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ついに出てしまった、無気力試合バトミントン、なでしこも形式的には同じことをした。
 JUGEMテーマ:スポーツ

組み合わせで優位となるため、1位通過を回避して2位通過をはかる、その窮極の無気力試合を、バトミントンはしてしまった。わざと、ネットにひっかけるは、ラインアウトにするは、もう試合などではない。
メダルにからむ4チームが失格となった。

昨日、なでしこがおなじことをしたのだ。無気力試合ではないが、引き分けにするというある実質をともなってはいるが、形式的には、同質である、勝てるのに、わざと勝っていないのだから。丸山が、家族のところにかけよって、2位でいいのといったらしい、監督は、自分が言うような試合運びをしてくれたと、あきらかに「勝ちにはいかなかった」とほのめかしている。いや、絶対にそんなことはないといいきることもできず、勝てたのに勝ちに行かなかったよ、と自分たちを弁護するかのような言動さえとってしまった、もう失格である。
もう、そのとき、スポーツ精神に劣ると言うのではなく、スポーツ技術として敗北しているのだ。
つまらない試合をみさせられる観客以上に、せっかくチャンスをもらってでた選手が、ただ1つの試合であろうと、勝つというその確実な喜びを放棄させられたのだ、選手に、その力あることをさせないなど、どんな事情があれ、監督として失格である。そんなことをして、とったメダルの価値など半減する。

運営方法が悪い、というだけのはなしではあるまい。

バレーやサッカーなどで、あんなにたくさん試合しているのに、たったひとつのメダルしかない。
水泳や体操は、種目別のメダルがある、個人競技も、団体競技もある。
スポーツという仕組みの多様さに、メダルと言う一元制をもってくるから、こういう事が起きる。
選手にとっては、メダルほどほしいものはない、そのための死に物狂いの努力がなされる。オリンピックという、4年に一度のハレの舞台で、全力をつくす、その美しさと力の、競争が感動をよぶ。
そこに、「しないで勝とうとする」転倒が起きる。

バトミントンで、不祥事がおきた、そのため、日本がメダル取れる可能性がでてきたなど、こざかしいことをこれみよがしに言うものまででてくる、もう、スポーツではない。そんなメダル、価値など無い。

内村でさえ、金メダルを夢のようだと語っていた、それほど世界一ということの価値があるオリンピックなのだ。オリンピック批判は、多々ある、それでもやはりオリンピックというハレ舞台が、いろいろとけがされていく、なでしこもそれをしてしまった。

水泳で、いくつもの感動がうまれている、それさえ、かつて水着問題でゆれたが、銅でも選手は素直によろこべる。
柔道が、じつに試合がつまらない、もう日本がつくった柔道ではあるまい、そんなところに、なぜ選手たちをおいこむのだ、銀や銅で、喜びをみせられない、そのくせ、もう金などとれない、柔道ではない、別の事をしているからだ。

サッカーは、オリンピックなどに関係なく、WCを構築した、その方がはるかに価値と権威と実力がある。
オリンピックにまで、入りこんできたが、年齢制限で、限界づけている。
テニスも、オリンピックより、ウインブルドンの方が権威と価値がある。
プロ排除であったオリンピックが、プロを容認した、そのときのバスケットのUSAの登場は、見世物以上にスーパーなものであったが、もう色あせている。テニスも、今年は、一流どころがでてはいるが、別におもしろくもない。

