パースペクティブとしての準拠集団1
タモツ・シブタニ2
著
木原綾香3
奥田真悟4
桑原 司5
訳
摘要
〔その定義の〕曖昧さにも関わらず、準拠集団は、ますます人気の概念となってきている。それは、様々な社会現象に関する種々の仮説において利用されている。この概念をある一つの言及対象に限定して用いること、すなわち、そのパースペクティブが行為者によって準拠枠として用いられている、そうした集団に限定して用いることは、分析ツールとしてのその有用性を高めることになるだろう。分有されたパースペクティブは、共通のコミュニケーション・チャンネルへの参与を通じて生じる。そして現代大衆社会の文化的多元性は、無数のチャンネルへの容易なアクセス可能性から生じている。準拠集団概念がもしより一層正確に定義されるならば、この概念は、各々の行為者が自らの世界に対する適応方針を定めるその定め方に関する調査研究を、より一層促進することができる。
〔問題の所在〕
ハイマン〔6〕が造語して以来、ようやく十年ちょっとの歳月がたったが、準拠集団概念は〔既に〕社会心理学において主要な分析ツールの一つとなり、様々な社会現象に関する種々の仮説の構築に用いられている。ある人がある社会的文脈から別の文脈に移行する際に、〔その人の〕行動に生じる非一貫性は、準拠集団の変化という観点から説明される。例えば、非行少年たちの目を見張るような振るまい、それもとりわけ社会の隙間における彼らのそうした振る舞いは、同年齢の遊び仲間たちから寄せられる種々の予期〔という観点から〕から説明されている。また、〔彼らの〕社会的態度が変容したとしたら、それは、人間関係における変化と関連づいていることがわかっている。この概念は、誰の目にもはっきりとした二者択一を前にして行われる〔行為者の〕選択を説明する際に、それも当該行為者のその選択がその人の「最大の関心事」に反しているように思われるケースを説明する際に、とりわけ有用なものであり続けた。多様な階層の読者や視聴者がマス・コミに対して持つ分化した感受性と反応も準拠集団の観点から分析されてきた。同様に、地位の問題――出世狂者たちの野心、集団への忠誠をめぐって生じる種々のコンフリクト、マージナル・マンたちの種々のジレンマ――もまたこの観点から分析されてきた。現象としては異なるこれらの出来事に、同じ類に属する過程が含まれていることが認識されよう。この概念の人気の高まりは、分析におけるその有用性を証明していると言える。
しかしながら、どの分野の研究であれ、探査的段階においては当然のことだが、この概念の使用においても、何らかの混乱が存在しており、それは主としてその語義の曖昧さから生じている。利用可能な公式的定義は一貫性を欠いており、時にはその定義が〔実際の〕使用において矛盾している〔こともある〕。しかしながら、そうした曖昧さにもかかわらず、社会心理学者たちは〔この概念について〕相互に理解できている。このことは、〔この概念に関する〕何らかの核となる意味に対する直感的な認識の存在を示唆している。そして、その意味を明示化することは、分析ツールとしてのこの概念の有用性を高めることになろう。本論は、次のことを明らかにする。すなわち、準拠集団に関する議論はすべて、行為者が何らかの形で関連付けられているある認識可能な集団と、その集団において分有されている規範と価値とに言及している。しかしながら、これら三つの用語の間の関係は常に明確というわけではない。というわけで、我々の最初の課題を、その公式的定義を〔とりあえず〕念頭に置かずに、準拠集団概念が実際に使用される際にその概念が示唆している内容、これを検討することに定めたい。
この概念のよく見られる使い方の一つに次のような集団を表す使い方がある。その集団とは、比較や対照を行う際に準拠点として役立つ集団、とりわけある人が自分自身に関して判断を下す際の準拠点として役立つ集団である。この概念のもともとの使い方に関してハイマンは、準拠集団とは自らの地位を評価する際の比較点である、と述べていた。また、被験者が自分自身をそれと比較する集団〔の如何〕に従ってその評価も変化する、という知見をハイマンは見いだした。マートンとキットもまた、ストゥファーの相対的剥奪の理論の再定式化において、このやり方でこの概念を用いた。例えば、海外の後援部隊に所属する兵士たちが自分たちの運命について下す判断は、〔彼らが自分たちを〕まだ本国にいる兵士たちと比較するか、それとも交戦中の兵士たちと比較するか、どちらと比較するかによって変化する、と。彼らはまた、具体的な調査の方法ないしは手続きを提案したが、その調査手続きにおいては、回答者が彼自身を様々な集団と比較することが求められていた。チャップマンとフォルクマンによる野心のレベルに関する研究は、準拠集団理論に関する議論においてたびたび引用されているが、この議論にもまた、ある人が所属している自分の集団とその他の集団との比較から生じる判断に、諸々の変種があるという知見が含まれている1)。というわけで、こうした適用方法においては、準拠集団とは、ある行為者が状況の評価、とりわけそこにおける彼自身の位置の評価を形成する際に用いる基準点またはチェックポイントを意味している。というわけで〔この用法においては〕、理論上は、その行為者になじみのある集団であれば、どのようなものであれ、準拠集団となり得る。
この概念の第二の言及対象は、行為者がそこにおいて〔自らに対する〕承認を得たり、維持したりすることを切望する、そのような集団である。したがって、選択を迫られる〔ような〕種々の状況においては、その集団の要求が最重要のものとなる。社交界において野心を抱いている人にとっての準拠集団とは、〔相対的に〕高い階層の人々からなるといわれており、その階層のステータス・シンボルは模倣の対象となる。マートンとキットは、〔戦闘に関する〕経験の浅い部隊の側における意欲と戦闘に対する心構えの表明を、場数を踏んだベテラン兵の謙虚さとは対照的なものとして、自らが誤って特定の価値を帰属させてしまっているベテラン兵と自分自身とを同一化しようとする、そうした新兵たちの努力として解釈している2)。つまり〔ここでは〕、この概念は、その人々のなかで、ある人が自らの地位を獲得したり、維持したり、高めたりしようとする、そうした人々の結びつきを指すものとして使われている〔7〕。つまり、準拠集団とは、ある人がそこに参与することを望む、そうした集団である〔ということになる〕。
