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基調講演 「ゲームやビデオが子どもに与える影響について」

講師 坂元 章 氏 お茶の水女子大学教授

お茶の水女子大学文教育学部人間社会科学科教授。
専門はメディア心理学、社会心理学、教育工学。とくにメディアが人間の認知的、社会的発達に及ぼす影響や、教育などにおけるメディア利用の効果について研究している。
東京大学文学部および大学院社会学研究科で社会心理学を学び、東京大学文学部助手、お茶の水女子大学文教育学部講師、助教授を経て現職。博士(社会学)。
編著書として、「メディアと人間の発達」(学文社)、「テレビゲームと子どもの心」(メタモル出版)等。文部科学省中央教育審議会生涯学習分科会専門委員、日本シミュレーション&ゲーミング学会理事、日本パーソナリティ心理学会理事、日本グループ・ダイナミックス学会理事、コンピュータエンターテインメントレーティング機構(CERO)理事。


【基調講演】「ゲームやビデオが子どもに与える影響について」

お茶の水女子大学 教授
坂元 章

 このたびは、こうした席で話をさせていただく機会を頂戴いたしまして、まことに光栄です。まことにありがとうございました。どうぞ、よろしくお願いします。
 私自身の専攻は、自分自身ではメディア心理学と言っていますが、特に、テレビ、テレビゲーム、インターネットなどのメディアが人間にどのような影響を及ぼすかということや、さらに、その影響にどのように対処したらよいかということなどについて研究をしています。本日は、特に「ゲームとビデオが子どもに与える影響について」というタイトルを頂戴いたしまして、この件についてお話をしたいと思います。
 今日の話の内容ですが、2つの部分からなっています。まず1つ目は、悪影響問題ですね。「実際に悪影響があるのかどうなのか。」ということについて、これまでの研究とその研究成果について、お話ししたいと思います。
 それからもう1つの内容は、悪影響問題についてどのように取り組むか、ということについて、少しお話をしたいと思います。
 私は、この「影響問題」について研究をしているのですが、実は、テレビゲームの自主的な取り組み団体であります「コンピュータエンターテインメントレーティング機構」というのがありまして、Computer Entertainment Rating Organization の頭文字をとって「CERO」(セロ)と言われているんですが、その役員をしていまして、その観点からもお話をしたいと思います。
 それでは、まず1つ目のテーマ、「悪影響問題」の研究について、どんなことが研究の世界では言われているのかということ、これについてお話をしたいと思います。こちらについては、スライドに目次を掲げていますが、その段取りでお話をしていきたいと思います。
 まず、研究の方法です。「どういう方法で研究をしているのか。」ということを簡単に申し上げます。
 それから、実際に研究の動向がどうなっているのかということ。特にゲームとビデオということですので、特に関わりがありそうなところとして、4つを取り上げたいと思います。
 まず暴力シーンの悪影響の問題。
 それから、ポルノグラフィー、性表現ですね、こちらの方の悪影響問題。
 それから、過剰視聴、やり過ぎ、それによって社会的不適応が起こるかどうかという問題。
 それから、最近よく言われる言葉になりましたが、「ゲーム脳」という言葉があります。これについての話題。
 これらについて、順番に触れていきたいと思います。
 まず、「研究の方法」です。「メディアの悪影響がどうであるか」については、直観的に語られることも少なくないようにも思われるのですが、しかし、研究する立場では、直観で議論することは、なかなか許されない、というか、全く許されなくて、やはり「然るべき方法で実証をしていく。」ということがどうしても必要になってきます。「実証」というのは「データを取って、そのデータに基づいて物を言う。」ということになります。ただ単にデータを取っただけでも駄目でして、然るべき方法論というのがあって、それに沿って取られたデータを信用していく、ということになっていきます。このことについて少しお話をしていきたいと思います。
 私どもの分野では、「実証」するための研究、即ち「実証研究」の方法としては、主要なものが3つあると考えられているように思います。
 それは、「調査研究」、「パネル研究」、「実験室実験」なのですが、それぞれに特質があります。それについてのお話をしないといけないのですが、これに関ります重要なキーワードが、「相関関係」と「因果関係」という言葉です。この区別が非常に重要なものとなってきます。
 まず最初に「調査研究」についてお話します。これは一般的に「アンケート調査」と言われるものでイメージできるものかと思います。例えば、「どの位、テレビゲームをやっているか。」ということを聞く訳ですね。もう一方で、「どの位、その人が暴力傾向があるか。」あるいは「攻撃性が高いか。」というようなことを調べるための質問をします。そういった性格テストで「どの位、暴力傾向が高いかどうか。」ということを明らかにする。そして、「テレビゲームをやっている人ほど、本当に暴力的な傾向が高いかどうか。」を分析する。これが「調査研究」ということになります。研究者側から何も介入しないで、1回だけ調査をやって、日常場面での行動とか活動について聞いて、それを分析するというやり方です。この時、すごく問題になりますのは「この調査は相関関係を明らかにしても、因果関係は明らかにしない。」ということです。メディアの影響研究で必要になりますのは、あくまで「因果関係」です。「因果関係」といいますのは「あるものが原因になって、あるものが結果になる。」という関係ですね。即ち「テレビゲームが原因となって人間の暴力性というのが結果になる。」という関係を検討したい訳です。
 ところが、調査研究をやっているだけでは、この因果関係というのは明らかにはならないんですね。というのは、仮に「テレビゲームをやっている人ほど暴力的である。」という結果が出たとしますね。しかし、このとき、因果関係は何通りかのものが想定できるんですね。例えば、「テレビゲームが暴力に影響する。」という因果関係が成立していれば、もちろん、「テレビゲームをやっている人ほど暴力的である。」という結果は出てくることになります。