柔道は、もう日本が中心となって、オリンピックや国際試合など放棄して、日本からしっかり組み手と一本の、純な柔道の世界試合大会を確立すべきである。その力と権威ある、閾を、つくって、真の柔道の場所を確立すべきである。組み手したなら、はずす、などばかりしたり、指導をねらったり、投げられそうになったならそれを防ぐなどの練習ばかりする、そんなのは、別の柔道であって、日本が創造した柔道ではない。
日本固有の権威ある、そこがあこがれられる世界試合の場を日本がつくっていかないことには、柔道自体が滅んでいく。国内でも、世界ランクとポイント制で、オリンピック代表になるためのことばかりして、本番で勝てない、そういうものは、もう放棄すべきであろう。柔道ワールドカップを、日本が新しく組織化していくことだ。篠原の根性主義でももう、勝てない、北京金メダリストは、さっさとレスリングへ転向してしまった、かつての小川も、また吉田さえも、そこまできてしまっている柔道界である。彼のもうひとつ別の側面、滑稽で、本気で、ちゃめっけある、そこを活かす閾をひらいていくべきだ。
1964年の東京オリンピックでの、あのヘーシンクの戦いや、負傷した山下の足を攻めなかった、あの美しき柔道は、もうない、篠原の世紀的誤審で、もう柔道オリンピックはおわっていたのだ。今回、すべてにおいて、はっきりとそれはでてしまった。日本のルールを国際基準とすることは、諸国は、絶対に認めない、それは負ける事しか意味しないからだ。なら、日本で、真の柔道の試合の場をつくり、そこへ他国選手があこがれで参画してくるような、そういう閾を日本が世界へ対する責務として作りなおしていくべきである。

柔道自体が、武術からみて、たんなるスポーツだと言う限界がうみだしたものであるゆえ、いまある事態が本質だともいえるが、ともかく試合がつまらない、それがもうだめだ。

スポーツは、競技だけの戦いの場ではない、政治や経済までをもふくむ、文化総体の戦いの場である。ありとあらゆる戦略や戦術が組まれる、しかし、この無気力試合、そしてわざと勝ちをしない、それは戦術などとはおよそ関係ない、陰気なこざかしさである。
プロとアマとの壁がオリンピックで打ち破られたとき、新たな次元がスポーツの閾ではじまっていた。そのおもしろさというより、限界が出始めている。国家間の戦いと言うものも、その意味をなくしつつある、サッカーのWCではもうそれがおきてきている。生より、ゲーム機械の方がおもしろいなどという次元にまでさしかかっているが、生があってのゲームでしかない。

かつての中日の山内監督から聞いた話なのだが、雨がぱらついて、野球でゲームをドローにするために、アウトをとらない、ということをしたのだそうだ。すべてをヒットにする、すると打つ方は、ヒットになっても走らない、てれてれと歩く、それを観ていた観客が「野球しろ、おまえら!」と怒り叫ぶ。それは、お笑いですんでいる、良き日の野球の出来事であったとおもうが、今度のオリンピックのバトミントンの無気力試合、なでしこの勝ちを狙わない試合は、そういうものではない。陰気である。

なでしこの選手たちには、絶対にあるわだかまりは残っている。USAは、そこを舌戦でついてくる、またつまらぬ試合外の戦いがなされていく、佐々木監督は、とんでもないことをしてしまったのだ、いかに球場移動を選手のために回避したとしても、スポーツではないことをした。
戦術ではない、こざかしい勝つための策略をしたにすぎない。引き分けは、弱い方のチームが必死になす戦い方である、強い方のチームがすることは、戦術ではない、組合せの諸条件を有利に配置して勝つためのこざかしい策略だ。
バトミントンの無気力試合がでなかったなら、まあまあで通過していったかもしれないが、わたしがブログで、なでしこはまちがった、と記した、その翌日に、別の競技で露呈してしまった、本質的にスポーツではないことがなされているからだ。
もうただではすむまい、バッシングはもうおきはじめている。FIFAは処罰はしないとコメントさえだしている。金をとったところで、すっきりはしまい、いや世界から非難攻撃される。
いや、わたしは、もう金はとれないとふむ、もう自らで敗北をしてしまったからだ。世界線での、戦いは、ごまかしなどで勝つほど、あまいものではない。ばかなことをした佐々木監督である。選手の為が、選手のためにならないことをしたのだ。ともかく、控えの選手が出場機会をえて、勝てないことをさせられたのが一番かわいそうだ。
観ているこちらは、金をたとえとろうと、もう感動などは無い、とったの? そうよかったね、ぐらいになってしまっている。じつに、つまらないことをしてくれたものである。
1位通過で、フランスを撃破し、USAと決勝で激戦をする、そういうWCを超えて行くドラマを観たかった。それが、多分見えなくなってきたからとられた佐々木監督の愚行であったのだろう。澤の疲労も、考慮してであろう、だが、まちがった、わざと勝たなかったからである。あの攻撃しないパス回しには、それがはっきりと表象されていた。