第三の用法においては、この概念は、そのパースペクティブが行為者の準拠枠を構成する、そうした集団を意味している。そういうわけでシェリフは、準拠集団を、知覚領域を構造化する際に〔いわゆる〕基準点としてその規範が用いられている、そうした集団だとしているし3)、またマートンとキットは、〔行為者が〕種々の解釈を行うための「社会的準拠枠」だとしている4)。ある集団に〔自ら〕直接参与することを通じて、あるいは間接的に〔8〕参与することを通じて、人はその観点から世界を知覚するようになる。とはいえ、この集団は、自分が〔そこにおいて〕承認を受けたいと切望する集団である必要はない。例えば、何らかの少数民族に属するある成員は、その集団に対して嫌悪感を抱いているかもしれないが、なお依然として、概してその集団の視点から世界を捉えるかもしれない。こうしたやり方で用いられているとき、準拠集団という概念は、客観的に存在する人々の集団というよりもむしろ、一種の心理学的現象を指している。というのも、それは、行為者の経験の組織化に言及している〔からである〕。すなわち、それは、彼の知覚領域が構造化されたもの〔に他ならない〕。こうした用いられ方においては、現実のものであれ、想像上のものであれ、好意的に捉えられているものであれ、嫌悪感を抱かれているものであれ、そのパースペクティブが行為者によって自明視されているものであれば、どのような集合体も準拠集団となる。
以上のように、現行の用いられ方を検討した結果、ある一つの概念に関する三つの言及対象が明らかになった。すなわち、(1)比較点として機能する集団、(2)人々が〔種々の意味で〕それに対して野心を抱く集団、そして(3)行為者によってそのパースペクティブが自明視されている集団、この三つがそれにあたる。もちろん、この三つは〔相互に〕関連し〔合っ〕ているであろう。とはいえ、類的に異なったものとしてはっきりと区別・分類されるべきものを、明確に区別することなく同時並行で用いることは、さらなる混乱を招くだけである。〔すなわち〕本論の主張は次の通りである。準拠集団という概念を第三の選択肢に限定して用いること、すなわち、そのパースペクティブが行為者の準拠枠を構成する、そうした集団に限定して用いることこそ、調査研究におけるその概念の有用性を高めることにつながる、と。どのような集団であれ対象であれ比較のために用いられ得る。〔しかし〕同時に、個人が自分の不運度をそれと比較する、そうした人々の役割を取得する〔9〕必要はない。であるならば、第一の用法は、〔本論の目的とは〕全く異った目的を果たすためのものであり、〔本論において、この用法を〕さらに考察する必要はあるまい。しかしながら、ある状況下では、集団に対する忠誠と野心とは、〔行為者によって〕自明視されているパースペクティブと関連していることも事実であり、この関連性の特徴がさらなる探求を要することも確かである。こうした議論は、周知の主張の繰り返しを必然的に伴うが、準拠集団に関する研究の一部に見られる種々の論難点を考慮するならば、そうした繰り返しが全く不毛なものだとも言えまい。〔とはいえ、〕何人かの熱狂的な支持者の存在にもかかわらず、〔そうした主張の繰り返しからは〕事実上、準拠集団理論には何も新しいものはもたらされていない。
文化と自己統御
トーマスは何年も前に、人間が行うことはその人の状況の定義に多分に依存している、ということを指摘していた〔10〕。付言するならば、人間が一貫して一連の状況を定義するそのやり方は、彼の組織化されたパースペクティブに依存している、ということである。パースペクティブとは、人間の、自らの世界に関する体系化されたものの見方である。すなわち、種々の対象の属性、出来事の属性、人間性に関する種々の属性に関して自明視されていることがらのことである。パースペクティブとは、実際に知覚された諸事象の体系であると同時に、想起されたり、予期されたりした諸事象の体系でもある。何が妥当で〔11〕何が可能か〔12〕に関する組織化された認識のことである。つまり、パースペクティブは、人間がそれを通じて自らの環境を知覚する基盤を構築する〔ものであると言える〕。人々は上記のような体系化されたパースペクティブを持っているということで、人びとは、絶えず変化している世界を、比較的安定したものとして、秩序立ったものとして、そして予測可能なものとして捉えることができる〔13〕。リーツラーも述べているように、人間のパースペクティブとは、〔実際の〕経験に先立って、その経験を定義し方向付ける大まかな図式のことである。
知覚が選択的であるということ、知覚された経験の組織化が、予期された事柄や自明視されている事柄にある程度依存しているということ示す、証拠となる実験結果は数多い。種々の判断は〔人間が有する種々の〕パースペクティブに基づいている。だから、異なった見方を持つ人びとは、同一の状況を別様に定義し、環境に対して選択的に反応することになる。だから〔例えば〕、スラム街を歩いている売春婦とソーシャル・ワーカーとでは、それぞれ異なった事柄に注意を向ける〔14〕。ゆえに社会学者は、他の人びとが観察しそこなう〔ような〕種々の関連性を捕捉しなければならない。パースペクティブの変化がどのようなものであれ−−例えば、初めて親になること、誰かが数か月の間に死ぬことを知ること、あるいは用意周到な計画の失敗を経験すること〔、などによるパースペクティブの変化など〕−−、それは、人間をして以前には見落としていた種々の事柄に気が付かせ、またよく知っている世界を異なった観点から見るように仕向ける。ゲーテも主張したように、歴史が絶えず書き変えられるのは、証拠となる新たな文書の発見によるもの、というよりはむしろ、歴史家たちのパースペクティブの変化によって〔既存の〕データから新たな知見の抽出が行われることによるものなのである。
文化とは、レッドフィールドの用法にも見られるように、ある特定の集団に参与している人びとによって分有されているパースペクティブを指すものである。〔レッドフィールドによれば〕文化とは、「行為や人為物に顕著に認められる慣習的な理解」から成り立っており、そうした慣習的な理解が「種々の社会を特徴付けている」5)。このような因習的な理解が行為の前提となっているが故に、共通の文化を分有している人びとは、共通のやり方で行為に従事することになる。文化とは静態的な実体ではなく持続的な過程である。換言すれば、規範とは、社会的相互作用において、日々、形成・再形成されるという形で再確認されているものである。集合的なトランスアクション〔15〕に参与している人びとは、あらかじめ定められた予期に基づいて互いに接触しあう。そして、予期されたことが実現されることで、人びとのパースペクティブは引き続き確証され強固なものとなる。それぞれの文化的集団に属する人びとは、このようなやりかたで、間断なく互いに相手のパースペクティブを支持しあう。各々予期されているやり方で他者たちに反応し合うことで〔互いのパースペクティブを〕支持しあっているのだ。こうした意味において、文化とは、コミュニケーションの所産であるといえる。
