2010年03月01日

桐生市議会が象徴しているもの(1)

 「竹原信一という男」のBBSに、あまのじゃくさんというハンドルネームの方がいます。このところ、この方の書いていた『感情と人間関係』と『道理』に関する文が、私のアタマの中でぐるぐるまわっていました。

 それは、桐生市議会を構成する議員達も、そしてその議員達を選ぶ市民達も、『道理』を超えて、『感情と人間関係』だけに固執して行動してきたのではないか・・・と思ったからです。

 桐生は古いまちで、このまちで生まれ育って大人になった人が圧倒的に多い。外から流入する人口は、極めて少ない。地縁と血縁が非常に強く、群馬県は義理人情に厚い県民性があり、中でも桐生人は『情』にもろく、極めて『感情と人間関係』の強い土地柄であると言っても過言ではないでしょう。

 「市民を感動させて、仲間を増やせ、票を増やせ」と最近、親しい人から言われたことがあります。今まで、この土地で生まれ育ったわけでもなく、親戚が多くいるわけでもない私のような場合、「感動」という『情』でしか、票を得る方法はないと、この土地に長く住み続けている先輩のとても現実的なアドバイスだと思います。
posted by 由紀 at 07:30| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

桐生市議会が象徴しているもの(2)

 私が3年前の選挙で当選できたのも、私を応援してくれた桐生人の人間関係が大きく影響していることは間違いありません(選挙用ポスターの写真を美しく加工したおかげもある)。

 そういうものも、大切だと思います。が、それが『道理』を超えてしまった。超えてしまった現象が、今の桐生市議会に現れているのではないでしょうか。

 「謝罪しろ」「謝罪しろ」と幾井ギチョーと愉快な仲間達は言うけれど、謝罪した西牧議員は、今度は「謝り方が悪い」と言われています。彼等の目的が「謝罪」にあること自体、その次が見えない(ないのかもしれない)のだけれど、「謝罪」したところで、桐生市議会は何も変わらないことだけは、ハッキリしている・・・というか、今回の件で、より一層、ハッキリしました。 

 桐生市議会は、まさに使い物にならない。象徴的なそのものでしょう。

 彼等は、自分たちの生活給と議員特権と、センセイなどと呼ばれて生まれてしまったちっぽけなプライドと・・・そんなものを守ろうと必死になっているように見えます。また、議会での本当のことを市民に知られた時、あるいは議員でなくなった時、プライドやメンツを傷つけられることに恐怖心を抱いているから、感情的になって、わーわー言っているだけではないですか。

 本当は、自分たちが議員でなくなったら、社会の中で何の役にも立たないということを認識するのが怖いのではないですか?違いますか?

 かなしい。・・・かわいそうな人たち。
posted by 由紀 at 07:29| 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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