――0――
フォルトナと言う名のこの世界。ユウキが生きていた地球とは、人々の営みも生物の生態系も根本から違っていた。だからこそ師であるレイールは苦行にも似た鍛錬をユウキに強いた。それは彼女の気まぐれの様な物であるが、彼にとってそれは素晴らしく僥倖であると言える。
レイールが属する長耳族と言う種族。その生態は基本的にはその長命種であると言う側面から、あまり小さな事には頓着しない。例えば大きな象から見れば、足元に存在する蟻はその視界にすら入らないのと同様に。つまり長耳族にとって人間とはそういう物でしか無いと言う事だ。その中でも取り分け変わり者なレイールならば尚更である。故あって樹海の奥深くに隠棲している彼女は、ある理由によって本来の長耳族以上に人間を毛嫌いしているのだ。
そんな彼女の好奇心をユウキは|たまたま(・・・・)擽ったからこそ、この地球よりも圧倒的に命の軽い世界で生きてこれたのだ。何らかの運命の妙が作用したのか、本当にただの偶然であるかは誰にも分からないことであるが、とにかくユウキは今日も生きている。その事実が奇跡そのものであるのだった。
「忘れ物は無いかの?」
「ああ、大丈夫だよレイール」
「そうか……。息災にな。ここはお前の家じゃ。いつでも帰ってきても良いからの」
フォルトナにやってきたユウキが5年も暮らしたこのあばら家、それも今日でしばらくのお別れであった。木漏れ日が差す森の中の家、その玄関の前で向かい合う2人は、どことなく感傷的に見詰め合っていた。ユウキに飛来した思い、それはレイールへの感謝の念、それのみである。
年が離れた――と言うよりは離れすぎな2人であるが、彼女はそんなユウキを眺め、鍛錬時代にはあり得なかった反応、そのグレイの瞳に涙を浮かべていた。
「生水は飲むでないぞ? 知らない人間にすぐ心を許してはならぬぞ――」
彼女はユウキを抱き寄せ、名残惜しそうに頭を撫でた。
「レイール! そこまで子供じゃないよ俺は」
「うるさい! 妾にとってはお前なぞいつまでも子供じゃ!」
容姿が整いすぎているレイールが、頭一つ小さいユウキに縋って、まるで幼子のように駄々をこねる。そんな姿の師匠を見て、とても残念な気持ちになるユウキであった。
「ったく、なんだよ一体。今生の別れって訳じゃないじゃない。レイールの旧友の所へおつかいに行くだけだろう?」
「それでもじゃ! 人間は怖いぞ。街へ赴いたら色仕掛けでユウキを篭絡しようとするに決まってるわ! よし、決めた。やはり妾も行く事にするぞ。良いなユウキ、暫し待っておれ。準備してくるからの!」
「お、おい! あの鬼のような師匠はどこいったんだよ……。ああもう、一体どっちが子供なんだっての。じゃ、師匠――」
「レイール!」
「……レイール、行って来るからね! 心配しないでもちゃんと帰ってくるから!」
ユウキは面倒くさくなったのか、ぞんざいにレイールの頭を背伸びして撫でると、そそくさと走り去った。なんとも閉まらない門出である。師匠は喋らなければ本当に美人なのに、等と溜息をつきながら、ユウキは身体強化の魔法を詠唱し、街がある東へと向かうのであった。
そんな愛弟子の後姿を眺めていたレイールは、先ほどまでの砕けた表情を引き締め、ある事を思案していた。
「ユウキよ、愛しい異国の息子よ。お前の未来は困難が転がっているであろうな。それに打ち勝つ位には鍛えたつもりじゃが、なんとも不安で堪らぬよ。妾も老いたのかのう。それでも妾はお前と言う男を信じているぞ」
そう呟き、彼女は静かに扉の中へと消えた。実はレイールには、ユウキに話していないある魔法があった。その名前は”先見の法”と言う。これは熟練の術師がある種の儀式を経て行使することが出来る未来予知の類である。そして彼女はユウキを拾ってすぐにこの法を行なった。