ミードは、内的で心理的な社会統御に関する彼の議論において、人々が「一般化された他者の役割を取得すること」について述べていたが、このことによって彼が意味していたのは、人びとは各々自らの所属している集団が有する文化の観点から自らの世界に働きかける、ということである。人びとは各々、自らが参与している集団の準拠枠に従って、知覚し、思考し、種々の判断を下し、自らを統御する。人間は、種々の対象や他者たちや世界や自分自身を、他者たちと分有しているパースペクティブを通じて定義する。こうすることによって、彼はこれからしようと思っている行為の方向性をこの一般化された観点から心の内に描くことができるし、他者たちの反応を予期したり、望ましくない諸衝動を抑制したりすることもでき、結果として、自らの行為を方向付けることができるのである。社会化された人間とは社会の縮図である。すなわち、人は自らが他者たちに対して定めているのと同じ行動基準を自らにも定めており、他者たちと同様の観点から自らを判断している〔存在なの〕である。彼は、他者たちが不在のときでさえ、状況を適切に定義し得るし、自らの義務を果たすことができる。なぜなら、既に指摘したように、彼のパースペクティブは、いつでも他者たちの種々の予期を考慮に入れているからである。以上のように、他者たちと同様の観点から状況を定義するこの能力こそが、自己統御を可能にしているのである6)。ミードが一般化された他者の役割の取得について述べたとき、彼は人びとにではなく、トランスアクションに従事している他者たちと分有されているパースペクティブに言及していたのである。
上記のことを踏まえるならば、多岐にわたる種々の社会的文脈におけるある人間の行動の一貫性は、彼の組織化されたパースペクティブの観点から説明され得る。いったん人間が彼の属する集団から特定のものの見方を取り入れると、それは彼の世界に対する適応方針となり、また、彼はこの準拠枠をあらゆる未知の状況に向けることになる。だから、移民や旅行者たちは、彼らが目にする見慣れない事柄をしばしば誤って解釈することがあるし、筋金入りの共産主義者なら、状況の一つ一つを共産主義者ではない人々とは別様に定義することだろう。準拠集団行動は一般に、複数の選択肢からの選択が可能と考えられる諸状況において研究の対象となるが、〔当の〕行為者自身は、しばしば他の選択肢があることに気付いていないことが多い。
人々は、彼らが参与している集団特有の観点から、何かを考え何かを感じ、また種々の事柄を捉えるという命題は、人類学や知識社会学の研究者たちによって繰り返し強調されてきた古くからあるものの一つである。ならばなぜ、過去十年の間に突然に準拠集団理論に関心が寄せられるようになったのか。準拠集団という概念は、実際のところ古くから馴染みのある理論に多少の改良を施したものだが、現代大衆社会に特有の諸特徴がその必要性を生じせしめたのである。まず第一に、現代社会においては、特別な問題が次のような事実から生じている。すなわち、人々は時に、そこにおいて彼らが成員とはみなされてはいない集団の基準を用いることもあるし、時には彼らがこれまで直接には参与したことが全くない集団の基準を用いることもあるし、またある時には、そもそも存在しない集団の基準を用いることもある、という事実である。第二に、我々の暮らす大衆社会は、目下のところ文化的多元性によってその特徴付けが与えられているが、この社会においては、人々は各々複数の様々なパースペクティブを内面化し、またこのことが、時折人々を困惑させるような種々のジレンマを生じせしめ、その体系的な研究の必要性を求めている。最後に〔次のことを述べておきたい〕。すなわち、準拠集団理論の発展は、社会心理学と集団生活の主観的側面に対する関心の増大と、客観的な社会構造に対する支配的な関心が、そうした構造を識別可能なものせしめている規則的な諸活動に従事している参与者たちの種々の経験に対する関心に移行したこと、〔この二つの流れ〕によって促進されてきたのである。
このように準拠集団とは、そのものの見方が行為者によって彼の知覚領域を組織化する際に準拠枠として用いられる、そうした集団を指すことになる。規模においても、構成においても、またその構造においても、著しく多種多様なあらゆる集団〔16〕が準拠集団となり得る。ほとんどの人々にとって最も重要なものは、彼らが直接参与している集団――すなわち所属集団と呼ばれてきたもの――とりわけ、互いに第一次的関係にある多くの人々を内包している集団である。とはいえ、トランスアクションのなかには、人々が何らかの社会的カテゴリーに帰属されたパースペクティブを取得している、そうしたものもあるだろう。その社会的カテゴリーとは、社会階級であったり、エスニック・グループであったり、既存のコミュニティに所属している人々であったり、果ては、何らかの特別な利害に関心を持っている人々であったりする。他方では、想像上のものも準拠集団となり得る。例えば次のような場合がそうである。「前衛の」芸術家たちや、「全人類」のために研究している科学者たち、または「後世」のために寄附活動を行っている慈善家たちなどが挙げられる。そのような人々は、まだこの世に生まれてきていない人々に帰属された根拠のない仮定上のパースペクティブから自らの努力を評価している。ある遠い過去を心の糧にして生き、歴史上のある時期を理想化し、「古き良き時代」を懐かしく恋しく思いながら生きている人々、すなわち、とっくの昔に他界した人々に帰属された観点から現在の種々の出来事を批判している人々もいる。上述のように、準拠集団とは、規範の内面化を通して生じるものなのであり、それは、個人が自らの行為をその人に対して組織化する何らかの観客に帰属された種々の予期の構造を形作るものなのである。
種々の社会的世界の構成