 しかし、スライドに「逆の因果関係」とありますが、「逆に、元々暴力的な人がテレビゲームをするようになる。」という、「逆方向の因果関係」が正しかったとしても、「テレビゲームをやっている人ほど暴力的である」という結果は生じます。
 それから、もう一つ、「疑似相関」と言っていますけれども、こうしたこともあります。例えば、性別によるものがあります。男性の方が女性よりもゲームをよくやっているんですね。ですから、「男性に生まれるということはゲームをよくやらせる。」という因果関係があると言えます。もう一方で、「男性に生まれることは暴力的」にさせるんですね。男性ホルモンが作用したり、いろんな理由が考えられるのでしょうけれども、暴力的にさせる。このように、テレビゲームをやっている人は男性が多くて、また、男性は暴力的ですから、「テレビゲームをやっている人ほど暴力的である。」という関係が生じる訳です。
 こういうことですから、「テレビゲームをやっている人ほど暴力的である。」という相関関係があっても、それは直ちに、こちらが検討しようと考えていた「テレビゲームをやっていると暴力的になる。」という因果関係を意味する訳ではない、ということになります。このあたりをしっかり区別する必要があると言えます。
 調査研究ですと、今、申しましたように「テレビゲームをやっている人ほど暴力的である。」という相関関係しか明らかにしません。相関関係というのは、一方が大きいほど、もう一方が大きいとか、一方が強いほど、もう一方が高いとか、2つのものが連動するだけの関係のことをいう訳ですね。それがあるからといって、因果関係、どちらが原因で、どちらが結果であるとか、そういったことは判らない訳です。ですから、調査研究をやっているだけでは因果関係は判らない、ということになります。
 こうした因果関係の問題があるときに「パネル研究」というやり方をとるんですね。これは何かというと、「同じ人に対して繰り返し同じ調査をやっていく。」ことなんです。そういったやり方で得られたデータを一定の方法で分析することによって、どちらが先にあるか、テレビゲームが先にあるのか、暴力が先にあるのか、ということが、ある程度、特定されてくるんですね。これも完全ではないんですが、ある程度は因果関係が特定されてきます。ですから、少なくとも、こういうやり方をとっていない調査データは、影響研究のうえでは信用できない、ということになります。
 さらに「実験室実験」というのがスライドの最後にあります。これは何かといいますと、「人を実験室に呼んできて実験する。」から「実験室実験」と言っているんですが、因果関係の特定がパネル研究よりもさらに確実なものになる方法で、「実験協力者」をランダムに複数のグループに分けます。例えば、2つのグループに分けます。片方のグループには、暴力的なテレビゲームをやってもらう。もう片方のグループには、同じ時間、中立的な映画を観る。「赤毛のアン」とかですね…。そうして時間をつぶしていただく。その後で、何か暴力的な行動を測定します。よく用いられる実験方法ですと、「相手に雑音を聞かせるような状況」に入ってもらって、どのくらい雑音を聞かせようとするだとか、そういったことを調べて、暴力的な傾向を調べたりします。
 その結果、テレビゲームをやっているグループの方が、そうでないグループよりも、多くの雑音を相手に聞かせようとする、というようなことが判れば、それはテレビゲームの影響である、と議論していくものですね。
 ただ、この「実験室実験」というのは、因果関係の特定という点ではすごく良いのですが、やはり実験室に呼んでいますので、「実験協力者」が実験に協力しているということを自覚しながら作業する訳ですね。ですから、実験の結果が実際の日常場面の影響をどれだけ表しているかどうかに曖昧な面がある、という短所があります。
 このように一長一短がありまして、「調査研究」というのは問題外なんですが、「パネル研究」と「実験室実験」の両方を進めて、双方向から議論していく、というのがよいと、今はされている訳です。こういった形で蓄積されているデータを一番信用していこうと、そういう姿勢をとっています。
 以上で研究の方法の話は終わります。
 次に、実際の研究動向について、お話をしたいと思います。
 まず、暴力シーンの悪影響の問題です。この暴力シーンの悪影響については、従来からアメリカで、兎に角、アメリカで圧倒的なんですが、関心が持たれ、研究されてきているものです。非常に多くの研究がなされてきましたが、ずっと2つの理論が対立して、論争が行われてきました。
 まず1つが「社会的学習」という理論です。これは何かというと、「暴力シーンを観ていると、子ども(大人も含めてですけれども)、人間は暴力というものを学び取ってしまう。その結果、暴力性を高めてしまう。」という理論です。「学び取る」とはどういうことか、といいますと、特に重要だと言われているのが「暴力が良い、という価値観を学び取る。」ということです。
 例えば「ヒーローが出てきて、怪獣を倒して、万歳!ああ、よかったな!」というストーリーを観ますと、「暴力というのが良いものである。」、「暴力は、問題解決の手段として非常に有効である。」と、そういった価値観が学ばれてしまうと考えられます。現実の世界でしたら、暴力というのは最後の手段ですね。「怪獣と話し合う。」とか、「怪獣が何で暴れるのかを考えて、その背景にある問題に共同して解決に当たる。」とか、そういったことをやろうとするでしょうね、普通でしたら。最後の手段として暴力になる訳です。ところが、テレビの世界では最初に暴力の手段が紹介され、その点、ゆがんでいる訳ですね。こういったことによって「暴力というのが有効な問題解決の手段だ。」ということが学ばれてしまい、その結果、悪影響が生じてしまう、という理論です。
 それと、もう一方で「カタルシス効果」の理論というのがありまして、これは何かといいますと、普段、人間は「暴力を振いたい。」という欲求を持っているとします。ただ、現実の社会では暴力を振るうことは許されない。だから、欲求不満状態にある。それが、暴力シーンを観ることよって、その欲求不満が解消されて、かえって暴力性が無くなるという、悪影響と対立する議論ですね。これがあって、両者の間で論争が行われてきました。
 これは、もともとは、がっぷり四つの議論だったんですが、だんだん研究が進んでまいりますと、その「カタルシス効果」の方を実証している研究に、実験方法の不備がある、ということが指摘されるようになってきました。