元々はただの好奇心の延長でしかなかった。異世界からやってきたという、ある種眉唾な身の上を話すユウキを鍛えると言う事になったレイール。そんな彼女は、脆弱で取るに足らない存在である人間の彼が、このまま鍛えて行ったらどうなるのか? 哀れに野垂れ死ぬのか、はたまた幾許かは生き残れるのか。その程度を占うつもりだったのだ。
だが、実際に法を行使したらどうだ。彼女が見たユウキの未来は、ある運命に導かれたものであったのだ。数奇すぎる運命の糸が幾重にも複雑に絡んでいたのだ。レイールの苛烈を極めた鍛錬の真意は、実はこの先見の法の結果故であったのだ。それをついぞ彼自身に話すことは無かったが、逆にレイールは話さない方が彼のためであると信じたのだ。
今はまだ、小さな人間に過ぎぬ彼であるが、レイールは彼の資質を見切っていた。それは到底人間の器に納まらない資質の持ち主であるという事。そうでなければただの人間に過ぎないユウキが、彼女の生涯をかけて会得した魔法や戦闘技術を修められる訳が無いのだ。人の身には過ぎた技術が、彼にはしっかりと修まった。その事実がユウキの異常性を示しており、そしてこの先に訪れる数奇な運命とやらを呼び寄せるのだろう。
「案ずる必要は無いのじゃ。妾に出来ることは全てしたのじゃから。のう、ユウキ。妾はきっと待っておるぞ。お前が生きてこの地へ戻るまでな。例え何世紀かかろうと、な」
昨日まで彼が寝ていた簡素なベッドにレイールは腰掛け、虚空に向かってそう呟いた。住人が一人減ったこの家は、酷く静かであった。
――1――
森の中をただひたすら歩く。ここは樹海の中だから、当然道など無い。俺の腰まではあろうかと言う森の下草を掻き分けて行くのだが、身体能力をメンテによって強化してる為、苦痛は無い。師匠の家を出たのはまだ涼しい朝だった。今は太陽が真上に見えるから、大体3時間は歩いただろうか。依然として景色は変わり映えがしないが、別に急ぐ旅では無いからのんびり行く。
俺がこの世界に落ちてから今日まで、外出と言えばこの樹海の中だけに限られてきた。それが師匠の課した命令だったからだ。樹海の外にまぎれるには、お前はまだ未熟だ。そうバッサリと斬られたもんだから、文句は言えようもない。事実、俺は彼女の様な高等な種族では無いのだから。
師匠は若かりし頃に、この大陸だけに納まらずに世界を股にかけて旅をしていたと聞いた。詳しい話は聞けなかったけれど、それでもそんな冒険をやり遂げた彼女の経験談は確かなものだろうし、そんな彼女が未熟だと言うならば、きっとそうなのだろうと納得している。さすがに1000年モノの経験談の説得力は重たいと思うんだ。
修行が終わったとのお墨付きを貰ってすぐに、俺は彼女の古い友人の所へ赴くように言われた。内容は至極シンプルなもので、その友人に師匠の手紙を渡し、そして返事を貰って戻ってくると言う物だ。ただし色々と制約をつけられた。
彼女の得意な意地の悪い笑みを浮かべ、暫くのタメを作られた時は、どんな酷い制約なのかと身構えたものだ。でも実際はそうでもなかった。その制約とは、移動系の魔法を使っての行軍は禁止。行きも帰りも馬等の移動手段を使わず、とにかく徒歩のみで完遂することとの事だった。彼女に渡された地図に記されたこの大陸の一番東にある岬、そこへ行くには師匠曰く、徒歩で約100日かかると言う。つまり往復で1年の大半を消費してしまうと言う事だ。
この”おつかい”は、俺の卒業試験その2って所なのだろうな。いいさ師匠、望むところだよ。この道のりには樹海で出遭った獣以上の凶悪な存在とも対峙するシーンもあるだろう。そういうことも含めての試練と言う事だと思う。だが俺は長耳の賢者の弟子と言う自負がある。だから今は弱くても、無様を晒す事無くここへまた戻ってこようと思う。
少し気になるのが、この試練の話を聞いている最中に彼女が言った言葉だ。それは「その友人とは、妾以上の変人なのじゃ。決して油断するでないぞ」と言う意味深な物だ。と言うか師匠、自分が変人だと言う自覚があったのかよ……。まあそれも詳しい話は教えてもらえなかったが、その人物は人間を捨てた魔法使いだと言う。人間を捨てたと言う部分が分からないが、悠久を生きている師匠の友人なのだから、きっと常識外れな人なんだろうな。