スポーツの中にまではいりこんでいる規則主義、その規則主義をこえていく回路を、真にこちらは言説で開いていくしかない。
| 山本哲士 | 11:03 | - | trackbacks(2) | pookmark |
オリンピックのサッカー、こざかしい策
 JUGEMテーマ:スポーツ

男子サッカーで、アディショナル・タイムで、残り1分程で、日本チームは、選手交代で時間をかせごうとした。
こざかしい、ちんまい。以前、選手が負傷したかのように倒れたままで時間稼ぎしようとして、その結果、まけたか引き分けかにもちこまれたことがあったかとおもうが、この監督、実にせこい。勝つ自信がないから、そうする。
なでしこも、南アフリカ戦で、勝とうとしない、2位になって、競技場を移動しないですむ、またフランスとでは危ないということもあったのか、こざかしい策をとった。

オリンピックで、こういうこざかしいことをして勝とうとするものが、やたらと目につく。
柔道では、外国人選手は、技ありや有効をとられまいとする、倒れ方の練習しかしていない。

スポーツで、「勝つ」という勝負をするのではなく、「負けないため」の処置をする。
規制性・規則性へ依拠する仕方である。
スポーツマンシップに反するなどと、倫理的な事を言っているのではない、プロとしてのスポーツのこざかしい策へ、おちこんでいくつまらなさだ。
こんあことをして、「勝った」などと歓んでいる、くだらなさである。
観ていて、おもしろくもない。

野球で言うと、塁に出れば、バント、3ボールになれば、待て、左バッターになれば、投手交代などのおきまり策だ。
戦いではない、規則利用だ。

こういうことが、プロのダイナミックさをみなつまらなくさせている。

逆に、体操では、内村が落下。
鉄棒の種類と、床の種類が、国際一般規格とちがっている。その微妙さで、内村のような超技が、くるいはじめてしまった。それを、知っていなかったのか、体制を万全にしていなかった、コーチ陣のミスだ。これは、プロとして、甘い。イギリスが勝ったのは、この器具のおかげだ。
中国チームは、技を落として、安全策で勝つ、つまらない。
内村封じで、つまらなくなっている体操である。

規制や器具で、いつも「勝つ日本=有色人種」をおさえこもうとしている白人スポーツ主義の愚行である。

サッカーでは、ホーム側は、自分たちに都合のいいように、芝を刈ったり水をまいたりと、あの手この手を打つが、それはこざかしいというより、戦いの戦術のひとつだ。
サッカーにも、白人主義とラテンアメリカ主義とが、戦ってはいるが。

どれが、どうなのか、それを測定する規準をたてることもばかばかしいが、スポーツが、おもしろくなくなるのは、それはまちがいだ。
かつての、高校野球での、松井への全フォアボールなど、負け犬根性が、その投手には叩き込まれてしまった、その人間をつぶした監督の功罪は大きい。
「勝つため」のこざかしい策、これは実にくだらない。

なでしこへの、興味が、完全に半減した。選手たちは、監督へ抗議的な対応をしたらしいが、選手が正しい。選手層を厚くするため、また澤を休ませる、メンバーチェンジ、それはいい、しかし、どうみてもボールを回して点をとりにはいっていない、解説者の解説が陳腐きわまりなくなっていた。
なでしこも、腐敗した。あの、感動は、もうない。なでしこの、あの危うさの中での必死のプレーに、日本中が感動したのだ。
しかし、このオリンピック、勝ったところで、あたりまえぐらいにしかなるまい。
実に、堕落である。つまらぬことを、してしまったものだ。
男子のワールドカップでは、こんなこざかしさは、まったく通用しない、さいわいザッケローニにはそれがない。男子オリンピックチームには、そういうダイナミックさは無い、つまらない、わたしには。

