かって信田沢村坂下の山の上を坂上と云い、祠があり、冠嶺神社と称したが、野火のため焼失し、神主も絶えたのを弘化年間(1844-48)に再興した。本来は新田川の治水に関連して祀られた神と考えられる。 |
冠嶺神社 八社の一社 冠嶺神社 延喜式神名帳にする所の行方八社の一社で安政年中に行方八社の一社であることが明らかとなり、万延元年春始めて官祠再興の事藩主より命ずとある。 原町市教育委員会 境内掲示板 |
『奥相志』 近世初頭に僅かに小祠となっていたが、野火でり宮を焼失した。太田九太夫が小祠で祀っていたが、宝永・正徳の頃(1704-15)、九太夫の家が絶えたため、羽黒派修験山覚院がこれを祀った。山覚院も絶え、また天明以來人戸が減じ、文化年間(1804-18)には荒村となり、里村は頽廃した。神社の御正体は農夫某がその屋敷に遷し深くこれを秘し、本山派修験大学院がこれを祀つた。当時、村人は冠嶺の神が信田沢にあることを知らなかつた。農夫某の家が絶え、他邑より佐藤氏が来て、その家に住み、その田を耕し坂嶺の小祠を修理し祀つた。文化12年、藩主相馬盆胤の命により渡邊美綱が行方八社を調査したが、冠嶺、益多嶺の両社未詳とした。萬延元年(1860)春、宮祠再興の事が命ぜられ、匠人上杉主殿頭がこれに当つた。 式内社調査報告 |