まぁ、ズボラ管理人なので…というより抗がん剤で体調悪くて…ゲホゲホなので、ここで雑談しませうw
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コメント一覧
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- 2012年05月10日 00:49
- >シュタイナーに「畏敬の行」があります。ものごとにたいして畏敬の念をいだく。ただこれだけの行ですが、これには深い意味があります。健全なアストラル体を育てる。畏敬の行には、こうした意味あいがこめられているといわれています。
ものごとにたいして畏敬の念をいだくという行為がアストラル体にとっての栄養素になる、とシュタイナーは考えていたようです。もしも畏敬の念をいだかずに、逆の念ばかりを起こしていると、アストラル体は栄養不良となり、健全な状態をたもてなくなるということですから、「畏敬の行」の必要性をシュタイナーが訴えつづけた理由はおのずから知れるというものです。
「畏敬の行」すばらしい、行ですね・・。
いつか自分が霊山に向き合ったときの「畏敬の念」は、未だに忘れることができませんが、これは、神と向き合うときの人間に与えられた信仰の大切な原点の感情、感覚だなと感じています。自然と向き合い生きているとき、人間はこの畏敬の念を持っていたはずです。この思いがなければ、おそらく生きてはいけないはずですね。
都会生活では、自然を排除する事で、畏敬の念が麻痺するようにできています。本来の健全な状態とは言えないですね。
わたしは自然と向き合って生きてはいないし、実感に乏しいですが、今回の震災で海とともに生きてこられた方と知り合い、その自然と向き合って生活されることの大きな覚悟を、改めて知りました。
キリストの死体の話で思い出しましたが、「死」に対してもそうですね。
生きている人間は「死」を排除することによって、死に対する畏敬の念を感じないようにしている・・。本当は、この自然や死に向き合うことが、シュタイナーが言うように、「健全な人間の生き方」なのかも知れません。
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- 2012年05月10日 00:50
- 「12の感覚」これは、本来なら、人間が健全な生活を送っていれば自然と発揮されていた感覚だったと思います。ブレンターノのいう「判断」することが、人間があるべき姿だだったことですね・・。宗教だって本来は、「判断」できることが大切だったはずです。
魂が、すべてなすべきことをなした結果、それが、判断ということなのですね。
幕天居士さま
日時計主義については・・わたしも今生長の家でやっていることに関しては、正直自分の実感的には理解しかねてます、笑。
・・わたしはこの世は不完全だから、素晴らしい、すべてがプロセスだから素晴らしい、と思ってるので・・やっぱり、そこでなすべきことをなす、それだけなのだと、思えるのです。
今のわたしは、幸せです・・。すべきことをなせるような環境に自分が置かれてるな、って、少しづつかんじています。
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- 2012年05月10日 09:54
- 幕天居士さま
>あれからルパンさま わたしはこれから12感覚を養わなければならない 段階にあります。いびつな人生を生きてきましたか ら <
σ(^_^;
いやあ、いいですね~私なんか、いびつを通り越して、勝手し放題の生き方でした・・・どんなところで優越感を抱いてんねん(>_<)ゞ(..;)
>もしも「本物の宇宙」が存在して、それが、実相世界ほどではないにしても、十分に頼り甲斐があっ て、神ほどではないにしても、人間の知性をはるかに凌駕する叡智をかねそなえ、人類をいまよりも ずっとマシな世界へとみちびいてくれる可能性を秘 めたものであるとしたなら、神や実相を、否定はせずとも、あえて求めもしないという選択肢もありな のではないかと、このようにおもう次第であります が、いかがなものでありましょう<
正直、私は本物の宇宙の実感すらないのです(>_<)ゞ
実相、神という超越項に対しての実感となると、何をか云わん!です(-.-;)
大悟実感しておりませんので・・・ということで、そのように選択された幕天居士さまの
判断に意見を云えるような代物ではありませんφ(.. )
つづく
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- 2012年05月10日 11:43
- 幕天居士さま
>この場においてわたしは、「本物の宇宙」を実相世界の対抗馬に位置づけたいのでありますが、はじめ から「本物の宇宙」以前の根源的世界を担保として 取られてしまったのでは、勝負にならないといった ところであります<
青二才が出過ぎた真似をしてしまいました(;_;)/~~~(_ _ )/ハンセイ
というより、
いま目の前にある事象に対して正直に、誠実に向かい合ってゆきとおございます!
となってきますと、段々、幕天居士さまのお考えが、私なりに薄ぼんやりとみえてきました。
そこでお尋ねなのですが、あの親鸞に対して、どのような評価を持ち合わせているのか、気になってまいりました。
ちなみに私は、親鸞を人として、限りなくイトしいと思ってます。
どこまでも自分に対して正直で、誠実だった親鸞を・・・
また、素朴で素直で常に苦悩しているのですが、限りなく人間性らしい親鸞の生き方に、なぜだか憧れる自分がいるのです。
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- 2012年05月10日 12:23
- あれからルパンさま
>そこでお尋ねなのですが、あの親鸞に対して、どのような評価を持ち合わせているのか、気になってまいりました。
まずはひと言。わたしにとっての「本物の宇宙」とは、それとの一体感がつねに実感できるリアルな存在です。「本物の宇宙」というと、どことなく安っぽくて、ありがたみの感じられない表現であるのかもしれませんが、見せかけの宇宙があるのであれば、本物の宇宙があってよいというのは理屈でありまして、それこそ本物の宇宙は荒唐無稽の絵空事ではない、ということだけをご理解いだければとおもいます。
ところでお尋ねの親鸞でありますが、これまで親鸞にかんする記述は少なからず読んできたような気はいたしておりますが、それほどのものは残っていない、というのが正直なところであります。
かつて、浅田彰あたりにめった切りにされた、吉本隆明の『最後の親鸞』を買い求めたことはありましたが、どうしても読む気にはなれませんでした。正直もうしまして、親鸞は、わたしのなかでは評価の対象になっておりません。これはわたしの不徳のいたすところであります。ちなみにわが家は天台宗であります。とはいえ、最澄についてもほとんど何も知りません。
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- 2012年05月10日 12:49
- 幕天居士さま
>宇宙は、思考する実体であるとともに、自己表現 自己表出したがる実体であるのかもしれません。宇 宙は、人間をとおして過去を振り返り、こしかたを 見つめているともいえます<
思考の方向性が、自己表現、自己表出に向いているのかもしれません、大体、人間の思考がそのようになっていると思います。
宇宙の思考とておなじなのでしょう。
“”こしかた“”の意味が今一、解らないのです。
大切なところなので、よろしくお願いします。
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- 2012年05月10日 14:28
- 幕天居士さま
>まずはひと言。わたしにとっての「本物の宇宙」と は、それとの一体感がつねに実感できるリアルな存 在です。「本物の宇宙」というと、どことなく安っ ぽくて、ありがたみの感じられない表現であるのか もしれませんが、見せかけの宇宙があるのであれ ば、本物の宇宙があってよいというのは理屈であり まして、それこそ本物の宇宙は荒唐無稽の絵空事で はない、ということだけをご理解いだければとおも います<
早速の返答、ありがとうございます。
生きている証みたいな存在なのでしょう。
>見せかけの宇宙と「本物の宇宙」のちがいをひと言 でいえば、それは情報の伝わる速さです。見せかけ の宇宙では、情報の伝わる速さに限界があります、 「本物の宇宙」に限界はありません。情報は無限の 速さで伝わります。 <
その生きている証は、少なくとも時空間を超越している存在と承りました。
宇宙の思考の実体と脳の思考の実体は、本当の宇宙から創造されている、リアルな実体そのものということでしょうか?
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- 2012年05月10日 16:28
- あれからルパンさま
>“”こしかた“”の意味が今一、解らないのです。
大切なところなので、よろしくお願いします。
みせかけの宇宙は、実在する宇宙の自己表現であるのかもしれません。ブラックホールの名づけ親といわれるジョン・ホイーラーは、「宇宙は振り返って自分を見つめている」といっていたそうです。
見せかけの宇宙は、宇宙誕生以来の成長の記録であるともいえます。そこには、130億年前の宇宙もあれば、1万年前の宇宙もあります。
そうした宇宙のこしかたを、人類が、実在する宇宙になり代わって、まるでなにかに駆り立てられるかのように見ようとしている、ということがいえるのかもしれません。
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- 2012年05月10日 18:34
- さくらちゃんへ
ブレンターノの表象と判断をここで取り上げたのには、じつは理由があります。認識とは何か。この問題について考えてみたいとおもったからです。
ご存じのように、「認識」は、あらゆる方面から、長きにわたって批判されてきました。それは哲学からの批判であったこともあれば、科学からの批判であったことも、言語学からの批判であったこともあります。人間は世界を正しく認識できているのか。このことが、人類の歴史のなかでずっと問われてきたのですね。
哲学的には、すでに述べましたように、かつては世界の本質がなんであるのかを言い当てるのが哲学者の役割であると考えられていた時代がありましたが、デモクリトス以来、人間が世界を正しく認識できているという保証はどこにあるのか、ということが問題になりはじめたのです。
科学的には、認識は脳内の出来事でしかありません。それが脳内の出来事であるとすれば、人間ははたして世界をあるがままに認識できているのか、ということが当然のごとく問題となります。
それからソシュール言語学による認識批判がなされたことで、認識の不可能性はいよいよ確実なものとなった、と考えられるようになりました。
つづく
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- 2012年05月10日 18:34
- 人間は世界について、本当のことは何も知ることができない。このことがほぼ確実であると考えられるようになったのですね。世界について何も知ることができないということは、仮にどこかに真理と呼べるものがあったとしても、人間はそれについても、何も知ることができないということです。
「真理がわかった」とおもったとしても、世界について何も知ることのできない人間が、世界について知るよりもさらに知ることが難しいと予想される真理をなぜ「わかった」といえるのか。このことをどうしても問題にしないわけにはいかなくなったということです。
真理を標的とするからには、こうした問題を避けて通ることはできませんね。ではどうすればよいのかとなったときに、なされるべきは、真理とは何か、認識とは何か、を再定義するということであるはずなのです。
なぜ「再定義」かといえば、従来のような真理観や認識にたいする考え方では、どうにも手の打ちようがないというところにまで、真理の探究者たちは追い込まれているということなのですね。
真理と認識を再定義するにあたって、ブレンターノがそのとっかかりになりそうだということを、シュタイナーは示唆しているように感じます。ここで取り上げてみたのは、そのような理由があってのことです。
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- 2012年05月10日 20:12
- 本物の宇宙は今この瞬間に存在する宇宙です。「今この瞬間」というのは、すべてが同時に存在しているということです。
見せかけの宇宙は、同時には存在していません。時間的に差延を生じながら存在しています。そのために、見せかけの宇宙とならざるを得なくなっています。
見せかけの宇宙がなぜ「見せかけ」かといえば、情報の伝達に時間がかかるからです。何百年とか何千年とか、場合によっては何万年、何億年といった膨大な時間がかかってしまいます。
本物の宇宙が見せかけであってはなりません。本物の宇宙では、情報はありとあらゆる場所に瞬時に届くか、あるいはそうでなければ、情報は同時に存在している、ということでなければなりません。
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- 2012年05月11日 09:59
- ホログラムは、特殊な乾板にレーザー光線を当てることでつくり出すことができる立体映像です。乾板に描かれているのは流体状の複雑な模様だけです。この模様にレーザー光を当てると、リンゴやバナナといった立体映像がつくり出せるといいます。
ホログラムのきわだった特徴は、乾板を半分に切ったとしても、もとの映像と変わらぬ完全な立体映像がつくり出せることにあるといわれています。4分の1に切ったとしても、8分の1に切ったとしてもおなじことです。ただし、情報量がそれだけ減るので、乾板が小さくなれば、それだけ不鮮明な立体映像がつくり出されることになりますが、それでも何ひとつ欠けることのない完全な立体映像をつくり出すことができるといわれているようです。
乾板を小さく切り刻んでも、もとの立体映像とおなじものがつくり出せるということは、乾板のあらゆる部分に全体と等しい情報が記録されているということです。宇宙がホログラムであるとすれば、これと似たようなことが想像できます。つまりは、宇宙のあらゆる部分に全体と等しい情報がたたみ込まれている、ということが想像できるということです。
全体と部分にふくまれる情報がおなじだとすれば、宇宙では、いったい何が起きているといえるのでしょう。部分だけが、全体を無視して勝手に変化することはできないということです。部分が変化すれば、その情報は瞬時にして全体へと広がり、影響をあたえてしまうということです。
情報が瞬時に伝わって均質化される世界では、部分だけが勝手に運動して変化することはできないということでしょう。宇宙での運動は、つねに全体の運動にならざるを得ないということだろうとおもいます。
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- 2012年05月11日 12:49
- さくらちゃんへ
わたしがこちらで主張しようとしていることは、なぜか古代ギリシャの哲学者パルメニデスの主張と酷似しているようだ、ということが、ついさきほど判明いたしました。