プロの、どうなるかわからない、その戦いが、人を魅了するのだ。
福見や中村は、こざかしい外国人の策に負けた、しかし松本は、がむしゃらに、プロとして戦った、そういう凄さは、策を超越していく。松本は、策にはおぼれなかった、立派。
柔道は、どんどんだめになっていく、審判などめちゃくちゃになっている。。日本の国際スポーツ管理がなっていないからそうなる。篠原の根性主義ではだめなのだ。金でないと暗い雰囲気にしている、それもだめだ、素直に銀や銅でもよろこんでいいではないか、くやしさがなくなるわけではあるまい。すべきは、指導者たちが真の柔道の道を、世界へ教え、説き、そのルールを確立することだろう。
| 山本哲士 | 10:09 | - | trackbacks(1) | pookmark |
原発事故といじめ、同質の基層
 JUGEMテーマ:ニュースJUGEMテーマ:学問・学校

原発事故といじめには、日本の本質的基層が、同質に在る。

規則優先で、当事存在を見ない、隠す、理解しようとしない、他の皆のためが優先される。
放射能汚染で、国民が被曝する、その放射線がどこへ向かって流れているかを場所住民へ知らせるよりも、一般市民にパニックがおきないように、公表されない、曖昧にすることが優先される。
子どもの自殺で、生徒たちが案じている、それがどういうものかをはっきりさせないで、一般授業の動揺をさせないために、隠される、曖昧にされる。

関係者の立場のみを守ることが結果的になされる枠組みのみを保持する、それが優先され、秩序の安定維持であるとされる。
爆発事故が起きている、子どもが死んでいる、その本源出来事は、2の次にされ、それよりも、そのことで既存の安定がゆらぐ秩序を、揺らぎないように保持することが優先される。

そこから、当事責任が出現しないように、諸関係が配置されていく。

つまり、すべてが真実から切り離されて、嘘で固められていく。
嘘だから、責任当事者は不在になり、規則化の手続きで、嘘ではないような正統化が構成され保障される。

爆発根拠が、いつまでたってもはっきりできない。
自殺根拠が、いつまでたってもはっきりできない。
事象に「近づくのが困難」であるからだとされる。
自分のことには関係ない、起きた出来事は、向こう側に在る。

こちら側は、恐るべきことがおこったことにかかわりない、既存の正常状態秩序だとされて、
原発は再稼働され、
平常授業は、再稼働されていく。

事故・事件は、向こう側が勝手に調査したり、検証したりしていることで、こちらは正常である、いままで通りに続けること、存続させることが、至上課題となる。
それが、なぜ悪い、当然だろう、電気は必要だろう、授業の実行は当然だろう、と開き直って。

事故や子どもの自殺は、個別の異常事態、逸脱事項であって、平常には関わりない、とされる、そういう思い込みの作用だ。だから、そのために、日常は、みだされてはならない、となる。
それが、明日、いま、自分にふりかかることだ、という想像力は、妄想だと排除される。

こうしたことが、なぜおこるか、
その現実社会関係の根拠、(制度化および規範化による転倒)
その文化的根源からの根拠、(述語制の受動性への転移)
技術上の転倒、(自己技術の他律技術への依存)
については、拙書のあちこちで示してきたことだ。

原発は、放射能汚染をばらまく、制御不可能だ、不可能さをそこにおいたままにしてそこを不在化させる似非技術で管理されている。手がつけられえないところに危険が封じ込められる。住民は住んでいきていけなくなる、それこそが、いま、ここで起きている現実そのものである。
子どもの自死は、学校が日々子どもを殺していることとして、いま、ここで起きている、子どもはそこで死んだ明白な事実、現実そのものである。死なない子がいるのは耐えているからだ、関与に関係ないと切り離しえているからだ。
ともに、いま、ここで、自分へ向けて起きていることを、見ない様に、関係ないようにきりはなす、ということを日々為していることの、その実行となっている。

直接の加害当事者は、自分がなしたという自覚が、まったくなくなる、感覚麻痺、意識麻痺におちいっている。津波が悪い、死んだそいつが悪い、と、俺のせいではない、発生の根拠は別にあるとおもいこんでいる。