 それからもう一つ、確かに「カタルシス効果」というのは有るかもしれない。ただ、欲求不満の解消としては、それは短期的なものに留まる。時間が長くなってくると、やはり「暴力はよいものだ。」という「価値観の学習」が長く続くので、それが強くなってくる。だから、長期的なスパンで見てみると、やはり悪影響という方が強いだろう、という議論が優勢になってきました。現在では、「テレビの暴力シーンからの悪影響が有るか無いか。」と言えば、「悪影響が有る。」と、研究者の考え方はほぼ固まっている、というふうに私は思います。
 次にテレビゲーム研究です。幾つかの事情があるんですけれども、テレビゲーム研究は、テレビに比べますと遥かに少ないんですね。「研究が少ない。」ということは「はっきりした結論が導けない。」ということになりまして、現在、そういう、あやふやな状況にあります。ただ最近、研究が増える傾向にはあります。それがかなり悪影響を検出してきている、ということがありますので、研究者の考え方は、大分、「テレビゲームの悪影響」が有ると言ってよいだろうと、テレビでもそうですし…、考え方は、かなり傾いてきている、という状況にあると思います。
 特に、その考え方を強めさせているのが、最近になるほど、そういう「悪影響を検出している研究」が出てきていることです。それから、かつてのテレビゲームと比べると、今のはすごくリアルで現実的になってきています。かつての「インベーダーゲーム」のように、何かキャラクターみたいなものが出てきてピコピコやっているのと、今のは違う訳ですね。今のテレビゲームは、本当に人に近いような画像があって、それを殺戮していくような内容のものもあります。ですから「そういう表現における現実性の進歩があるし、影響研究の結果としても、そういうものが出てきている。だから、現在では悪影響があると見るべきではないか。」という議論がある訳です。
 それから、もう一つ「相互作用性」ということですね。テレビでは、映像を一方的に受けるだけですけれども、テレビゲームでは、こちらからも働きかけることができます。テレビについて先ほど「価値観が学習される。」と申しましたが、あくまで「他人の暴力」、「ヒーローの暴力」が称賛されるのを観て「暴力がよい。」ということを学習する訳ですが、テレビゲームの場合には「自分自身の暴力」が称賛されることになります。「得点が稼げる。」、「面白い音楽とか、映像が流れる。」、「新しい展開が楽しめる。」と、そういうふうに称賛される訳です。ですから、その方がより悪影響は強いだろう、という理論があります。これは、今のところ、実証された理論ではありませんけれども、ただ理論としてはあります。テレビの研究では、悪影響の考え方というのはほぼ固まっている訳ですから、「当然、テレビで悪影響が有るんだから、テレビゲームでも有るだろう。」という考え方も、現在、テレビゲームの悪影響に、研究者の考え方が傾いている1つの論拠になっている、と思います。
 それから、今、「悪影響がある。」という話をしておりますが、非常に重要な点としては、テレビ研究の中で言われてきたことですけれども、影響というのはもちろん常に起こる訳ではなくて、すごく色んな要因に左右される、ということです。例えば、描写の特質として、当然かもしれませんが、暴力描写が多いシーン、それから暴力描写が激しいシーン、こういったもので悪影響は強くなる、そうでない場合は弱い訳です。それから、武器を使っているシーンの方が悪影響が強い、ということを言っている研究もあります。
 それから、よく重要だと言われていますのが、暴力が肯定的に描かれるということですね。暴力が称賛されている場合や暴力が正当化されている場合。例えば「親の敵相手を討つ。」なんていうシーンは悪影響が強い、と言われています。「もっともな理由であれば暴力は振っていいんだ。」という、そういう価値観を学習させるからということです。
 それから、現実的なもの。自分自身でもできそうな暴力が描かれている場合ですね。素手で殴っているとか、そういう自分自身でもできそうな暴力が描かれている場合、影響が強い、と言われています。
 それから、暴力や暴力者の魅力が高い場合、それから視聴者と類似している人、例えば自分と同じ世代の人が暴力を振るっているとか、そういうものの方が影響力が強い、と言われています。
 それから、個人差。元来の攻撃性が高い人に悪影響が強いとか、同一化の傾向、主人公と自分自身を同一視しやすいような人に影響が強いとか、教育水準の高い人では影響が少ないとか、そういうことが言われています。
 あるいは、視聴状況。視聴者がすごく怒っていたり、ストレス、イライラしている状況では悪影響が強い。また、逆に周囲からの働きかけ。暴力シーンを観ている人に対して、その暴力というものに嫌悪感を示すとか、「暴力シーンで描かれていることは非常に一面的な描き方をしているんだ。」ということを教えてあげるとか、そういったことをやると悪影響が低まる、というふうに言われていまして、「暴力シーン、即、悪影響がある。」ということではなくて、いろいろな条件がある、ということも併せて指摘されています。
 テレビゲームの方では、こういう要素を特定する研究には全く進んでいない状況ですけれども、恐らくテレビと同じように、こういったものは成立するだろうというふうに予想されている状態と思います。
 次に、ポルノグラフィーの悪影響という話です。これもアメリカで古くから大変関心があって、1960年代から国家的な研究が行われてまいりました。1971年の報告書がよく知られているんですが、そこでは「ポルノというのには明確な反社会的な影響が無かった。」と報告されています。ただ、そのときのポルノというのが「ソフトコア」というものが中心だった訳ですね。「ソフトコア」といいますのは、ヌード写真とか、そういう「静止画像」のものです。それ以後、どんどん「ハードコア」のものが出てきて、非常に一般的なものになってきました。これは、ビデオとか、映画とかの「動画」で性行為を描写するもので、そうしたものが広がってきました。
 さらには、暴力的ポルノですが、「ハードコア」の描写の中では男性が女性に暴力を加えている、レイプシーンなんていうのが非常によく出てくる、ということがあって、「やはり今までのソフトコアの研究結果では済まないのではないか。」ということで、その後も研究が行われてきました。最近では、研究倫理問題等がありまして、余り研究は行われていないように見えますが、1980年代ぐらいまでは、かなり踏み込んだ研究が行われておりました。そういった「ハードコア」とか、特に暴力的ポルノということになりますと、「ソフトコア」と違って、より強い影響力があるのではないか、ということで研究が行われてきた訳です。