しばらく師匠の顔を拝めないのは、少し寂しい気持ちもある。だがそれ以上に未知な世界への興味が今は勝っている。師匠の厳しい修行の果てに、俺がどれほど成長したのか限界を試してみたいと言う気持ちもある。そしてその一歩を踏み出したばかりの俺は、この世界に落ちてから初めてと言う位の高揚感に包まれている。
日本にいたら決して味わえなかっただろう、手付かずの自然に囲まれて、俺はどこまで行けるだろうとそう考えていた。鬱蒼とした森を歩きながら。きっと笑顔で。
――2――
「んーーーー……」
あれから日が傾くまで歩き、段々と森の木々がまばらになって来た。幅が20m程の川に出た所で俺は軽く伸びをして、今日の行軍はここまでにしようと決めた。文明の灯りの無いこの世界では、太陽が沈んでしまうと直ぐに完全な闇に包まれる。その分深夜になれば人が便利を求めた代わりに垂れ流したスモッグ等のフィルターを通さない|まっさら(・・・・)な星空が明るく照らしてくれる。
ふと辺りを見回す。川のこちらと向こう。今俺がいる川岸は巨石がごろごろとしていて寝るには少しきつそうだ。けど向こう岸は割と平らに見える。川はまだ上流である事から、それほど深くは無いが流れは急だ。せっかく師匠に貰った一張羅を濡らしたくは無いな。
俺が今着ているのは、師匠の服と同じ材質のモノだ。彼女が旅をしていた時に遭遇したと言う身の丈数メートルはあったという白い狼の魔獣の革だ。仕立てる前の革を見せてもらったが、雪のように真っ白の立派なものだった。それが畳4,5枚分はありそうな程の大きさだ。……ほんとに師匠はとんでもないな。そんな大きさの狼に体当たりでもされたら即死するだろうよ普通。
まあ、その貴重な革を使って仕立てた細身のパンツ。そして長耳族の秘術で編まれた軽いけれど金属質と言う不思議な材質の茶色の半袖のシャツ(これは絶対に他人に渡すなと念を押された) 後は肌身離さずに付けておけと渡された、500円玉くらいの大きさはある赤い宝石のついたチョーカー。微妙にメンテを帯びている気配のする物だ。きっと長旅の安全を篭めたお守りみたいな物だろうと思う。
俺は川岸にある3m程度の岩を見る。ごつごつとした元は火山岩だろうそれは、長い時間をかけて風化した為に丸みを帯びていた。苔むした岩肌に俺は拳を添える。
思えば師匠と修行して、随分と俺も成長したと思う。主に肉体的にだ。俺がこの世界に落ちた当初は、師匠より頭2つほど小さく、やせっぽっちのもやしっ子だった。だが、5年の歳月をかけて徹底的に苛め抜いた身体は、分かりやすく太くはなっていないが、それでもワイヤーを編みこんだ様な強靭な筋肉で覆われている。身長だって少しは伸びた。師匠より頭一つ小さいくらい。多分175cmくらいだと思う。くそっ、身長だけはどうしようもないじゃないか。骨の問題だもんな……でも師匠を見上げなきゃいけないのは男として少し屈辱だったりする。
夕焼けに照らされて輝く水面、僅かにそよぐ風。穏やかな風景。その中で俺はへその下辺りをイメージして深い集中をする。タコのように窄めた口からしゅっと息を吸う。その圧縮された空気を全身に隈なく行き渡らせるイメージ。
思考1で呼吸を一定に制御し、思考2でメントを集める。そして思考3で魔法のイメージを行なう。それは機械仕掛けの削岩機。太いパイルで岩を穿つ。
「穿つは拳、貫き通す強き意思の本流っ」
詠唱を終えると、俺の全身に力がみなぎる。全身に淡い金色の膜が張ったのが見える。俺は弓を引き絞るが如く身体を限界まで捻り、腰溜めに右手を引いた。そして刹那のインパクト。
「シュッッ」
口から息を勢い良く吐き出し、岩肌と拳の最短距離を突くだけの正拳突き。現実を置き去りにする奇跡の体現は、俺の目すら強化し、突き出される高速度の拳の軌跡をスローに見せる。溜めから開放された単純な暴力。速度に俺の体重が最大限乗っかり、身体強化と言うブーストが追加された鋭利な槍の一閃を彷彿とさせる。それが今、堅固な岩肌に着弾した。