そして、実際の直接被害者たちは、じっと耐えている、苦しんでいる、無念をかみしめている。物的なエビデンスとしては出現しえないため、他人はそこを感知できない、とくに加害機関は。そこが、いじめにおいては、訴訟という形で声をあげはじめてきたが、ほんの1部だ、ほぼすべての学校で起きている。訴訟形式で、ようやく物的エビデンスへとリンクがなされる。

わたしたちが使う電気は、ほぼすべて、原発稼働を是とする電力会社から供給されている。
学校はいかねばならない義務履行の場となっている。
学校を拒否できない、電力使用を拒否できない、自分で学んでいくという事、自分で発電していくということ、それがなしえない仕組みシステムとなっている。総自律不能化が強いられている。

幻想の身体化・物質化からの脱出は、実際の現実的なものを見定めて、異なる目的、実施を自らではじめていくことでしかない、そのための批判的な思考であって、否定は排除ではない、飛躍への契機である。
場所の側から見て考える、子どもの側から見て考える、それがなされない、逆の「天」の側からしかみていかない、認識や思考までもが、麻痺している。古事記研究からしてが、そうなってきている日本一般である、そこに<日本>は無い。
<日本>は、もっと深い。

かつて、水俣病患者が言った、「日本がどこにもない」と。

<日本>をつくっていくのは、わたし自身である。国家や天や制度や規範規則が作るのではない。
| 山本哲士 | 10:30 | - | trackbacks(0) | pookmark |
大津市中学校いじめ、琴寄先生の見解を。&楠元氏のブログno.19が更新されました。
 JUGEMテーマ:学問・学校JUGEMテーマ:ニュース

大津の中学校のいじめについては、友人の琴寄先生のブログ連載を。本質的です。


また、楠元氏のブログ、更新されました。no.19です。



イチローの電撃移籍。
マリナーズの外野フライをとったとき、拍手とブーイングがあいかさなっていたが、ヤンキース初打席にはいったイチローに、マリナーズファンは、球場総体でスタンディングオベーション、あたたかく感謝の声援をおくっていた、イチローは丁寧に3方へおじぎ。
野球を愛するときのUSA人は、ほんとにいい。
そして、ヤンキース初打席で、初ヒット、初盗塁、さすがです。


| 山本哲士 | 13:07 | - | trackbacks(1) | pookmark |
WBC、不参加:選手会に丸投げされている、NPBのマネジメント不在
JUGEMテーマ:スポーツJUGEMテーマ:ビジネス

WBCへの参加拒否を、選手会が決定した。
なぜ、選手会が決定するのか? 選手にまるなげされてしまう、無責任な日本プロ野球機構NPBの体質が露出している。
自己球団のことしか考えていないNPBのマネジメント、セないしパの運営のことしか考えていない野球機構、その無能さが、露呈した。
マネジメントをUSAにもっていかれたまま、ただ、だだこねみたいに、利益配分を正統にしてくれと、お願いするだけの状態になってしまうマネジメント不在、スポーツ総体における、日本のマネジメントのなさの露呈だ。あいかわらず、先進国がきいてあきれる。
お金だけは集められる、しかしマネジメントが無いから、みんなもっていかれる、いま、日本企業がグローバル化の中でしていることそれ自体だ。
よいことをすれば、人がなにかをしてくれると、おもいこんでいる、人のよさを超えた、自己決定能力のまったくない、依存性の結果の不能化は、文化本質の述語制が、制度依存へとひっくりかえった在り方で、被災地復興や原発問題にも現出しているが、日本が総崩れ状態になって来た象徴がやはりプロ野球にでてくる。

決定は、ある規則枠に入るか否かしかできない、自分でマネジメントの枠を作っていくことが出来ない、規則だけつくって、そこにのるかどうかしかしていない、管理にもコントロールにもなっていない、一般不能状態だ。
原発再稼働をめぐって、国民聴取会なるアリバイ仕組みをもって、とりあえずは意見をきいているなどの、でたらめな規則主義などが典型であるが、そこにばか面さげて電力会社社員が、誰も死んでいない、被ばくなどしていないなどと、腐りきっている言動をしている。それが指摘されると、電力社員がはいらないようにしようと、また規則化をうわのせしていく。
それにしても、いったい電力会社社員は、なにをしているのだ、上から下までほんとに腐りきっている。企業倫理の、完全なる喪失が電力会社の役員・幹部にだけではない社員にもしみこんでいるようだ、内側からの批判・反乱はなにひとつでてこない、これが労働の物象化が社会の物象化へとリンクされた典型である。労働力を売り渡していると、労働自体さえも、自己行使できなくなる。原発事故現場の修復作業で、線量計に鉛まではって、仕事がなくなるぞということの優先のもとに、生命存在を危うくさせて行く転倒までもがおきてくる、おそるべき労働の物象化がおきている。損害賠償への、拒絶的遅延が、さらにそれを物語る。本体が腐りきっているから、派生会社にこういうことがおきていく。