 実際に、いろいろな研究結果が出されてきたのですが、女性に対する暴力行動を高めるなど、悪影響を検出した研究もしばしば見られ、やはり「ソフトコア」の場合と同等に考えることはできず、悪影響を持つ場合があると考えられているように思います。
 先ほど申しましたように、このポルノの研究というのは、やはりポルノグラフィーを協力者の方に観ていただくとか、そういうことの研究倫理の問題からなかなか研究がやりにくい、ということがあって、ここ20年位は、余り盛んでない研究領域になっているように思います。けれども、現代のメディアでは、当時と比べても技術力がすごくアップしていて、よりインパクトがあるものが可能になっている訳ですし、さらにビデオがレンタルされるとか、インターネットの普及ということで、青少年がそういうポルノグラフィーに接触するという可能性が以前よりずっと高まっています。
 さらに、今回のテーマは「テレビゲームとビデオの影響」ということで、余りインターネットの話には入りませんが、「インターネットでは発信者が何を発信しても余りチェックされない。」ということがある訳ですね、個人で好きなようにメッセージを出せる訳です。そのため、反社会的な情報というのが生じやすく、そういったものに晒される、ということが起こってきます。
 さらには「相互作用」ですね。テレビゲームというのは相互作用性がある、「自分の方からもゲームの方に働きかけることができる。」訳ですね。ポルノの中では、他人の性的暴力というのを観て、それで学習が起こるのに対して、ゲームの中では自分自身の疑似環境での性暴力、それが称賛されさえもする訳です。
 こうしたことを考えますと、現在のポルノの悪影響はより強い、という可能性も推測されるのでありまして、現在、実は本当に研究が必要な分野になっていると思います。
 次に、ゲームにしても、テレビにしても「過剰視聴による社会的不適応」という問題です。ちょっと申しおくれましたが、実は、ビデオそのものについての研究は、ほとんど行われていない状況です。ですから、ビデオについては、テレビの研究を基本にしてお話をさせていただいています。
 この「過剰視聴」ですけれども、テレビとか、ビデオ、テレビゲーム、どれでもそうですけれども、「それに没頭してしまうということで、社会的不適応が起こるのではないか。」ということが心配されています。これは、生身の人間に接触する中で人間関係のスキルが学べるという前提に立ちまして、メディアに接していると生身の人間と接しないので、その結果、人間関係的なスキルが学べない。濃密な人間関係、いろいろ面倒くさいことがある人間関係に、もう出ていくのも嫌になってしまう。その結果として「引きこもり」ですとか、「不登校」とか、そういったものも起こってくる。こうしたことを心配する考え方がある訳です。
 ところが、テレビとかテレビゲームの研究では、この考え方は、少なくとも子どもについては、余り、というか全く支持されていません、今のところは。むしろ、時々、研究結果として出てきますのは、「元々、不適応的な人がテレビやテレビゲームをするようになる。」という「逆方向の関係」でして、「テレビやテレビゲームが原因となって、社会的不適応とか、引きこもりとか、不登校とか、そういったものが起こる。」とは、今まで実証されていない状態であると思います。
 説明として考えられるのは、テレビにしろ、テレビゲームにしろ、もし、それが人間関係を絶って、人間関係的なスキルとか技能を育たなくさせるということがあるとしても、もう一方で、テレビとか、ビデオとか、テレビゲームとか、そういったものが人間関係を円滑化させている面もある、ということですね。例えば、番組を話題にして話をするとか、ゲームソフトの貸し借りをするとか、さらには、例えばゲームが上手いとみんなから尊敬されて人が寄ってくると。これは、むしろ人間関係を、より良くやり易くさせる訳です。こういったことがあるので、不適応化する面があるとしても、それが相殺されて、結局、悪影響がなくなっているのではないか、ということが1つ考えられます。
 ただ、テレビやテレビゲームではそういうことなんですが、インターネットについては、こういう不適応化は起こる、と指摘されています。ただ、かつては、インターネットによってかなり広い範囲の人に不適応化が起こって、さらには中毒になっていくという見方もありました。即ち、もうインターネットの世界でしか生きられなくなって、それ以外のことが出来なくなってしまい、インターネットを続けていくと退学になるかもしれない、失職するかもしれない、離婚するかもしれない、という危機的な状況になっても、それが悪いのも判っているんだけれども、止められない、ということですね。かつては、これがかなり広い範囲の人で起こりうると言われてきたんですけれども、最近では、それはかなり変わってきて、起こるとしてもかなり限られた人にのみ、というふうに考えられています。かつては麻薬中毒のように、みんなに起こり得るというという考え方だったのが、今はアルコール中毒のように、アルコールは飲む人が大勢いますけれども、アルコール中毒になる人は一部ですね、そういうモデルで考えるのがよいだろう、というのが今の見方だと思います。
 ただ最近、オンラインゲームが普及をしてきていています。先ほど「ゲームの悪影響」という考え方が支持されない、と申しましたが、これはあくまでスタンドアローンの(ネットにつながっていない)単体のゲームのことなんですね。オンラインゲームは、また別です。
 インターネットの中毒性について、「人と繋がりがあるということは、中毒性を持つ。」と考えられている訳なんですが、それにゲームの面白さが加わってきますので、純粋のインターネットよりも、さらに中毒性が強いのではないか、ということが懸念されているように思います。ただし、これについては、研究が未だ余り行われていませんが。
 実際に、韓国とか香港は、オンラインゲームがすごく盛んなところですが、そこでは、その中毒性はすごく深刻な問題だ、と言われている訳です。数カ月前、韓国で、何十時間もオンラインゲームをやり続けて、極度の緊張と疲労で死んでしまった、なんていう事例がマスコミ等で流れていました。ネットカフェでマウスとキーボードに手をかけたまま死体で発見されたそうです。つまり、死に至る位の中毒性がある、ということですね。ですから、これはまた新しい問題として、今後注目しなきゃいけない、そういう話だと思います。
