 モルモン教会およびその関係者への最低限の要求です。これら2つを実行するだけでも、世間から非難されることは格段に減るはずなのですが…。



【教養としてのキリスト教】

 モルモン教会の教義を理解するために、私の理解した範囲での伝統的なキリスト教をごく簡単に解説します。解説するのは、旧約聖書および新約聖書その他ですが、私は非キリスト者ですので、内容は第三者的かも知れません。また、私は聖書学の専門的なトレーニングを受けたわけではありませんし、聖書を読み始めたのは1999年の12月からです。キリスト教についての知識も、聖書理解もその程度のものだと予めご理解下さい。

 最初にお断りしておきますが、私はいわゆる正統派のキリスト教の立場からモルモン教を批判しているのではありません。また、私はここでキリスト教そのものを批判しているわけでも否定しているわけでもありません。後で触れるように、そういう誤解に基づいて非難めいたメールを送って来られるキリスト者さんが結構おられるわけですが、メールを送る前にもう少し相手の書いたものをきちんと読みましょう。

 なお、「聖書について枝葉の知識ばかりで、信仰の肝心の部分が抜けている」といったご批判は、キリスト教信仰を持たない非キリスト者にとっては、全く的外れであることを予め申し上げておきます。伝統的なキリスト教の立場からモルモン教会を批判しておられる方々もいらっしゃいますが、別に、伝統的なキリスト教に帰依しなくても、モルモン教会の問題点は指摘できます。むしろ、キリスト教の枠組から自由なだけ、奥歯にものがはさまったかのような議論をしなくても済みますので、非キリスト者の方が問題の核心に迫れる場合もひょっとしたらあるかも知れません。というか、自らを「正統派」と称し、「モルモンは三位一体を否定しているから異端」とか「モルモンはカルトだ」とかいったレッテル貼りで何か批判できたかのように考える伝統的なキリスト者さんがいるとしたら、その人は極めて幼稚な考えの持ち主といえるでしょう。得てしてそういう人物は、口先では「イエス様」を持ち出し、何かというと「愛」だとか「憐れみ」だとかいいつつも、心の中では信仰を恵まれている自分を誇り、信仰を恵まれていない他人(未信者)を見下していたりするものです。信仰を持たない人間からすれば、「正統派」と「モルモン」との間では、言葉は悪いのですが、「目糞、鼻糞を笑う」ような議論もないわけではありませんから。「人を幸せにするのが宗教で、不幸にするのがカルト」などという一部の「正統派」キリスト者さんたちの議論は、私にいわせてもらえば、バカげています。今日、正統派が正統派となったのは、ローマ帝国がキリスト教を国教とした際に、正統派の教義を採用したからに過ぎません。そして、国教となった正統派のキリスト教会は自分たちと異なる他の教派を異端として断罪し、徹底的に弾圧したというだけのことです。「正しいから勝った」のではなく、まさに「勝った者が正義を名乗った」というのがキリスト教における正統派成立の真実でしょう。