辺りの空気を振るわせたように錯覚させるほどの余波を伴い、何かが破裂したような鈍い音が俺の耳に届いた。そして俺はゆっくり拳を引く。だが師匠との修行で身体に染み付いた残心は忘れない。拳を打つ前と同じ姿勢のまま、俺は深い息を吐いた。
次の瞬間、大きな岩だったそれは、拳の跡がそのまま残った場所を中心に四方八方に亀裂が走る。そして、ばりばりと言う音と共に巨石だったそれが幾つかの破片へと変化した。とは言え、一つ一つは4,50cmはあるだろうが。
この程度の攻撃は初歩の初歩じゃ。故に慢心するべからず――そう頭の中で師匠が言っている。とは言え、だ。少しは「俺ちょっと凄くない?」と言う思いも無きにしも非ず。この瞬間だけは調子に乗らせてください、師匠。
そして10個ほどに割れた欠片をぽいぽいと川へと投げ込み、それを足場に向こう岸へと渡った。うん、やはりこっちの方が寝るにはよさそうだ。
5m程のなだらかな川岸、そこに立ち、俺は探索魔法を行使する。これは半径約50mの範囲で動くものがいないかを探る便利な魔法だ。もっとも、師匠が使えば半径1kmは軽いと言う。酷い差別だ。恐るべし長耳族……。
とにかく危険な物は取り合えず居ないと安心し、俺はのんびりと林の中を歩き、枯れ枝を山ほど集めて回った。火を絶やすのは非常に危険だろうからな。
そして俺は川岸に戻り、手ごろな石を集めてサークルを作る。そこに枯れ枝と流木を集め、炎の魔法で火をつける。実は自然界の属性魔法はあまり得意じゃないんだけどな。まあ、獣をおっぱらう程度って程度は出来るけれども。
やがてパチパチと音を立てて焚き火は燃える。それを物憂げに眺めながら、明日からまた大変だなと呟き、初めての実戦一日目を終えた心地のいい充足感を俺は感じていた。
腹はそれほど減ってはいない。常に行なっている回復法の影響で、2,3日に一食でも今は足りるんだ。もしかして師匠は俺を仙人か何かにしたいのだろうか?まあ、経済的ではあるけれど。
回復の法を行使していても、疲労感は消えない。俺は焚き火の横に寝転び、空を見上げる。雲ひとつ無い夕暮れ。きっと今夜は星が綺麗だろうな。そんな慎ましい幸せを感じ、俺は太い枝を焚き火にくべると、考え事を止めて眠る事にした。
初夏の夕暮れは少し肌寒いが、それでも空気だけは美味かった。
――3――
肌寒さを感じ、目を覚ました。まだ陽は登っていないが、随分と空は白んでいて明るい。焚き火はいつの間にか消えており、夜露が服を湿らせていた。空は目だった雲も無く、今日も晴れ渡るだろう。俺は大きなあくびを一つついて立ち上がり、堅い石の地面で寝たために硬くなった背中を伸ばす。
「さむっ……」
誰に言うわけでもなく呟く。そうでもしなけりゃ静か過ぎて困る。まだ鳥も寝ているのか、川のせせらぐ音くらいしかしない。今日は取り合えず森を抜けようと思う。これだけ木がまばらになっているという事は、きっともう直ぐ森を抜けるんだと言う証だろうと思う。いや、多分そうじゃないかな。自信は無いけれど。
俺は昨日の疲れを取るためにかけていた回復の法を解き、改めて肉体強化の法をかけた。肉体強化には何も戦闘のみに特化してる訳では無いのだ。確かに単純に攻撃力と防御力を上げるのだが、そのメカニズムは筋力そのものの強化なのだ。強化された筋肉で平常時以上の運動をすれば、負荷も普段異常となる。そうして不自然に痛めつけられた筋肉は必要以上に悲鳴をあげ、寝る前に法を解いた途端に激痛となって俺を襲う。そして就寝前に回復術を施す事で、翌日になると超回復により、肉体の自力が底上げされる事となるのだ。
俺はこの作業を5年間続けており、そして今後も毎日繰り返していく。それくらいしか俺のポテンシャルを上げることは出来ないのだ。そりゃそうだ。俺は師匠とは違う、か弱き人間なのだから。
肉体強化の法が全身に行き渡り、力が漲る。全身を纏う黄金色の膜を確認し、俺は歩き始めた。川の下流を目指して。
――4――
違和感に気がついたのは、陽がとっくに登ってから1時間ほどの事だった。修行をして鋭くなった俺の感覚が、変な空気の流れを感じ取っている。だからと言って視界に何かある訳でも無い。それでも俺の勘は間違いなく匂いを嗅ぎ取っていた。そう、戦闘の匂いだ。
漏れた殺気がメンテの動きをおかしくしてるのだろう。これは師匠との修行で、樹海に狩りに出るようになって見につけたアンテナのような物だ。そのアンテナが、戦闘独特の殺気があるのを俺に教えてくれるのだ。ポジティブな意味での防衛本能とも言えるだろう。殺気が自分に向けられる前に、先手を打って相手を出し抜く。感覚が鋭敏な野生の獣を狩るには必須の技術と言える。
俺は歩く速度を上げ、数秒でトップスピードへと移行させる。メンテによって強化された俺の脚力は、競走馬に匹敵するだろう。ハヤブサを行使するまでも無く、肉体強化はこれだけの結果をもたらす。その分今夜の反動が怖いのだけれども。
ごろごろとした川特有の丸石が転がる河岸は動き辛い。だから方法を変えた。
「あーーーっ、服を濡らしたく無かったのによっ!」
そう、革のパンツを濡らすと、肌に吸い付くようで気持ち悪いのだ。まったくしまらない理由ではあるが、直火で乾かすことも出来ない革の服だ、仕方ないだろう。この世界に最先端のアパレル(低価格的な意味で)であるユニ○ロは無いのだから。
ばしゃばしゃと高い水飛沫を上げながら、ひたすら川の中を疾走する。ここで俺は肉体強化からハヤブサへとシフトアップする事にした。移動しながらの魔法の行使は中々難儀なものだが、今の俺はなんとかそれを習得している。ここでもやはり分割思考が物を言う。
身体を纏う膜が金色から淡いグリーンへと変わる。肉体強化時は筋肉が絞まったような感覚を覚えるが、ハヤブサを使うと筋肉はどこか弛緩したように感じる。限界以上の高速移動を可能にするハヤブサは、そのあり得ない運動を可能にするため、伸縮を繰り返す筋肉をしなやかに保とうとする作用が起きる。
完全に速度へ特化したハヤブサが全身に漲ると、その瞬間から目に見える景色が形を変える。置き去りにしていく景色は歪んでいくのだ。そして、踏み出した足が水面に沈む前に次の足を踏むのが間に合うようになった。まるで水面を滑るミズスマシのように、俺は川の上を走り抜ける。
進むたびに漂う殺気は噎せ返るように濃厚になっていく。そして、森の切れ間が見えてきて、その先に川と粗末な街道らしき道が並んだ場所が目に映った。そこには武器を片手に持った醜悪な小人達に囲まれている白い子馬が見えた。良く分からないが、多分小鬼と言われてる魔獣だろう。
状況は見えないが、少なくとも守るべきは白い子馬の方だと判断する。距離は約100mだ。俺はハヤブサを強化し、さらに速度を上げて一気に距離を詰める。
後数歩踏めば小鬼の集団へとたどり着く。小鬼は3体だ。その中心で怯える子馬は切り傷で白い身体を赤く染めている。嬲っているのか? 俺は最後の一歩を集団へ向けて思いっきり踏み切った。10mを一足飛びにジャンプする。
俺の気配を感じた小鬼どもは、流石は魔獣だ。すぐにこっちへと身体を向け、1m程度の小さな身長ながら腰蓑のみの筋肉質な裸体を晒し、耳まで裂けた口を開いて牙を剥きだしにした。それと共に錆びた剣を振り上げ、雄叫びをあげる。俺を敵と認識し、威嚇をしているのだろう。
俺は空中で目一杯弓なりになった姿勢のままで、ハヤブサから肉体強化へと魔法を切り替える。飛翔が頂点に達し、そこから弧を描いて下降に移った時には既に、俺の身体は緑色から金色へと変化している。そしてそこから利き足を後ろに引き、一番手前の小鬼へと接触する瞬間に、膝を思いっきり前へと突き出した。
「gugyuahaaaaaaaaaa!!」