 それから、「ゲーム脳」についでです。2002年7月に「ゲーム脳の恐怖」という本が出版されて、大変な話題になりました。ここで、ゲームをやっている時、大脳皮質と言われる大脳の表面の部分、その中でも特に前頭前野という、おでこのあたりの部分ですね、この部分の不活性が観察される、ということが指摘されました。そういう不活性のパターンというのは、認知症の方と同じパターンで、だから、非常にまずいのではないか、子どものころから認知症のような脳活動になっているので、という懸念が出されました。ゲームをやっていると、いずれ本当の認知症のような人間になってしまう、脳が壊れてしまう、ということで、センセーションを巻き起こしました。
 これにつきましては、この問題についての議論を巻き起こした、という点で、社会的な意義はすごくあった、と思うのです。けれども、学術の点からいうと、仮説としては興味深いけれども、まだ検討の余地が色々ある、ということが指摘されています。
 例えば、1つ目が不活性の性質ですね。前頭前野の不活性というのが、認知症の方と同じであるので問題ではないか、という問題提起ですけれども、それが短絡的ではないか、という議論です。チェスとか将棋の達人が、チェスや将棋をやっている時の脳活動を調べてみますと、実は前頭前野が不活性であるような結果が測定されるそうなんです。ですから、そういう前頭前野の不活性というのが、単純に認知症と関わるとは言えない。ひょっとしたら、脳活動には何パターンかあって、たまたま脳活動の測定結果が同じになっているだけかもしれない訳ですね。そのあたりが、もっと検討されていかなければいけません。
 もう1つが、発達に対する影響ということです。もし、例えば、前頭前野の不活性というのが深刻な問題である、即ち、認知症と同じ状態にあって、それが問題である、ということが仮にあったとしても、重要なのは、そういった活動を(ゲームをしているときに不活性が起こっているということを)ずっと続けていくことによって、ゲームが無いとき、即ち、通常の状態でも、不活性なままの人間になるかどうか、という、その発達についての検討をしなくてはいけない、ということです。それについての研究は、全くされていないんですね。それもしていかなければならないものと言えます。
 ただ、「ゲーム脳」の話題は、この問題に注目させるというインパクトを持ちましたし、それから親御さんや教育者の方が、お子さんに対し「ゲームばっかりやっているとゲーム脳になっちゃうよ。」という言葉掛けをなさったのは、結構強力でして、そういった「しつけ上の意味」があったとは言えます。
 以上で、悪影響問題についての話を終わりまして、次に取り組みの問題について、お話を進めたいと思います。
 まず悪影響への対処というのが必要である、ということを申し上げて、それからそれぞれの対処の方法について、一つ一つ少しお話をさせていただきます。まず、これまでのかなり主要な対処であったと思われます「自主規制」の話。それから、最近進みつつあります「法規制」の話。それから、教育で対処しようという「メディアリテラシー教育」の話をして、最後にまとめの話をしたいと思います。
 まず、悪影響への対処ということですけれども、対処は必要であると思うんですね。今、申し上げましたように、テレビやビデオ、テレビゲームといったものの悪影響への懸念というのは、これは無視はできない、と思うんですね。否定することはできません。実は、人間科学の研究というのは大変難しくて、完全な実証というのはあり得ない、と言っていい訳ですね。ですから、裁判か何かになって、こういうことを言えていないでしょう、こういうこと言えていないでしょう、ということは簡単です。例えば、テレビゲーム会社や業界が訴えられても、もし私が弁護側の証人として出たら、原告側がゲームの悪影響を示しているような研究を根拠として示してきても、「こういうことは言えていないでしょう。」と、研究の穴をいくらでもつけます。
 ただ、やはり研究者的な考え方というのは、裁判の考え方と違って、どこに真実があろうか、ということを見ようとしていくことになります。そういった立場からすると、やはり悪影響ということは、あるものは有り得る、というふうに見ておこうということになります。ただ、いずれにしても言えますのは、悪影響を肯定するということが完全にできなくても、現状でも否定することはもっと難しいんですね。いろいろ悪影響を示している研究もありますから。ですから、社会の選択としては、懸念は無視できなくて、何らかの対処を取らなくてはいけないとされていて、これは、一致した考え方だと思います。ただ、どういう対処の仕方をするか、ということについて、意見の違いや議論があるというのが現状なのだと思います。
 それから、もう一つ、嫌悪の問題というのがありまして、メディアの対応の問題というのは、悪影響の問題だけではなくて、例えば、保護者の方には、「子どもに首が飛ぶようなゲームをさせたくない。」とか、実際に悪影響があるかどうかとはまた別の問題として、「兎に角、そういうことをやらせたくない。」という嫌悪の感情があるのであれば、そうしたことについての対処ということも考えられる訳です。
 いずれにしましても、対処というのは必要だということは、かなり共通した認識であって、その方法論をどうするか、ということについて議論がある状態だ、と私は認識しております。
 対処方法としては、大きく分けて3つあるのではないかと思います。まず法規制、即ち、法律による規制。それから自主規制、業界等の自主的な取組ですね。それからメディアリテラシー教育、ということです。
 順番に、これらについて少しお話をしていきたいと思います。
 まず、自主規制ということであります。これは、これまでの主流の取組であったと思うんです。特に、テレビゲームについては主流の取組だったと思います。テレビゲームにつきましては、コンピュータエンターテインメントレーティング機構、CEROが活動しています。ここがゲームソフトの開発業者から、特に問題になりそうな部分について、ビデオを撮っていただき、その提出を受けて、それに対して審査をしています。
 一般審査者、即ち、一般から募集した3人の審査者に審査をしてもらいます。暴力表現、性表現、それから反社会的行為表現、言語・思想関連表現という、この4つの領域があって、全部で25項目あります。それぞれについて、まず禁止表現というのがあって、それに該当して販売できないという中身がないかどうかを確認します。それから、禁止表現のなかったものについて、18歳以上のものではないか、15歳以上のものではないか、12歳以上のものではないか、それから全年齢でOKなものか、と言うことを判定しているんです、25項目すべてについて判定をしています。
