2010年07月24日

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田原総一朗がしゃべり出して、30秒で決着がついた。
 「若者不幸社会」なる議題で始まった、昨日の『朝まで生テレビ』は、最初に田原総一朗が「僕が若い頃は、親に仕送りをしていた(から不幸だった)。ところが今の若い人はそうではない(から不幸ではない)」という主旨の発言をし、それに対する反発が出なかった時点で、もはや終了していた。
 もちろん、あの場にいたメンツを責めるつもりはない。司会者が最初に自分の意見を述べるのは当然であり、普通はそこに意義を挟むようなことはしない。自分だってあの場にいたら、反発を思いながらも、それを止めることはできなかっただろう。
 だが、やはりあそこで、「親の面倒を見られることは幸福なのだ!」と反発するべきであった。

 確かに、それは結果論であるともいえる。田原世代の若者が、親にお金を送りながら、自分はぜいたくはできない。彼らはその当時に不安の中で生きてきたのであろう。しかしそれは結果論であると同時に、過去のことである。今の若者を自らを見比べた場合に「今の若者の方が幸せである」と思える事が、どれだけ恥ずべき事か。そのことを指弾する必要があった。

 若者に親を支える役目が課される、家族をもつ役目が課される、会社で働く役目が課される。そうして社会に役割を与えられ、“徴用”される事は、今の若者から見れば「とてつもない幸福」なのである。

 だいたい、あそこにいたメンツを見ればわかるだろう。福嶋麻衣子を除けば、皆、おっさんおばさんだ。30過ぎて「若者の代弁者」をすることが、どれだけ惨めで空しい事か分かるか? 俺だってもう35だ。本当だったら立派なおっさんだ。にもかかわらず、社会的な役割を与えられてない限り、35だろうが40だろうが、いつまでも「若者」でありさせられ続ける。「若者」というのは、ひとりの人間がモラトリアムであることを示す言葉だ。年齢的には子供ではないが、社会的には大人ではない状況を差す言葉である。
 ならば、若者が不幸なのは、まさに若者が社会から徴用されず、大人になれないからである。田原の世代はは若いうちから、若者ではなく大人として、社会に徴用されたのである。

 何の苦もなく大人になれた彼らは、不幸な人間の気持ちを理解する事ができない。
 自らの幸福を幸福と気づかず、後の世代に適切な権限譲渡をせずに批難ばかりを口にし、「かつて自分は不幸であった」と自分語りをして自尊心を得る。その無自覚な幾重もの傲慢を指弾できなかった時点で、「若者不幸社会」なる議題は破綻し、田原総一朗の圧勝に終わった。



(17:48)

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