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なわ・ふみひとの読書遍歴

1月  2月  3月   4月   5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月
01 古神道のヨミガエリ 02 縄文宇宙文明の謎
03 世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰 04 人類を救う霊性と食の秘密
05 ユダヤと戦って世界が見えた 06 ユダヤ世界帝国の日本侵略戦略
07 ユダヤは日本に何をしたか 08 神示が明かす超古代文明の秘密
09 竹内文書 10 日本人の品格
11 WHAT IS KARMA? 12 「CO・25%削減」で年収は半減する
13 日本史から見た日本人・昭和編 14 日本への遺書
15 「戦後」混迷の時代に 16〜31 はこちらをどうぞ → 7月A
15
「戦後」混迷の時代に
日本の歴史F 戦後編
渡部昇一・著  WAC  2010年刊
今も続く遠大なる陰謀
  コミンテルンの特徴は遠大なる計画を持っていたことにある。有史以来、各国に王朝があったが、その王朝を潰し、世界から政府をなくし、国家をなくすという壮大な計画を持った組織はそれまでなかった。
  あまりにも壮大な計画だから、普通の国では、どうして今、自分の国でこのようなことが起こっているのかがわからない。すべてが壮大な長期計画の下の陰謀なのである。
  中国共産党の毛沢東が大躍進政策に失敗して何千万人もの農民が餓死したような時でさえ、宇宙開発、原子力爆弾の開発、海洋進出という、アメリカが得意とするものすべてに追いつけという命令だけは出している。
  田中角栄内閣の頃の中国の一番の敵はソ連だった。だから中国は、日本と手を結びたかった。日本がアメリカと日米安保条約を結んでいるのも非難はせず、田中角栄首相を招いてアジアにおけるソ連の覇権は認めないという条約を結ばせようとした。日本はそれに乗らなかったが、つまりは、毛沢東はソ連が怖かったのである。
  その後、ソ連が解体すると、次の敵は日本だということで江沢民がまた遠大なる計画を立てる。日本は日本の歴史を否定した占領政策に乗っているから、そこを突いていこうというわけで、歴史問題を中心として日本を貶(おとし)める作戦を練った。
  そして次に、世界的に日本を孤立させるという計画を立て、アメリカと日本が戦争をした時、中国はアメリカと一緒に戦ったと言い出した。太平洋での戦いの後、朝鮮戦争でもベトナム戦争でも中国共産党軍はアメリカの敵になっているのだが、ソ連解体後はそんなことは忘れたかのように、中国は大東亜戦争を持ち出してくる。日本は蒋介石と戦っているわけだから、中国共産党軍などはあまり関係なかったにもかかわらずである。
  アメリカ下院で決議案が可決された「従軍慰安婦」問題や南京に関する映画製作の後ろで暗躍している世界抗日戦争史実擁護連合会(以下、抗日連合会と略す)という組織は、ソ連解体の2年後ぐらいにできたものという。日本を攻撃するにはアメリカ経由が効果的だということで、アイリス・チャン(2003年に拳銃自殺)に金を渡して『ザ・レイプ・オブ・南京』を書かせ、映画にまでした。彼女も抗日連合会のメンバーだったし、そのインチキ本をベストセラーにしたのも抗日連合会の力だった。