 その結果として、スライドにあるようなマークがありまして、これをパッケージに入れていただいて、その業者の方には販売してもらう、ということをやっています。25項目のうちの1つでも禁止表現に引っかかるものがあったら、もうそれはレーティングを与えない、即ち販売できないことになります。1項目でも18歳以上というものがあったら、それは「18歳以上」というレーティングがつきます。そういう形になります。
 下に9つの小さな絵柄がありますが、これがコンテンツ・ディスクリプターと言われているもので、「どこが原因になって、そのレーティングになっているか。」ということを示しています。例えば「ハートマークが2つ」あるのは「恋愛」を意味しているんですが、もし18歳以上のレーティングのソフトで、このマークがついているのであれば、それは、恋愛関係の部分が引っかかって18歳以上のレーティングになったことを意味します。購入者は、どの内容で問題があったか、ということが、これで判るようになっている、ということです。
 スライドに禁止表現と書いてありますが、CEROがやっていることは、まずゲームを審査して、それに禁止表現がないかどうか、即ち、販売できるかどうかというのを判定することです。これは、はっきりしとした自主規制をやっていることになります。
 そして次に、禁止表現のなかったものについて、年齢区分を判定します。年齢区分マークは、あくまで18歳以上だけが買えて、18歳以下が買えないとか、15歳以上が買えて、15歳以下が買えないとか、そういう販売における制限を意味するものではなくて、あくまで情報提供という形でやっているものです。
 今、問題になっておりますのが、18歳以上をつけたものが、もともと情報提供でやっていたものだということもありまして、18歳以下の方も自由に買える訳ですね。販売店の区分陳列なども、あまり行われていない状態である、ということが問題点として指摘されていて、取組が求められている状況です。
 それからビデオですけれども、法律的な規制の部分も随分あろうかと思いますけれども、自主規制も行われている訳です。私は、ビデオは余り存じませんので、本日はパネリストとしてビデオのご専門の先生がおられますので、後でお話を伺えれば、と思いますけれども、審査機関による成人指定というのが行われていまして、また販売店でも区分陳列が自主的な取組として、かなり進められているようです。これは、テレビゲームと比べると、随分進めておられると思います。
 それから、次に法律的な問題ですけれども、現在の状況として、こうしたテレビとか、ビデオの法律的な規制、最近、特にテレビゲームについて話題になっている訳ですけれども、「青少年健全育成条例」ないしはこれに類するものが、長野県を除く全ての都道府県でありまして、その中で、こういった規制が、今、進んでいる状況です。ここでまず説明した方がいいと思いますのは「個別指定」と「包括指定」ということです。
 「個別指定」といいますのは、例えばある1つのゲームソフトとか、ビデオソフトを取り上げて、これが有害かどうか、問題かどうか、ということを審査して、問題だとなると、それを販売規制しましょう、と一つ一つ議論していくものです。
 「包括指定」というのは、ある基準があって、その基準に入るものはまとめて駄目、というタイプのものですね。例えば、ビデオなんかの性表現ですと、石川県の場合も、この包括指定の規定というのがありまして、例えば卑猥な映像が10分の1以上あるものは包括規制の対象とか、そういう基準がある訳です。
 さらに、もう一つ団体指定というのもあります。これは例えばCEROのようにレーティングをやってるような団体を指定して、18歳以上となっているものは、区分陳列とか、販売規制の対象にする、というやり方ですね。団体を指定して、そこのレーティングを利用するというやり方で、包括指定の1つのやり方とも言えるかと思うんですけれども。
 今、テレビゲームがどういう状態かといいますと、元々、性表現的なもので個別指定をする、ということは昔からも事例があったんですけれども、暴力でそれをやる、ということが今までずっとなかったんですね。それが、今年6月、「グランド・セフト・オート」というゲームソフトがあるんですけれども、神奈川県で初めて個別指定をして、初めて暴力で規制をかける、ということが行われた訳です。その後、埼玉県も同様の措置をしています。
 現在、話題になっていることとしては、東京都が個別指定ではなく団体指定を検討しているということですね。CEROの18歳以上のレーティングが、先ほど申しましたように、現在ではあくまで情報提供のためのものである訳ですけれども、それをやはり18歳以上しか買えないという販売制約の形にさせて、そのうえで団体指定をするということを進めようとしています。この件について、東京都とテレビゲーム業界の間でかなり議論しているところです。
 このように現在、法規制の動きというのが強まっているということがありまして、業界側もやはり区分陳列をしたり、取組を強化しないとまずいだろうということがあって、大分、業界の中で議論をして、区分陳列をしていこうという動きになっている状況です。
 それから、ビデオにつきましては、もともと包括指定というのが、ほとんどの県の条例で導入されているんだろうと思います。団体指定をしている都道府県も10数県あると伺っていまして、すでにそういう状況である訳ですけれども、最近ではさらに、特に暴力的なものについて取り上げて個別指定をしようというような考え方もある、と伺っております。いずれにしましても、テレビゲームとかビデオ、特にテレビゲームで顕著ですけれども、今、法規制というものが強化の方向に進んでいる状態だと思います。
 法規制についてですが、これは勿論、大変に強力で即効性がある対処の仕方です。それから、悪影響とは別の部分での話ですが、嫌悪の問題ですね、「こういったものを最初から子どもにやらせたくない。」という考え方、こういった問題にも対応できる、というメリットもあります。
 ただ、法規制のデメリットもあります。よく言われることですが、まず「表現の自由」ということに対立する。これは強く言われるところです。
 それから、クリエーターの育成を阻害してしまう、ということですね。やはり、創造性を最も伸ばすのは自由な環境で仕事をしていく、ということになりますね。それが「あれは駄目、これは駄目」となってきますと、クリエーターが育たない、ということが言われています。喜びとか感動といったものが世の中に満ち溢れているのが良い世の中である訳ですが、クリエーターが育たないと、そういった良いものが創られてこなくなります。