もちろん、パルメニデスを露ほどにも意識したことなどありません。自分なりによいとおもうことを学んできて、気づいてみれば、あの偉大なパルメニデスが考えたこととなぜかよく似ていそうな考えを持つにいたっていた、ということなのです。
じつはさきほど、なぜかパルメニデスのことが気になって、Wikiで調べてみたのです。驚くべきことに、わたしが、ドイツ観念論やシュタイナーやアーノルド・ミンデルや量子力学やひも理論やポスト構造主義などなどから聞きかじった知識を総動員して、やっとこさ気づいたことを、パルメニデスは、古代ギリシャのあの時代にあって、すでに知っていたのでありますよ。これを驚かずしていったいなにを驚けというのでしょう。
Wikiでは、パルメニデスは、理性でとらえられる、不生不滅の根源的な世界と、感覚によって把握される生々流転する世界、という「世界の二層構造」をはじめて見いだした哲学者と紹介されています。ここでいう「根源的な世界」とは、わたし的には「本物の宇宙」ということできまりです(不生不滅かどうかはわかりませんが)。
つづく
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- 2012年05月11日 12:51
- それでなにがいいたいのかというと、プラトンのイデア論とは、「パルメニデスが説いた、不生不滅の考えと、生々流転する世界の考えを調和させようとする試みであったかもしれない」ということなのですね。これを読んだときに、「これこそはあたしがやろうとしていることではないか」と、このようにおもったということをいいたいのです。
ドイツ観念論やシュタイナーを持ち出してまで、わたしはここでいったい何をやろうとしているのでしょう。それは、「真理と認識の再定義」ということでありましたね。そのために必要とされるのが、「プラトンのイデア論らしきものの復活とドイツ観念論の再活性化」なのですね。
何がいいたのか、おわかりになられるでしょうか。パルメニデスから始めなければならなくなった。こういうことなのです。
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- 2012年05月11日 13:08
- 幕天居士さま
早速、お応え下さりありがとうございました。
宇宙の実体は、ポログラムによって仮の宇宙に表現・表出されている、と解釈しました。
ポログラムは、流動体で常に変化する存在かと、それは、まるで人間の潜在意識の構成に似ていると思いました。潜在意識の奥深くに入り込めば人類意識がございます。人類が共有している意識です。その意識は各人のそれぞれの脳にインプットされ、さらに常に更新されるものと解釈しております。宇宙が思考の実体そのものであるならば、人間の脳も常に進化向上してゆく代物ということになります。退化することもあると思いますが・・・
逆も真で、脳が進化すれば、宇宙の思考も進化するのでは・・・
そうすると、思考そのものを進化するには、人間の認識そのものの考え方も再定義する必要性があると私も思います。となると、12の感覚をフルに活用した認識の仕方が求められると思うのです。そのような感性を養成するには、やっぱり自然との関わりが大切なポイントになって来るのでしょう。
そこを掘り下げないで、言葉の表層ばっかりを追っていたのでは、真の宗教とはなりえないと存じます。12の感覚をフルに活用する修養法がまず求められるのかも知れません。
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- 2012年05月11日 15:54
- 宇宙や人間の脳がホログラム、ということなど、たしかに幕天居士さまのご文章を読んでいると、本物の宇宙というものの性質がうきあがってくるようですね。
ホログラムの、部分には、全体と等しい情報を記録されていることや、情報が瞬時に伝わって均質化される世界では、部分だけが勝手に運動して変化することはできないということ、宇宙での運動は、つねに全体の運動にならざるを得ないということなど・・現代科学で宇宙を考えていては、見えてこない真実が隠されているように思えます。今研究の対象にされているのは、すべて過去の宇宙ですね。
部分と全体の問題や、人間と宇宙との関係などを考えさせられますね。
本物の宇宙というのは、力のある、真理になるのでしょうか・・。
わたしにはよく分りません。
ルパンさまが言うように、シュタイナーの十二の感覚を呼び覚ます、そのような生き方には、鍵がありそうな気はしますが。
パルメニデスの考えと幕天居士さまの考えの行き着く処が同じだった、という驚きは、
・・おそらくとことん真理を突き詰められてきた幕天居士さまにしかわからない世界の驚きだと思います、笑、
真理と認識の再定義、それを求められているのですね。それは、すくなくとも、生長の家では未だ誰にも試みられなかった事と思いますので、今度の展開が期待しております。
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- 2012年05月11日 17:19
- さくらちゃんへ
パルメニデスの思想をひと言でいうと、世界はひとつの全体であり部分は存在しない、ということで決まりですね。いうまでもないことですが、これは「ホログラム宇宙」の姿とピタリと一致します(さすがにパルメニデスはすごいですね)。
宇宙がひとつの全体であり部分は存在しないのだとすれば、すでに述べたように、部分単独での運動は不可能ということになります。これを説明しようとしたのが、パルメニデスの弟子のゼノンなのです。
ゼノンは師を援護するために、巧妙な筋書きを考えだしました。それが、現代にいたるまで語り継がれている「ゼノンのパラドックス」であったのですね。
「ゼノンのパラドックス」はいくつもあるようですが、そのなかでもっとも知られているのが「アキレスと亀のパラドックス」です。こちらでも、前にいちど書いたことがあるとおもいますが、俊足のアキレスがどんなにシャカリキになってものろまの亀には追いつけない、というパラドックスです。ゼノンは、あり得るはずのないこのパラドックスを、小理屈をこねまわして見事に論証したのですね。
なんのために、このような手の込んだパラドックスを考案したかというと、「部分が存在するとして、その部分が各自勝手に運動するとすれば、こんなような矛盾が生じるではないか」と、このことをいうためにです。
アキレスと亀が単独で存在して勝手に運動できるとすれば、俊足のアキレスがのろまな亀に追いつけなくなるという摩訶不思議な現象が、このように起きてしまうではないか、さあどうしてくれると、このようにゼノンは、論敵にすごんでみせたのでしょう。
つづく
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- 2012年05月11日 17:19
- じっさいには、俊足のアキレスは簡単にのろまな亀に追いついて捕まえることができてしまいますね。これはいったいどうしたことなのでしょう。
ゼノンが言うように、理屈のうえでは、アキレスは亀に追いつくことができない、ともいえるのですが、じっさいには追いつくことができますよね。この問題、はたしてどのように考えるべきなのでしょう。
この問題に鋭いツッコミを入れたのが、ジャン=クロード・ミルネールですね(といっても、よくは知りませんけども)。数学的にはいろいろとツッコミが入りそうですが、ミルネールは、意外なことに、文学の方向からツッコミを入れたのですね。
ミルネールは、「アキレスと亀のパラトックス」のモチーフが、『イーリアス』とイソップ物語にあったことを見破ったのです。イソップ物語といえば、いうまでもなく『兎と亀』ですね。『イーリアス』とは、どういうことでしょう。
『イーリアス』は、トロイア戦争を題材にした、ホメロスの一大叙事詩です。アキレスは、トロイア戦争で活躍した武将ですね。しかしこの活躍も一筋縄ではいかず、すったもんだと、もめにもめた挙げ句の果ての活躍でもあったのですが、最後にアキレスは、トロイア方の武将であるヘクトールと一騎討ちをします。このときに、アキレスはヘクトールを追いまわして最後は討ち取ることになるのですが、このときの様子と『兎と亀』を組み合わせでできたのが、『アキレスと亀のパラドックス』であるということがミルネールによって暴露されてしまったのです。
つづく
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- 2012年05月11日 17:21
- 暴露されたからといって「ゼノンのパラドックス」が揺らぐわけではないのですが、これをラカン的に解釈すると面白いものが見えてくるというのが、われらがジジェクのお言葉なのです。
問題は夢なのですね。夢のなかでは、逃げるほうは、どんなに逃げても追いつかれてしまう。追うほうは、どんなに追っても追いつけない。この夢のように、アキレスはヘクトールを追うのだけれど、どうしても追いつくことができない。いっぽうヘクールは逃げようとするのだけれど、どうしても追いつかれてしまう。こういうことが『イーリアス』には書かれているようなのです(もちろん、ほんとうのところは知りませんけど)。
なんにしても、これと『兎と亀』を組み合わせると、「アキレスと亀のパラドックス」ができてしまうというわけですね。ですがこれでは、「だからどうなの?」といってみたくなりますよね。なにがそれほど問題なの?って話ですよね。
じつはわたしにも、なにが問題なのかがわかりません。ですが、ここまで書いたからには、なんとかしなければなりませんね。
というわけで、これをいかにして宇宙ホログラムと結びつけるか。これがわたしに課せられたミッションインポシブルということになりますね。
さて、どうしたものでしょう。いま考えてるところです。
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- 2012年05月11日 17:22
- あれからルパンさま
>そうすると、思考そのものを進化するには、人間の認識そのものの考え方も再定義する必要性があると私も思います。となると、12の感覚をフルに活用した認識の仕方が求められると思うのです。そのような感性を養成するには、やっぱり自然との関わりが大切なポイントになって来るのでしょう。
そこを掘り下げないで、言葉の表層ばっかりを追っていたのでは、真の宗教とはなりえないと存じます。12の感覚をフルに活用する修養法がまず求められるのかも知れません。
いうまでもないことですが、わたしは教団関係者ではありません。ですけども、聞き及んだ範囲では、今の教団の方針には共感できる部分が多々あるような気がいたします。そのなかのひとつが自然への回帰ということですね。
これにはいうまでもなく、畏敬の念をふくめた、あるべき感覚を養うという意味あいをこめているつもりです。できればこれを子供のころからなすべきだともおもいます。昨今のごとき、ゲーム漬け、テレビ漬け、塾通いの毎日、お稽古ごとの強制の日々では、まっとうな感覚が養われるということは、ほとんど奇跡に近いものがあるとおもわれます。
いまのままでは、「三無主義」という言葉がむかし流行りましたが、この言葉が象徴するような、自分のことしか考えられない、無気力な人間が育つだけだろうという気がしなくもありません(わたしはよい環境で育ちましたが、なぜかこのような人間になってしまいましたが)。
総裁先生の方針は間違ってはいないとも考えますが、ただ足りないところが多すぎるという気もいたさないではありません。このあたりのギャップをどのように埋めていくのか、これが今後の課題だろうという気がいたしております。
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- 2012年05月11日 18:23
- さくらちゃんへ
「アキレスと亀」を宇宙ホログラムに結びつけてみました。たいそうなこじつけです。
「アキレスと亀」を「人間と欲望」に置き換えてみます。人間は、すぐそこにあるはずのものを欲望しつづけるのだけれど、どうしてもそれを手に入れることができない。このような新設定でまいります。
なぜ手に入れられないのかといえば、欲望とはつねに「対象a」であるからです。「対象a」とは、欲望の原因であって対象ではありません。
「欲望の原因」とはどういうことなのでしょう。たとえばお金ですが、これは欲望の対象ではなく原因なのです。以前、テレビでタレントの鈴木紗理菜が、「5万円も10万円も自分にとってはおんなじだ」といっていましたが、この発言にはほとほと感心しました。たしかにそのとおりなのですね。
5万円しかなければ、5万円分の欲望しか生じません。10万円あれば10万円分の欲望が生じます。お金が増えればそれだけ欲望が大きくなるだけで、それによって欲望が満足されるということはけっしてないということがいえるのですね(欲望が増えたことに満足するということは、あるのかもしれませんが)。
お金は欲望をつくり出すという意味で、欲望の原因である「対象a」であるということがいえるのですね。ですが、これが欲望の原因である以上、いくらそれを追ってみても、欲望が満足されるということはないということがいえるのです。
つづく
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- 2012年05月11日 18:24
- なぜそうなるのかといえば、この世に欲望の対象は存在し得ないからなのです。欲望しているつもりでも、それは真に欲望すべきものにではなく、欲望すべきものの代理物にたいしての欲望だからなのです。すべての欲望は、真に欲するものにではなく、その代理物に向けられたものだということなのですね。
欲望の対象があったとしても、それはつねに代理物でしかない、という意味で、欲望とは、「アキレスと亀」の「亀」にあたるということがわかります。それは、すぐにでも手に入れられそうでいて、そのじつ、ぜったいに手に入れられないもの、といってよいものなのです。
ではいったい、どうしてこのようなことになってしまうのでしょう。それは、宇宙には部分が存在しないからなのです。部分が存在するとすれば、その部分がべつの部分を欲望することは可能なはずです。ですが、残念なことに、宇宙には全体だけがあって部分は存在しないのです。ですから、部分が部分を欲望するということは、原理的に不可能だということになってしまうのですね。
ゼノンがなぜ、師であるパルメニデスの哲学を援護するために「アキレスと亀のパラドックス」を持ち出したのか、その真意がいよいよあきらかとなります。アキレスは亀を欲望します。ですが、亀は、欲望すべきものの代理物でしかありません。剛腕のアキレスがいくらそれを追っても、手に入れられるはずのないものであったのです。なぜかといえば、アキレスモ亀も、ひとつの全体のあらわれであったからです。
わたしのミッションインポシブル。たいそうなこじつけではありましたが、気に入っていただけましたでしょうか。
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- 2012年05月11日 18:26
- 幕天居士さま
>総裁先生の方針は間違ってはいないとも考えますが、ただ足りないところが多すぎるという気もいたさないではありません。このあたりのギャップをどのように埋めていくのか、これが今後の課題だろうという気がいたしております。<
このギャップをどのように埋めるかが今後の課題だ私も思います。
そこは、生長の家の運動方針、つまり、ビジョンに明確にわかりやすく、具体的に掲げることかと存じます。
また、仕事を抜きにして、本部の教区の奇想天外な発想をする方方を集め、シンクタンクをできれば総裁先生のもとにつくり、運動方針を作成している方々に随時提供する!
