今日でロンドン五輪が始まって1週間、率直な印象は、いつもにもまして競技者も、マスコミも、観戦者も「かんかんになっている」ということだ。
4年に一度しかない五輪に対し、選手が命をかけているのはよくわかる。五輪での勝利を目指して、そのことしか考えずに頑張っているのは、選手の取材報道で痛いほど伝わってくる。
また、多くの国ではオリンピックでのメダルは国の威信であり、国力の誇示であり、国内の結束の象徴にもなっている。きわめて政治的な意図がある。
マスコミも、それをあおり続ける。もちろん、視聴率を上げるためには、当然のことではある。
そのプレッシャーはおそらく想像もつかないほどの重たさだろう。負ければ次の五輪まで、あるいは一生、「負けた」という十字架を背負わなければならない。
五輪のメダル競争が過熱しているのは、中国という新興の大国の存在が大きい。かつてのソ連のように国家的な事業として各選手を強力に後押ししている。選手は「ステートアマ」である。
それは、世界のビジネス市場に進出し、次々と既存の国、企業から市場を奪っている中国ビジネスと二重写しになる。
中国にとって、五輪もビジネスも「戦争」に近いのだと思う。どんなことをしても「金メダル」を獲得し、市場を奪うことが、至上命題であり、それ以外のことは意味がないのだ。個々の努力や創意工夫などは、勝利に比べれば無価値なのだ。称えられるのは、勝利だけなのだ。
中国に強く刺激を受けるのが、同じ新興国の韓国だ。この国は、常に中国と日本のことを意識している。1988年のソウル五輪を機に、急成長を果たしただけに、中国が五輪で大攻勢を仕掛けるなら、韓国も、と国中が熱くなる。勝利以外は見えなくなる。
その結果として、バドミントンでの「無気力試合」という醜態を演じたのだ。
「無気力試合」とは、「故意に負けた」とは断定できないために付けられる言葉だが、敗退行為=八百長があったことはほぼ間違いないところだ。
中国、韓国ともにバドミントン協会による失格の処分は受け入れたが、両国は、様々な競技で審判の判定に不服を言い、不満をぶちまけている。国家が熱く選手をバックアップすること自体は悪いことではないが、勝敗がついた試合に文句をつけまくるのは、見苦しいとしか言いようがない。
中国、韓国の隣国である日本は、両国よりもはるかに早く五輪を開催し、はるかに早く経済発展を遂げた。て今、経済も社会も低迷傾向にあるが、経済大国として長く国際社会に存在し続けている日本は、視野も広く、思慮も深いはずだ。
中国や韓国と同じ土俵に上がって「メダル争い」に血道を上げる必要はないと思う。
そういうことでいえば、「なでしこJAPAN」の「引き分け戦略」は誠に残念だった。トーナメントを有利に戦いたいという理屈はわかるが、「引き分けを狙いに行った」とは、言ってはならない言葉だったと思う。目の前の試合に対して「勝利」以外のことを狙ったとすれば、それはスポーツマンシップに反している。八百長ではないにしても、片八百長あるいは八百長まがいである。
勝利、メダルを目指してひたむきに頑張る選手たちを応援するのは当然だが、結果が伴わなくても、選手たちへのリスペクトは忘れてはいけないと思う。
私たちは失敗から多くのことを学んできた。また、努力の過程が結果よりも重要だということも、良く知っているはずだ。だから、ここまで長く経済大国の位置を保ってきたのだと思うし、文化や教育のレベルも高いのだと思う。付け焼刃でない「豊かさ」は目の前の勝利だけを追いかけていては、得られないのだ。
ここまで五輪を見てきて、一番印象に残るのは、100m200mの平泳ぎで敗退した北島康介選手の言葉だ。特に200mのあとのコメントは歴史に残ると思う。
アナ「素晴らしい挑戦だったと思います」
北島「悔しいですけどメダルに届かなかった、でも(立石)諒が取ってくれたんで悔いはないです」
アナ「150mまでは世界記録を上回るペースでした。前半からいく気持ちだったんですね」
北島「それが僕にできる きょう精いっぱいのレースだったと思ったしずっとそうやって自分のレースをしてきたんで悔いはないです」
アナ「いま2種目、3種目の挑戦を終えてどうですか」
北島「3連覇というよりも自分に対しての挑戦だったし この4年間は本当にたくさんの人から応援されてたし ここまでサポートしてくれたすべての人に本当に感謝しています」
3連覇は世間やマスコミが設定した目標である。北島は著書でも自身の衰えを明言していた。その中で自分の限界に挑戦したのだ。負けるかもしれないと思っていても、降りることが出来ない苦しみの中で、五輪を終えたのだ。
「チョー気持ちいい」と吠えた若者が、こんな立派な言葉を吐いて引退する。これこそがドラマであり、五輪だと思う。
メダルも大事だが、メダルを取らなくたって大丈夫。そうした余裕を持って五輪を見たいと思う。
私はこの五輪では、これからも「敗者の声」をしっかり聴きたいと思う。