 さらには「有効利用」ですね。メディアというのはエンターテインメントだけではなくて、教育とか、福祉とか、医療とか、いろいろな有効利用もある訳で、これはかなりクリエーターの力量を要する訳なんですけれども、そういった有効利用というものの芽も摘んでしまうだろう、ということが考えられます。
 それから重要な点として言われますのが、法規制をすると思考停止をもたらす、ということですね。法規制のようなことが進んできますと、メディアの問題は、自分たちで考えたり、行動したりすることではなくて、行政に任せておけば良い、法律で解決する問題だ、というふうに思ってしまって、法規制されれば、それで安心だ、というふうになってしまう、ということですね。思考停止をもたらしてしまい、メディアに賢い人をつくらないということですね。このあたりの問題性がある、ということが指摘されていると思います。
 3つ目の取り組みの仕方ですけれども、メディアリテラシー教育ということですね。私自身は、これは非常に重要だと考えているんですけれども、悪影響については、このメディアリテラシー教育による対応というのが、理想的な解決策だと思うんです。といいますのは、さっき申しましたように、法規制とか、さらには自主規制であってもある程度そうである訳ですが、やはり思考停止の問題とか、それからクリエーターを育てないとか、表現の自由の問題、そういうものがある訳です。ところが、メディアリテラシー教育であれば、創り手は自由に創って良い。そういうものがあったとしても、受け手の方が賢くて、親が適切に子どものメディア接触をコントロールしたり、子ども自身がそれをはねつける能力があれば、問題が起きない、ということになると考えられます。ですから、メディアの自由と悪影響問題との両方に対応できる理想的な解決だ、と思うのです。
 逆に言うと、メディアリテラシー教育がすごく進めば、規制を弱めることができることになります。規制が弱くても問題が生じない、ということになってくる訳です。
 それから、抜け道の問題もあります。どんなに行政とか業界が頑張っても、いろいろな抜け道がありまして、それは規制では対処できないんですね。例えば、今、ゲームを創ることがかなり易しくなっています。業者ではなくて個人がゲームを創って、それをインターネットにアップロードして、それをユーザーがダウンロードしてゲームをプレイする、なんていうことがあります。そして、今後、それは技術的にはもっと楽に、益々楽になる訳ですね。そういったものの中には、相当に俗悪なものがあると言われていまして、それは、もうどんなに行政とか、業界が努力しても、どうしようもない、ということになります。そうなりますと、それは家庭とか、子ども本人が最後に、それに対抗するということしかない訳でして、そういった意味からも、メディアリテラシー教育は重要なものだということになります。
 今、申しましたように、子ども本人が対抗できるということと、それから保護者が子どものメディア行動というのをよく監視したり、それをコントロールできるという素養を身につけること、さらには、保護者から子どもに対して、メディアに対する対応力を教育するという、そういったことが非常に重要ではないかと思います。
 メディアリテラシー教育というときに、この概念はすごく複雑でいろいろな意見もあるんですけれども、特に悪影響問題というときに重要だと考えられるコアの部分というのは、スライドにありますように、「メディアはすべて構成されている」ということを理解することだと言われています。メディアというのは、だれかが何らかの意図でつくり上げているということですね、それを理解するということです。何が描かれているかだけではなくて、何が描かれていないかということにも注目をして、何でそんな描き方をしているんだろうというところにまで目が向くということですね。そのメディアの情報にそのまま没入してしまうのではなくて、やはり何が描かれていないかを考え、なぜそんな創り方をしているのかを考え、論評して、さらに言えば鑑賞する、そういう見方ですね。こういったことになれば、悪影響というのはそう問題にはならなくなるというふうに考えられていると思います。
 例えば、端的に言えば、極端な話かもしれませんが、「ヒーローが出てきて怪獣を倒して万歳!」というストーリーがあったとします。これはすごく一面的な描き方な訳ですね。例えば、怪獣には家族がいたかもしれません。怪獣には子どもがいたかもしれないですね。子どもは、すごくそれでつらい思いをしたかもしれません。ところが、テレビとかメディアは、そちらを描き出さない訳ですね。あくまで、倒して万歳!の方しか描かない。要するに、そういったところまで発想が向くということですね。こういったことになってくれば、悪影響というのをかなり抑えることができると考える訳です。
 幾つかのポイントを上げますと、まずは保護者の教育がすごく重要です。メディアリテラシー教育というと、普通、子どもの対抗力を伸ばすという意味だけですけれども、もう一つ、保護者としてリテラシー能力と呼ぶべきものもすごく重要で、子どものメディア接触のコントロールができる素養を保護者が身につけること、さらには、子どものリテラシーを高めるような教育を親からしていただくということですね。そういった素養を親が身につけるということが重要で、この取組が求められるところです。
 ただ、保護者の啓発を進めようとしたときに、なかなかジレンマとなりますのが、例えば冊子をつくるとか、講演会を開くとか、そういうことをやっても、そういったところに出てこられる親御さんというのが、元々意識が高くて御家庭に余り問題がない親御さんである、ということですね。逆に、元々、問題がある御家庭の方、要するにメディア接触を全くコントロールしない、そういう御家庭の親御さんというのは、なかなかそういう講演会に出てこられないと言われます。このあたりにどう広げていくかというのが、すごく問題ですね。現在は、ジレンマ状況があると考えられると思います。
 そういうことですので、学校教育にはすごく期待が向けられることになります。学校にはお子さんがみんないらっしゃる訳ですから、そこで教育が行われれば、それは強力である訳ですね。実際に現在では、こういうテレビ、ビデオ、テレビゲームのメディアリテラシー教育というものは、公式には指導要領とか、そういったものに位置付けられてはいないんですけれども、国語の教科書の中に、随分、これが入ってきていまして、国語科の中で随分、メディアリテラシー教育が行われてきている状態はあります。