そのようなボランティアな機関をつくればよいのではないかと存じております。
まあ、寝言ですけど・・・(^^;)
しかし、トロイの木馬、懐かしいです。
義春チャンとロゴスについて、深めてゆきました。
その時の武将、アキレスですね(^_^)v
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- 2012年05月11日 19:23
- あれからルパンさま
>また、仕事を抜きにして、本部の教区の奇想天外な発想をする方方を集め、シンクタンクをできれば総裁先生のもとにつくり、運動方針を作成している方々に随時提供する!
そのようなボランティアな機関をつくればよいのではないかと存じております。
奇想天外な発想であれば、わたしにもできるかもしれません。もし機会があれば、ボランティア団体に登録していただきたいものであります。
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- 2012年05月11日 20:31
- さくらちゃんへ
>本物の宇宙というのは、力のある、真理になるのでしょうか・・。
わたしにはよく分りません。
ルパンさまが言うように、シュタイナーの十二の感覚を呼び覚ます、そのような生き方には、鍵がありそうな気はしますが。
プラトンのイデア論だけでなく、ドイツ観念論からシュタイナーへとつづく流れは、どうやらバルメニデスに源流を発していそうですね。ですが、パルメニデスの哲学にしても、もとをたどれば、すべてを「一者の流出」と見るヘルメス・トリスメギストスの思想に行きつくような気がいたしております。
「本物の宇宙」も、こうした発想の延長線上にありそうです。あれやこれやと結びつけることはできていますが、はたしてどこまでの展開力があるのでしょうか。先行きは依然として不透明といったところでしょうね。
「力のある真理」ということであれば、その条件は、その思想がどこまでの神話的な物語構造を有しているか、で決まるような気がいたしております。それを実現しようとすれば、言葉に余計な仕事をさせる必要が出てまいるやもしれません。いたしかゆしといったところではないでしょうか。
シュタイナーの教育思想、カール・ロジャースやアドラーのカウンセリング理論なども面白そうです。力のある真理よりも、個人の力がものをいう時代であるような気もいたしております。
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- 2012年05月12日 10:40
- 幕天居士さま
>奇想天外な発想であれば、わたしにもできるかもしれません。もし機会があれば、ボランティア団体に登録していただきたいものであります。<
幕天居士さまに登録していただければ、鬼に金棒です。総裁先生もお悦びになられることと思います。ただ、他の幹部の方々はどうでしょうか?
幕天居士さま率いる総裁先生の諮問機関であり、アウトロー集団!
やっかいな存在でしょうね、でも、このくらいしないと変わらないように感じます。
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- 2012年05月12日 11:55
- あれからルパンさま
やっかいなアウトロー集団。いやぁ、よいですねぇ~。
できれば実現させたいものです。
そのおりには、さくらちゃんにも仲間入りしていただきたいですね。もちろん見張り役としてではありませんよ~。
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- 2012年05月12日 12:11
- さくらちゃんへ
ロゴス中心主義を批判していながら、「部分か全体か」ということを問題にした時点で、またしても二項対立のワナですね。人間はどうしても二項対立のワナから逃れられない。このように観念するしかないのでしょうね。
ところでわたしは、「運動とはつねに、部分ではなく全体である」との主張を展開しておりますが、これにつきましては、まだまだ納得はしていただけてないと考えますが、いかがでしょう。
「部分はなくて全体だけがある」との発想は、デイヴィッド・ボームの「分割不可能な全体性」の理論とも重なるところがありますね。しかし、理論上は成り立つにしても、感覚的にどのようにとらえればよいのかとなると、これはたしかに問題です。
運動はつねに部分の運動であるというのが、誰にとっての実感でもあり、ゼノンがいくら詭弁を弄しようとも、そうではないと実感するのは、やさしいことではなさそうです。
ここでは、感覚的に理解していただくために、ある物理学の実験を紹介することにいたします。感覚的な理解といっても、すっきりとわかるというものではありません。実験の結果はひとつだけですが、解釈の仕方はいろいろです。どのように解釈するかによって、世界観はおのずから異なってきます。そういった実験を、これから紹介しようとおもいます。
つづく
-
- 2012年05月12日 12:11
- 実験名は「二重スリット実験」です。タテに細長い2本の切れ目(スリット)が入れられた板を立てて、この板の奥に、さらにべつの板を立てます。2枚の板が、いくらか離れた場所に平行して立っている状態を想像してください。
この2本のスリットに向けて電子を発射します。スリットを通過した電子は、奥に立てれられたもう1枚の板にぶつかります。ぶつかった場所に痕跡がのこるように、奥の板に細工をします。痕跡は1個の小さな点ですが、実験をつづけていくうちに、奥の板に、とても奇妙な模様が出現します。
この模様が、じつは問題なのです。奥の板には、とても奇妙な尋常ならざる模様が描かれるのですが、この模様こそが、「運動とはつねに全体運動である」ということを示しているともとれるような描かれ方になっているのですね。
どういうことかといいますと、その模様は、1個の電子が2本のスリットを同時に通過したとしかおもえないような描かれ方になっているのです。常識的には、1個の電子はどちらか片方のスリットだけを通過するはずなのですが、それでは説明できないような模様が、奥の板に描かれてしまうのです。
さて問題は、なぜそのような模様が描かれるのか、ということです。ここで感覚を働かせてください。そのような模様が描かれるということは、電子がそのような振る舞い方をしている、ということなのです。なぜ電子はそのような振る舞い方をしてしまうのか、このことを感覚を働かせて考えていただきたいのです。
つづく
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- 2012年05月12日 12:12
- もしも電子が部分として運動しているのであれば、片方のスリットだけを通過できていたはずなのです。実験の結果はそれができていないということを示しているようです。これはどういうことなのでしょう。
なにかが全体として作用している。このように考えることはできないでしょうか。実験の結果を見るかぎり、たしかになにかが作用して、電子の振る舞いに影響をあたえているのは間違いなさそうなのですね。
ではいったい、なにが作用としているといえるのでしょう。候補はいくつかあげることができます。1個の電子が宇宙ぜんたいに広がっているとするコペンハーゲン解釈。電子の振る舞いを決定づけるパイロット波が存在するという解釈。1個の電子の複数のコピーが存在するとする多世界解釈。その他いろいろ。
感覚的にどれがなじみやすいか、です。わたし的には、「分割不可能な全体性」がもっともよくなじみます。1個の電子といえども、それが分割不可能な全体であってみれば、片方のスリットだけを通り抜けてみせるような真似はできない、ということで納得です。
このことを感覚的に説明するとすれば、電子がスリットを通過しようとするその刹那になにが起きているといえばよいのでしょう。
その瞬間、電子は宇宙になりきっている。わたしは、マジでこのように考えています。
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- 2012年05月12日 13:38
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幕天居士さま
>やっかいなアウトロー集団。いやぁ、よいですねぇ~。
できれば実現させたいものです。
そのおりには、さくらちゃんにも仲間入りしていただきたいですね。もちろん見張り役としてではありませんよ~。<
やっぱり、現象的にはどうしても二項対立がより、生々流動発展してゆく研磨剤になると思います。
また、部分と全体で思い出しましたのが、百匹目の猿の話です。
百匹目の猿現象(ひゃっぴきめのさる げんしょう、英: Hundredth Monkey)は、ライアル・ワトソンが創作した疑似科学に分類される生物学の現象である。
宮崎県串間市の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が閾値(ワトソンは仮に100匹としている)を超えたときその行動が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったという。このように「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」という存在しない現象を指す。
これは、部分が全体に影響を及ぼす例の一つかなと思われます。
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- 2012年05月12日 14:38
- あれからルパンさま
「研磨剤」という意味では、生長の家にも二項対立は必要、ということでしょうね。『生命の實相』一辺倒ではなく、新しい哲学が必要とされているのかもしれません。
今後は、「実相」vs「現象」などという、しけた対立ではなく、「実相」と「ホログラム宇宙」のあいだでかわされる白熱した戦いを、現教団にはぜひとも実現していただきたいものであります。
「百匹目の猿」現象は、ライアル・ワトソンの『生命潮流』で大々的に報じられておりましたが、どうやら作り話であったようですね。同書の冒頭では、それまでどうしても結晶化できなかったグリセリンが、貨物列車のなかで偶然に結晶化したことで瞬く間に世界中のグリンセリンが結晶化しはじめたと、たしかウイーン発パリ行きかどこかだと、貨物列車の路線名まで添えられて、まことにしやかに記されておりましたが、これもどうやらワトソンの創作物語りであったようです。
ですけども、部分が全体に影響をおよぼすということでは、ルーパート・シェルドレイクの「形態共鳴場の理論」がまさにそのことをいっていますね。部分は全体とイコールであり全体は部分とイコールである。これは、なにがあろうとも、ゆずることのできない主張です。
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- 2012年05月12日 16:02
- さくらちゃんへ
ゼノンの第2のパラドックスは「飛べない矢」です。矢は、たとえ放たれたとしても、ある瞬間においては静止している。静止しているものが飛べるはずがない。これがゼノンの「飛べない矢」のパラドックスです。
ミルネールは、これのモチーフが『オデュッセイア』の、ヘラクレスが矢を放とうとする場面にあることを見破りました。ヘラクレスは矢継ぎ早に矢を放とうとするのだけれど、矢は一向に飛んで行こうとはしない。これをヒントに、ゼノンは「飛べない矢」のパラドックスを考案したということが、またしてもミルネールによって暴露されてしまったというわけですね。
飛べないはずの矢がなぜ飛べるのでしょう。これはたしかに疑問ですが、ここで問題にすべきは、矢ではなく電子です。電子といえども、ある瞬間には静止しているはずです。だとすれば、電子は飛べない、ということになるはずですが、電子はたしかに飛んでいるようでもあります。いったいどういうことなのでしょう。
「二重スリット実験」では、電子を飛ばすために電子銃という装置がもちいられます。「電子銃」というと、なにやら怖ろしげですが、テレビのブラウン管にも使われていた、ごく一般的な装置のようです。
実験では、電子銃から電子が発射されますが、ゼノンによれば、これは飛ぶはずのないものなのです。じっさい、冗談ではなく、そうであるともいえるはずなのですね。飛ぶはずのない電子が飛んでいるとすれば、これにはなにやらカラクリがあるにちがいありません。そんなわけで、そのカラクリについて、これから考えてみることにいたしましょう。
つづく
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- 2012年05月12日 16:02
- 「二重スリット実験」では、「発射された電子が2枚目の板にぶつかった」と、このようなことを、こともなげにいっておりますが、たったこれだけの現象においても、じつはとてつもない出来事が起きているということがいえそうなのです。なにがとてつもない出来事かというと、電子銃から発射された電子がどこをどのように飛んでいるのか、そのコースがまったくわからないということなのです。
電子の飛行コースはたしかに特定不能なのです。電子がどのようなコースをたどって飛んでいるのか、これがじつは誰にもわからないのです。なぜ誰にもわからないのかといえば、それは、電子が宇宙になりきっているからです。
飛べないはずの電子がなぜ飛べるのか。それは電子が宇宙になりきるからなのです。宇宙になりきることで、飛べないはずの電子が飛んでいるのです。これは冗談でなく、マジでいっています。
電子が飛行する経路を特定するのは、本当に無理なのです。それは原理的に不可能なことなのです。だいたいこのあたりを飛んでいそうだということを、確率的に計算することはできるようです。ですが、あくまでもそれは確率であって、正確な経路を知ることは、原理的に不可能なのです。
しかも、この確率にしたところで、ふつうの確率とはまったくちがったものなのです。相手は、宇宙になりきっている電子ですから、まともな確率など出せるはずがないのです。それはシュレーディンガーの猫のようなものです。1個の電子がありとあらゆる空間を同時に飛行している。こういうことなのです。
つづく
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- 2012年05月12日 16:03
- 宇宙になりきった電子は、ありとあらゆる場所に同時に存在しています。電子銃から2枚目の板にぶつかるまでのあいだ、電子はありとあらゆるコースをたどって飛行しているということなのです。なぜそのようなことができるのかというと、「電子は宇宙になりきっているから」としかいいようがありません。
ここでファインマンの「最小作用の法則」が出てきます。宇宙になりきった電子のなかから、ただ1個の電子が現象化してあらわれてくるのです。どの電子が現象化するかは、現象化するにあたって必要とされるエネルギーできまってきます。すなわち、もっとも少ないエネルギーで現象化できる電子だけが現象としてあらわれてくるのです。これが「最小作用の法則」です。
電子が2枚目の板にぶつかったときに痕跡がのこりますね。この痕跡がのこされた瞬間が、電子が現象化された瞬間なのです。現象化されるまでは、電子がどこにあったのか、誰も知ることができません。
「観測すればいいじゃん」。きっとこのようにおもわれるでしょう。たしかに、電子銃と板のあいだに観測装置をおいて電子の動きを観測することはできます。ですけども、この「観測」という行為がくせものなのです。観測とはエネルギーをあたえるということなのです。エネルギーをあたえずして観測するというのは、不可能なことなのです。
つづく
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- 2012年05月12日 16:03
- 物を見るにしても、光をあてる必要があります。光はエネルギーですから、光をあてた瞬間に、物体にたいしてエネルギーをあたえたことになるのです。つまりですね、電子銃と板のあいだに装置をおいて観測するということは、電子にエネルギーをあたえてしまうということなのです。
エネルギーをあたえてしまうと、どうなるかといえば、その瞬間に現象化が起きるということが考えられますね。宇宙になりきった電子が、観測によって現象化してしまうということなのですね。現象化させてしまったのでは、宇宙になりきった電子の居場所を知ることはできないという話です。
たとえ観測装置をもちいたところで、宇宙になりきった電子の飛行コースを知ることはできない、ということですね。電子がどこをどのように飛んでいるのか、これを知ることは誰にできないということですね。だったら、コースを特定しようとするよりも、「電子は宇宙になりきっている」と考えたほうが、よっぽど理にかなっているということになりますね。
以上が、ゼノンの「飛べない矢」のカラクリです。じっさいには飛べるはずのない電子が飛べているのは、電子が宇宙、つまりは全体になりきっているからなのです。観測によって部分にもどされたとき、電子は飛べなくなってしまうのです。
だとすれば、矢が飛べているのはなぜなのでしょう。矢はきっと、宇宙になりきってるつもりなのです。あくまでも「つもり」のはずですけど。
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- 2012年05月12日 17:20
- 幕天居士さま
>今後は、「実相」vs「現象」などという、しけた対立ではなく、「実相」と「ホログラム宇宙」のあいだでかわされる白熱した戦いを、現教団にはぜひとも実現していただきたいものであります。<
確かに現象が存在しないのは、科学的にも周知の事実です。ですから実相 対 現象では勝負は明らかで、生々発展するはずはありません。これが、「実相」対「ポログラム宇宙」つまり、幕天居士さまが今まで仰っておられた「本当の宇宙」であるならば、生々流動発展し、ますます真理が明らかになるかと存じます。
部分が全体とイコール、電子が宇宙になりきっている、この事実が、ポログラム宇宙に深い関係があるのは分かるのですが、そのうちにこの事実が、如何に生活に生かされていくか、12の感覚をフル活用することのおもしろさとかに関係してくるとおもしろさが増してきます。
つまり、幕天居士さまの言葉を借りますと、シュタイナーの教育思想、カール・ロジャースやアドラーのカウンセリング理論などとどう関わってゆくのか、この全体と部分がイコールという事象が、生活との関わりで生かされてきたら、尚一層おもしろいです。
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- 2012年05月12日 18:07
- あれからルパンさま
「実在の宇宙と実際の生活との関係」ということでいえば、これはパルメニデスのいう「世界の二重構造」の問題につきあたる可能性がありますね。これを考えるだけでも十分に刺激的ではありますが、生活にいかすとなると、さしあたっては、シュタイナーとアーノルド・ミンデルにその可能性を見いだすことができそうです。
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- 2012年05月13日 13:51
- 幕天居士さま
「アキレスと亀のパラドックス」の真意は正直よく分かりませんが、
「人間と欲望」、対象a・・ジジェクっぽくなってきて、なぜかホッとしてます、笑。
われらがジジェク・・っていつジジェクが、われらのものとなったのか分かりませんが、わたしには、本物の宇宙っていうのは壮大すぎるから、なんか、対象aって、今や親近感が湧きます、笑。
たしかに、欲望は決して人間を満足させることができない、「代理物」によって、欲望させられているに過ぎない、そのことは理解します。
でも、部分が部分を欲望できないから・・う~ん、理窟ではそう云うものなのかも知れませんね、でも正直、「そうか、宇宙がホログラムだからか!」、とかっていう実感や驚きはありません、ごめんなさい笑。
ジョンホイーラーでしたか?「波束を収縮させて宇宙を存在させているのは
我々のような意識を持つ観測者の存在」と言ってるって書いてありましたが、幕天居士さまが、宇宙物理学で分かっている現れの宇宙の観測は、宇宙が自己を振り返ってる姿って言ってませんでしたか?