デューイも強調したように、社会とは、コミュニケーションにおいて、またコミュニケーションを通じて存在する。別の観点から述べるならば、共通のパースペクティブ――共通の文化――は、種々の共通のコミュニケーション・チャンネルに参与することを通じて生まれる。集団において分有されているパースペクティブが内面化されるのは、〔この〕社会的な参与を通じてである。この命題がたびたび語られてきたにもかかわらず、それが示唆する詳細は、とりわけ大衆社会の分析に対する示唆の詳細については、あまり理解されていない。ものの見方の多様性は、分化した接触と結びつきから生じ、社会的距離の維持――それは、凝離、コンフリクト、または単に異なる文献を読むということ〔など〕を通じて成立することになるが――は、種々の独自の文化の形成へと繋がる。したがって、異なる社会階級に属している人々は、異なる生活様式とものの見方を発達させる〔ことになる〕が、それは、経済的地位に固有の何かによるものなのでは決してなく、職業の類似性によるものなのである。そして、所得レベルによって設定された種々の制約は、彼らを何らかの制限されたコミュニケーション・チャンネルに選り分ける。異なったエスニック・グループに属する人々は、彼ら自身の独自の文化を形成するが、それは、彼らの一体感が、彼らをして、互いに親しく相互作用するように促し、部外者たちに相対する時には、距離を置いた状態を維持するよう促すからである。社会心理学における様々な知的伝統――すなわち、精神分析、尺度分析〔=態度分析〕、ゲシュタルト〔心理学〕、プラグマティズム――は、それぞれの伝統に依拠している人々が、共感的な眼差しを自らの学派の業績にのみ限定し、軽蔑や敵意をもって他学派の業績を捉える限り、その分離した状態を止むことはない。社会科学者たちのなかには、多くのアメリカの人々の実態に疎い者たちもいる。というのも、彼らは、マス・メディア、とりわけテレビを見ないようにしているか、若しくは見るとしても、人を見下すような態度でしか見ないからである。アヴァンギャルドが「国際人のもの」とみなすそのものの見方でさえ、文化的に拘束されたものである。というのも、それもまた、制限されたコミュニケーション・チャンネルへの参与の所産の一つに他ならないからである。そうしたチャンネルには、種々の書籍、雑誌、会合、展示会、そして中産階級のほとんどの人々にとって立ち入り禁止となっている居酒屋〔など〕がある。中世主義者が、そのパースペクティブを書籍を読むことを通じてのみ獲得する場合〔など〕がそうであるように、社会的な参与は、誰かになりきる、というような〔類の〕ものでさえあるかもしれない。
ちょっと観察しただけでも、それに基づいてアメリカ人が生活している基準に驚くほど多様性があることが明らかになる。現代大衆社会を特徴付ける種々の非一貫性と矛盾は、数多くのコミュニケーション・チャンネルや、それらに対する参与の容易さの所産である。相対的に孤立した社会の研究にあたって、人類学者たちは、地理学の用語において「文化領域」について有意味に語ることができる。そうした社会においては、共通の文化は領域的基礎を持っている〔といえる〕。というのも、一緒に暮らしている人々だけが相互作用を行うことが出来るからである。しかしながら、現代産業〔化〕社会においては、高速移動手段及びマス・メディアの発達によって、地理的に散在する人々も効果的にコミュニケーションを行うことができる。文化領域はコミュニケーション・チャンネルと同一の拡がりを持つ。すなわち、コミュニケーション・ネットワークは、もはや領域的境界とは同一の拡がりを持っていないため、そうした文化的諸領域は互いに重なり合い、その領域的基礎を失ってしまっている。そのため、隣人たち〔さえ〕も〔が〕完全に見知らぬ人であり得る。また、その世界に特有の共通の用語法においてさえ、パースペクティブの多様性が直感的に認識される。また我々は、様々な社会的世界に住む人々について〔日常的に〕有意味に語っている。例えば、学界、子どもの世界、上流社会などなど。
実際のところ、現代大衆社会は、気が遠くなるほど多様な社会的世界から構成されている。その各々が、一つの組織化された見地となっており、互酬的な相互作用のなかにある人々から作られており、それゆえに各々のコミュニケーション・チャンネルは、それぞれ〔互いに〕分離した世界を生み出している。おそらく、一体感と連帯感が最も強く見いだされ得るのは、様々なコミュニティ的構造においてである。例えば、犯罪社会、エスニック・マイノリティ、社会的エリートの集団などがそれである。そうしたコミュニティは、しばしば空間的に凝離しており、その状態は、そうしたコミュニティを〔その〕外の世界から一層孤立させる。その一方で、「口コミ」と外国語の新聞が内部の接触の機会をもたらしている。もう一つのよくあるタイプの社会的世界は、アソシエーション的構造から構成されている。例えば、医学界、労働組合の世界、演劇界、高級ナイトクラブの常連の世界〔17〕などがそれにあたる。これらの世界〔の内部にいる人々〕は、各々の場所における任意ないしは有志の人々による〔直接的な〕種々の結びつきによってのみならず、『バラエティ〔18〕』のような定期刊行物や、専門誌や新聞の特集記事によってもまた、互いに結びつきあっている。最後に、緩やかに結びつきあった特別な関心に基づく社会的世界を挙げておこう。すなわち、スポーツの世界、切手収集家の世界、昼ドラの世界など、マス・メディアの番組や『フィールド・アンド・ストリーム〔19〕』のような雑誌によって提供される世界がある。こうした世界は各々、一つのまとまりをもった秩序を成している。それは規則化された相互反応の世界である。各々の世界は、何らかの構造をもった領域であり、そうした構造は他者たちの行動の適切な予期を可能とし、それが故に、そこは個人が安心感と信頼感をもって行為することが出来る領域となっている7)。以上のように、社会的世界は各々、一つの文化的領域であり、その領界は領域によって設定されるものでもなく、集団への公式の帰属関係によって設定されているものでもない。それは、効果的なコミュニケーションの限界によって設定されているものである。
多様なコミュニケーション・チャンネルが在り、それは、安定性と範囲において異なる。そのため、社会的世界は、参与者たちの構成、規模、そして領域的分布において異なる。局地的カルト集団のように、規模が小さく、人口密度の高いものもあれば、知識人の世界のように、規模が大きく、その参与者たちが散在しているものもある。世界はその境界の範囲と明瞭性において異なっている。すなわち、各々の世界は、ある種の範囲によって線引きされているが、この線引きは、広い場合もあれば、狭い場合もあるし、明瞭な場合もあれば、曖昧な場合もある。社会的世界は人間の世界〔全体〕と同一の拡がりを持つものではない、ということは認識されている。例えば、犯罪社会の人々は、部外者たちが彼らの価値観を共有していないことを良く自覚している。社会的世界は、排他性とその世界が参与者たちに要求する忠誠の程度において〔も〕異なる。なかでも最も重要なことは、社会的世界とは、静態的な実体ではないということである。だから、分有されているパースペクティブは、絶えず再構成の只中に在る〔ということになる〕。社会的世界は、コミュニケーション・チャンネルの確立をもって〔はじめて〕成立する。そのため、生活条件が変化すれば、社会関係も変化し得るし、その結果として、これらの世界が消滅する場合もある。