 ただ、やはり国語ですので、新聞とかの読み解き、例えば、同じ事件を報道した複数の新聞を比較して、こんなに違うことを言っているでしょうとか、そういうのはかなりやり易い訳です。しかし、例えばビデオを撮って、それを編集して「なるほど、こんなふうに映像作品というのは創られるんだな。」とか、そういうことには、なかなか手が回らない状態だと思います。そのあたりにはやはり課題があって、本当はそういうところまでいくのが必要なんだと思いますけれども、なかなかそれは扱われていない。総合的な学習の時間で扱われる場合はありますけれども、やはりこれも熱心な先生がゲリラ的に行っているという状態で、まだまだ課題がある状態だと思います。
 それから、メディアリテラシー教育で、特にまた弱いのが、テレビゲームについてのものです。新聞、さらにテレビ位まではよいとしても、テレビゲームについては、これは、先生の方もかなりテレビゲームが上手くないと、ゲームの中で何が行われているか判らない、ということがあって、非常に扱いにくいものです。ですから、これは先生がゲリラ的に、という訳にいかなくて、かなり組織的なやり方でないとできない話で、未だそこまでに至っていないという状況があるんだろうと思います。
 ただ最近は、こういったテレビゲームについてのリテラシー教育をやるところも出てきてはいます。例えば千葉県旭市立矢指小学校では、ソニーコンピュータエンターテインメントと、メディアリテラシー教育をやっているNPOが協力して、授業実践をやっておられます。ゲームをやりながら、何でこういうふうにゲームを創っているのか、というのを考えさせるんですね。なぜ面白いのか、どうして面白いのか、ということを考えさせて、クリエーターがどういう工夫をやっているのかを考えさせて、議論させるようなことですね。その後で、実際にクリエーターの方が出てきて「自分はこんな工夫をしてゲームを創っている。」というようなことを講演しているという内容です。こういう、テレビゲームのリテラシー教育というのが今後もっと進んで、授業技術としても改善され普及していくことが、すごく求められるだろうと思います。
 先ほど申しましたように、メディアリテラシー教育というのは、法規制があって、それで安心し、思考停止が起こってしまうと、行われ難くなるものですね。ですけれども、そういうことがあってはならないんだ、と思うんですね。最終的な、理想的な解決というのは、やはりメディアリテラシー教育が十分に機能していくということだと思います。ですから、規制が掛かってきても、これは行政とか法律に任せておけば良いんだ、というふうにならずに、ずっとこのメディアリテラシー教育を振興する努力が継続されていく必要があるんだろうと思っています。
 最後に、今後の課題として必要ではないかと思うことについて、少し申し上げます。先ず、取組のバランスを議論していく必要があるということだと思います。取組方を3つ挙げさせていただきましたけれども、一長一短がある訳ですね。法規制と自主規制では、法規制はそれだけ強力ですし、自主規制ですと業界の価値観の影響が強くなる訳で、それで大丈夫なのか、という見方も出されるかもしれません。しかし、法規制の方は表現の自由の問題が大きいですし、クリエーターの育成の問題とか、思考停止の問題もより大きく、デメリットもある訳です。
 それから、法規制と自主規制とを含めた規制と、メディアリテラシー教育の対立ということについてですが、メディアリテラシー教育の方には、先ほども申しましたような、表現の自由とか、クリエーターの問題とか、思考停止という問題がなかったとしても、やはり時間が掛かることが問題になりますね。直ぐには効かないことが問題となります。規制の方は即効性がある訳ですね。それから、嫌悪の問題、即ち、悪影響にかかわらず、「とにかくこういうもの触れさせたくない。」という感情については、教育ではこの対応にはなりません。規制という手段しかない訳ですね。
 このように、それぞれ一長一短というものがあって、その取組のバランスを議論しなくてはいけないことになります。こういうバランスの議論というのは、何が正しいという問題ではなくて、何を選択するかという問題だと思います。ですから、いろいろ立場とか考え方の異なる人が十分に議論をして、合意形成に至る、こういったことがすごく必要とされるんだと思います。
 それから、連携が必要であるということですね。これは、どこかの立場の人に任せておけばよい、という問題ではない、ということです。例えば、行政は勿論、すごく強力である訳ですけれども、メディアの問題ですので、やはり行政の価値観がすごく入ってくることに対する問題性も指摘されるので、どうしても行政が出来る部分というのは制約があります。
 それから、業界に任せておいても、今度は業界の論理だけになってしまうのではないかという、そういう懸念、不安感に払拭し難い部分があります。
 それから、学校。これは子どもに近くにあるので、強力な取組が可能な訳ですけれども、ただメディアの問題、例えばテレビゲームなどになりますと、すごく専門性が必要になります。ですから、学校だけではなかなか上手くいかない、ということにもなる訳です。
 同じようなことが家庭についても言えます。子どものすぐ傍にいて、これも強力であるはずですけれども、専門性があるとは限らない訳ですね。
 NPOについても、NPOはそれこそ行政と違って、自由な価値観でどんどん活動してよい、ということに大きな意味がある訳で、特にメディア問題では活動が望まれるところでありますし、いろいろな連携をしていただくということの、そのつなぎ役としても、すごく力を発揮し得る主体だと思いますけれども、やはり影響力ということについて制約があるんだろうと思います。
 こうした状況ですので、メディアの問題に対応するために、それぞれがその長所を生かして取組をし、連携によって短所を補っていくことが、すごく必要とされている、そういうことなんだろうと思います。
 現在、強く求められているのは、色々な立場の多くの方が議論に参加されて合意形成を進め、さらに実際に連携をとりながら取組に参加されていくということだと思います。もう既に、すべての方が当事者であると言ってもいい、そういう状況ではないか、というふうに思う訳です。こうしたことで、スライドの最後にありますように「社会全体での取組を!」、というふうにまとめさせていただいている次第です。
 ご静聴、どうもありがとうございました。



ゲームとビデオが子どもに与える影響について(PDF:166KB)

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