ジョンホイーラーの宇宙の絵って、勾玉の形にも似ているって聞いたことがありますが、
わたしそのことを聞いたとき、すごく、こわいくらい驚いたんです。畏敬の念に近い感覚かも知れません。
勾玉って、なにかの真理を示してると思いますが、一つには、宇宙が自己を振り返る姿も示しているとしたら、それもまた、畏敬の念を感じますね・。
神道の三種の神器って、勾玉と鏡と、剣ですよね、
宇宙とか、この世の法則とか・・神道では、純粋な形で壮大な真理の一端がしめされていているのかも知れませんね。
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- 2012年05月13日 13:52
- 電子が宇宙になりきっている、という話ですが、多世界解釈のこととか、ファインマンの「最小作用の法則」、(カミナリの話とか)、意識によって現象化が起こることとか、・・いままで幕天居士さまが語ってきたいろいろなことのつながりを感じますね。
この「宇宙になりきる」っていう言葉がいいです。
なりきるからこそ、実践力になる。理窟ではパラドックスを起こすことでも、やってみたら実際できてるってこと、多いですね。
やっぱりパラドックスを超えるには、宇宙になりきってとにかく実践するしかないかもしれませんね、笑。
アウトロー集団、?今度は見張り役じゃなくて良かったです、微笑。
力ある真理・・って言い方はちょっと違ってましたが・・実践と、それに伴う真理の再構築のような形が必要ということですよね。
今周りにも、臨機応変にこうした考えを受け入れて実践しそうな仲間もいるので・・面白いんじゃないでしょうか笑。
義春さまは介護の現場の新しいシステムの企画開発などされているようですね。
わたしも前の仕事では介護のことも関係していました。わたしは会社の方針とか国の制度とかシステムとか・・現場で一人一人必要としていることと違っていたりして自分の仕事に疑問を持つようになって、ストレスたまって仕事は辞めてしまいましたが・・個人としてはボランティアで関わることに切り替えて、わたしにはそんな個人的な繋がりが性に合っていたので、良かったです。介護の現場も義春さまのような実感として体験している方が関わることで、個人個人によりよい環境が整えられていくと良いですね。
生長の家も、地域によってもっと実践のあり方が違う運動が考えられると良いと思います。
トキ様によると、教団が崩壊に向かっているらしいですから、もう、組織とかの方針に関係なく、何を実践していくのか、それぞれが考えていけば良いことだと思います。
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- 2012年05月13日 16:54
- さくらちゃんへ
「アキレスと亀のパラドックス」の真意とは、「自分で自分を欲望しても、その欲望はけっして成就されることがない」ということですね。
「ホログラム宇宙」の観点からすれば、存在するものはすべて自分自身なのです。自分にとって、自分以外のものは存在しないということなのです。世界は鏡であると想像してみてください。鏡にはなにが映っているのでしょう。そこに映っているのは自分の姿ですね。誰かが花を見ているとします。世界が鏡であるとすれば、その花の姿は、鏡に映ったその人の姿ということになりますね。
ナルキッソスは、水面に映った自分の姿に恋してしまいました。これは、世界が鏡であるということをストレートに表現していますね。物語のなかのナルキッソスは、鏡に映った自分の姿に恋い焦がれながら、それを手に入れられずに、ついには死んでしまいます。
ナルキッソスの物語は、自分で自分を欲望してもその欲望はけっして成就されることがない、とするゼノンのパラドックスの真意を如実に表現したものだ、ということがいえます。
つづく
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- 2012年05月13日 16:56
- 部分が存在するとすれば、つまりは、世界に自分と自分以外のものが存在するとすれば、花と、その花を見ていると人は、ぜんぜん異なった存在であるということがいえますね。もしそうであれば、花を見ている人は、花を欲望して、それを手に入れた瞬間に、欲望が満足できたという感覚を得られるかもしれません。
実際にはどうでしょう。花を手に入れた瞬間に、その人は欲望を満足させることができるのでしょうか。それはあり得ませんね。なぜなら、花を手に入れた瞬間というのは、欲望を満足させた瞬間ではなく、欲望が消滅した瞬間でしかないからです。
欲望はけっして満足させることができません。それはたんに消滅するだけなのです。なぜかといえば、欲望の対象とは、つねに鏡に映った自分だからです。それを手に入れたとおもっても、本当のところはなにも得てはいないということです。部分がもしも存在するとすれば、こういうことにはならないはずですね。
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- 2012年05月13日 20:31
- さくらちゃんへ
>勾玉って、なにかの真理を示してると思いますが、一つには、宇宙が自己を振り返る姿も示しているとしたら、それもまた、畏敬の念を感じますね・。
ジョン・ホイーラーの「自己を振り返る宇宙の姿」というのは、ホイーラーが、アインシュタイン生誕百年を祝う会で描いてみせたってやつですね。たしかにその絵は、勾玉にソックリなのですが、なぜが魚のような尾っぽが描かれています。個人的には、尾っぽはないほうがよいとおもいますね。
宇宙の形は、といっても「見せかけの宇宙」のほうですが、イメージ的には球体とおもわれがちですが、むしろその形は、勾玉をまっすぐに伸ばした形、と考えたほうが理解がしやすいですね。
まっすぐに伸ばした勾玉のとがったほうがビッグバンで、そのちょうど反対側の丸い部分の先端に現在の地球が位置します。宇宙の姿として、このようなイメージを思い描けば、現在の地球がまるで過去を振り返っているかのように見える勾玉の形は、まさしく「宇宙が自己を振り返って見ている姿」といえそうですね。
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- 2012年05月13日 23:52
- そうか・・幕天居士さまの書いている宇宙の仕組みとかいうことに、自分の感覚に引き寄せて考えると、興味が湧いてきました、笑。
世界は鏡、ということですが、これはとても複雑で、面白い仕組みだと思うのですよね、。もちろん生長の家でも、心の陰、という言葉がありますが・・総裁の行いは、信徒の心の陰か否か、と議論するより、もっとこう・・個人的な深い気づきの世界だとおもうのですね、。
自分のいくつかの小さな経験でも、自分の外にあると思っていたものが、実は自分自身だったということを感じたことがありました。
この感覚は自分の世界にしか分からない感覚で、人に説明しても、微妙で小さな話だと思うので説明するのも何ですが、自分の中では確かな感覚のようにかんじています、。
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- 2012年05月13日 23:52
- 例えば、ものすごく悩んでしたとき、ふと空を見上げたら、それはおおきな一つの、手が空に浮かんでいたんです・・こう書くと何のこっちゃなのですが、わたしは、この空が自分の世界の中にあって、その空から、「あなたの生きることは、すべて大きな手のひらのなかのプロセスなんだよ。だから、すべて大丈夫だよ」ってそんな「声」を感じたんです。・・その「声」を感じられたのは、わたしとその空の世界が一つになったからだと思っています。
植物とかでも、そんなことがありますね。自然物は一体になりやすいです。
それから、気管支炎で熱を出してすごく苦しかったとき、ようやく口にしたりんごジュースが自分の口から入っていったとき、それは、わたしがりんごジュースを欲望してりんごジュースによって自分の欲望が満たされるというようなそんな、別々の感覚ではなく、りんごジュースが生命みたいに光になって、自分の生命の中に一つになるみたいなそんな感覚になったんです。・・本当は、食べるということは、食べ物が欲望を満たすただの物質じゃなくて、波動のようなもので生命の循環の一つの形に過ぎないんだな・・とつくづくと感じました。・・わたしとべつに物質が存在する、ということではなくて、食べるという行為は、本来一つの本源から出ているものが、一つの循環をあらわした形に過ぎないように思ったんです。
水でもそんな感覚がありました。
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- 2012年05月13日 23:53
- あらゆるものから「声」やメッセージに気づく世界は、自分と他の存在を別なものとしていない世界なのですよね、・・鏡のような世界。その通りなのかも知れません。
振り返ったら、あれもこれも結局自分の姿、だったと気がつく瞬間は・・ほんとうに、ふつふつと、いとおしい想いです。人間関係でも、その時は精一杯で見えないことばかりありますが、振り返ると、自分の姿をすべての中に見るような感覚になることがあります。
こうして、自分の世界の中で、一つに繋がりを感じる経験が、小さな事でも、皆感じられていると思うのですよね。
茶道の世界も、突き詰めると、こんな自分と宇宙が一つであると感じられる感覚があるんじゃないかな、っておもいますし、わたしがいま興味のある、合気道なんかも、そんな世界観があります。
スピリチュアルって・・霊能者が言うことやスピ系の本に書いてあることを理解することより、自分のこうした感覚が、スピリチュアルの本質があるのかな、・・となんとなくかんじています。もちろん、自分の感覚だけが正しい、と決めているわけではなく、人として、謙虚に教えていただくことはたくさんあるし、生き方の指針を学ぶべきだとは思いますが、この感覚の「純な部分」は、信じられるものがあり、わたしとなにか・・神秘的なものの繋がりは、この部分によってしか、結びつけられないものがあるとかんじるところがあります。
スピリチュアルカウンセラーの江原さんが、独りスピリチュアルがいいんだ、って言っていましたが、この言葉は好きです。
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- 2012年05月13日 23:54
- 宇宙が自己を振り返る姿、とは、ほんと、とても神秘ですね・・、
地球から見ている観察者は、ビックバンまでの宇宙を観測するとき、過去を振り返っているってことですよね・・まさしく宇宙自体が過去を振り返るその姿は、観察者のいる地球から、360度勾玉をまっすぐ伸ばした形に囲まれている、そのような形にしめされるような感じですね・・。
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- 2012年05月14日 08:52
- さくらちゃんへ
>まさしく宇宙自体が過去を振り返るその姿は、観察者のいる地球から、360度勾玉をまっすぐ伸ばした形に囲まれている、そのような形にしめされるような感じですね・・。
宇宙が球体ではなく、勾玉をまっすぐに伸ばした形である、ということを理解していただけということですね。地球の北極点から、360度、どの方向に向おうとも南極点にたどりつきます。これとおなじ理屈で、地球からどの方向を見たとしても、そこにはビッグバン直後の宇宙を見ることができます。
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- 2012年05月14日 10:09
- さくらちゃんへ
以前こちらで書いた、ヒチコックの「サイコ」で、ライラが、ノーマンの母親が住むとされる「古い家」に近づくシーンで、ヒチコックは、ライラから見た「古い家」のカットと、第三者から見たライラのカットだけを交互にもちいて、「古い家」から見たライラのカットと、第三者から見た「古い家」のカットは禁じた、ということを書きましたが、あえてそのような手法をもちいたヒチコックの狙いが、観客に、まるで「古い家」がライラを見ているかのような不気味な錯覚を起こさせることにあったのは、たしかなことだろうとおもいます。
精神分析医のジャック・ラカンは、学生時代、休みになるときまって漁船で働いていたそうです。そのときのある出来事をラカンが語っています。漁師のなかにプチ・ジャンという男がいて、この男があるとき、船上におかれた鰯の缶詰を指さしながら、ラカンに向かって「この缶が見えるかい。本当に見えるかい。でも、その缶にはおまえが見えないんだぜ」といったといいます。
この出来事にかんして、ラカンは次のように語っていたそうです。「もしプチ・ジャンが私に言ったこと、つまりは缶には私が見えないということに何か意味があったとしたら、それは、ある意味で、それにもかかわらず缶は私を見ていたということです」。
ラカンのこの不気味な述懐は、いったいなにを意味しているのでしょう。それが意味するのは、「古い家」は、ライラを見ていたということなのです。それは観客の錯覚ではなく、「古い家」は、じっさいにライラを見ていたということなのです。
つづく
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- 2012年05月14日 10:10
- ライラが「古い家」を見ていたのではなく、「古い家」がライラを見ていたのです。信じられないことですが、観客はたしかにそのように感じさせられていたはずなのです。そのように感じたからこそ、このシーンから立ち上る、おぞけだつような不気味な感覚から、どの観客も逃れることができなかった、ということなのではないでしょうか。
「古い家」がライラを見ているというのは、それでもまだ錯覚といえるのでしょうか。心理学でいう「投影」も、じつはこれとおなじメカニズムだということを書いたことがありますが、もしも「古い家」がライラを見ているというのが、錯覚ではなく本当だとしたなら、「投影」もまた、たんなる心理的メカニズムではなく、じっさいにそれはその場で起きている現実の出来事である、ともいえるはずなのです。
このことにかんして、アーノルド・ミンデルは興味深いことをいっています。誰かが花を見ているとしたなら、それは花が、まるで「わたしを見て!」とでもいうように、その人を仕向けたからだ、といっているのですね。その人は、自発的に花を見ているようでいて、そのじつ見るように仕向けられたのかもしれない、ということなのです。
ミンデルに、『24時間の明晰夢』という著作がありますが、このなかでミンデルは、モーリーン・スチュワートという女流禅師のつぎのような言葉を紹介しています。
○悟りは「明晰に見る」ことを必然的に伴う。これは何かを見て、その構成要素を分析することを意味するのではない。違う。明晰に見るとき、すなわちあなたが花を見るとき、それを本当に見るならば、花があなたを見るのである。
つづく
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- 2012年05月14日 10:17
- モーリーン・スチュワートのこの言葉にかんして、ミンデルは次のように述べています。「悟りは明晰に見ることを意味する。それは、花があなたを見るような仕方で、花を見ることである」。
「花があなたを見るような仕方で花を見る」とはどういうことなのでしょう。それは、「わたしが花を見る仕方」とはどのように異なっているといえるのでしょう。ふたつの見方の違いがわかりますか?