どの社会的世界も、ある種のコミュニケーション・システムを持っている(それは多くの場合、人々の結びつきが分化したものに過ぎないが)。そこにおいて、その世界特有の論議領域が発達し、時に隠語も発達する。その世界特有の意味とシンボルは、部外者との差異を一層際立たせ、彼らとの社会的距離を〔より一層〕増大させる。各々の社会的世界には、その世界特有の行動規準、一群の価値、威信をつかむためのその世界特有の階梯、その世界に特徴的な出世の路線、そして、その世界に共通した人生に対する見地、すなわち世界観のようなものがある。エリート集団の場合、そこに所属する人々に対してのみ維持される社交儀礼のようなものまでも生まれるかもしれない。他方で、マナーの悪さが予期される可能性のある人々は、幾分人間より劣る存在として排除されることになる。このように、社会的世界とは、認識された秩序であり、それは、そこにおいて各々の参与者が〔それぞれの〕人生を切り開き、自らの地位を維持し高めようとする舞台として機能するものである。
現代大衆社会における〔日常〕生活の特徴の一つは、多様な社会的諸世界への同時的参与である。個々人が多くのコミュニケーション・チャンネルに接する際のその容易さが故に、彼はセグメント化された生活を送っていることが想定される。その場合、彼は、多くの相互に関連をもたない複数の活動に継続的に参与することになる。さらに、社会的世界の特定の組み合わせは人によって異なる。そしてこのことが、ジンメルをして次のように断言せしめたものである。すなわち、個人は各々独自の組み合わせにある複数の社会圏が交差する、その点の上に立っている、というのがそれである〔20〕。この幾何学的類比は格好のものである。というのも、それは、組み合わせの無数の可能性と各々の社会圏への参与の様々な度合いを我々が認識することを可能にするからである。人間が行っていることを理解するためには、我々は彼の独自のパースペクティブを把握しなければならない――すなわち、彼が当然視していることと、彼が状況を定義するその仕方〔の双方を把握しなければならない〕――。とはいえ、加えて我々は、大衆社会において、彼がそこにおいてある一定の行為に参与している社会的世界について知識を得なければならない。
忠誠と反応の選択的特性
各々の人々が、無数のパースペクティブを内面化している大衆社会においては、何らかの不調和とコンフリクトが必ず存在する。しかしながら、集団への所属と参与の重複は、必ずしも困難を招くことはないし、それは通常気にとめられることもない。ほとんどの人々にとって、〔複数の〕準拠集団は相互に支え合っている状態にある。したがって、戦場での危険な任務に志願する兵士は、彼の家族に心配をかけるかもしれないが、彼は家族の価値観に反する行動を取っているわけではない。この場合、その人の家族も仲間も、双方ともに勇気を奨励し臆病を軽蔑する。例えば、評判の暴君役員が妻の前ではおとなしい場合のように、〔ある一人の人間の〕行動が一貫してないようなことがあり得るが、もし、トランスアクションが離れた文脈で起きている場合には、それが気付かれることはない。大半の人々は、多かれ少なかれコンパートメント化された〔21〕生活を送っており、一連のトランクアクションに参与するなかで、ある社会的世界から別の社会的世界へ移行する〔ことは日常的なことである〕。各々の社会的世界において、彼ら参与者たちの役割は異なり、また、他の参与者たちとの関係も異なり、その結果、彼らは、各々のパーソナリティの異なった側面を表に出すことになる。人々は、あまりにこうした生活様式に慣れてしまっているがために、彼らはこのセグメント化にもかかわらず、何とかして自分自身を合理的に一貫した人間として捉えようとするが、彼らの行為が一貫したパターンをなしていないという事実に気づくことは一般的に無い。
人々は、彼自身が互いに葛藤した要求が課せられる状況に連続して直面し、〔かつ〕そのすべてがおそらく充足され得ない状況を経験したときにはじめて、異なる見地の存在を鋭く認識するようになる。人々は、一般に困難な決断を避けようとするが、そうした種々の地位のジレンマと矛盾は、二つの社会的世界の間における一つの選択を強いることがある。こうしたコンフリクトは原則的に、同じ状況を定義する方法の二者択一であり、それは適用可能なパースペクティブが幾つかある際に生じる。ウィリアム・ジェームズの言葉に次のようなものがある。すなわち、「一人の人間として私は、あなたに同情する。しかし、役人として私は、あなたに慈悲を示すわけにはいかない。政治家として、私は彼を盟友とみなす。しかし道徳家として私は、彼がひどく嫌いである」〔22〕。相異なる様々な社会的世界において種々の役割を果たすなかで、個人は異なる予期を他者たちに帰属させるが、その〔予期の間の〕差異にいつでも折り合いをつけることができるわけではない。ここでの問題は、状況の定義に用いられるパースペクティブの選択である。ミードの用語で言うならば、どの一般化された他者の役割を取得するべきなのか、という問題である。忠誠の問題が生じるのは、二者択一的な定義が生じ得る状況においてのみである。
一般的に、そのようなコンフリクトは一時的なものである。だが、危機的な状況においては、別の状況では目にとまることもないような矛盾があらわとなり、痛みを伴う選択が強いられる。しかしながら、統合度の低い社会においては、そうしたコンフリクトに絶えず悩まされ、またそのことを自覚している人々もいる。黒人の知識人、異民族間の結婚によって生まれた子供たちや移民の子供たち、工場長、専門職に就いている女性、従軍牧師。こうした人々は皆、高度に組織化された構造の隙間のなかで生活を送っている。彼らは皆、マージナル・マンなのである8)。ほとんどの場合、彼らは、そのコンパートメント化された〔日常〕生活において、自らのやり方を何とか貫き通そうとするが、個人的不適応が頻繁に生じているようである。極端な場合、記憶喪失や人格分離が生じ得る。
準拠集団との関わりの多くは、個人が二つないしはそれ以上の組織化されたパースペクティブ間の選択の必要性に迫られるような状況に関わったときに生じる。準拠集団の選択――そのパースペクティブが当然視されている集団の規範への同調――は、個人の対人関係が持つ作用の一つである、という仮説がこれまで提示されてきた。知覚された経験を組織化するための基盤として、ある集団の文化がどの程度機能するかは、その見地を分有している他者たちとその個人との関係、及び、その個人のその他者たちに対する忠誠次第で決まる。したがって、集団における他者たちとの個人的関係が悪化すると、時折、連敗を経験した部隊に生じるように、その規範は拘束力を失い、その部隊はパニックのうちに崩壊するかもしれない。同様に、後期青年期における親子間の個人的関係の変容に伴って、両親の願望と基準の拘束力はしばしば低下する。
