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「総理面会」の政治の裏 - ガス抜きデモの背景と法理
昨日(8/2)、野田佳彦が官邸前デモの主催者と面会する意向を固めたという情報が流れ、Twitter界隈はこの話題で一日中騒然となった。日程は来週以降とある。TLを追ってネットでの議論の模様を眺めると、この面会について二つの角度から否定的な見方のものが多い。一つは、デモの主催者は官邸前に集まっている参加者の代表者ではなく、参加者から正式な委任を受けておらず、参加者を代表する立場にないとする批判だ。正統性の欠如。もう一つは、官邸に招待されて面会に行っても、野田佳彦の口から原発の必要性について説明を受けたという既成事実を作られるだけで、結局はデモが政府側に取り込まれ、利用される結果に導かれるだけだから中止すべきという意見である。この二つの声を代表し集約するのがきっこのTweetであると言える。TLの中には、野田佳彦を面会に動かした事実を積極的に評価し、デモの成果であるとして主催者(反原連)を讃える声もあるが、全体としては少数派にとどまり、否定的な視線の方が圧倒的に多い。一言で要点を言えば、主催者が信用されていないのだ。一任を託せる代表者として信認されておらず、政府と直接対峙して結果を出せる指導者として期待されていない。デモを主催してきたのは彼らであり、政府側がデモの「代表」を選定しようとすれば彼らしかないのだが、多くのデモの参加者が、反原連の面々がデモの代表として振る舞うことに反発を覚え、この面会を不信の目で見ている。このことは間違いない。
代々木公園に7万5千人(警察情報)を集めた「さようなら原発」のアクションの方では、呼びかけ人の大江健三郎や内橋克人が、6/15に751万人の署名簿を官邸で藤村修に手渡したが、このとき、大江健三郎や内橋克人はわれわれの代表ではないから官邸には行くなという声は上がっていない。署名した751万人は大江健三郎と内橋克人を代表として認めている。当然のことだ。官邸前デモの主催者が、デモ参加者から代表として認められないのは、彼らが無名の若者だからではなく、ネット上での彼らの態度や言動があまりに粗暴で、横柄で、独善的で、病的なほどに攻撃的で、デモに賛同し参加する者の心を傷つけ、デモをめぐる議論の環境を荒ませているからだろう。首都圏反原発連合は、マスコミで報道されているような、デモ現場にファミリー・エリアを設置し、つとめて平和的で市民運動を企図し強調している集団というイメージとは全く逆の、狂暴で残忍な爬虫類を思わせる属性と生態をネット上で見せている。邪悪な毒牙で次から次へと人に襲いかかり、胸が悪くなる喧嘩の騒動を起こし、デモに対して善意で提案を与える者を排撃し、批判者に対して言語の暴力で威嚇している。当初はあまりのイメージのギャップに驚き、何かの間違いかと思っていたが、時間が経っても状況は同じで変わらない。反原連については、少なくともネット上では、この独善的で暴力的なイメージが定着している。
7/31に小熊英二を司会とした菅直人ら政治家の一団との「対話」があり、そこから2日の急転劇で野田佳彦の「面会」が発表された。きわめて政治の動きが素早い。7/31の映像を見た者はよく分かると思うが、菅直人はもったいぶった口調でじらし、野田佳彦との面会に逸る反原連を手玉にとるように、じっくり時間をかけて獲物を罠に誘き寄せる老獪な漁師のように立ち回っていた。俺が仲介してやるから焦らずに待てと窘め、面会を希望するなら要求のハードルを下げて妥協することも考えとけと諭していた。簡単には面会まで辿り着かせないぞという思惑が見え見えだった。菅直人の真っ黒な腹の中は誰にも透けて見える。デモと原発政策を材料にして党内で影響力を復活させ、9月の代表選の政局に絡んで存在感を誇示し、マスコミに注目される政治家としてしぶとく生き残ることである。だから、誰が見ても、7/31の「対話」は第1回の顔合わせで、序の口で、それは「面会」決定まで何回も続く政治イベントであり、辻元清美(ロードマップの会)やら阿部知子(原発ゼロの会)が自己宣伝に活用する場で、イベントのプロモーターは菅直人と繋がった小熊英二だった。したがって、「面会」実現までは相当な距離があると誰もが思ったのであり、それまで菅直人の古狸に道具扱いされて翻弄され続けることを覚悟していたわけだ。それが、わずか2日で野田佳彦の方から「面会」に駆け込んできた。私は、これは前原誠司の策謀だと推測する。