この違いこそが、パルメニデスのいう「世界の二重構造」を生み出す原因になっている、とわたしは考えます。世界はなぜ二重の構造を持たなければならないのでしょうか。それはたぶん、世界にはふたつの見方があるからなのですね。
ひとつは、自分が宇宙そのものであることを忘却して見る見方。あとのひとつは、宇宙そのものであることを明晰に自覚しながら見る見方。世界にたいしては、こうしたふたつの見方があるということですね。
「花があなたを見るような仕方で花を見る」。これがどういうことか、わたしにもわかったような気がしています。「投影」とは、自分が相手を見る仕方で、相手が自分を見ていると考えることですね。これは、どこか逆転した見方であるような気もいたします。世界は鏡であるにしても、それはあまりに複雑すぎる鏡のようです。
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- 2012年05月15日 12:30
- 幕天居士さま
>「実在の宇宙と実際の生活との関係」ということでいえば、これはパルメニデスのいう「世界の二重構造」の問題につきあたる可能性がありますね。これを考えるだけでも十分に刺激的ではあります<
その後、幕天居士さまは、実在の宇宙と実際の生活の関係を、少しずつ、紐解かれておりますね。さり気ないアプローチに、心地良ささえ感じています。ありがとうございます。
さて、
>ひとつは、自分が宇宙そのものであることを忘却して見る見方。あとのひとつは、宇宙そのものであることを明晰に自覚しながら見る見方。世界にたいしては、こうしたふたつの見方があるということですね。<
われわれ実際の生活において、自分が宇宙そのものであることを大概忘れて生活をしていますね。日々の煩雑な生活、仕事に追われてまたその後は付き合いに流されて・・・それらは、自分が宇宙そのものであることを忘却していますね。本当に、真に、観ることを忘れているのです。
もう一つの見方、宇宙そのものであることを明晰に自覚しながら観る見方。
「われは全体である」という自覚の元でのアプローチですね。部分でなく、全体であるということを明晰に自覚している、素晴らしい悟りの生活です。本当に目から鱗です。
絵手紙一つにしても、そのような見方で捉えて描くと、素晴らしいことと思います。ここには、深淵な哲学、また生活実践学が隠されているように思えます。
実に地味なアプローチなのですが、一人一人を大切にし、真に信仰に根ざしていると思います。
真理追究で、自分と宇宙の関係を明らかにし、それを生かすのが日々の生活での実践、これそのものが信仰なのでしょう。救済とはこのような地味なアプローチと実践のなかで培われてゆくものかもしれません。
-
- 2012年05月15日 17:19
- あれからルパンさま
哲学の世界に「イロニー」という用語があるそうです。英語でいえば「アイロニー」で、「あてこすりをする」といった意味になるようですが、「イロニー」にはもっとべつの意味があるといいます。
自己の宇宙的起源を忘却し、生活世界にひたすら留まりながらも、その生活世界を否定しつづけることができれば、そのことによって自己の宇宙的起源が開示されるという考えを持ちながらも、たとえそうやって開示された宇宙的起源であっても、それを否定してみせる。これが「イロニー」の考え方であるようです。
こちらの世界に留まるでもなく、あちらの世界に行ったきりになるでもなく、両方の世界を行ったり来たりしながら、そんな自分を笑い飛ばせるのが「イロニー」であると理解いたしました。
なぜこのような面倒なことをするのかというと、そうした往復運動をつづけることで、宇宙的世界と生活世界とが相互に浸透しあうようになる、というのが「イロニー」の考え方にあるからです。
じっさいに実践してみて、はたして結果はどうなのでしょう。それほど困難なことでもなく、面白い取り組みであるような気がいたします。
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- 2012年05月15日 17:26
- さくらちゃんへ
>世界は鏡、ということですが、これはとても複雑で、面白い仕組みだと思うのですよね、。もちろん生長の家でも、心の陰、という言葉がありますが・・総裁の行いは、信徒の心の陰か否か、と議論するより、もっとこう・・個人的な深い気づきの世界だとおもうのですね、。
自分のいくつかの小さな経験でも、自分の外にあると思っていたものが、実は自分自身だったということを感じたことがありました。
ユングが、たしかまだ子供だったころの話だとおもいますが、石にこしかけているうちに、自分が石なのか、石が自分なのかがわからなくなった、といったようなことを語っていたという話を思いだしました。ラカンの鰯の缶詰もそうですが、精神分析をやっている人というのは、やはりなにか、ふつうの人にはない鋭い感覚のようなものを持った人が多いのかもしれませんね。
個人的には、精神分析は、世の中の仕組みを知るうえで大いに役立つものだという気がいたしておるのですが、それはなぜかといえば、精神分析の理論は、総じて、ふつうの人々が気づくのが困難なことがらにたいして、鋭敏ともいえる感覚で気づける人たちによって打ち立てられている、とおもえるからなのですね。
「世界は鏡である」といった世の中の仕組みにかんしての洞察を深めようとするなら、ユングやラカン、その他の精神分析家や心理学者の理論や考え方を、最大限に役立てなくてはならないはずです。
-
- 2012年05月15日 19:49
- 幕天居士さま
まさに幕天居士さまが説明下さっている、この感覚です。
例えば先の話で、空が自分に話しかけてくるようなことを書きました。
これは空の方こちらを見ている、という意識なのですが、それは同時に自分の意識でもあるのです。その感覚は、言ってみれば、空が自分であってもなんら不思議ではない、そんな感覚なのです。自分が空であって、空が自分でもありうる、あらわれのの違いだけで、意識の根源の繋がりが不思議なほど自然に、感じられてくる。
そういえば、「シッダールタ」のラストの場面は、これの更に壮大な意識の拡大バージョンをあらわしているのかも知れませんね、。
「花があなたを見るような仕方で花を見る」。これは、自己の意識が広がるような、宗教的感覚に近い、気づきの開かれた感覚のように感じます。自分が花であるのか、花が自分であるのか、区別のない感覚、ですね。
世界が「鏡」のようである、という真実の一端なのではないでしょうか。
投影の説明で、ヒッチコックのカメラワークの説明をして下さったことも、繋がっていますね。
人間関係でもこのようなことがあります。この人はなぜ、わたしにこう言ってくるのか、と考えると、わたし自身が言わしている言葉だったりします。そうすると、その人の意識がわたしの意識であってもなんら不思議ではなかったりします。
これは、自分の世界の気づきなので、人に対して「心の鏡だから反省しなさい」、なんて、教訓の枠に収めてしまうには、勿体ないことですね、笑。
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- 2012年05月15日 19:49
- ルパンさまが言われるように、普段、私たちは、自己が宇宙であることを忘却してしまっています。
宇宙の観察するとは、まさに人間が、自己を宇宙の意識だということを忘却し、自己意識と同一である宇宙を振り返っている、という姿なのかも知れませんね。「宇宙が自己を振り返る」とはこのような事なのかも知れません。本物の宇宙を探求していたら、自己意識にたどり着いていた・・と言うようなことが起こるかも知れませんね、。
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- 2012年05月15日 20:41
- 幕天居士さま
さくら様
イロニーの考え方は、右脳と左脳を交互に自由に行き来することにも繋がるのではないかと、思いました。
生活的意識と宇宙的意識の往来、実生活において、実践できればと思っています。
>その感覚は、言ってみれば、空が自分であってもなんら不思議ではない、そんな感覚なのです。自分が空であって、空が自分でもありうる、あらわれのの違いだけで、意識の根源の繋がりが不思議なほど自然に、感じられてくる。
そういえば、「シッダールタ」のラストの場面は、これの更に壮大な意識の拡大バージョンをあらわしているのかも知れませんね。<
そのような世界に意識が拡大してもらいたいです。素晴らしい世界でしょうね。
>宇宙の観察するとは、まさに人間が、自己を宇宙の意識だということを忘却し、自己意識と同一である宇宙を振り返っている、という姿なのかも知れませんね。「宇宙が自己を振り返る」とはこのような事なのかも知れません。本物の宇宙を探求していたら、自己意識にたどり着いていた・・と言うようなことが起こるかも知れませんね。<
銀河鉄道999を越える、壮大なる探求ですね。おもしろいです。結局、自己意識に辿り着くのですから・・・この自己の意識を深く深く探求すると、壮大なる宇宙意識が展開されるのでしょう。
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- 2012年05月15日 21:26
- 幕天居士さま
>なぜこのような面倒なことをするのかというと、そうした往復運動をつづけることで、宇宙的世界と生活世界とが相互に浸透しあうようになる、というのが「イロニー」の考え方にあるからです。
ルパンさま
>イロニーの考え方は、右脳と左脳を交互に自由に行き来することにも繋がるのではないかと、思いました。
生活的意識と宇宙的意識の往来、実生活において、実践できればと思っています。
イロニーの考え方、というのは、仏教の中道にも繋がるような気がしますね。
どちらか一辺倒に、捕らわれず偏らない。どちらにも行き来できる。
宇宙的意識の拡大を、具体的生活の意識に浸透させることができれば、あたらしいアイディアや生き方の提案ができるのかも知れませんね。
右脳的感覚、左脳的思考、そのコネクトする力は必要ですね、
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- 2012年05月16日 13:04
- あれからルパンさま
>イロニーの考え方は、右脳と左脳を交互に自由に行き来することにも繋がるのではないかと、思いました。
生活的意識と宇宙的意識の往来、実生活において、実践できればと思っています。
左脳自我は、あのギルガメッシュの時代あたりに、ロゴスとともに生まれ、ロゴスとともに育ってきたものと考えられます。「はじめにロゴスあり」とは、左脳自我の出生の秘密を解き明かすためのキーワードであるのかもしれません。
左脳自我の起源がロゴスにあるとすれば、右脳意識の起源は宇宙にあるともいえます。ロゴス全盛ともいえるこんにちの社会にあってみれば、それが左脳優先の時代であるのは当然でありますが、それでも、忘れ去られた宇宙的起源を取り戻したいとする衝動は残っているようにおもわれます。
そうした衝動のひとつが、フロイトのいうタナトス、死の欲動ではないでしょうか。タナトスとは、ロゴスの論理によって支配され、行動せざるを得ない日常的意識を滅却し、本来の自分であるはずの宇宙的起源を取り戻そうとする衝動のようにもおもえるからです。
現代人の意識といえども、左脳自我と右脳意識のあいだを揺れ動いているにちがいありません。そうした「ゆらぎ」が、ときとして、営々と築いてきた自己の社会的地位でさえも滅し去りたいとするタナトスの衝動となってあらわれることがある、ということですね。
イロニーとは、あれからルパンさまがいわれるように、左脳自我と右脳意識のあいだを行き来することでもあるようです。こうした往復運動をつづけるうちに、いつしか左脳自我が、自己のほんらいの起源である宇宙的自我に目覚めるというのが、タナトスの衝動を発動することによって自我を滅却するということ以上に望まれる筋書きであるのは、よほどたしかなことにちがいないと考えます。
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- 2012年05月16日 18:22
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幕天居士さま
>左脳自我は、あのギルガメッシュの時代あたりに、ロゴスとともに生まれ、ロゴスとともに育ってきたものと考えられます。「はじめにロゴスあり」とは、左脳自我の出生の秘密を解き明かすためのキーワードであるのかもしれません。<
義春さん、もうそろそろ出てきてね、得意分野でしょ(*^_^*)
>忘れ去られた宇宙的起源を取り戻したいとする衝動は残っているようにおもわれます。そうした衝動のひとつが、フロイトのいうタナトス、死の欲動ではないでしょうか。タナトスとは、ロゴスの論理によって支配され、行動せざるを得ない日常的意識を滅却し、本来の自分であるはずの宇宙的起源を取り戻そうとする衝動のようにもおもえるからです。<
イエスは云われた、「肉の思いは死なり」「日々、十字架を背負って生きよ」これらの言葉は、タナトスの死の欲動と通じるところがあるかなあと思います。
>こうした往復運動をつづけるうちに、いつしか左脳自我が、自己のほんらいの起源である宇宙的自我に目覚めるというのが、タナトスの衝動を発動することによって自我を滅却するということ以上に望まれる筋書きであるのは、よほどたしかなことにちがいないと考えます。<
これがいいです。左脳を滅却して、右脳のみで生きるのは、現代文明の中では“死”を意味します。ですから、右脳と左脳の往復運動を重ねながら、自己本来の宇宙的自我に目覚める方法がより一般受けするし、在家の方でも習得可能ではないかと思われます。
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- 2012年05月16日 20:27
- あれからルパンさま
あっちとこっちを行ったり来たりするといっても、それほどむつかしく考える必要はなさそうです。もちろんむつかしく考えたければそれでもよいわけですが、たとえば飲んだくれてばかりいて、そんな自分に嫌気がさして「酒はやめよう」と思うのだけれど、酒を見ると我慢できずに飲んでしまい自己嫌悪のかたまりになってしまう。そんなこんなをくり返すだけでも、真面目一筋でひとつところにとどまり続けるよりはずいぶんとマシなことであるといいます。
坂口安吾が『堕落論』で「堕ちよ!」と連呼したのも、真面目一筋でい続けたところで何もよいことはない、ということをいいたかったのかもしれません。
聞くところによると、雅春先生も堕ちるべきところへは堕ちておられたとか。
かくいうわたしも、「いかん、いかん」とおもいながら、ついその・・・
誘惑に負けて、ふらふらと居酒屋に立ち寄ったりいたします。
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- 2012年05月18日 12:00
- 幕天居士さま
確かに居酒屋に立ち寄って、井炉端会議も・・・どちらかというと右脳の開花かな・・・
ところでいま、本流掲示版 対 本流対策室が、激論を交わしていますね。
素朴な疑問なんですけど、今回の裁判で一番、被害を被っている方々は、一般信徒だと思うのです。一般信徒のために、双方とも、和解を!!とはならないのでしょうか?
せめて、『生命の実相』と聖経の問題だけでも、解決をしてもらいたいです。
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- 2012年05月22日 23:40
- なんだかさくらの「理論や理屈」は復興GさまやSAKURAさまのお気に召さないみたいなので、こちらにきました、笑。最後はやっぱり圧倒的聖典の書き込みなので、素晴らしすぎてしまって、言葉はもうありません。。
「具体的には」、って書いてあったから、具体的な行動を指すと思ったら、「内証のさとり」「内的体験」の感動と喜びこそすべてという方向らしいことが分りました。
では、「具体的には」っていうのは、なんだったんだろうか。
「具体的に」、精神的喜びを感じ、感動する、ってことだろうか?
具体的にって、具体的になんなのだろうか。
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- 2012年05月23日 07:30
- 生命の實相を守るというが、いくら言葉を知っても、人は変わらない…確かに、内的経験による内証的自覚が必要だろうとおもいます。それはただ、言葉に反応して奮起したり感動することや、体験の結果に喜ぶとは、違った世界がありますね、
例えば茶道の所作には、型に則った自覚的に行われる動作でなにを表現しているのでしょうか。禅宗の作務の徹底はどこに通じるのでしょうか…
全くうまく言えないのですが、…本分を尽くすとは、そのようなものにも通じる気がしたのですが…
すぐに神の子の自覚、喜び、感動と言われると、どうコミニュケーションをとってようか、わからなくなりますね…。
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- 2012年05月24日 09:17
- おはようございます。
…宇宙的意識の拡大を、具体的生活の意識に浸透させること。
そっか、茶道の自覚的所作は、何か大きな意識を生活意識に浸透させることにつながるのかな…
そうすると、身体的経験は、しみじみとした喜びを持ち、当たり前の生活から逸脱せずに、「内証のさとり」とかいうことに繋がるのかもしれない。
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- 2012年05月24日 09:42
- さくらさま
多忙につき一言だけ『へうげもの』という漫画を全巻読破されることをお勧めしますよ。話はそれからにて。
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- 2012年05月24日 13:32
- 義春さまありがとうございます!
早速、「へげうもの」注文してみました〜楽しみです。
(読みはじめた武者小路派の家元の本の中でもこれを、オススメしてありました、すごいですね、笑。)
身体的経験とか身体的動作が、ある自覚とか精神的な感覚に繋がるとはどういうことなんだろうな…とおもいまして、なんとはなしに茶道を思いつきました…(わたしは何年か茶道習ってるのに、稽古事の域をでず無知なものです、。)
義春さまは、ご自分の経験を、ある精神的自覚へと「昇華」させることができるんだな、とかんじます。
(周りによい影響を与える、というのは、こうしたことと関係あるのかな…って。)
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- 2012年05月24日 13:41
- さくらちゃんへ
じつはわたくし、しばらく前より「ライバルは利休なり」と、なんの根拠もなく、勝手に思い込むにいたっております。
バサラの精神がフロイトのいうタナトスの衝動であるとしても、それを鎮めるのが「わび、さび」であるとしても、さらにそれを鎮めんとするのが茶の湯であるとしても、タナトスの衝動がバタイユの示唆するがごとく、自己の本源たる宇宙的根拠への回帰であるとすれば、茶の湯の動作、つまりは茶の湯によって喚起される身体性こそが、タナトスの衝動をもっともすぐれた形で吸収しうるものと考えるのであります。
茶の湯の動作がいかにしてタナトスの衝動を吸収し、それを自己の本源たる宇宙的根拠へと結びつけうるのか。これをただいま探索中であります。わがライバルは利休をおいてほかにありません。あとは世阿弥かも。ただし当方、茶の湯も能楽もまったくの未経験であります。
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- 2012年05月24日 18:50
- 幕天居士さま
>茶の湯の動作がいかにしてタナトスの衝動を吸収 し、それを自己の本源たる宇宙的根拠へと結びつけ うるのか。これをただいま探索中であります。わが ライバルは利休をおいてほかにありません。あとは 世阿弥かも。<
利休と世阿弥ですか・・・究極の選択ですね。
一方は、型の中に入り込み、自己内奥の世界を徹底して見極めた方、他方は、生と死、あの世とこの世、幽なる世界と現なる世界の境界線、狭間で、もがき苦しみ、一つの境地に達せれた方!
どちらも、体制に少し心許しながら、反体制を貫いて生きた方!
お二方とも、私は大変興味があります。
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- 2012年05月24日 19:21
- さくらさま
まぁ、大したことではありませんよ。
何回も死にかけて得たなんて幽斎さんが(精神年齢)三斎さまに格闘技しかけられるくらいに馬鹿レベルですから。
で、あまーり難しい表現をすると、小生の大金時殿が勃たないので、ゆるーく簡単にお願いします。
※注釈
・幽斎さん:細川幽斎
・精神年齢三斎さま:もちろん細川幽斎の嫡男でDQN四天王の一角、細川忠興。
嫁のガラシャ絡むとヤンデレ化すること等からの命名。
・大金時殿:へうげものの主人公、古田織部が名物を観た時になる、生理現象。本人は大と言ってるが、実際は『青だいしょう』らしい(※高遠城での逸話)
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- 2012年05月24日 21:05
- あれからルパンさま
世阿弥が好んで使ったとされる「幽玄」ですが、これこそが、ミンデルのいうドリーミングであるとの仮説を立てております(ミンデルは「センシェント」という言葉を多く用いておりますが、これは文字どおりの「幽玄」と訳すことが可能ではないかと考えます。ただし、ミンデルの著作では、これは翻訳なしに使われております)。
能楽、茶の湯は、ともに「本物の宇宙」につながっているのではないかと考えます。
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- 2012年05月24日 22:23
- 幕天居士様
横レス失礼。
幽玄=ドリーミングですか?ドリーミングは肌感覚で全然合わないから分かりませんが、幽玄なら何とか分かります。
…で、肌感覚的な言葉を翻訳すると幽玄とは無と物質の境のあるかないかのギリギリを表すものだと理解しています。利休が朝顔の中より朝顔一輪だけを茶室に飾った様に、そのものの生命を幽にして玄すことにより、無を表し、また一輪にて、その生命を表したようなものでしょうか。
それが本物の宇宙につながるか分かりませんが、精神の自由を得る為のものであることは確かだと思います。
…超余談
精神年齢三斎さまや織部さんが精神の自由を得たんだろうか…と、ふと思ったりもしますが、数寄の自由はあったんだろうなぁ…と勝手に思っております。利休さんは超越し過ぎてて、よく分かりません。
そういえば、へうげものの山上宗二の数寄の求道は素晴らしかった。
彼は時代遅れの坂東武者と接して、彼等の純粋に数寄を求める姿勢から、京都の形から、真の心の籠った数寄を得た、それが見事としか言い様がありません。返す返すもラスボス秀吉の(耳削ぎ・舌切り・斬首という)残酷な仕打ちに涙が出ます。
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- 2012年05月25日 00:26
- ・・ここに集う方は、やっぱりただ者ではありませんね、。
(利休をもライバル視する危うい哲人と、幽玄の極地を見つめる若き武士・・そんなイメージ、微笑。)
義春さまの歴史に対する「数寄者」に通じるような?おはなしには、歴史音痴のわたしはついてはいけないですけど・・面白い世界ですね。。
わたしも、「大金時殿の勃つような表現」を心がけたいですが・・う~んまだまだむずかしいです笑。
・・人って、「何を体験するか」ということ以上に、「どのように経験するか」ってことが大切ですよね。義春さまは、この「どのように経験するか」ということに対する、自分なりの哲学を構築していこうとしている、そのことが胸を打つんですね。
わたしの仕事の先生もよく、自分のしている仕事に対して、「自分なりの哲学」を構築することが大切で、それがなければ必ず行き詰まるし、ただの肉体的労働に陥ってしまう、と言われて、いつも自分なりに考えること感じることの大切さを言ってくれます。でも、人って、なかなか自分の身体的感覚、体験を「昇華する」ことは難しいことです。
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- 2012年05月25日 00:26
- 幕天居士さま
高度に極められた身体的所作は、タナトスの衝動を、「昇華」するようなものになるということでしょうか・・。
茶道の所作って、めんどくさく見えますが、気づくと実はすごく効率の良い動きなんですよね。先生は、「茶道のお点前は実に数学的に出来てる」って表現するときがありますが・・たしかに、道具を無駄なく決まった場所に置き、型にそって展開されて見事に片付けられていく様は、とても合理的にできていて気持ちがよいと感じます。
・・「自己の本源たる宇宙的根源への回帰」で思い出したんですが、今わたしの興味津々な合気道のことで、開祖植芝翁は「合気道は宇宙即我に至る道である」って言ってますね。合気道の型は「宇宙」を表現してるって言われますが、(未経験ゆえ、どんなことかは全くわかりません、)この「型」が大切なのでしょうね・・。それにしても、動画でみた合気道の名人って、動きがないと思われるくらい微細な動きだけで、ばたばた相手を倒していきます。なんだか、幕天居士さまが、前に書いていてた「最小作用の法則」を思い出しました。
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- 2012年05月25日 10:26
- 義春さん
ドリーミングは、オーストラリアのアボリジニーや北米インディアンが見いだしているとされる世界創造のメカニズムを指し示す表現です。これを西洋神秘学の伝統的な考え方に置き換えれば「一者の流出」といった表現となります。
ここで「一者」とは何なのか、が問題になりますが、これを神や実相という超越項を用いて説明することには、強い抵抗をおぼえます。トキ様の掲示板には、神や実相についてとうとうと語られる方がいらっしゃいますが、超越項にはあのように何でも言えてしまうという傾向があります。何でも言えるということは、言葉に中身がなくてもよい、ということです。中身のない言葉は感動によって手ごたえを得るよりほかはありません。最終的にはドーパミンの流出に依存するしかないということが、掲示板においても立証されているとの印象を持っております。
現時点では「本物の宇宙」を「一者」に見立てるよりほかに選択肢はありません。いうまでもなくこれは超越項ではありません。その説明にあたっては科学的な思考の制約を受けます。制約のなかで想像力を働かせることになります。使える言葉にも、おのずから制限が設けられます。もちろん感動する必要はありません。感動によって真理へと到達する。こうした考え方とはまったく無縁のものとなります。
つづく
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- 2012年05月25日 10:27
- あらゆる情報があらゆる場所に同時に存在する「本物の宇宙」は、情報の伝達手段としての光を必要としません。光を必要としない「本物の宇宙」は、「寂光」と呼ぶにふさわしい世界であるようにもおもわれます。
夢の世界にも光は存在しません。夢の世界はまさしく「寂光」と呼ぶにふさわしい世界のようです。その似たような性質から、夢の世界は「本物の宇宙」につながっていると、このようなことをどうしても考えがちになります。
「幽玄」には、ほの暗い場所から何者かが流出するがごとく立ちあらわれる、といったイメージがあります。それを「一者の流出」と捉えたとしても、なんら不自然ではありません。アボリジニーや北米インディアンはそれをドリーミングとして捉えました。日本人の感覚によって捉えられたとき、それは「幽玄」として立ちあらわれるのではないかと考えます。
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- 2012年05月25日 10:38
- 幕天居士さま
さくら様
義春さま
>世阿弥が好んで使ったとされる「幽玄」ですが、これこそが、ミンデルのいうドリーミングであるとの仮説を立てております<
それはなかなか、翻訳できないでしょう(^^;)幽玄の世界なら私も何となく分かります。
>能楽、茶の湯は、ともに「本物の宇宙」につながっているのではないかと考えます。
…で、肌感覚的な言葉を翻訳すると幽玄とは無と物質の境のあるかないかのギリギリを表すものだと理解しています。利休が朝顔の中より朝顔一輪だけを茶室に飾った様に、そのものの生命を幽にして玄すことにより、無を表し、また一輪にて、その生命を表したようなものでしょうか。<
そうでしょうね、生と死の境界線というか・・・弘法大師空海が昇天なされたときに、紡がれた言葉を思い出しました。
生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の内に暗し。
死に、死に、死に、死して、死の終わりに冥し。
冥を『くらし』と読んでいるところに惹かれるのです。
>「自己の本源たる宇宙的根源への回帰」で思い出したんですが、今わたしの興味津々な合気道のことで、開祖植芝翁は「合気道は宇宙即我に至る道である」って言ってますね。合気道の型は「宇宙」を表現してるって言われますが
・・この「型」が大切なのでしょうね・・。それにしても、動画でみた合気道の名人って、動きがないと思われるくらい微細な動きだけで、ばたばた相手を倒していきます。・・「最小作用の法則」を思い出しました。
そうでしょうね、達人になればなるほど、最小作用の法則を心得ていらっしゃると思います。