上述のことに加えて、準拠集団の選択は、その社会的世界の重要な他者に対する個人の忠誠に依拠する、ということが提唱されてきた。サリヴァンにとって「重要な他者」とは、規範の内面化に直接的な影響を与えるような人々のことである。社会化とは、特定の人々との経験の漸進的な蓄積の所産であり、とりわけ、個人が第一次的関係を取り結んでいる人々とのそれである〔23〕。そして重要な他者とは、実際には、その個人の能力、価値、見地の涵養に関与している人々のことである9)。おそらく重要なことは、人間が重要な他者と取り結んでいる感情的紐帯の特徴である。重要な他者が愛情と思慮をもって自分を扱ってくれたと考える人々は、あらゆる状況下で拘束力を有した個人的義務感を持っており、また、彼らは、多大な個人的犠牲を払うような局面においてさえ、忠誠を尽くすだろう。しかしながら、第一次的関係は必ずしも思い通りのものとは限らない。その場合、当の個人の反応が後ろ向きになることもあろう。ある人がその人にとっての重要な他者の予期を充分に把握している場合、その人は、わざわざ無理をしてまでその重要な他者たちを拒絶することもあるかもしれない。このことは、少数民族における適応方針の分岐を説明するものである。そこでは、両親の文化にそのまま従う者もいれば、より広い世界に同化するために必死に藻掻こうとする者もいる。現実の生活の不確実性から身を引き、書物で出会った登場人物になりきることを通じて獲得したパースペクティブに対して、忠誠心を確立する人もいるかもしれない10)。
パースペクティブは、絶えず現実〔との関わり〕によって検証されることを余儀なくされる。知覚はすべて仮説として存在している。人々は〔それぞれ〕各々の観点から種々の事柄を自明視している。そのため、各状況への人々のアプローチは〔各々が有する〕一連の予期を伴うことになる。この場合、トランスアクションが実際に予期通りに生じれば、そのパースペクティブそれ自体も強化されることになる。つまり、他者たちの肯定的な反応が、パースペクティブの妥当性を支えるのである11)。とはいえ、大衆社会においては、他者たちの反応は変化に富んでいるため、準拠集団の研究においては、誰の肯定的反応が特定の観点を維持することになるのか、それを確定することがその〔研究上の〕問題となる。
大衆社会を研究するということ
現代大衆社会が有する分化した特性のゆえに、準拠集団という概念やその代わりとなる何らかの適切な概念は、その分析に用いられる現実に即したいかなる概念体系においても、いつでも中心的な位置を占めることになるだろう。既に指摘したように、そのパースペクティブが行為者によって彼の知覚経験を組織化するために用いられる準拠枠として取得されている、そうした集団を指す用語として用いられるとき、この概念は最も有用なものとなるだろう。組織化されたパースペクティブは、共通のコミュニケーション・チャンネルに参与することを通じて生じ、そうした参与を通じて分有されるようになる。また大衆社会の多様性は、種々のチャンネルの多様性とそうしたチャンネルに個人が参与できる、その容易さから生じる。
大衆社会とは、多様化・多元化したものであるのみならず、絶えず変化しているものでもある。生活条件の相次ぐ変容は、社会関係における変化を余儀なくし、いかなる分析もそれが十分なものであるためには、こうした変容過程それ自体の研究を必要とする。ここにおいて、準拠集団概念は決定的に重要なものとなり得る。例えば、突然の転向から漸進的な同化に至るまで、あらゆる形態の社会移動は本質的に準拠集団の取り替えとして捉えてよいだろう。というのも、そうした状況には、ある社会的世界の要請に対する反応の喪失と、別の社会的世界のパースペクティブの採用〔の双方が〕含まれているからである。最初に個人的関係のレベルにおいて不満が生じ、次いで義務感の低下、旧来の要求の拒絶、新たな忠誠の確立、そして新しいパースペクティブの内面化が生じる、という仮説が成り立ち得る。マージナルな役割に身を置いているあらゆる人々に特徴的な種々のコンフリクトは、社会変動過程の断面解析の機会をもたらす、という意味において特に興味深いものである。
大衆社会における人々の行動の分析においては、次のことを見極めることが極めて重要な問題となる。すなわち、個人は状況をどのように定義しているのか、どのパースペクティブが用いてそうした状況の定義を行うに至ったのか、その人の反応が彼らの立場にとって必要な肯定と支持を提供する、そうした観客を構成するのは誰なのか。このことは、行為者が他者たちに帰属させている種々の予期、彼がそこにおいて参与しているコミュニケーション・チャンネル、そして彼がその人と自分自身を同一化している〔ある特定の〕人々との関係に焦点を絞る必要性を喚起する。コンフリクトに関する研究においては、研究対象者たちが心の内に描いているものが着想豊かな情報源を提供する。優柔不断な状態に陥るその瞬間々々に、疑念と混乱の最中に、彼らの心象に誰が現れるか。このやり方で重要な他者を特定することが出来る〔24〕。
現代大衆社会の分析が十分なものとなるためには、各々の行為者の自らの世界に対する適応方針が継続的に再構成される、そのやり方を記述するための諸概念とその操作方法の発展が必要となる。知覚は選択的であり、パースペクティブは〔人々によって〕異なるため、異なった事柄に注意が向けられ、同じマス・メディアに接している人々においてさえ、一連の多様なイメージが漸次生じる。準拠集団概念は、分化した人々の結びつきと忠誠を簡潔に示し、ひいては、選択的知覚の研究を促進する。したがって、この概念は我々がそのなかで生活しているこの種の社会の多様で動態的な特性を理解する上で、欠くことの出来ない〔分析〕ツールとなる。
カリフォルニア大学
〔原注〕
1) H.H.Hyman, 1942, The Psychology of Status, Archives of Psychology, 38: 15〔25〕; R.K.Merton and A.Kitt, 1950, Contributions to the Theory of Reference Group Behavior, R.K.Merton and P.F.Lazarsfeld (ed.), Studies in the Scope and Method of "The American Soldier," Free Press, pp.42-53, p.69; D.W.Chapman and J.Volkmann, 1939, A Social Determinant of the Level of Aspiration, Journal of Abnormal and Social Psychology, 34: 225-38.