菅直人に代表選までの時間の主導権を握らせないため、そして、その結果としてハプンする原発政策の改変(政権からすれば後退)を阻止するためである。菅直人の動きを無力化するため、先手を打って「面会」に出たのだ。菅直人がデモの勢力をバックにして8月の政局で主導権を握ると、直近に迫った原子力委員会人事や、国会事故調の提言への対応や、将来のエネルギー計画(2030年の原発比率)の策定に影響が出る。見直しを迫られる。そのため、菅直人とデモ勢力の関係を早期に断つべく、あの「対話」を無意味化するべく、前原誠司が一計を案じて冒険に出たのだろう。つまり、面会して話は聞くが、要求はピシャリと拒否するのだ。そして、総理がデモの代表との面会に応じて原発の必要性を説明したという既成事実を作るのである。このことで、「デモを無視する」とか「国民の声を聞こうとしない」という誹りから免れることができる。だけでなく、「総理が直々に対話に応じて誠実に説明した」という美談的表象まで捏造し、それをマスコミで拡散してプロパガンダすることができるのである。具体的に言えば、大宅映子のような保守論者を動員しての、「ただ官邸の外でワーワー騒いでいる人たちを、総理がわざわざ官邸の中に呼んであげて、懇切丁寧に説明してあげたんだから、もういい加減にしなさいよ」という言説になる。保守層の共鳴を呼ぶ言説であり、デモへの反撃世論の起点となる。「そこまでデモに謙るのか」という気分を保守層に醸成する。
実際に、マスコミ報道がデモを積極表象で固めた現在、デモ台頭の現実を苦々しく思っている保守層は少なくないのだ。彼らは、政治の関心と焦点が早く別の問題(尖閣・選挙・橋下・改憲)に移行することを望んでいて、デモを含む反原発の情報と世論がフェイドアウトする時期を睨んでいる。政権側の論理(菅封じ)と並んで、もう一つ、私は今回の野田佳彦の「面会」の裏には政府側の論理が隠れていると見ていて、それは本格的なデモ潰しの狙いである。5月だったか、官邸前デモがネットでブームとなった頃、あの歩道を工事で封鎖するという不穏な情報が流れた。政府権力による合法的なデモ排除の規制措置だ。結局、懸念された工事の着手は見送られたが、あのとき工事に踏み切っておけばよかったと地団駄踏んでいる公安関係者も多いだろう。公安は政治警察であり、反体制の政治運動を監視し取り締まり、その興隆を防止するのが任務である。原子力村はこの国の暗黒の支配体制そのものだから、反原発運動はまさにラディカルな反体制運動の性格と契機を持つ。原発の息の根を止めることは、電力会社と経産官僚を中核とする政官産学のアンシャンレジームを転覆し解体することを意味せざるを得ない。デモはそこまでの射程を論理的に孕んでいる。デモのこれ以上の拡大は、原子力村の年間4200億円の予算にも影響するし、2030年の原発比率15%の策定にも待ったをかける。次の再稼働の障害にもなる。政府(官僚)は、原子力村を防衛するべくデモを放置容認できない。
政府は、野田佳彦の「面会」を単なるエクスキューズとアリバイの政治にはせず、そこから反転攻勢を仕掛けてくるだろう。そのデモ壊滅のプログラムの中身は、警察とマスコミがそれぞれ担うものだ。反原発デモの台頭は、オスプレイの配備や消費税増税やTPP参加にも影響するのである。勘ぐりすぎかもしれないが、今回の「面会」の政治は、政府からのデモに対する最後通牒と宣戦布告ではないかという想像がよぎる。野村・ハルの最終交渉の手続きのようなもので、直後に真珠湾の奇襲攻撃が計画されているのではないか。「あそこまで総理が意を尽くしたのに」「もうこれ以上はいいだろう」「甘やかしすぎだ」「やむを得ない」という論法でのデモ弾圧の正当化が準備されていて、「面会」はその作戦の布石なのではないか。もともと現在の官邸前デモの抗議行動は、正式な届けが主催者から出されていない集会行為で、警察判断からすればモグリであり、お目こぼしで付き合ってやっているグレーなアクションである。法的正当性は憲法のみにダイレクトに依拠する活動だ。道路交通法等の規制法令を言い出せば、当局にはいくらでも取締事由を見つけられるところの、「裁量で泳がせている」行為だろう。官邸前デモの初期、こうした曖昧な関係と位置づけでデモが続き、警察が付き合ってやり、それが継続され反復され、慣例的に定着した形で現在に至っている。事実上の合法性を獲得している。当局がお目こぼしにしたのは、規模が小さかったのと、抗議の主張と理由(再稼働反対)があまりに政治的に正当だったからだ。
警察としては、ガス抜きとして意味を認め、お上の憐憫の情で裁量で許してやったのである。公安警察がデモを容認しているのは、あくまでデモがガス抜きだからで、ガス抜きは歓迎だからである。ガス抜きによって国民の政治的不満が解消され、政府が決定した政策への反対論が吸収されて弱まるから。政治警察にとってガス抜きは政治的に必要なモメントなのだ。つまり、デモはガス抜きの意義を超える現実に転化してはいけないのである。その一線を超えて政治的な(反体制的な)示威の意味を有効に持つと、官邸前デモは歓迎でも容認でもなく取締の対象になる。主催者が、ガス抜きデモを繰り返して続けようと訴えるのは、そういう権力側の背景と法理がある。
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thessalonike5
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2012-08-03 23:30
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