50年の反日教育の証拠
  日本がポツダム宣言を受諾して占領軍がやってきた時、イギリスのある新聞が、「日本は今、すべてが混乱の状況にある。ただ一つ、安定しているのは天皇である」という主旨のことを書いた。
  天皇陛下は戦後、日本中をまわられた。これはすごいことだ。どこの国でも、敗戦国の皇帝は命が危ないので、殺されるか逃げ出すかどちらかである。しかし天皇陛下はSPもつけず、農村にも工場にも炭鉱にも、どこにでもいらっしゃった。
  今のようにどこにもホテルがある時代ではないから、県庁の会議室だとか汽車の中などに泊まられて日本中を巡幸された。
  私はそれを実際に体験している。昭和22年(1947)だったか、夏休みに川に泳ぎに行ったら、向こう岸の土手の上に見たこともない自動車が3〜4台現れた。最初は不思議に思ったが、「今日は天皇陛下がいらっしゃる」と新聞に書いてあったことを思い出した。
  そこで土手をのろのろ走る車に追いつこうと、我々少年たちは、さすがにランニング・シャツを被ったものの、下はふんどし姿で下流の橋まで走っていった。橋のたもとで車をお待ちし、天皇陛下に触ることもできたのだが、畏れ多いので、私は陛下の車に触った。
  そんなことをしても、天皇陛下ご一行からは何のおとがめもなかった。終戦直後はこのような状況だったのだ。
  空爆され、原爆を落とされ、また戦地でもあれだけの人が亡くなったにもかかわらず、天皇陛下に対して恨みを持った人は誰一人としていなかったことがわかる。
  当時の人は、偉い人たちが打つ手を間違ったかもしれないが、天皇陛下が戦争をなさりたかったわけではないということを皆、わかっていたのである。
  しかし、天皇陛下が亡くなられた時の大喪の礼に、どれだけの警備が必要だったか。何万人もの警官が並んで警備したにもかかわらず、途中で揉め事が起こったりした。
  戦後、左翼が50年間にわたる教育で、天皇陛下が悪かったと子供たちに刷り込んだため、亡くなられた時は重警備なしではお葬式を執り行えない事態になってしまった。
  これは恐ろしいことである。半世紀にわたって、いかに左翼が反日教育を徹底したかがわかる。
  敗戦を受けて、天皇陛下は退位すべきだったという議論がある。しかし私は、退位されなかったことがよかったと思う。
  よく事情を知らない外国人に、大東亜戦争は日本の侵略戦争だ、日本が悪かったと言われた時に、でも天皇陛下は裁かれていないと言えるからだ。会話の時に、いろいろ説明もできないので簡単に一口で言えることがあると便利である。ドイツで「ナチスは裁かれなかった」と言えないであろう。天皇は日本の元首であったのに裁かれなかったと言えることは、実に尊いことだったのである。
  私が西ドイツにいた頃、ドイツ人に「日本には天皇という人がいたがどうなったか」と聞かれた。ドイツ人にしてみれば、どこかに逃げたか殺されたと思っているわけだ。そこで私が「まだ戦争の時の方と同じ方が天皇ですよ」と言ったら、驚愕していた。
  天皇陛下がマッカーサーにお会いになる時、マッカーサーは命乞いに来たのではないかと思ったがそうではなかった、というのは有名な話だ。

ひとくちコメント ―― コミンテルンを裏で操っていたのは今日の世界支配層(国際ユダヤ)と見られます。コミンテルンが創設されたのは大正8年(1919)で、大正11年(1922)には「コミンテルン日本支部」として日本共産党が発足しています。その日本共産党が、発足したばかりの時に打ち出した「22年テーゼ」の中に「天皇制の廃止」ということが謳われていたのです。以後、日本の皇室がコミンテルン(を裏で操る組織)の標的となり、その後の太平洋戦争を経て、昭和天皇の「人間宣言」となり、今日では皇室を軽んずるマスコミの風潮が作り出されているのです。世界が絶賛してきた日本の皇室もいまや風前の灯火となっています。今後も皇室はさらに貶(おとし)められることになるでしょう。「世界中から王朝をなくし、政府をなくし、国家をなくす」という世界支配層の息の長い戦略が、いよいよ総仕上げの段階に近づいているのがわかります。今後も日本の皇室の行方には要注目です。(なわ・ふみひと)
14
日本への遺書
生き残り特攻隊員が綴る慟哭の書
田形竹尾・著  日新報道  2002年刊
真実は戦争の勝敗と関係ない
   部隊長出征訓示(要旨)
 大命ニヨリ、我ガ連隊ハ、戦闘二中隊天津、偵察二中隊上海二出動スル。
 一、日本軍ガ戦ウハ、「蒋介石」ノ中国軍卜、「毛沢東」ノ共産軍デアル。中国民衆トハ、友好
    親善ヲ深メル努カヲ忘レテハナラナイ。
 二、日本軍ハ、戦闘ガドノヨウニ困難ナ状況ニナッテモ、「人道」「国際法」ノ精神二基キ、中国
    国民、生命財産ヲ守ラネバナラナイ。
 三、日本軍ハ、敵ノ軍隊、軍事施設以外ヲ、攻撃シテハナラナイ。
 四、日本軍ハ、軍紀風紀ヲ厳格ニシテ、中国国民ノ生命財産ヲ守り、婦女子ヲ犯シテハナラ
    ナイ。
 五、軍紀風紀ヲ厳格ニシテ、皇軍トシテノ日本軍の名誉ヲ守リ、軍紀風紀ヲ犯シタ者ハ、階
    級ノ如何ヲ問ワズ、軍法会議ニオイテ処罰スル。
                          昭和一二年七月八日
                              飛行第四連隊長 陸軍大佐 佐々木誠