2) Merton and Kitt (1950: 75-6).
3) M.Sherif, 1953, The Concept of Reference Groups in Human Relations, M.Sherif and M.O.Wilson (ed.), Group Relations at the Crossroads, Harper and Bros., pp.203-31.
4) Merton and Kitt (1950: 49-50).
5) R.Redfield, 1941, The Folk Culture of Yucatan, University of Chicago Press, p.132. なお、行動主義の観点からより明示的に文化理論を提示した文献として次のものを参照されたい。D.G.Mandelbaum (ed.), 1949, The Selected Writings of Edward Sapir in Language, Culture and Personality, University of California Press, pp.104-9, pp.308-31, pp.544-59.
6) G.H.Mead, 1925, The Genesis of the Self and Social Control, International Journal of Ethics, 35: 251-77〔26〕及び1934, Mind, Self and Society, University of Chicago Press, pp.152-64〔27〕を参照。また次の文献も参照されたい。T.Parsons, 1952, The Superego and the Theory of Social Systems, Psychiatry, 15: 15-25〔28〕.
7) 次の文献を参照されたい。K.Riezler, 1950, Man: Mutable and Immutable, Henry Regnery Co., pp.62-72; L.Landgrebe, 1940, The World as a Phenomenological Problem, Philosophy and Phenomenological Research, 1: 38-58; A.Schutz, 1944, The Stranger: An Essay in Social Psychology, The American Journal of Sociology, 49: 499-507〔29〕.
8) 次の文献を参照のこと。E.C.Hughes, 1945, Dilemmas and Contradictions of Status, The American Journal of Sociology, 50: 353-59; E.V.Stonequist, 1937, The Marginal Man, Charles Scribner's Sons.
9) H.S.Sullivan, 1947, Conceptions of Modern Psychiatry, W.H.White Psychiatric Foundation, pp.18-22〔30〕.
10) 次の文献を参照のこと。R.R.Grinker and J.P.Spiegel, 1945, Men under Stress, Blakiston Co., pp.122-6; E.A.Shils and M.Jonowitz, 1948, Cohesion and Disintegration in the Wehrmacht in World War II, Public Opinion Quarterly, 12: 280-315.
11) 次の文献を参照のこと。G.H.Mead, 1938, The Philosophy of the Act, University of Chicago Press, pp.107-73; L.Postman, 1951, Toward a General Theory of Cognition, J.H.Rohrer and M.Sherif (ed.), Social Psychology at the Crossroads, Harper and Bros., pp.242-72.
1 本論は、Tamotsu Shibutani, 1955, Reference Groups as Perspectives, The American Journal of Sociology, 60(6): 562-9[http://www.jstor.org/pss/2771966]の全訳である。先に公開した「準拠集団論の可能性−−シンボリック相互作用論の視点から−−」[http://karn.lib.kagoshima-u.ac.jp/handle/123456789/13689]を全面的に改訂したものである。訳文中「 」でくくられている箇所は原文において“ ”を、また訳文中傍点が付されている箇所は原文においてイタリック体で記されている箇所を表している。また〔 〕は訳者による補足のための挿入を表している。各訳者の分担は次の通りである。「摘要」(桑原)、「問題の所在」「文化と自己統御」「種々の社会的世界の構成」「忠誠と反応の選択的特性」(木原)、「大衆社会を研究するということ」(奥田)。なお、本論における訳注はすべて桑原が作成した。また、全体的な訳語・訳調の統一も桑原が行った。
本論の公刊に際しては、シカゴ大学出版局のGreta Wahlers氏及びPerry Cartwright氏には、著作権処理などの手続きで尽力いただいた。ここに記して感謝したい。
Originally published in English under the title 'Reference Groups as Perspectives' and copyright © 1955 by The University of Chicago Press, Inc.
Copyright © 2013 by Faculty of Law, Economics and Humanities of Kagoshima University.
