大きな欅の神木有り。神木では日本一とする。特殊神事鎮火祭あり。 この地は国造本紀にみえる浮田国造の本拠とする。 |
由緒 福島県相馬郡鹿島町鎮座 延喜式内鹿島御子神社由緒略記 畏くも畏き当神社御祭神天足別命は常陸の鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御子神にして常陸鹿島神宮の苗裔なるを以て此の地を鹿島と謂い、当神社を鹿島御子神社と称す所以此處に在り。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に邪気を討攘せる神にして特に奥州は僻遠の地なれば邪気再び起こらん事を慮り奥州の討攘に専念せし神なり。第12代景行天皇の御宇(西暦917年)日本武尊命御東征の時此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。第51代平城天皇の御宇大同元年(西暦806年)当今の社地に社殿を造営し、当地社僧神官等多数ありて神領17石を有し、常陸の鹿島神宮より年々幣帛を領されたという。第60代醍醐天皇の御宇延喜5年(西暦905年)当時軍神、鎮火神、医術の神として崇敬者多く、由緒深きを嘉せられ且つ当時大社として神社界の中枢として活動するところの延喜式内社に列せられた。醍醐天皇自ら武運長久を祈願し、御神体を式内社たる当神社に納められ、磐城国行方郡における延喜式内社の中の一社として現在に至っている。又其后年は移り変わりて社殿は改変せられ今日に至も天暦5年の御棟札(これに準ずるもの数体)並びに樹齢千余年の御神木大欅2本(福島県緑の文化財指定)が現存するを以て其の由緒古きを伺うことができる。 特殊神事 鎮火祭−正月14〜15日 御祭神天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。現在は古事に因み、正月14日夜、神霊神水を町中に奉じる法被姿の若者達の威勢の良い掛け声で「火伏せ祭り」が始まり、翌朝未明御神歌と共に神楽を奏し、高々と天燈籠を掲げ旧社地に至りて神事を行いその後、沿道の氏子有志が神官に浄水を掛けて祝う。神官は衣冠氷結のまま社殿に上がり、天下の罪穢を祓い氏子の1年の全ての祈願を斎行する奇祭である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鹿島御子神社 神代の昔、天足別命が父神建御雷神(鹿島神宮の祭神)と共に奥羽鎮撫のために下降し、開発平定に尽くされて御子神がこの地に鎮まり今の社地に移り社殿を造営す。延喜5年に由緒ある霊験あらたかな神社として延喜式神名帳に記載される。■■正体を納められ延喜式内社に列せられる。天暦5年のお棟札や現存する大欅(樹齢千年余り)からその由緒正しきを知ることが出来る。 特殊神事鎮火祭 天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された当時この地方に大六天魔王と名乗る賊徒が横行していた、或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに火伏せの神事を以て四方八方に広がった猛火を鎮めた。その時鹿島大神のお使いである鹿が多数現れ川より濡れた笹を銜えてきて仮宮を潤し火の再発に備えたという。その後命のご神徳により賊徒横行することが無くなった。現在毎年正月14日夜神霊神水を町中に奉じるハッピ姿の若者達の威勢の良いかけ声で火伏せ祭りが始まり、翌15日早朝神歌と共に神楽を奉じ高々と天灯籠を掲げ、旧社地にて神事の後、沿道の氏子有志の人々が神官に浄水を掛けて祝う。神官は衣冠氷結のまま社殿に戻り天下の罪穢を祓い清め、直ちに今年1年悪火の起きないよう祈願すると共に氏子の全ての祈願を行う奇祭である 社頭掲示板 |
鹿島御子神社 御祭神 天足別命 志那都比古命 志那都比売命 畏くも 當神社御祭神天足別命は関東鹿島神宮の御祭神、武甕槌命の御子神にして、常陸鹿島神宮の苗裔なるを以て此の地を鹿島と謂い當神社を鹿島御子神社と称す所以此處に存する。 天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に奥州の邪気を討攘せる神にして、特に奥州は僻遠の地なれば邪鬼再び起こらんことを慮り、奥州の邪鬼討攘に専念せし神なり。 第12代景行天皇の御宇(428年)日本武尊御東征の時此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し、得てその后益々御子神社は、特に軍神として武人崇敬の神となれり。 第51代平城天皇の御字、大同元年(806年)4月17日當今の社地に社殿を造営し、社僧神官等多数ありて、神領十七石を有し、常陸の鹿島神宮よりは年々幣帛を領たれしと云う。第60代醍醐天皇の御宇、延喜5年(905年)當時軍神、鎮火神、医術の神として信徒、崇敬者多く由緒深きを嘉せられ、且つ當時大社として我国神社の中枢として活動する處の延喜式内社に列せられ、醍醐天皇自ら武運長久を祈願し、御神躰を式内社たる當神社に納めれ磐城国行方郡に於ける延喜式内社八社の中の一として現在に迄厳として輝き居りまた其の后、年は移り変わりて、社殿等は改変せられ、今日に及び来りしも、其の記録の主たるものは棟札の年代より推察せば鹿島御子神社はいかに由緒深く、第108代明正天皇の御宇、寛永13年相馬義胤公の尊信厚く社殿の修補、祭典費の供進、神地献納の事ありて、爾来代々の領主相継ぎ崇敬し、以て明治維新に及べり。 明治4年7月4日太政官達を以て、神社々格制定の規制成ると其れに「郷社定則」が定められ明治9年11月郷社に列し、郷社と定められ、大正15年幣束供進便参向、指定社となる。爾来久しく軍神、鎮火神、医術神として、亦御神徳顕著なる守護神として、信仰者多く今日に及べり。 現存する古い棟札 奉建立鹿嶋御子神社 社主 鹿 嶋 太 夫 天暦5年辛亥8月5日(西暦 951年) 奉造鹿嶌御子神社 鹿 嶋 重太夫 長元3庚午4月17日(西暦1030年) 奉造宮鹿嶋御子神社 社主 鹿 嶋 清太夫 保延4戌午10月21日(西暦1138年) 「鹿島御子神社の遷宮祭」 十三年に一度、寅歳に遷宮祭を行っています。 鹿島の神は建国創業神話にも出雲国に国譲りの為赴いたり。 神武天皇の大和入りにも紀州熊野に賊を平定に赴いたりしていたので東国の防人達は鹿島の社頭に集結し九州防備に旅立っていきました。すなわち「鹿島立ち」として鹿島の神の社頭より旅立てば、御神徳により無事に帰れるという所以であります。また、寅は強く逞しく千里行き千里帰ると言われ、このような事が重なり寅年に遷宮祭を行うようになったとされています。神代の昔、伊邪那岐命が海水に入って清めたという「古事記」の伝承があり、潮には罪、穢れ、災厄を洗い流す力があり浄化する事によりさらに神威を増し永遠に維持する為、潮垢離を遷宮祭に供えます。社殿や什物を新しく造り替え遷宮祭祭典は氏子崇敬者たちが多数参列します。氏子区域に神輿渡御を行うが、小池の獅子、鹿島神楽、小島田神楽、北屋形神楽、右田神楽、下町手踊り等諸芸の奉納がされる他、猿田彦の神を先頭に裃姿の総代、稚児達も行列に加わり二百余名が神幸にお供します。 社頭掲示板 |