  私が所属した「陸軍航空部隊」は、「支那事変」「大東亜戦争」ともに、この部隊長訓示の精神が守られて、「軍紀風紀」厳正で、原住民の信頼と協力の下に、作戦が展開された。「蒋介石軍」「毛沢東軍」「日本軍」と、困難な戦いにおいても、多くの中国人の協力の下に、作戦が進められた。
  ことに、「大東亜戦争」においては、「植民地解放の戦いである」と、東南アジア各地において、原住民の熱狂的な協力の下に、作戦が展開された。
  「支那事変」「大東亜戦争」において、米軍の日本本土爆撃の「無差別攻撃命令」と同じ非人道的な攻撃命令を受けたことは1回もない。
  私は、戦いに敗れても堂々と戦った日本の軍人の一人として、「誇りと喜び」と同時に、協力してくれたアジアの住民に対する感謝は、今も失っていない。
  私は、北支派遣3カ月めの昭和12年10月、北京市の「紫禁城」「萬寺山」などを見学した。
  「日支事変」の発端となった「盧溝橋」と、日本居留民が「凌辱殺戮」された「通州事件」があった通州は、北京の近くにあった。
  中国の蒋介石も日本と支那の紛争を望まず、「平和的な解決」に努力していた。
  この時、不幸な「盧溝橋事件」が起きた。
  それは、中国共産党員が国府に潜入、「日支を戦わせるための謀略」であったといわれている。
  戦後は「東京裁判」において、「先に発砲したのは日本軍である」と宣告され、これが中国の定説となり、日本軍の責任とされている。
  「真実は、戦争の勝敗と関係ない」ということを、私たちは忘れてはならないと思う。
  私は、昭和12年7月から12月まで、北京の南苑飛行場を基地として、「保定」「石家荘」 「大原」へと前進して、「北支派遣航空部隊」一の雛鷲であったが、学びつつ戦い、戦いつつ学び、壮烈な「北支航空作戦」に参加した。
  10月20日、西川大尉指揮、秀島軍曹と私の3機で、大原飛行場を爆撃する軽爆6機を掩護して、石家荘から大原まで、200キロ飛ぶことになった。9機編隊で、大原飛行場に侵入した。30門の高射砲の弾幕に包まれた。軽爆は、敵機と格納庫と大原駅を爆撃した。私たちは、軽爆を掩護しながら、上昇中のソ連製イ15戦闘機3機を攻撃すべく接敵した。私は、全身の力が抜けて、下腹に力が入らない。深呼吸を3回した。少し落ち着いてきた。これが、「武者震い」であった。敵機に一連射浴びせて落ち着いた。さすがに、西川大尉、秀島軍曹は今一歩のところまで敵機を追いつめたが、敵機は急反転急降下で退避した。敵飛行場上空での空中戦で、燃料が足りない。残念ながら、戦闘を中止して帰還飛行の途についた。
  初めて、高射砲の弾幕に包まれた。
  初めて、敵機に銃弾を発射した。
  これが、21歳の、田形竹尾の初空中戦であった。
  私は、昭和12年12月31日、下士官兵5名を指揮し、先発として、北支の北京から大連─門司、門司─上海─南京と、列車と船の旅で移動した。「南京陥落」1カ月の昭和13年1月23日朝、南京駅に到着した。
  迎えてくれた部隊の軍用トラックで市内を通り、「光華門」を通って、城外二キロの「大校場飛行場」に到着した。陥落1カ月の南京市内は、治安も維持され、市民も平和な生活をしていた。
  到着して中隊長に報告している時、蒋介石空軍の「ソ連製エスベー爆撃機」11機の攻撃を受けた。飛行場には、陸軍の戦闘機24機、「渡洋爆撃」で世界に有名となった「中攻双発爆撃機」40機が待機していた。海軍の中攻2機が炎上し、数機が被弾した。
  哨戒飛行中の、海軍の九六戦3機、九五戦3機が、エスベー爆撃機2機を撃墜した。その操縦者は、2機とも、ソ連の義勇兵であった。
  私は、6月まで、南京大校場飛行場を基地として、「南京防空」「除州作戦」「中支航空撃滅戦」に参加した。操縦新参の私も、出撃100回を越え、飛行時間も700時間を記録、空中戦も、前年の大原の初空戦から数回、体験した。実戦による訓練で、雛鷲から中堅操縦者へと、「心技体」が成長していった。
  同13年3月1日、私と藤永、柳田(戦死故准尉)の3名が、「航空兵曹長」に任官した。それは、中山陵の梅の花が満開となった、22歳の春であった。
  作戦の合間に、南京市内に何回も外出した。紫禁山の孫文の墓「中山陵」にも詣った。中山陵の桜見物にも行った。一人で外出しても、治安も良く、何の危険もなく、南京市民の温かい友情は今でも忘れていない。
  「東京裁判」で裁かれた、問題の「南京市民30万人人虐殺」と断罪された南京陥落当時の南京市民は、20万人であった。その南京で「市民30万人大虐殺」とは全く不思議な問題であると、「東京裁判」を私は見守っていた一人である。「東京裁判」で断罪されたような「残酷」な事件があれば、南京市民があのように私たちに協力し、温かく接してくれなかったろう。治安も保たれて、一人で外出しても何の危険も感じなかった。
  陥落と同時に、日本の新聞関係の従軍記者、従軍カメラマン、さらに、外国の新聞関係者など、100名以上が南京に入城して、自由に取材した。
  大宅壮一、西条八十、林芙美子、石川達三らの、多くの評論家、作家、詩人も南京に入城して、自由な取材活動を行なった。このような人達が、当時も今日も、「大虐殺」に関しては何も発言していない。

ひとくちコメント ―― 著者は陸軍飛行学校を卒業後、シナ事変、大東亜戦争航空作戦に参加。終戦前日に特攻の命令を受ける、という経歴の持ち主です。アメリカ(を支配する層)が東京裁判の中ででっち上げ、それをその後中国が日本からカネを引き出す道具として有効に活用している「南京大虐殺」が全くのウソであることを、自らの体験から証明しています。
  その著者も今年すでに95歳の高齢です。著者が述べているように「真実は戦争の勝敗とは関係ない」のですが、戦争に負けた日本の国民は、アメリカの戦略によってウソの歴史を教え込まれてしまっているのです。今後、このように“真実”を語れる人がますます少なくなっていくなかで、ウソがそのまま歴史の1ページに定着していくことになります。それとともに日本人は自分の国に対する誇りを失い、ますます自虐的になっていくことでしょう。
  私たちにできることは、“真実”を知る努力をし、それをできるだけ多くの人にに語り継いでいくことです。(なわ・ふみひと)

13
日本史から見た日本人・昭和編
「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎
渡部昇一・著  祥伝社黄金文庫  2000年刊
憲法改正まで提案した排日運動
  国際連盟が成立した1920年以後、アメリカの日本人移民問題は急速に険悪の度を増したのである。
  まず、それはカリフォルニア州において、日本人の帰化権剥奪の訴訟を起こされたことから始まった。そして大正11年(1922)に米国の最高裁判所は、黄色人種(この場合に問題になっているのは日本人)は帰化不能外国人であって、帰化権はないとされてしまったのである。驚いたことには、この判決はその適用を過去に遡らせるという非近代的なものであった。
  つまり、それまで帰化権を得て米国人になっていた人も、日系ということでその権利を剥奪された。特にひどい例は、第一次世界大戦にアメリカ軍の兵士として兵役に服し、復員後、帰化権を得てアメリカ市民になった500人以上の日本人も、その帰化権を剥奪された。
  さらにジョンソン下院議員(ワシントン州・共和党)は日本人移民を一人も入れないという法案を提出したし、ジョンズ上院議員(ワシントン州・共和党)は、憲法修正案を提出した。
  (中略)
  すでに確立した憲法まで修正して、日本人移民から生まれた子どもは、アメリカで生まれてもアメリカの市民でないようにしようというのだから、すさまじい反日感情である。
  このようなさまざまな経緯があって、ついに大正13年(1924)に、いわゆる排日移民法が、日本の強い反対を無視して成立した。

反日感情の源は「恐怖」と「貪欲」
  では何がアメリカ人をして、そんなに日本移民を憎ませたのであろうか。それは第一に恐怖心であり、第二に貪欲である。
  恐怖とは、近代化した有色人の存在はアメリカの白人優位体制を根本から危うくするものであるという予感から生じたものであろう。だから、交渉中の埴原大使が、「帰化不能外国人条項」はおたがいに友好的、互恵的な両国の関係に「重大な結果(grave consequences)」を及ぼすおそれがある、という趣旨の手紙を書いた時、この「重大な結果」という表現は恋に政治化させられてしまった。すなわち、この表現は今日の外交用語では戦争を意味するとこじつけられ、さらにこれは「ベールをかぶせた脅迫状」だと騒がれてしまった。
  これはこじつけである。しかし新聞が騒ぎ出すと、議会に共鳴振動を引き起こして、「これは脅迫だ」ということになった。これは当時のアメリカ議員はそれぞれ日本に対し、心の深い所で脅威を感じていたからにほかならない。
  また、貪欲が排日運動の大きな動機だったことは、ウイリアム・ピーターソンのような研究者が認めるようになってきた。「排日が実益を兼ねる」という事態は、太平洋戦争が勃発するとすぐに作られた「強制収容所」で頂点に達することになる。
  ナチスの強制収容所はconsetration camp と言うが、日系アメリカ人の強制収容所は「再配置キャンプ relocation camp 」である。何のことはない、日系移民が営々と作り上げてきた豊かな農地を、根こそぎ没収する手段にほかならなかった。
  日露戦争前後から35年も続いた排日の歴史は、強制収容所が完結するまでの道程だったといえるであろう。

親米・尊米から反米・憎米への大転換
  さすがに大正13年(1924)5月26日、クーリッジ大統領が新移民法、いわゆる絶対的排日移民法に署名したということが伝わると、日本でも反米感情が急速に高まってきた。
  ここで注目すべきことは、日本で反米感情が出てくるのは、アメリカの排日運動より20年近くも遅れていることである。元来、日本人は、本当に親米であり尊米であったのだ。それでアメリカの要望することはなんでも受け容れて、いわゆる紳士協定の後は、実質上は移民を止めていたのである。アメリカは紳士協定を一方的に破り、今の南アフリカ共和国のアパルトヘイトよりもはるかにひどい差別となった。
  アメリカ好きの日本人は、これほどまでにアメリカ人に憎まれていたのかと愕然としたし、憎まれる正当な理由はないと確信していたのである。日本人の間に国民的な怒りが生じたことも理解できる。
  東京のアメリカ大使館の前で割腹自殺して講義する青年も現れたし、新聞界も東京朝日新聞以下、主要な大新聞はこぞって声明文を出した。
  元来は親米・知米的であった学者、思想家、実業家の間にも、反米・憎米の感情が現れた。
  徳富蘇峰は「排日移民法実施の日を国辱の日とせよ」と書いたが、これに対して、キリスト教界の代表的人物であった内村鑑三が熱烈同感している。内村は日露戦争の時も非戦論を説いた人である。その内村がこれだけ腹を立てたのだ。世論だけに関して言えば、日露戦争直前の反露感情よりも強く反米になった。

渋沢栄一に見る対米感情の振幅
  その頃、私は渋沢栄一(明治・大正期を代表する実業家)に興味を持っていた。それは、たまたま同翁の『実験論語』という大きな本を、夏休みに帰省した時、田舎の古本屋で見つけて読んだら、無闇に面白かったからである。論語と銘打ってはあるが、維新前後の懐旧談が主になっている妙な本だった。これが機縁で渋沢のものは、ずいぶん読んだ。
  その中に、排日移民法が成立した大正13年(1924)に、渋沢が帝国ホテルで催された汎太平洋倶楽部の例会で行なった講演があった。渋沢栄一は温厚円満な長者として知られ、文字どおり財界の大御所であった。
  この人が次のように言っているのを発見した時、私は再び、戦前の日本の置かれた状況が記憶の中で蘇ってくるのを感ぜざるをえなかった。