2 cf. ウィキペディアの執筆者、2012年「タモツ・シブタニ」『ウィキペディア日本語版』(2012年4月18日取得[http://sites.google.com/site/20120430prfphd/home/03])。なおシブタニは、本論において訳出した「パースペクティブとしての準拠集団」を後に全面的に書き改め、「準拠集団と社会統制」(T.Shibutani, 1962, Reference Groups and Social Control, A.M.Rose (ed.), Human Behavior and Social Processes, Routledge & Kegan Paul)として発表しているが、この論文を詳細に検討した研究に次のものがある。奥田真悟、2008年「相互作用論から大衆社会論への再接近−−T.シブタニの準拠集団論−−」2007年度・鹿児島大学大学院人文社会科学研究科・修士学位論文;薗田貴範、2003年「準拠集団とシンボリック相互作用論」2002年度・立命館大学大学院社会学研究科・修士学位論文。
3 早稲田大学大学院文学研究科科目等履修生。
4 鹿児島大学大学院人文社会科学研究科(2007年度修了)。
5 鹿児島大学法文学部教授。
6 Herbert Hiram Hyman (1918-85)。アメリカの社会心理学者。元コロンビア大学教授。
7 この箇所の訳出に際しては、次の文献を参照した。R.K.マートン著/森 東吾ほか訳、1961年『社会理論と社会構造』みすず書房、230-5頁。
8 原語は「vicarious」である。「他人の経験を想像して感じる、他人の身になって経験する」という語義から「間接的に」と意訳した。たとえば「代理受傷」はこの好例である。
9 原語は「assume」である。ここでは「自明視する」という訳語の代わりに「取得する」という訳語をあてた。この語はそのもともとの辞義からしても、また本論の文脈における意味合いからしても、「想定する」ないしは「仮定する」というニュアンスが強い言葉である。そもそもシンボリック相互作用論において「(他者の)役割を取得する」などの表現で用いられる「取得する」という用語は、概して「想定する」という用語と同義のものと考えて差し支えない。次を参照されたい。伊藤 勇・徳川直人編、2002年『相互行為の社会心理学』北樹出版、71-2頁。
10 例えば次を参照のこと。W.I.トーマス&F.ズナニエツキ著/桜井 厚訳、1983年『生活史の社会学』御茶の水書房、63-5頁。
11 必ずしも真実とは限らないが表面的には一見なるほどと思わせるような事象に言及した表現。
12 当然起こり得る事象に言及した表現。
13 この段落の含意を的確に表現した論稿として次を参照されたい。皆川満寿美、1989年「社会過程の社会学」片桐雅隆編『意味と日常世界』世界思想社、61-4頁、67-70頁;木原綾香・桑原 司、2011年「社会問題研究とリアリティ」鹿児島大学法文学部紀要『経済学論集』第77号、90-1頁、94-5頁。
14 この論点を、コミュニケーション論の観点から平易かつ的確に解説した文献に次のものがある。大橋理枝・根橋玲子、2007年『コミュニケーション論序説』放送大学教育振興会、213-5頁。
15 原語は「transaction」である。この語を「トランスアクション」と、そのままカタカナ書きで訳出・表記するに際しては、次の文献を参照した。ニクラス・ルーマン著/佐藤 勉監訳、1995年『社会システム理論(下巻)』恒星社厚生閣、567-8頁。ちなみに、シンボリック相互作用論において、この「transaction」と同義のものとして扱われる「joint action」という語も、「ジョイント・アクション」と、そのままカタカナ書きで訳出・表記されることがある。次を参照されたい。船津 衛、1999年『アメリカ社会学の展開』恒星社厚生閣、185-6頁;拙稿、2003年「『シンボリック相互作用論ノート』のweb公開について」『鹿児島大学総合情報処理センター「広報」』No.16[http://gyo.tc/HxZu][http://gyo.tc/Htd0]、14-5頁[http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195815/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/phd30.jpg]。
16 なお、ここで集団の「構造」(structure)とは、後に見るように、「コミュニティ(的)」や「アソシエーション(的)」といった、いわゆる「集団類型」のことを指すものと捉えて間違いない。社会学における「集団類型」については、さしあたり次を参照されたい。Kuwabara, T., 2001, Introduction to a sociological perspective of Symbolic Interactionism (3)(The Summary of a doctoral dissertation, Tohoku University), KEIZAIGAKU-RONSHU~ OF KAGOSHIMA UNIVERSITY, 54[http://gyo.tc/HzJP][http://gyo.tc/HxaA], pp.83-4(=拙稿、2001年「東北大学審査学位論文(博士)の要旨」鹿児島大学経済学会『経済学論集』第54号、83-4頁[http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195815/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/19700121/phd15.jpg][http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195815/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/19700121/phd16.jpg])。
17 原語は「cafe society」である。1930年代から50年代に、レストランやナイトクラブによく出入りしていた、映画スターやスポーツ選手などの有名人たちの集まりを指す。アメリカのジャーナリストのビービ( Lucius Beebe)が、1920年代から30年代の New York Herald Tribune 紙のコラム記事で造語したもの。
18 Variety(米国の芸能系雑誌)[http://www.variety.com/Home/]。
19 Field and Stream(米国の月刊アウトドア系スポーツ雑誌)[http://www.fieldandstream.com/]。
20 ここは、原文を忠実に訳出するならば、「交差する」という動詞の主語は「複数の社会圏」ではなく「独自の組み合わせ」の方でなければならない。それを敢えて「複数の社会圏」という名詞を「交差する」という動詞の主語として訳出したが、この訳出に際しては次の文献を参照した。居安 正、2000年『ゲオルク・ジンメル−−現代分化社会における個人と社会−−』東信堂、39-43頁。
21 原語は「compartmentalize」である。訳語の選定にあたっては次の文献を参照した。船津 衛、2011年『自分とは何か』恒星社厚生閣、81頁。
22 W.James, 1890, The Principles of Psychology, Henry Holt and Company, p.295. なお同書には抄訳がある。松浦孝作訳、1940年『心理学の根本問題』三笠書房。
23 cf. 社会学一般における「社会化」の用法(前掲「東北大学審査学位論文(博士)の要旨」、81-2頁[http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195815/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/20100918/phd13.jpg][http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195815/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/20100918/phd14.jpg])。
24 ここで強調されているのが、いわゆる「『行為者の観点』からのアプローチ」であることは言うまでもない。次を参照されたい。拙稿、2012年「シンボリック相互作用論の方法論的立場」鹿児島大学法文学部紀要『経済学論集』第79号(近刊)。
25 =1992年、七森勝志訳『地位の心理学』巌松堂出版、26-7頁。
26 =1991年、「自我の発生と社会的コントロール」船津 衛・徳川直人(編訳)『社会的自我』恒星社厚生閣。なお、ミードのこの論稿については次の文献も参照されたい。徳川直人、1990年「G・H・ミードにおける『社会統御』の概念と『社会的自我』」東北社会学研究会『社会学研究』第56号;山尾貴則、1997年「ミード理論における社会過程の構成と自我発生」東北社会学研究会『社会学研究』第64号。
27 =1973年、稲葉三千男ほか訳『精神・自我・社会』青木書店、164-76頁;1995年、河村 望訳『精神・自我・社会』人間の科学社、190-202頁。
28 =1985年、「超自我と社会システム論」武田良三(監訳)『社会構造とパーソナリティ〔新装版〕』新泉社。
29 =1991年、「よそ者−−社会心理学的一試論−−」渡部 光・那須 壽・西原和久訳『社会理論の研究−−アルフレッド・シュッツ著作集第3巻−−』マルジュ社。
30 =1976年、中井久夫・山口 隆訳『現代精神医学の概念』みすず書房、51-62頁。