気を流す、気を鎮める、そのような作用が合気道の型にはあると思います。目の前の相手と気をあわせてゆく、そして、宇宙の生命へと促すのでしょう。
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- 2012年05月25日 10:46
- さくらちゃんへ
>合気道の型は「宇宙」を表現してるって言われますが、(未経験ゆえ、どんなことかは全くわかりません、)この「型」が大切なのでしょうね・・。
ここでいう「宇宙」が見せかけの宇宙であるはずがありませんね。合気道だけでなく、能楽や茶の湯もまた身体的な動作によって「本物の宇宙」を体現しようとしているように感じられます。
それは、言葉や精神性では表現しきれないものであるのかもしれません。ですが、身体性によってそれはなぜ表現し得るのかとなったときに、その理由が判然とはしない、というのもまたたしかな事実のようです。
幽玄にしても、ドリーミングにしても、それは形あるものによってしか表現できないということなのでしょうか。言葉や精神という、形さえ定かでないものによる表現では、遠くおよばぬものがあるということなのでしょうか。
そういえば、小林秀雄が、たしか『言葉』と題する評論で、本居宣長の「意は似せやすく、姿は似せがたし」を問題にしていました。言葉の意味を真似るのは簡単でも、姿を真似るのは容易ではない。こういうことを本居宣長は言っていたようですが、それはつまり、言葉の意味なとどいう、どうにでもなるようなものを真似たところで仕方がない、真似るに真似がたい姿を真似ることでしかそこにあるものは表現しきれない。こういうことを本居宣長は言いたかったのかもしれません。
どうにでも言えるものを真似たところで意味はない。真似るとすれば、姿形のはっきりしたものでなければならないということであるのかもしれませんね。
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- 2012年05月25日 10:57
- さくらちゃんへ
思えば、西行という人は、言葉の姿を宇宙の姿に似せようとしていた歌人であったのでしょうね。西行のこうした思想が利休に受け継がれ、それによって茶の湯の姿が確立されたともいえそうです。
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- 2012年05月25日 11:11
- 幕天居士さま
大変申し訳ありませんが仕事が大変忙しく、オマケに外回りのデスマーチが流れそうなので、暫くレス等々は出来そうにありません。
へうげものはお勧めなので、是非一読して一茶の笑いをお楽しみ頂ければ嬉しいです。
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- 2012年05月25日 11:57
- 義春さんへ
へうげもの、一読してみましょう。山上宗二は、利休によって秀吉の茶の指南役として二度も推挙されながら、二度とも「意にそわぬ」ということで秀吉に無礼を働き、処刑されたとされる人物ですね。利休もそうであったのかもしれませんが、茶の湯には、狂おしいまでに人を「あるべき姿」へと駆り立てる強固な思想性がどうしてもつきまとってしまう、という印象があります。
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- 2012年05月25日 12:00
- さくらちゃんへ
合気道は最小作用の法則を体現するものだと、ミンデルは明確に述べていますね。
ミンデルによれば、合気道の開祖植芝盛平は、宇宙との一体感を実現するためにと合気道を工夫しただけでなく、合気道の目的が「過剰な日常的思考や行為への偏向を減らすことによって、宇宙が最小作用を引き継ぐようにすることにある」と述べてもいたようです。
余計なことは考えずに身体的動作を工夫することで宇宙の最小作用は引き継がれるってことですね。あたしも最小作用でさくらちゃんとお近づきになりたいんだけど、たとえ言い寄ったところで、最大作用のひじ鉄をくらうのがオチであると心得ます。
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- 2012年05月25日 21:34
- 幕天居士さま
そうですか、合気道のことミンデルはそう云ってるんですね・・それとも、前に聞いたのを、わすれてたら、どうもすみません笑。
わたしが前に見たのは、高台寺の茶室だったかな・、
「茶室は小さければ小さいほどいい」とされた、利休の2畳の茶室、その空間から何が見えたのでしょうね。かろうじて外の明かりが入る程度の絶妙な仄暗さ、亭主と客の緊張感ある距離感・・「茶室は凝縮された宇宙」だと表現されます。
>幽玄にしても、ドリーミングにしても、それは形あるものによってしか表現できないということなのでしょうか。言葉や精神という、形さえ定かでないものによる表現では、遠くおよばぬものがあるということなのでしょうか。
(つづく)
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- 2012年05月25日 21:35
- なんというか、一般にどう云われているかにはわたしは無知なんで感覚的なものですが、
この凝縮された茶室による点前は、利休にとって、・・言ってみたら、無限なる宇宙的意識を解くための「数式」みたいな、役割をはたすものだったのかな、という感じがします。・あとは、無限なるものをのぞくための「望遠鏡の穴」のようなものというか・・
一切のそぎ落とされた凝縮された小さな空間でなくてはならなかったのは、無限の世界をより正確に捉えようとした結果なのかも知れませんね。それは限りなく無に近づきながらも、一点凝縮された有限なるものにかろうじて繋がっているような儚さがある・、
義春さまの生と死の境界線、といういわれるようなものが表現されているのかもしれません。この「幽玄の際」を味わい尽くすのが、茶道の醍醐味なんでしょうか。
「形あるものによってしか、表現出来ない」、といわれたのは、興味深いですね。生長の家ではどうしても「実相と現象」の間にある矛盾を感じている実態があるように思われてしまうのですが・・(実際、傍流掲示板ではそのことが絶えず持ち上がってるように思いますが)わたしは、(たいへん生意気なことなので言えませんが、)この「際」を味わう「喜び」が抜けているのでは・・と感じることがあるのです。
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- 2012年05月26日 11:57
- さくらちゃんへ
世阿弥に「花実相応」という言葉があるそうです。「花」を身体の動作、「実」を身体の動作によって表現される真理と考えれば、「花実相応」とは、身体の動作と真理とがたがいに呼応するがごとく相応ずるさま、と解釈できますね。
ここではっきりと申し上げますが、生長の家の教えは間違っている、ということをいっておこうとおもいます。どういうことかというと、「花実相応」の方向が逆転している、ということなのです。
生長の家では、正しい言葉や正しい想念によって潜在意識を正しい方向へむけさせる、ということをいいますね。これはつまり、潜在意識である無意識を、正しいとされる言葉や想念に似せて再構築する、ということですね。これが「花実相応」の逆転ということなのです。
生長の家は、無意識を、フロイトの理論をそのまま踏襲する形で捉えてますね。すなわち、無意識とは「飼いならされるべき欲動の保護区である」との考え方です。
実際はどうでしょう。無意識はほんとうに「飼いならされるべき欲動の保護区」なのでしょうか。ジジェクは、「無意識は外傷的な真理が声を発する場」といっていますね。もしもジジェクの言い分が正しいとすれば、生長の家は、「真理が声を発する場」であるはずの無意識を、言葉に似せて変えようとしている、ということになってしまいますね。
つづく
-
- 2012年05月26日 11:58
- 無意識ははたして、ジジェクがいうように「真理が声を発する場」であるといえるのでしょうか。それとも、生長の家が考えるように、言葉によってどうにでもできる「欲動の保護区」ということになるのでしょうか。
少なくとも、フロイトの理論をそのまま踏襲するというのは、すでに時代遅れの考え方といえるでしょうね。現代風にいえば、無意識は右脳意識と考えることができます。しかも右脳意識は、本物の宇宙とちょくせつ的につながっているともいえます。無意識が「真理が声を発する場」であったとしも、なんの不思議もないということです。
もしも無意識が「真理が声を発する場」であるとすれば、無意識こそが「実」ということになります。この「実」である無意識を、生長の家は、「花」であるはずの言葉にしたがわせようとしているってことですね。
世阿弥のいう「花実相応」とは、「実」である無意識に、「花」である身体の動作を似せることであると、わたしは考えます。これが「花実相応」の正しい方向性であると考えます。生長の家は、この方向性を逆転させます。生長の家は、「花」であるはずの言葉に似せて、「実」であるはずの無意識をつくり変えようとしている、ということなのです。
もちろん、生長の家の方々は、「言葉は神なり」という言葉を唯一の根拠として、神である言葉こそが「実」であり、それによって「欲動の保護区」である無意識を飼いならすことになんら問題はない、と反論なさるでありましょう。
「言葉は神なり」とは、神のコトバがそのまま言葉になったということなのでしょうか。ではいったい、神のコトバはどこから聞こえてきたといえるのでしょう。それは宇宙のどこかから聞こえてきたのでしょうか、それとも無意識からでしょうか。
つづく
-
- 2012年05月26日 11:59
- いずれからにしても、神であるはずの言葉が変化するというのはどういうことなのでしょう。ヨーロッパではラテン語がロマンス語となり、それがいまではスペイン語やフランス語やイタリア語へと分化しています。神であるはずの言葉が変化し分化していくというのは、どう考えてもおかしなことです。
本居宣長がいうように、言葉の「意は似せやすく、姿は似せがたし」なのでしょう。似せやすい意を真似ているうちに、言葉は次第に変化していくということなのでしょう。生長の家は、その変化してやまない言葉に似せて無意識を再構築しようとしているのですね。
言葉が「実」であるなら、なぜ言葉は変化を受け入れるのでしょう。「実」であるはずの言葉が変化してやまないというのは、とても奇妙なことなのではないでしょうか。やはり言葉は「花」と考えるべきではないでしょうか。「実」は変わらないのに、「花」である言葉が変化する。これなら起こりうることですね。
言葉が「花」であるとするなら、言葉こそが「実」である無意識を真似なければならないはずです。しかし言葉は、そうするにはあまりにも不安定すぎたようです。意識も同様に不安定すぎました。無意識を真似るには身体の動作しかない。世阿弥も利休も、このことに思い至ったにちがいありません。
言葉が神であるとする保証はどこにもありませんね。これまで生長の家が推進してきた、言葉に似せて無意識を再構築するという方法がいかに逆転した発想であるかということを、このあたりで立ち止まって考えるべきではないでしょう。禅宗の結跏趺坐は仏の姿を真似たものであるともいわれています。もしも言葉が神でないとしたなら、生長の家はとんだ間違いを犯し続けていることになります。
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- 2012年05月28日 00:42
- 幕天居士さま
「花実相応」ですか・・これは、外と中身がふさわしく相応する、という程の意味なのでしょうか。
言葉と、無意識の関係、難しいですね、。
個人的感覚からすれば、無意識を、「正しいとされる言葉」で再構築するというやり方には、違和感がありますが・・。
ちょっと違う観点かもしれませんが、一般的に宗教では、教えと行いを一致させようとしますね。でも矛盾がある場合(そうしたことがたいてい出て来ますが、)そこに、「理想とする世界」とのギャップによる心理学的な意味での「ヒステリー症状」が起こるとおもうのです。「教えではこう言っているけど、実際できていない。」など。
これは自分や他者の批判の原因になりやすいですよね。教えが実践できていないのは、「正しくない」と、このような判断になりがちではありますね、。
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- 2012年05月28日 00:43
- でも、わたしは「教え」と自分の現実とのギャップがあった場合には、あえて「教え」をいったん置いて、自分の心の声を聞くことが良いと感じることがあります、。教えがどんなに正しいことをいっていても、自分の声がどんなに理不尽でも、いったんは、自分の心の声にじっくり耳を傾けることが大切かな・・と。気づきは、内から来ると思うので、言葉ばかりに溢れてしまうと、逆にこの気づきが埋もれてしまうこともあるかもしれないし、
言葉による認識は、常に二つのものを対比させることによるものなので、二元論的になります。どちらかが、「正」ならどちらかが「偽」や「理想」はこうなのに、「実際」は違うなど。
無意識からの声は、二元論的な認識を超越した世界からの気づきがあるような気がします。
だから、正しいとされる言葉で、無意識を従わせる、という感覚は、ちょっと、違和感があるのは事実です。
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- 2012年05月28日 00:44
- >無意識を真似るには身体の動作しかない。
茶道とか、能とか、合気道などの
身体的動作は、言葉によって従うべきものでなく、
無意識よりくる内的衝動によって、あらわれたものが、
道理に適った姿となって顕れたのかも知れないですね・。
>思えば、西行という人は、言葉の姿を宇宙の姿に似せようとしていた歌人であったのでしょうね。西行のこうした思想が利休に受け継がれ、それによって茶の湯の姿が確立されたともいえそうです。
和歌の奥深さは分かりませんが、義春さまが言われてたように、大和ことばである日本語、って、やっぱりすごいのですね、。
義春さまの和歌も読んで、しみじみとして、言葉に、実、があるのを感じました。
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- 2012年05月28日 00:45
- 義春さま
「へうげもの」読んでます、
面白いです、
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- 2012年05月28日 07:56
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幕天居士さま
横割、失礼します。
確かに普通、そうですよね、言葉は神なりき!とすると、いろいろな矛盾が生じます。
ただ、聖書のなかに出てくる、このコトバとは、宇宙の法のことを云っているのではないかと思います。定義の次元が違うのでは?
