もとは高野倉にあつたが、後に押釜に遷された。 河岸段丘に鎮座する。入り口わかりにくい。民家の裏手にある。 |
高座神社 当社は延喜所載行方8社の1なり然れども縁起の書を失い鎮座履歴不詳。伝へ曰う遠古は大社にして摂社末社多く社内広大なり今瓦石砕けて諸所に埋まるの多し。大華表小野寺崎(馬場押谷大木戸三邑の界赤柴山東の出崎)に建つ其の跡あり。古老之を云う蓋し戦世兵火に罹り衰廃せるものか再建せるも古に復せず小社となる古昔邦君より神田一環十八文を寄す。慶長7年(1602)家康公のために相馬領地を納められし今年旧封を返賜さる。此の時に当たり社司幼にして社田のことを果たせず故に爾後社田無し昔時公より境内の諸木を伐り新に圃を墾く此の地元文(1736)の頃より荒廃に帰すと云う。是より先遠藤八郎左衛門なるもの当邑の内を食みて居たり。故に神祠を古の社地の北端に建てて護神となす。安永3(1774)年再建の棟札有り。以来棟札5枚有り。寛政11年(1799)野火に罹り宮焼失す。此の時公より社地の杉数百本を売りて金11両2分を賜ひ宮祠を再興す。文化12年(1815)3月邦君行方八社を糺す高座神社の古事を奏す此の年6月行方八社の1にして旧社の故に永続と為し一石の田を貸し社料と為す。 社頭石碑 |