 さて、話を元に戻せば、キリスト教に関する知識が全くない状態でモルモン教会の問題を扱うのは少々無理があると思います。そこで、一般教養程度に「聖書のどこそこには、こんな話が書いてあるよ」「キリスト教の歴史ではこんな出来事があったよ」というご紹介をしていきたいと存じます。所詮は「付け焼刃」に過ぎませんが、全く何の知識もないよりは多少はマシでしょう。むろん、この程度の知識で「よし、キリスト教は分かったぞ!」といえるのであれば、聖書学といった学問分野はおよそ不要でしょう。「聖書の学びはそう簡単ではない」という「正統派」キリスト者さんからのご指摘は、当然のことですが、別にキリスト教に入信するわけではありませんので、その程度の知識で必要にして十分です。というか、キリスト教に入信するだけなら、聖書についての知識は不要です。文字の読めないお婆さんにでも信仰はできるのです。そもそも、宗教改革以前のヨーロッパでは、聖書はラテン語で書かれており、一般の信徒は聖書を読むことができませんでした。聖書を読めるのは、教会の聖職者だけであり、一般の信徒が聖書を読むこと自体が許されていませんでした。聖書をラテン語からフランス語やドイツ語に翻訳することそのものが罪だとされたのです。そのような状況ですから、一般の庶民は聖書を読んだことが一度もありませんでした。聖書を読んだことがなくても、当時の庶民がキリスト者だったことを疑うことはできません。まして信仰する上で教理を詳しく知る必要は全くありません。例えば、三位一体説は「それによってキリスト教が立つか倒れるかを決める重要な教理」だとされていますが、三位一体説を十分に吟味した上でキリスト者に「なる」なんて人はいませんよ。ごく普通のキリスト者は、キリスト者に「なった」後で、牧師さんなりから三つ葉のクローバでも見せられて「これが三位一体です」といったわかったようなわからないような説明を聞かされて満足しているのです。非キリスト者にとっては意味不明な説明ですが、信仰者にとってはアレで十分なのです。何しろ、イエスが存命中には新約聖書はまだ存在していなかった(聖書学者の研究によれば、福音書の中で最初に書かれたとされる「マルコによる福音書」ですら、イエスの死後30年も経ってからの著述です)のですし、先に述べたように、宗教改革以前にはラテン語で書かれた聖書を一般庶民が読むことは許されず、聖職者のお説教をありがたがって拝聴しているしかなかったわけですから(この点では、今日の日本で坊さんのお経を聞いているのと大差なかったわけです)。加えていえば、正統派キリスト教会は聖書学の研究成果を頑なに認めようとしません。「新約聖書に収録されている順番通り、マタイによる福音書が最初に書かれた」とか「ルカによる福音書を書いたのは使徒パウロの旅の同伴者であった医師ルカ」といった伝説を史実であると主張し続けているのです。まぁ、20世紀になってようやくガリレオ・ガリレイに対する破門(地動説を唱えた罪で)を取り消す人たちですから、それぐらいは当然といえますが(笑)。こちらのコンテンツを読んで、「枝葉の知識ばかりで、信仰の核心が抜けている」といった意味不明な批判を繰り返す一部のキリスト者さんたちには、好きにいわせておけばよいのです。何しろ、その「核心」なるものは、「言葉では説明できない」んだそうですから。言葉で説明できないものが、言葉の説明に抜けているという批判は意味があるんでしょうかね?信仰を持たず、「人間の小ざかしい理性」とやらに依拠するしかない私には全く理解できません。大体、信仰者でもない私が「信仰の核心」とやらを掴んでいたらそれこそ奇妙な話ではないでしょうか。知識が信仰へ至る道でないとしても、無知や理性の否定がそれに代わるものでないことだけは確かでしょう。

 なお、ごく稀に、このサイトの上っ面だけ眺めて、「流木はわざわざキリスト教批判のサイトを立ち上げている」とか「反キリストだ」とか「キリスト教はマインドコントロールだとかカルトだとかいっているけど」とかわめき立てるキリスト者さんが一部におられるわけですが、相当に読解力に問題があるといわざるを得ません。私は、非キリスト者ですが、キリスト教に反対しているわけではありません。自分がキリスト者に「なる」前にキリスト教を攻撃していたからといって、他人もそうだとか信じ込んでいるキリスト者さんもいますが、想像力が足りないとしかいえませんね。少なくとも日本に住む非キリスト者のほとんどは、キリスト教を敵視してはいませんよ。そもそも、キリスト教を敵視する非キリスト者が多いなら、誰がクリスマスを祝うでしょうか。クリスマスを祝う非キリスト者がほとんどだという事実は、キリスト教が日本では敵視されていないということです(もっとも、正月は神社に初詣に出かけることでもわかるように、クリスマスを祝うことに関して宗教的な意味合いは全くなくなっています)。それぐらいのことは、考えるまでもなくわかることです。まして、「反キリスト」とは失礼です。キリスト教の一般的な解釈では、反キリストというのは、「イエス=キリストの教えに背く者であり、悪魔の具現化であると解釈され、最後の審判の際に苦しみが与えられ、救いは決して得られない」とされています。要するに、最大級の罵りの言葉なわけです。こういう決め付けを極めて安易にするんですよね。で、そうまで罵るのなら、証拠を示せというと、そのまま逃げてしまう。謝罪の一言もない。本当に立派なキリスト者さんでいらっしゃいますね(笑)。こういう方々は、自分がキリスト者に「なった」(召された・信仰を恵まれた)のは、自分が他人よりも優れているからだとか錯覚している勘違いさんに過ぎません。パウロが「コリント人への手紙第一」で述べているように、ある人がキリスト者に「なった」のは、その人に知恵があるからでも、権力があるからでも、身分が高いからでもありません。むしろ、その対極にある社会的にはいないも同然な弱い立場の者を神は選んだとされています。ところが、神様に選ばれた自分は特別で、世俗的な意味で他人よりも優れているのだとか思い上がるようなどうにも頭のよろしくない方々がパウロの時代だけではなく今日でもいらっしゃいます。こういう手に負えない皆様は、信仰者である自分を誇り、信仰を恵まれていない非キリスト者を見下すわけです。そのくせ、彼らは無知で不勉強です。ちょっと調べればわかる程度のことも調べようとしません。最初から知識のある人はいませんから、無知は仕方のないことかも知れません。しかし、無知にあぐらをかいて、無知でいいんだといわんばかりの態度は問題でしょう。例えば、パソコン関係の掲示板で二言目には「初心者だから」といい訳する人たちがいますが、初心者だと自分で思うのであれば、そこから抜け出そうとする姿勢を見せてほしいものです。いつまでも、「初心者だから」といって、あれもこれも全部手取り足取り教えてもらおうという態度では、早晩誰からも相手にしてもらえなくなるのは明らかでしょう。到達している「レベル」の高い低いではなく、向いている方向、いわば「ベクトル」の問題なのです。そうした点を批判されると、逆ギレして、「無神論者ならそのことを理屈で示して下さいね」とか意味不明なたわごとを述べるのです。私は、カントが『純粋理性批判』で示したように、「神の存在も不在も人間には証明できない」という立場です。無神論者というのは、その人なりの神についての考えに基づいて「神はいない」とする立場ですから、当然、私は無神論者ではあり得ません。「神様がいるかいないかわからないといっているのは、神様はいないといっているのと同じだ」とおっしゃった方もおられましたが、「サイコロを投げて6の目が出るか出ないかはわからない」といったら、「6の目が出ないといったのと同じだ」となるんでしょうか。生きているうちにもう少し頭を使いましょうね。

 それから、ここに書いてあることを「膨大な知識」だとか「学識」だとか呼ぶキリスト者さんも一部におられますが、はっきりいって、ここに書いたことは調べればすぐにわかるような程度のことに過ぎません。「知識を誇るのも結構ですが、世の中にはもっと頭のいい人がいるんですよ」などとおっしゃるキリスト者もいらっしゃいますが、こんなものは知識でも何でもありません。聖書学を体系的に学んだ人から見れば、極めて幼稚な素人の議論です。こんなものは最初から誇ってなどいません。ただ、無知や不勉強の上にあぐらをかいている一部のキリスト者さんと私とに何か違いがあるとすれば、私は多少の手間ひまを惜しまずにあれこれ調べたというだけです。今は、図書館もありますし、ネットで検索もできます。専門書を買うにはそれなりの出費がともないますが、その気になれば、いくらでも調べることができる時代です。多少の英語力があれば、海外のサイトを調べることもできます。にもかかわらず、彼らは全然調べようとせず、「神様の深いお考えは、人間の浅知恵では測れません」とかいい出すわけです。例えば、医学的に治る可能性があるとされている病気を「不治の病」といい張り、「病気が治ったのは奇蹟です」とか宣伝するキリスト者さんもいらっしゃいます。自分で調べてみれば治る病気であることはわかるはずです。「調べてご覧なさい」といっても、「本に書いてあることが本当だとは限らない」とか「ネットの情報にはウソもある」とかいうだけで、全く自分で調べようとはせず、「不治の病が信仰によって治りました」とかことあるごとに繰り返すわけです。病気が治ったのは事実でしょうし、それはその病気で苦しんでおられたご本人やそのご家族にとっては喜ばしいことに違いありません。しかし、その方の病気は医学的には不治の病などではなかったのです。原因はまだわかっていないにせよ、治療法はあり、適切に治療を行えばきれいに治ってしまうようなものなのです。にもかかわらず、「病気が治ったのはウソだというんですか」とかいってくる始末です。誰も、病気が治ったことをウソだとはいっていませんよ。確かに、その方の病気は治ったんでしょう。ただ、その病気は「不治の病」ではなかったと指摘しているのです。治療法があって、治っている実例もたくさんある病気を「不治の病」とは呼ばないでしょう。もう少し相手の主張をきちんと読んでほしいものです。病気が治ったんだから、「よかったですね」と一緒に喜んであげればよいではありませんか。どうしても奇蹟だとか神癒だとかいわないと気が済まないのでしょうか。

 はっきりいっておきますが、私が指摘したのは、人の知恵でわかる範囲のことです。神様の深いお考えとやらが登場するようなものではありません。彼らが答えられなかったのは、単に彼らの人の知恵が足りなかっただけです。要するに、調べなかったからわからなかったというのが単純な事実です。それを神様を持ち出して正当化しようというのですから、まぁ、ロクなものではありませんね。神様もいい迷惑です。

 一部のキリスト者さんは、無知の上にあぐらをかいて開き直っているような彼らの態度を私が批判していることを、キリスト教に対する批判だと思い込んでいるようです。彼らにとっては、自分=模範的なキリスト者なんでしょうから、その自分を批判するのは、イコールキリスト教への批判と映るのかも知れません。困ったものです。



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