日本屈指の古社で東北各地の多珂神社の根源という。 社地の西方約500mに古内と云う所があり、その一部を大明神川原と云い、ここが社伝に云う「往古の社地」である。 |
由緒 古の文化の花開いたと伝える、ここ多珂の郷に白木の神殿を仰ぐ今よりおよそ1070年前、すでに名神大社として延喜式神名帳に列し、わが国屈指の古社として、多くの多珂社の首位にあり旧号を多珂大明神と称し祭神を伊邪那岐命とし、又は多珂荒みたま命とする。景行天皇の40年7月日本書紀皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じ、陸奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。(社伝、仲哀天皇7年2月 社伝、暴風雨のために社殿大破し9月芦野平現在の城ノ内)に遷し奉る以来上下の尊崇厚く藩政時代明歴元年4月藩主相馬忠胤資財を献じて社殿を修理、元禄年中藩主昌胤白符鷹の彫刻を納め、享保9年昌胤社田一石九斗余を寄進せらる、明治6年郷社に列し、昭和19年10月県社に昇る。常に地方の政治信仰文化の中心であったがこのたびまた氏子一同相はかり由緒の碑をこの産土の社地に建て永く大神の弥栄を寿ぎ祀るという。(昭和46年4月) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |