第一章ー1
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「おいおい、勘弁してくれよっ!」
「ふふっ、背を見せれば死ぬだけよ。さあ、妾に力を見せてたもれ?」
「あ、アンタ、俺を殺す気だろっ? この鬼畜っ!鬼畜長耳女っ!!」
「お前が切り抜ければよいだけであろう? では行くぞ」
俺は目の前の女を睨みつける(悔しいが若干目線は上の方だ)。何故ならそうしなければ確実に死ぬからだ。冬眠前の野生の熊に遭遇した一般人の状況と同じだ。捕食者と被捕食者の関係。俺は勿論、被捕食者だ。つまりエサってこと。か弱き哀れな肉の塊であろう俺は、自分の悲鳴をレクイエムに屠られ死ぬ。そんな未来が目に見える。
ここは深い森と言うには生温い程の樹海の中。樹齢は100年をとうに過ぎたような大木に囲まれた半径20mほどの広場のような場所に俺と目の前の女が対峙している。さしずめここは自然のコロシアムと言う感じか。風でざわめく木々の音は、殺し合いに興奮する観客のようだ。
目の前の女――レイールは冷笑を浮かべて俺を見据えている。あれは完全にサディストのそれだ。俺の故郷で見た映画に出てきたある女優を連想させる美人だ。本当に悔しいが美人だ。あの女は長耳族と言うらしい。別名森の住人と言う。そりゃあこんな樹海に住んでるんだ、まさしく森の住人だろうさ。
俺がイメージしていたエルフと言うイメージとは若干違っている。たしかに長い耳はイメージの中のエルフそのものなんだけれど、彼女の腰まで伸びたストレートの髪は黒い。それはとても素晴らしい光沢で、よく言う天使の輪がきらりと光ってる。そしてすうっと通った鼻筋、グレイの瞳、整った眉。やや褐色の肌にやたらと目立つ真っ赤な薄い唇。正直パリコレのトップモデルも裸足で逃げ出すほどの美貌だ。正直言えば、一回お願いしたいとさえ思うレベルの極上の女さ。
ただし、俺を殺そうとしてなければだ!
本当にどうしてこうなったと叫びたい。だってそうだろう? 俺はただの大学生に過ぎないんだ。それが今、何故か絶世の美女と殺し合いをしている。
そんな彼女は両手を上に向け、酷く余裕のある表情でこっちを見ている。その掌に陽炎の様な何かを構築して。
「考え事とは余裕じゃのう? ほれ、死ぬぞ」
ニヤリと笑った彼女は、俺に向かって手を振った。虫でも払うようにゆっくりと。その瞬間俺の頬に痛みが走り、慌てて指で撫でてみると、俺の手が赤く染まっていた。そして俺の背後で爆発が起こる。破裂とかそんなレベルじゃない。爆発だ。手榴弾を爆発させたらきっとこんな感じだろうと言う勢いで。もっとも俺は手榴弾が爆発する所を見たことは無いのだけれど。つまり直撃してれば、今頃俺はバラバラの惨殺死体となって転がっていたと言う事だ。
「まじか?! 本当に殺す気マンマンだな、おい」
「だから言ったであろう? 背を向ければ殺すとな。お前に残された手段は、妾を倒してその屍を越えるのみよ。分かったらそろそろ気を入れい!」
そういって彼女は微笑を消し、もう片方の手を振った。ダメだこれ、まっすぐ俺を狙ってる。俺はとっさに横に転がり回避する。一応回避くらいは自信があったりする。そしてまた爆発。至近距離での爆発だから耳鳴りがする。
反射的にさっき俺がいた場所を見ると、直径2mくらいの円形に球状の穴が開いている。断面は高熱で融けたガラスみたいになっている。それを見た瞬間、俺の背中が一気に寒くなる。
<――本気でやらないと死ぬな、コレ。いや、本気でやっても勝てる気がしねえ。でもやるしかないんだろうな……>
俺は立ち上がり呼吸を整える。視線だけは彼女に固定したまま、心の中で精神を集中させる。これを”分割思考”と言う。彼女に一番初めに叩き込まれた技術だ。高度な精神統一の果てに可能となる”闘い人”特有の技術。と言うより、この技術をマスターしなければ、戦闘を満足にする事は叶わない。
思考1は敵を警戒する。思考2は精神集中。そして思考3で魔法の詠唱を行なう。どれが欠けても強者との戦闘では勝てないだろう。つまり死ぬ。俺は死に物狂いでこの技術をマスターしたが、師であるレイールは10の思考を駆使できる。この時点で俺に勝ち目があるとは思えないんだが……。
思考1で彼女を警戒しながら視線のプレッシャーを飛ばして牽制する。そして思考2で強い集中を続け、空気中に漂ってるであろうメンテ(自然魔力)を掻き集める。すると徐々に身体中へ力が漲ってくる。ぴりりと静電気を帯びたような不思議な感覚。
そして最後に思考3により魔法を詠唱する。とは言え、魔法に決まった詠唱は無い。便宜上詠唱と呼称しているだけで、実は強いイメージが大事なのだ。それを行なう事で、森羅万象の物理法則を真っ向から無視した奇跡を起こせるんだ。
俺がイメージするのは隼。断崖絶壁の中、複雑な気流を物ともせずに切り裂く速さの象徴。自力では絶対に勝てるわけが無い師に対して俺が唯一勝てるかもしれない戦略。それが高速で動く事で彼女の凄まじい攻撃をかわし、そして隙を突いての急所への一撃。これしか今の俺には考えられなかった。そして俺は最後の仕上げとして声に出して呟く。
「隼の緑……全て切り裂く神速の羽」
深い息を吐き出す。呼吸すら忘れていたかのような息苦しさ。声に出したのはイメージの強化の為だ。そしてその言葉に呼応するように、俺の身体が薄い緑の膜に包まれる。身体に身につけている装備の重さを一切感じない――もっと言えば、自分の体重さえ消え去った感覚。これで準備は完了だ。俺は腰を低く落とし、左手を彼女の視線を遮る様に翳す。そして腰に納まっている相棒のダガーの長いグリップを逆手に握る。刃渡り40センチのそれは、無骨な造りであり、古来の日本の山の民である山窩(さんか)の武器、ウメガイに似ている。
「ほう? やっとやる気になったか妾の愛しい弟子よ。遠慮などせずに殺しにくるがいい。でなければ――――死ぬぞ」
俺の準備が完了したのを見て、彼女はいっそう凄惨な笑みを浮かべた。そしてそれと共に彼女を取り巻くメンテが竜巻のように渦を巻く。それに触れれば即、俺の身体が真っ二つになりそうな禍禍しい気配を感じさせる。
あれほどざわめいていた木々が、今は静かになっていた。彼女のプレッシャーがそう感じさせるだけかもしれないが、辺りは今、まったくの無音だ。俺と彼女の呼吸音しか聞こえない。とは言え、彼女の呼吸はムカつくくらいに穏やかで、俺の呼吸音だけが荒く無様だった。
「誰が死んでたまるかっ! 行くぜ師匠っっ!!」
身体が硬直しそうなほどの恐怖感を無理やり腹の奥に押し込め、俺は第一歩を踏み出す。ドンと言う凄まじい音を発し、その一歩は地面を踏み抜き深い足跡を刻んだ。1秒にも満たない刹那、俺の視界は彼女の端整な顔のアップへと変わる。そのままその唇に舌をねじ込むのが容易な程の至近距離。
一瞬彼女は驚いた表情を見せるが、次の瞬間強大な殺意を膨らませ、凄まじい熱を発する。彼女が一番得意な炎を扱う魔法だろう。だが俺の行動は言わば目くらまし。一発かませるだけの”猫だまし”みたいなもんだ。彼女の高速詠唱と言うより無詠唱に近い魔法が俺を殺そうとする直前、俺は地面をより一層強く両足で踏み込んだ。
足元は枯葉で覆われているが、その下は砂礫交じりの腐葉土だ。ハヤブサで強化された俺のスピードに体重と言う質量を加えて踏み込めば、それはまるで煙幕のような粉塵を彼女にお見舞いする事となる。陽動、とにかく陽動。俺にはそれしかないのだから。
「――――燃え尽くせ煉獄の炎」
彼女の言葉により数メートルの高さの火柱があがる。でもそれは俺も計算済みだ。彼女の凶悪すぎる炎は粉塵を巻き込み、彼女が想定した範囲を超えて爆発する。術者は自らを守る防御壁を同時に行使するから、彼女自身にダメージは一切無い。それでも術者の想定を超えた事象は、心の隙を誘発する――それが俺の狙いなんだ。
「ぬっ、やるではないか! 小童めが」
本来炎の魔法は赤色でしかないが、粉塵爆発を誘発させたせいでそれは激しい光を伴う。彼女は悪態を付きながらも一瞬、顔をしかめた。
<待ってましたお師匠さん!!>
俺は粉塵爆発もどきの隙に、彼女の背後に回っていた。手で顔を覆う彼女の姿がしっかりと見える。狙うは右側の脇腹。肝臓がある位置。彼女が俺に身を持って叩き込んでくれた人間の急所。後はこのダガーを突き入れれば俺の勝ちだ。俺に若干の余裕が生まれる。
逆手に握ったダガーをハヤブサの速度で抜き、顔の右横で構える。すぐさまグリップに左手を添え、俺はそのまま彼女の肝臓目掛けて刺しこんだ。ズブリと肉に埋まる不快感を伴う止めの一撃――――そんな感触は一切感じられなかった……
「惜しいな? はい、残念」
俺の耳元で感じた彼女の少しハスキーな声。その酷く余裕を感じる言葉に腹を立てるよりも先に脱力感が全身を包む。そして俺は全て悟った。彼女だと思ったそれは、ただの魔法で作った人形(でく)だったのだ、と。
だが正解を彼女に聞けはしなかった。何故なら背後から感じたあり得ない程の衝撃に意識が飛んでしまったからだ。
「くそったれ…………」
無様にやられたと言うのに、酷く気持ちの良い感覚。俺意識は泡のように融けて消えた。一言だけ捨て台詞を吐けた自分を褒めてやりたかった。
―1―
俺がこの世界に来たのは約5年前の事だった。当時はハタチだったから、今は25歳となる。ある朝俺がいつもの様に参加している講座に向かう為、マンションを出てすぐにあるバス亭から、大学へと向かう循環バスに乗り込んだ。
俺はカバンからPDAを取り出し、今日の講義の予習をしたりしていた。バスに乗り込んで10分も経っただろうか? バスの前の方で数人の乗客の叫び声がしたと思った次の瞬間、俺は前後不覚に陥った。激しい音と悲鳴。俺の身体はピンボールの球のようにあちこちにぶつかってそして最後は折れ曲がった座席の下敷きになっていた。
状況はよく分からなかったが、要はバスが事故ったらしい。本当についてないななんて現実逃避をしていた俺は、目の前に転がっている主婦らしきオバサンが目に入った。一応反射的に「大丈夫ですか?」なんて声をかけてみたけど返事は無い。そりゃそうだ。彼女は白目を剥いてだらしなく舌を垂らしていたのだから。つまりとっくに死んでると言うこと。
どこか俺は他人事のようにそれを眺めていたが、多分内心は酷く混乱していたのだろう。それでもこのままここに居ても仕方が無い。俺はそう思い、少し俯瞰して辺りを見てみた。阿鼻叫喚の地獄絵図とはこの事だろうな。
バスの前方を見れば、馬鹿でかいフロントガラスがあった位置に大型のダンプカーが突き刺さっていた。そしてダンプカーのフロントガラスも大破しており、運転手はバスとダンプカーに挟まれて見るも無残な姿になっていた。
俺のほかに乗っていた乗客たちは全て動かない肉の塊となっていて、ほとんどが即死したのだと嫌でも分かる。バスの座席は全てどこかへ飛んでいて、残っていたとしてもあり得ない角度に曲がっている。どうやら生存者は俺だけだったようだ。
それでもその時の俺はどこか思考がおかしくて、病院へ行かなきゃ等と考える前に、何故か「ああ、やばい。講座に間に合わないかもしれない」なんて場違いなことを考えていた。
それでもとにかくここから出なければと身体を動かそうとした。でもそれは叶わなかった。何故なら折れたポールの様な鉄の棒が、俺の腹を突き破っていたからだ。不思議と痛みは感じなかったが、得も言われぬ恐怖心だけがそこにある。
俺はどうみても致命傷にしか見えない傷を見ないフリして、縫い付けられたままの身体をどうにか動かそうとしてみた。そこで漸く痛覚が復帰を果たし、俺は女みたいな甲高い悲鳴をあげた。傷を見て自分の状況を完全に把握した俺の精神が、逃避していた意識を元に戻したのだろう。
俺が思ったのは死にたくないと言うその想いだけだった。「助けてよ母さん。いてえよ……」そう呟いた瞬間、俺の鼻に不吉な匂いがした。その発信地と思われる場所に目を向ける。くの字に折れ曲がったバスの床は大きく穴が開いていて、その下にある本来見えないはずのアスファルトの路面が見える。そしてそこには破れた燃料タンクから漏れたであろう軽油が大きな水溜りを作っている。
そしてそのすぐ側には、切れて剥きだしになっている太いコードの様な物。銅線に包まれた中にある、芯の部分の銀色が、バチバチと火花を上げている。
「ああ、終わった……」
俺は最早希望は無くなったと言う思いに、絶望を味わった。それでも明確に俺はこれから死ぬのだと言う事は理解していた。走馬灯? そんなもの見えやしないよ。あるのはただ後悔。あれをしたかった、これをしたかった。一人しかいない親、母さんが悲しむだろうと言う切ない想い。そんなネガティブな思いだけが脳裏を駆け巡り、そして俺は見た。
火花が気化した軽油に引火し、そこから導かれるように次々と引火していくバスの末期を。そして轟音。俺の意識はそこで途切れた。
―2―
「起きろ。さあ起きろ」
あれからどれくらいの時間が経ったかは知らない。俺が気が付いて最初に聞いた言葉はこれだった。女であろうその声の持ち主は、酷く面倒くさそうにそう言ったんだ。おまけに俺の身体を足蹴にしているのだろうと言う規則的な軽い衝撃を伴って。俺は酷い目に遭ったんだから雑に扱うなよ馬鹿野郎と内心悪態をつきながら俺は目を覚ました。
こうして俺はレイールと言う名のフィクションの中にしか存在しないエルフに出会い、そして見たことも聞いたことも無い世界に叩き込まれたという非現実を理解することとなった。
多分俺は異世界と言う所にいるのだろう。その理由も理屈も俺には分からないが。それでもそれが現実なんだと俺が体感してしまった以上、それは抗いようの無い事実なんだ。
このレイールと言う見た目美人なエルフ――いや、エルフと言ったら”長耳族じゃ!”と不機嫌そうに訂正されたから長耳族と呼ぶ事にするが、彼女が薪を集めにフィールドワークをした帰りに、見たことも無いような服装の俺が倒れており、気まぐれに声をかけてみたと言う事らしい。
バスの爆発によって俺は確かに死んだはずだ。もし爆発を免れたとしても、腹に刺さったポールの傷でどっちにしろ俺は死んでいただろう。なのに今の俺はどうみても五体満足。むしろ清清しいくらいの活力に溢れている。どういうことだ?
俺はきょろきょろと辺りを見渡し、そして俺の顔を不思議そうに覗き込んでる長身の美人に声をかけたんだ。
「なんで俺、死んでないの?」
「そんなこと妾が知るか。それよりお前は何者じゃ?見たところここら辺と言うよりも、この国では見たことが無い意匠の服に見えるが」
彼女の返事はまったくその通りであり、俺の事情を知らないのだからね。それくらい俺は困惑していたと言う事なんだろうけれど。
俺は彼女に自分の事情を事細かに話した。それ以外にこの訳の分からない現実に叩き込まれたと言う困惑から開放される手段が無いと思ったからだ。どうやら彼女はここの土地の住人らしいし、360度見渡す限りの木々に囲まれたこの場所では、彼女以外の人に遭遇出来るとは到底思えないからな。
俺がここは異世界じゃないのか? とおぼろげに感じた理由は、彼女の服装がまるでファンタジー映画のコスプレをしているような姿だったからだ。よくTVとかで見かける、アニメファンがしてるようなコスプレは、どこか作り物感と言うか、不自然に見えてしまう。でも目の前の彼女が身に纏っている物は、胸元がざっくりと開いたような白いチュニックの様なラフな上着に、何かの獣の革をなめしたぴっちりとその美しい足のラインの出る白いパンツだ。大きく開いた胸元には、宝石の様な物がいくつもぶら下がった呪術的なチョーカーがいくつか。
彼女はそれらをとても自然に着こなしており、平安貴族も真っ青な程の美しい黒髪から覗く尖った長い耳が、全くの違和感を感じさせること無く納まっている。
臨死体験と言う衝撃を味わった俺の感覚が麻痺していたのかもしれないにせよ、それを俺は素直に受け入れ、それによりここがもしかしたら異世界では無いだろうか? と言う予感に変わったんだ。そしてそれは彼女との情報交換を繰り返す度に確信へと変わっていった。
人はリアルな死を体験すると、よほどの事じゃ動じなくなると言う。葉隠で有名な鍋島藩の武士の心得――武士道とは死ぬことと見つけたりと言うフレーズはそういう意味なんだろう。彼らは毎朝、床で目覚めるたびに自分を殺すと言う。それは言葉通りの意味ではなく、心の中で現実感を伴った死を体感すると言う事らしい。そうやって鍋島藩士は死をも見切った胆力を備えると言う事だ。
俺は本当の意味での死を知った。そのおかげなのかは知らないが、俺は彼女の語る現実を全くの抵抗もなく受け入れてしまったのだった。
この国の名前、フォルトナ。そして今俺がいる場所、憚りの森。そして一族を離れて、この樹海で隠遁生活をする”長耳族”のレイール。この世界では魔法と言う自然の力を借りる技術があり、人間族、長耳族、獣族など様々な種族が共存しており、唯一人間族だけが戦乱の歴史を繰り返している。そしてそれ以外の種族から蛮族として見下されている事。人間は短命であり、それ以外の種族は皆長命だと言う。
聞けば聞くほどにファンタジー映画そのままだった。どこかで小さな人が禍禍しい指輪を火山に投げ込む為に度をしていてもおかしくない程のファンタジー。
レイールは俺にそんな事を説明しながらも、返す刀で俺の事を聞きたがった。まるで尋問をしてる捜査官のように。彼女はどうやら隠遁しながら何かしらの研究をしているらしく、俺と言う未知なる存在に好奇心を刺激されたようだ。
美しい容姿とは裏腹に、鼻息荒くせまってくる(性的な意味ではなく知識欲的な意味で)彼女の勢いに若干ドン引きしながらも、今後の為には恩を売るべきと覚悟をし、洗い浚い話した。そしてその結果、俺がこの世界で生きていける程度の技術指南を提供して貰える運びになったのだ。
それから5年、俺は彼女を師匠と呼び、鍛錬と言う名の虐待を耐え抜いたのだ。美人と同居しててアッチの欲望は我慢できたか? そんなもん最初だけだよ。ある晩どうにも堪え切れず、俺は彼女に夜這いをかけた。仕方ないさ、俺は男真っ盛りなのだから。
身の程知らずにもベッドに飛び込み、俺は薄い白の麻で出来たワンピースだけのレイールに抱きついた。当然下着は無いから、月明かりの青白い光りに浮かび上がったのは、寝たままの姿勢でも形を保った彼女の瑞々しい女の膨らみと、髪色と同じく黒であるが、足の付け根に申し訳程度にしか生えてない若草だった。
俺は猛り狂った分身を彼女に擦り付ける様にして、浅ましく彼女に抱きつく。そこで彼女はぱちりと目を開けた。俺は心臓を掴まれたかのように固まり、そして殺されると感じた。その時点での彼女との鍛錬は、毎日死ぬ思いをするほどの苛烈さだったからだ。
でも彼女は悪戯っぽくニヤリと笑うとこう言ったんだ。
「おお、妾に欲情してくれるか。久しくまぐわってはおらなんだが、これは妾も答えねばなるまい。さあ来やれ。1000ほど若き者よ」
完全に俺をいたぶってやろうと言う魂胆に満ち溢れた猫のような目。そしてさり気無い爆弾発言。長耳族は皆長命と聞いていたが、まさか彼女が1000歳を越えていたとは! そして俺の愚息は一瞬で萎えすぼみ、彼女の高笑いを背に自分の寝床へと逃げ帰ったのだった。大人になってから初めて俺は泣いた。あまりの情けなさに。この事件でより彼女との立場ははっきりと明確化されてしまった。
完全無欠の女王様と、哀れな腰抜けの下僕野郎と言う順位付けだ。ああ、死にたい。
そんなこんなで俺は屈辱と恥辱と己の弱さを耐え抜き、今日この場に立たされているんだ。彼女が言う「この試練を持って、お前を一人前と認める」と言う言葉によって。
そしてどんな試練か? と思案しながら俺が彼女の後についていった先に待っていたのが、「妾を殺せたら一人前じゃな」と言う、俺にとっては死刑宣告であった。だいたいさ、鍛錬の最中に一度だって彼女の膝を地に付けることすら出来なかったんだぜ? 無理に決まってるだろう、そんなこと。まして彼女はどうだか知らないが、レイールとの5年の生活は、俺にとって彼女は師匠を越えて母親の様であると言う感情にまで育っている。そんな母親を殺せと?
どこの聖帝様のトラウマな卒業試験だよ! と叫びたいよ本当に。それでも彼女の目は真剣で、その視線は今までの成果を見せねば本当に殺すと言っている。だから俺はその思いには報いなければならない。今まで受けた、言い尽くせない感謝を表すために。届かないまでも、度肝を抜いてやる。俺はそう決意し、精神を集中させたのだった。
―3―
目が覚めたらもう夜だった。彼女の手作りだと言う石と丸太で出来たあばら屋の見慣れた天井。元々一人で住むためだけに造られたこの家は20畳くらいの大きな部屋しかない。言い慣れた呼び名だと、20畳ワンルーム、ガス、水道、電気なしってとこか。トイレは森の中だ、その辺で済ませば良い。風呂は石を積み上げたそれらしい小部屋で水の魔法を使って済ます。熟練の賢者である師匠だから出来る芸当だ。普通の術者は汗を流すたびに魔法を使い、それ以上にくたびれてしまうから出来ないのだ。
俺にとっては5年も暮らした我が家。その家独特の匂いすら身体が覚えてしまっている。俺はただじっと天井を眺め、そして先ほどの戦闘を思い起こしていた。
気が付いたら涙が零れていた。そう、俺は悔しかったのだ。敵いはしないだろうとは思っていた。それでも指先くらいは届くかもしれない――そう思っていたんだ。彼女は、レイールは本当に強い。1000年生きていると言うのも納得できるほどに。俺は彼女と5年の間寝食を共にして、彼女のどんな小さな行動も目を凝らさずに見てきた。
レイールに拾われ、彼女を師匠と呼ぶようになって1年程経ち、基礎は出来たとのお墨付きを貰ってから俺は森へ狩りに出るようになった。少しばかりの自信も付き、きっと俺は慢心していたんだと思う。どうせ危険なのはイノシシ程度だろう等と舐めていた。
彼女に渡されたダガー1本だけを持ち、今まで鍛錬した技術だけを使って森へ赴く。師匠が出した課題は一つだけ。「この家から北へ半日行った場所にある湖、そこで鳥を1匹だけ狩って来るのじゃ。期限は今から3回目の日没。さあ行け」と言うなんともシンプルな物だった。それが俺の慢心に拍車をかけたのだろう。
肉体を強化する術を覚え、師匠との約束組み手で短剣での殺し方をみっちり学んだ。俺はなんでも出来ると勘違いをしてた。
そして実際に森へと入って数時間で、俺は未だに地球にいた時のアウトドアに出かけた程度の認識でいたと思い知らされた。小動物の筆頭たるウサギは、中型犬くらいの大きさがあり、額に生えてる凶悪な角で突進してくる。しかも数匹の集団でだ。
カンガルーみたいなやつは見てくれはカンガルーそのものだったが、前肢の爪はまるでシザーハンズ。そして凄まじい脚力で一足飛びにこちらを殺しにくる。後になって師匠に聞いたら、この世界には魔物と言う存在がいて、王国じゃレンジャーギルドが懸賞金をかけて討伐していると言う。だがこの森のやつらは魔物ではなく、ただの野生動物だと言うのだ。
結局、半日の道のりはすっかり日が暮れる程にまで遅れ、ほうほうの体でついた先で待ち構えてたのは、鳥と言うにはおこがましい、ダチョウをさらに大きくしたような真っ赤な身体の、どうみても危険極まりないヤツだったのだ。
俺は結局、3日目の朝までかかってやっとそいつを仕留め、血が止まらないままのボロボロの身体で、師匠の家までそれを引きずって帰ったんだ。入り口で何故か俺を待ち構えてた彼女が言った一言は本当に堪えた。
「ほれみろ」
そうして俺は鍛えると言う事の理由を、本当の意味で理解したんだ。つまり、いつまでもお客様気分でいたら、本当に命に関ると言う意味だ。その後俺は真剣に師匠の頭の先から足の爪先まで、どんな動作も見逃さないぞと言う思いで鍛錬に向かった。
彼女の鍛錬は甘いものじゃなく、とにかく口での説明は一度きり。そして自主鍛錬を促し、その日の終わりに実戦紛いの約束組み手をする。本来約束組み手とは、空手や柔道などで用いられる方法で、試合形式ではあるけれど、相手に怪我等をさせないと言う約束事を守ってするものだ。でも、彼女の約束組み手は、「殺さない」と言う約束事の上に行なわれる。
つまり死にはしないけれど、下手すると死ぬ寸前まで追い込まれると言う事だ。師匠曰く、「回復法があるのじゃ、大事ない」だとさ。ただね? 魔法なんて実はそれほど万能じゃないんだ。回復法といえば聞こえがいいが、それは精精、自己治癒能力を強制的に促進させると言う程度の物でしかない。それでも傷ついた筋肉が回復するとき、人間は超回復と言う作用を起こす。それは破壊された筋繊維を身体が元の状態以上に回復させると言う作用だ。前回までの衝撃を完全に耐えようとする人間の無意識なる防衛本能ってやつだ。
それが回復法によって超速度で行なわれたらどうなるか? 答えは簡単。のたうち回る程の痛みが発生するんだ。
師匠は言う。魔法の行使を一番効率的に行なうにはどうすればいいか? それは強靭な肉体を持つことだ――――それは回復法の様な初歩の魔法にも言える事だが、術者の肉体的ポテンシャルが上がるほどに効果が増すのだ。要は術者の肉体をメンテを集める貯蔵庫であるとすれば、肉体を鍛え上げる程にその要領が増すと言うのだ。それ故、肉体的に長耳族に劣る人間は上限が低くなると言う。
そういうわけで俺は心を入れ替え、文字通り血反吐を吐く様な鍛錬を5年、ついに遣りきったんだ。だからこそ、本当に悔しい。引っかき傷ひとつ付けられもせずにこうして俺は動けないほどに消耗している。
この世界に来て5年、こんなに涙を流した記憶は無い。どんな酷い内容の鍛錬を受けても泣かなかったのに。でもこの涙を止める事が俺には出来なかった。温い日本の現代っ子の甘やかされたクソガキ。そんな俺が、色んな物をかなぐり捨てて打ち込んだ5年の修行。それが一気に無に帰ったような虚しさが俺を包んでいる。
「悔しいかの?」
「悔しいよコンチクショウ……」
気が付くと暗いままの部屋で、師匠がベッドサイドに座っていた。
「無様に嬲るつもりなのか? 俺は生きてるぞクソッ」
「ふふっ、相変わらず負けん気だけは一人前じゃの? ま、それがお前の良い所ではあるがの」
「うるさいうるさい!」
「まるで駄々っ子のようじゃ。だからこそほんにお前は愛らしい。妾の愛しいユウキよ、今日を持って一人前であると妾が認めようぞ」
俺は抑揚の無い彼女の言葉を受け、弾かれたように身を起こした。物凄く身体中が痛かったが、そんなのは関係なかった。
「は、はじめて名前を呼びやがった……」
「んむ。お前が一人前になったら呼んでやろうと思ってたんじゃ。何年生きようと関係など無い。これから妾とユウキは対等じゃ。ただの男と女じゃぞ?」
「でも、俺は負けたんだぞ……」
「阿呆が。1000年以上も生きた妾がお前如きに負けてたまるかよ。じゃが、あそこまで言わねば真の意味での本気にはなれぬのじゃ。特にお前のような小童なら尚更な。故に一芝居打ったと言う事じゃな。お前がこれから生きていく世界とは、その気概が無ければならぬ世界じゃ」
「そう、だよな……うん、ありがと師匠。ありが……」
もうだめだった。まともに師匠の顔を見れやしない。勝手に漏れる嗚咽で会話が出来なくなってしまった。改めて彼女への感謝の念が溢れてくる。本当なら野垂れ死んでいた筈の俺を拾って一人前にしてくれた師匠への感謝。死ぬ間際には見れなかった走馬灯が目をよぎる。苦しかった彼女との修行の日々が。
ガキみたいに泣く俺を、まるで母親が息子にするように優しく俺の頭を撫でまわす彼女の柔らかな手に縋りながら、とうとう俺は心のそこからこの世界に馴染んだのだと実感していた。
俺の名前はユウキ。家名の無いただのユウキ。そして偉大な長耳族の賢者、レイールの弟子だ。そう心で叫びながら、俺を待っているであろう激動の未来へと思いを馳せるのだった。
「時にユウキよ。妾たちは晴れて対等な男女になったんじゃ。今なら抱かれてやるぞえ? ん?」
「台無しだよバカヤロウ……」