砲弾のように俺の膝が小鬼の即頭部に突き刺さり、そして叩き込んだ衝撃が頭蓋の中で行き場を失い、反対側の米神を突き破って破裂した。聞くに堪えない断末魔の悲鳴を上げた小鬼から噴出した脳髄は腐った水の様に澱んでいて、それが後ろ側にいた小鬼の身体を真っ赤に染める。
ハヤブサの速度でジャンプした俺の勢いはそれでも止まらず、着地と同時に抜いたダガーを、勢いそのままに後ろの小鬼の右目へと押し込む。ぐにゅりと言う不快極まりない感触がダガーを握る俺の右手に伝わり、それでもダガーの刃はまだ余裕があった。それが根元まで完全に小鬼の頭部に埋まると、変わり切先はヤツの後頭部から突き出て絶命へと追い込んだ。
勢い余って俺は、残心へと移行しつつ肩で既に死体となってる小鬼に体当たりを決めて勢いを止める。後ろ側に移った俺の荷重を身体を捻りながら踏んだ軸足に移し、小鬼に刺さったダガーを抜く勢いを利用し、利き足での前蹴りを残った小鬼の金的へと叩き込んだ。
つま先にぐにゃりと言う感触が、瞬間、何か堅い物を割ったような感触へと変化する。小鬼の睾丸を潰しきったまま、俺の足刀はヤツの骨盤を砕いた様だ。ヤツの澱んだどす黒い瞳が、ぐるりと白目を剥く。だらしなく涎を溢れさせたまま、口腔内から力なく弛緩した舌が垂れ下がった。どうやら死んだらしいな。
「ふう、どうやら間に合ったのかな?」
俺は血溜りに座り込んで、ぶるぶると震えている子馬を安心させようと呟いた。まあ、言葉は分からないだろうけれど、何もしないよりマシだと思ったんだ。
「く、クゥ…………」
どうやら後ろ足の怪我が酷いらしく、満足に動けないみたいだ。子馬は未だ震えながら、怯えた目を血走らせて後ずさろうとする。どうやら俺を新たな敵であると勘違いしているみたいだった。右側の足をだらりと横に伸ばしていると言う痛々しい姿がしのびなくて、俺は撫でて安心させようと手を伸ばした。
「ほら、俺は敵じゃないぞ。大丈夫だから、大人しくしろ?」
「く、クアァァッ!!」
「うっ、いてえよ馬公……」
逃げられないと悟った子馬は、最後の力を振り絞って差し出した俺の腕を噛んだ。子馬であり、まして弱りきっていると言うのに、中々の力だ。草を食むために平たくなっている子馬の歯は、肉体強化している俺の手の甲に刺さっていた。こいつも魔獣の類なのか? 普通の獣程度じゃ強化した俺の肌を傷つけられる訳がないからな。
「大丈夫だ、大丈夫だよ。俺はお前を襲いはしないから。ただ傷を見せて欲しいんだ。分かるな? 傷を見せてくれ……」
「くゥ……クゥ……」
初めは噛んだまま首を左右に振っていたが、抵抗する力も尽きたのか、力なく顎を緩め、そして地面に完全に蹲ってしまった。俺は体高1.5mほどの子馬の身体を慎重に抱き上げ、そして川岸へと連れて行く。荒い息で諦めの表情の子馬は、恐る恐る俺を上目に見上げていた。
出来るだけ平らな場所を見つけ、そこに子馬をゆっくり下ろす。そして俺の肩から袈裟懸けにしていた麻の道具袋から、獣の胃袋で出来た水筒を取り出し、何度も川の清水を汲んでは子馬の切り傷を洗っていく。錆びた粗末な剣での切り傷だ、雑菌が怖かった。
水をかけるたびに、弱弱しい泣き声をあげるが、それでも子馬は俺が敵じゃないのだと理解したようで大人しい。そして、
「清らかなる癒しの手、進みたる医術の極――」
子馬の一番深い右足の傷に手を当て、回復法の詠唱を唱える。生命力が一気に回復するゲームの中の魔法があればいいのにと詮無き事を思いつつ、早く直れと祈る。
「明日になれば痛いのは無くなるから、今は我慢してくれよ」
蹲った子馬の返事は恐る恐るぺろりと俺の手を舐める、だった。さっきは噛んでごめんなさい、と言う意味なのだろう。穏やかな表情になった子馬を改めて見れば、とても愛らしい。そして俺は今日の移動を諦め、子馬を撫でながらの野宿を決め込んだのだった。
初めての魔獣との実戦――その手ごたえに僅かな手ごたえを感じながら俺は眠った。子馬の命を守れたと言う事柄に、少しばかりの満足を覚えながら。