こういう似非会社への、雇用保証など、すべきではない、それこそが「社会」正義、社会ファシズム遂行であるのに、自分へ都合悪い社会ファシズムは遂行しない。他へ犠牲を強いる、社会ファシズムは遂行する。完璧な、転倒窮極へといたっている。

そうした、停滞、転倒の一般状況下での、WBC不参加表明である。
さて、選手たちが、自分のことを自己決定していくのは、それはそれでいい、しかし、まったくのマネジメント不在を他方においたうえででの決定の不可避性には、あきれる。
参加を決めているNPBは、選手会の説得にあたると言う。
加藤コミッショナーは、心情に訴えて行くという、無能まるだしだ。マネジメントをまったくできていない。
少なくとも、優勝チーム国には、配分金を大きくだすべきぐらいの交渉をするなど、あたりまえだろうに。
いままでの交渉で、USAのほうが1枚も2枚もうえだと、しっぽをまいている、だらしなさだ。
すると、一般市民から、また「金か」と道徳的、アマチュア批判がでてくる、中学校野球をしているんんじゃない、プロの身体がかかった、戦いである、すでに露出している様に、WBCで戦う事で、以降の試合に支障が選手たちにでてしまっている、それでも闘うのだと、イチローのように身をていしてのプレーに、わたしたちは感動した。マネーは、所有金などではない、そんなマネーはプロ選手たちはもっている、そうではなく、プロが試合することのマネジメントが、WBCIにたいして、NPBにできていないことが、根本問題であるのだ。

サッカーも、オリンピックも、世界レベルでのスポーツマネジメントに日本は、まったく関与しえていない。F1でさえだ。
民主党に政治マネジメントが、まったくない、非営利事業にもマネジメントが無い、学校にもマネジメントが無い、子どもが死んでもなにもできない状態になっている。企業自体にマネジメントが無いから、総体にマネジメント不在となって、ただ自分利益を守る内部組織管理運営しかしていない。
世界水準でもマネジメント不在は、ひどい状態になっているのだが、日本にはそれ自体がないのだから、幼稚園以下だ。
ドラッカーの考えなど、基礎の基礎であるが、それがでたらめ翻訳で流通していること自体に、もうすべてがぶれて行く状態が、設計されている様に思われてくる。

体験主義的に思い込まれている、経営意識・感覚は、そうとうにぶれまくっている。

マネジメントを稼働させることのみであるのだが、さらに基本のプロデューシングがないまま、実行が規則性の遂行でしかなされていかない、それが現実そのものthe realを見ない、現実<性>realityという転倒閾しかみないで、経済や政治がなされている国になってしまった。当事者に当事行為・感覚がまったくなくなるという事態だ。
これは、諸個人にまで、相当身体化されてしみこんでしまっているようだ。

WBCのマネジメントをこうしろと提案し、対決し、交渉過程へと入っていくことができずに、まっとうな分配にしてくれという規則にのるかどうかを判断していくことしかしなくなっているから、こうなる。「脅し」を賭けることが意図ではないのに、そういう関係性にしか表出しない、だだこねだとなってしまう。
選手会に、そういうことしかさせないような状態になっている、プロ野球総体のマネジメントが無いから、そうなってしまう。選手たちが、かわいそうだ。イギリスが、どこにあるのか地図でも示せない、ビッグベンの名前もしらない、オリンピック選手たちがいるほど、それを無知だと言う閾は、マネジメントなどとはるかにはなれた状態であるということではない、スポーツマネジメント不在で、こざかしいもうけ主義しかしていないスポーツビジネスのでたらめさがはびこっていく実体がうみだしている現象である。