もちろん、釈迦に説法ということも分かっていますが・・
また、生長の家では、身、口、意をまとめて、言葉と定義しているようです。これもまた、釈迦に説法でしょう。
身(実)イコール姿イコール型イコール所作となるのでしょう。
私も生長の家が定義している言葉のなかで、身は特に大切な位置を占めるなあと、思っています。
また、無意識にもいろいろな階層がありまして、無意識の情念を司る階層は乱れた身のこなしになり、無意識の情緒を司る階層からくる所作は見事に艶やかで、美しいことと存じます。
となると、実からくる所作は究極の美なのでしょう。
その型はみる方が観ると、実に繋がっているのでしょう。
そして、実があって身が整う、とのことも、これは、悟られた方のできることではないでしょうか、果たして、凡人は・・
私は、達人のつくりあげた、身のこなし、型、姿、所作を学ぶ、まねる、ことによって、凡人の我々は、魂が鎮まり、実が顕れてくるものと思うのですが、どうなのでしょうか。初歩の段階としては・・
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- 2012年05月31日 18:22
- 彼氏のいるさくらちゃんへ
号泣する準備は、うかつにもできていなかった(できていれば、直木賞は獲れただろう)。さくらちゃんの「彼氏がいる発言」で、吾輩はあっという間に奈落の底に突き落とされた。いまだ立ち直る気配さえ感じられぬばかりか、もののあわれがやけに身にしみて、見るもの聞くもの、すべてが虚しく感じられるばかりだ。
あの子はおひとりさまと、勝手に決めつけていた吾輩が、あまりにも愚かであったのだ。かくなるうえは、花も実もある人生を意地でも実現せねばなるまいぞとおもう。
>「花実相応」ですか・・これは、外と中身がふさわしく相応する、という程の意味なのでしょうか。
言葉と、無意識の関係、難しいですね、。
紀貫之に『花実相応の論』というのがあるそうです。言葉は真実を語ってはいない。そんな言葉を用いる歌詠みが真実を語るには、いかになせばよいのか。このようなことを、『花実相応の論』で紀貫之は述べていたといいます。紀貫之流に考えれば、「花実相応」とは、言葉と真理との一致と捉えることができるはずです。
世阿弥にとっての「花実相応」とは、身体の動作と、無意識の底から湧き出てくるかのような幽玄の相との一致であったのかもしれません。わたしはこれを、より単純化してみようとおもいます。「相応」を「ふさわしい」と捉えれば、「花実相応」を「実にふさわしい花を咲かせる」と読むことができます。
わたしにとっての「実」とは本物の宇宙ですから、本物の宇宙にふさわしい花をいかにして咲かせるか、ということで決まりです。問題は、「花とは何か」ということですね。それと、そのための実現力をどうするか、ということが問題ですね。
にしても、わたしの心に咲かせたかった「花」に彼氏がいたなんて・・・。さくらちゃんの実現力は、甘くはなかったってことか。
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- 2012年06月01日 16:46
- 幕天居士さま。
幕天居士さまも、小説なんか、読むのですか。なんか、江國香織よんでる幕天居士さまなど想像してなかったもので。・・それとも前に聞いたかしら・・忘れてたら、ごめんなさい、笑。
最近は、なんとなく、なつかしい気持ちになりたくて、「センセイの鞄」をお風呂の中でだけ、読んでいます。
ところで、さくらは、おひとりさま、好きなんですよ。食事も旅も、ひとりが良かったり。。
最近は、行きつけ、というのを作りたくて、バーにいったんですが、お気に入りってのは、なかなかまだみつかりませんね。
落ち着かなかったり、店員がちょっとうざかったり、気に入ったところは値段が高くて行きつけにはきつかったり、笑、色々です。
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- 2012年06月01日 16:53
- しかし、無門関解釈、読み始めましたが。
なんで、このような本のある宗教が、こんな事になるのでしょう~、という気持ちで読んでます、笑。
実現性、というのを、わたしは、誤解していました。
身体性、ということを、まったく、違う観点から、考えさせられました。
わたしは、自分が行動してなにかを与えることが大切だと思っていましたが、
自覚、こそが実現性であるということを、
考えさせられました。
時間ないので、また・・
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- 2012年06月15日 18:01
- 幕天居士さま、いるかな・?お元気ですか。
さくら、やっとお気に入りのお店、見つけましたよ。レトロっぽい雰囲気も音楽も店員との距離も家からの距離も、客の雰囲気も、わたしにはしっくり来て良い感じです。
今度、・・まあ彼氏が遊んでくれないときにでも、ご一緒にいかがですか、笑。もちろん、ビールのカクテルもありますよ。
ところで、お酒飲みながらでもいいんですけど、、またお茶の話なんです。
茶道のお点前に、茶箱の月点前というのがあります。
裏千家十一代玄々斎が創案した点前で、茶箱とよばれる箱にお道具を入れて、器据と呼ばれるA4サイズに4つに折りたためる板をパタパタと広げて、その板の上でお点前するんですよね。
このお点前は、茶箱の中でももっとも美しい点前と言われてて、月にちなんだ茶事に行われたりするのでこう呼ばれるみたいです。茶箱に合わせてきちんと納められた道具(箱用に、全部小さくできてます)を手順良く出して、最後は無駄なく片付けていくのは気持ちが良く、よく考えられたお点前だな、とやはり思います。先生は、このお点前のときによく、「お茶のお点前は、実に数学的」などの話をします。
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- 2012年06月15日 18:02
- このお点前をしたとき、なぜか、連想したものがありました。それは、モンゴルの遊牧民の移動式住居のゲルのことです。テレビで見たことがあるんですが、換気や採光などや、暑さ対策も良くできていて、組み立て式ながら、とても快適な住まいみたいですね。これが移動の時には、それこそちり一つ残さず片付けられるんですよね。モンゴル人は暮らしているときも、大地をなにも汚すことのないように気をつけるそうです。たとえば食料や衣類にする動物も、血の一滴さえも外に流れることのないように見事に処理していました。すべて無駄なく使い切るんです。住んだ跡には、元のままの大地がただ残されるだけなんですね。
利休以前は特に、国に匹敵するくらいの貴重なお道具をいかに敬うか・・という道具の扱い方や見せ方を重視したお点前が大切にされたみたいですが、わび点前は、手順を簡素にして、お茶を飲み終わった跡にはなにも残さず片付けるものとしたようです。
このわび茶点前の何も後に残さない、という「潔さ」みたいなものに、モンゴル人のゲルの暮らしを思い起こしたのですが、なにか、共に美学のようなものを感じます。
お茶にしろゲルにしろ、今ここに、展開されます。そこに展開され、そして、跡形もなく一つに集約されて片付けられます。一から多を展開して、そして、一に帰って行く、そんな見事な完結を感じるのですよね、。
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- 2012年06月15日 18:02
- たとえば、わびの精神とは、冬の枯れて葉を落とした木々が佇む趣に、一興感じる処だと思うのですが、それは、その枯れた風情をただおもしろがる以上に、その枯れ木の奥にある生命を観ていたようようなことがあるのではと思うのですね。つまり、枯れた木々には、すでに春に満開の花を咲かせる生命の力が宿っていることとをあえて言わないけれども、その生命力も共に愛でている心境というのでしょうか・・。その枯れ木の姿こそ、満開の花を咲かせる生命力に対する想像を掻き立てるものとしたのかも知れないな、と。
有名な赤楽茶碗の銘に無一物ってのがありますが、無一物中にこそ、無尽蔵の創造の可能性を観ることも、わびの精神の醍醐味なのかも知れないなって。
利休のわびは、創造の源みたいな力を持ったようですよね。・・まず、実際に、社会に、価値を生んでいったのですしね。利休の手に掛かれば、ただの庶民が使っていた魚入れの籠でさえ、重要な点前のアイテムとして価値あるものになったり・・つまり、社会的価値観が、利休の美意識で、革命的に変わっていったりするのですよね、すごいです。
なんか、うまくまとまらないのですが、利休が起こそうとした美意識って、社会の価値観の革命を起こすような、創造の力のようなものを感じるところです。
何もないからこそ、創造の源を生んでいくような力を感じられる。何もない、大地、何もない、茶室だからこそ、無限の展開の可能性があることを感じさせるのかな、と・・そんなことを感じました。
それでは、また。
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- 2012年06月15日 21:57
- さくらちゃんへ
>今度、・・まあ彼氏が遊んでくれないときにでも、ご一緒にいかがですか、笑。もちろん、ビールのカクテルもありますよ。
彼氏がいるってウワサは本当だったのですね。
ドボ~ン
豪華客船で世界一周の旅に出て、アトランティックオーシャンにでも飛び込もうかとおもいましたが、近所の古池屋に、買わずに飛び込むことにいたしやした。
友人をさそってやけ酒としゃれ込むことにいたしやしょう。いつもの店でシャンディー・ガフを注文します。「お好きなんですね」。いつぞやは、店の女の子からこう言われました。注文するのは、ビールカクテルのシャンディー・ガフと決めてますから。
人の思いも、茶道具のように、さっさと広げて仕舞い込めればよいですね。それができれば、気持ちはどんなにか楽でしょうに。
ところでご近所らしきレトロなお店、シャンディー・ガフは注文できますでしょうか。「お好きなんですね」。「ええ、とっても」。
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- 2012年06月15日 21:59
- ミンデルは、その著書『シャーマンズボディ』の第2部「都市の中で夢を見る」の冒頭でつぎのように述べている。
○身体は夢を見ようとする。ストレスを減らすだけでなく、トラブルの創り手にもなる必要があるからだ。身体は未知なるものとの境界(エッジ)で生きることを望む。そのため、過保護にされたり、一面的な「健康」を押しつけられると弱まってくる。ドリーミングボディは、挑戦、冒険、力、自由など、「健康」以上のものを求めるのだ。加えて、身体は本来のそれになるために、いかなる危険も厭わない。ドリーミングボディは、いわゆる「健康な生活」だけでは決して癒されることはない。夢見を通じて、未知なるものと出会うことを望むからだ。ドン・ファンは印象的に語っている。身体は恐怖と暗闇を愛し、そうしたものから力を得るのだと。
茶の湯は心身の健康のためになされるのだろうか。それが生成と創造のためであるとするなら、身体はどんな危険をも厭うことはないだろう。ミンデルを信じるかぎり、身体は「本来のそれ」であろうとしている。保身を願う人の心が、たとえどんなに身体の健康を望んだところで、身体はべつのものを望んでいる。
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