NPBが、すべきは、選手会のせっとくではない、WBCおよびWBCIとのマネジメント交渉である、NPBIないしJapan WBCIを、日本選手会とNPBとで早急にたちあげるべきだ、そこがWBCIと交渉に入るべきだ。そして、すくなくとも、優勝メリットの仕組みを画定すべきだ、向こう側のマネジメントがWBCIの儲けにしかなっていないからUSA側の選手も力を入れない試合になってしまっている、組合せの仕方も前回のようにまちがっている、やつらの似非マネジメントを変えるべきだ、そこへの日本選手会の不参加表明である、それをもってWBCIとの交渉にはいるべきだ。そこまで、しくんでの仕方であるなら、公の正規のNPBIないしJ−WBCIをつくらないかぎり、対抗はできない、陰のこすい裏技などでなされることではない。
世界レベルで、スポーツマネジメントをできる、日本のきっかけとしていくべきである。
日本チームは、ナイーヴに、WBCを戦った、野球の純粋形態があざやかに表出した、それがあの感動をわたしたちにもたらしてくれた、それを保証しうるNPBIの存在となっていくべきだ、NPBよしっかりせよである。

インド・マツダ工場で死者がでるほどの労働争議となっている、グローバルマネジメントができていないから起きる、これはどうみても日本の進出企業のあちこちで起きて行く。
日本は、USAとはことなるマネジメントがしっかりとできる国だという信用を創造していく上での、象徴的なものに、このWBCのマネジメント参画がかかっている。

マネジメントの基本は、ビジネス事業が、社会的・公的な存在意味を、カスタマーにたいしてつくりだし、かつカスタマーを創造していくことにある、そのツールとなるマネー収益をはかることだ、そこがぶれているWBCそのものを修正する、日本選手会の挙動である、それを活かすのは、日本によるスポーツマネジメントの確立でしかない。NPBと選手会の内紛ではないが、NPBの無能さそのものではある。
そして、逆に、USAをはずして、他国に指導的な位置をもって、アジア、ラテンアメリカの環太平洋マッチをつくり、USAと交渉していくぐらいのことをしていくべきだ、世界の野球の育成・普及をかねて。
ナショナルな文化となっているUSA大リーグにせまっていくには、それぐらいのマネジメントをしていかないと、対抗できないし、それを純粋野球的につくりえたなら、大リーグの選手会でさえ対応してくる、大リーグの経営自体に、大リーグ選手たちでさえ不満をもっている、WBCがFIFA/ワールドカップを超えることなどはできないが、しかし、もっと純粋な野球を愛する世界試合を創造できるのは、日本や韓国や台湾、キューバやメキシコ、ベネズエラなど、野球を愛する国々だ。
大リーグMLBは、たしかにすごい、しかし、もう日本選手は、そのレベルにひけをとらない。おとっているみっともないのは、NPBの無様なマネジメント無能ぶりだけである。

わたしは、つねにそうだが、原則的、本質的に選手支持である。新井、がんばれ! えらい、立派だ。
| 山本哲士 | 11:55 | - | trackbacks(0) | pookmark |

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『哲学の政治 政治の哲学』

山本理論思考の基礎全貌は、この書にある。2段組1500頁の大著。 http://ehescbook.jugem.jp

TETSUJI YAMAMOTO

山本哲士【やまもと・てつじ】
文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター
政治社会学。ホスピタリティ環境学、企業環境学。
ホスピタリティビジネス設計、場所環境設計。
スイス国際学術財団F・EHESC ジェネラル・ディレクター。


Pedagogy Ph.D 1981-2008:Shinshu University, Professor of political sociology / environmental cultural sciences/hospitality environment
1980 Tokyo Metropolitan University、post-graduate of human sciences / doctoral course
1975 Studies abroad to Mexico CIDOC(Centro Intercultural de Documentacion)
1986 Director of "IICHIKO"quarterly magazine
1990 General Director of EHESC
2000 General Director of F・EHESC(Geneve)

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