 
私は嘉永6年生まれで、もう70歳。数年前に実業界から引退して日向ボッコしておればよい身分なのだが、日本国民としての資格は辞退できないので、ここに一老人の感懐を述べさしていただきたい。日本がアメリカと国交を持つようになったのは私が12歳の時でありますが、拡は最初攘夷論者で、その運動に身を投じたのである。というのは、アヘン戦争のことを知り、アメリカも同じことをやるのではないかという懸念があったからであった。
  ところが私が渡米してからずっとアメリカを見ていますと、アメリカは正義に拠り人道を重んずる国であるということを知り、かつてアメリカに対して攘夷論を抱いたことについてはことに慚愧の念を深くした。そして自分の祖国を別としては第一に親しむべき国と思っておりました。特に条約の改正、または治外法権の撤廃その他についてアメリカは親切に処置してくれました。その後も、貿易は輸出・輸入ともにすこぶる順調であり、経済上、政治上、だんだん親密の度が進むのを見て、若い頃に対米攘夷論を抱いていたことを一層深く恥じたのであります。
  また日本からの移民も、カリフォルニアその他太平洋の各州において、アメリカの人々にも喜ばれ、広い荒野を開墾したのは、所謂、天の配剤よろしきを得ていると喜びつつあったのであります。
  しかしそれは束の間の事であって、そこにはしなくも大いに憂うべき問題が起こりました。それはカリフォルニアの排日運動であり、学童を差別待遇しようとすることが起こったのである。実に私は意外の感に打たれたのである。なぜ白人は他の人種を嫌うのかと、攘夷論時代の昔のことを思い出さざるをえなかった。こうして紳士協約ができました。
  その時、小村寿太郎侯爵は、実業界の有志に向かって、「紳士協約はできたが、アメリカとの国交は国民同士の外交でなければならないから、両国民がたがいに往来する途を開きたい。まずアメリカ太平洋岸の8つの商工会議所の人々と連絡をつけたいから、日本の商工会議所も協力して、まず、アメリカから団体旅行を招待してもらいたい」と言われました。それで私どもは何度もサンフランシスコをはじめ、方々の商工会議所から何度も、大勢の人をお招きし、また、こちらからも訪米し、国民外交に協力してまいりました。
  ところがどうしたことか、数年後になると排日土地法が制定され、その目的はまったく日本移民を妨げるためであり、しかもそれは白人の勝手な都合であることがわかりました。地方の政治家が排日を叫ぶことによって衆愚の票を集めようとしているのである。これを見て私は、アメリカ人も、すべてが仁者ばかりでないということを考えざるをえなくなりました。
  その後、アメリカは紳士協約があるにもかかわらず、土地法、借地法など、ますます峻厳に改悪してきてます。ワシントン会議の時は、そこで移民問題を解決してもらいたいと思ったが、太平洋問題を論ずる目的のこの会議にもとりあげてもらえなかった。私は事は重大と思い、国民の使節として渡米し、百方手を尽くしてみたのですが、アメリカ政府は、その問題を協議するための委員会を作ることにも賛成しなかった。
  さらにこのごろになると、絶対的な排日法が連邦議会を通ったそうであります。永い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏も無いのかという愚痴も出したくなる。私は下院はともかく、良識ある上院はこんなひどい法案を通さないだろうと信じていましたが、その上院までも大多数で通過したということを聞いた時は、70年前にアメリカ排斥をした当時の考えを思い続けて居たほうが良かったかというような考えを起こさざるを得ないのであります。


  財界の代表までがこう言うようでは、国民レベルでの親米感の絆は切れてしまったに等しい。

ひとくちコメント ―― 戦前までは、白人の間に有色人種を蔑視あるいは警戒する気持ちが想像以上に強かったことがわかります。移民してすっかりアメリカ市民として定着していた日系人たちから、新しい法律によって土地などの財産を没収し、強制収容所に入れてしまうという非人道的な行為が行なわれたのです。民主国家を標榜するアメリカの大変な汚点といえますが、それでもコロンブス以降この国が行なってきたインディアン迫害の歴史からみれば、まだささやかなものと言えるかも知れません。問題なのはアメリカの表面上の政府や一般国民ではなく、アメリカという国を裏から支配している世界支配層なのです。いま、アメリカ国民はこの世界支配層によって国を完全に乗っ取られ、国民は貧困化の道を歩まされており、その同じ構図が日本でも展開されつつあるのです。(なわ・ふみひと)
12
「CO・25%削減」で日本人の年収は半減する
武田邦彦・著  産経新聞出版  2010年刊
「COは出してもいい」はタブーになった
  最近私があるテレビ番組で経験した話である。その時、私は、「C0
は出してもかまわない。どんどん出した方がいい」と話した。
  これまで書いたように「経済成長を続けるつもりならC0
を出さざるを得ない」ということ、さらに「温暖化は心配するようなレベルではないこと」「温暖化の主原因がC0という説もあやしいこと」「仮に温暖化しても日本にとってはいいことのほうが多いこと」を踏まえた上での話である。
  私の言葉を聞いた女性アナウンサーはこう言った。
  「先生、そんなことを言ってもいいのですか? 世界中がC0
の削減をしているときに」
  この女性アナウンサーの意見は、おそらく日本人の多くの意見でもある。政府の主張であり、教育現場の常識でもあり、「小学生でも知っていること」らしい。
  私はこう言った。
  「あなたは世界中と言いますが、どこの国のことをさしているのでしょうか。アメリカ、中国はもちろん、カナダもメキシコも、南アメリカ各国も、アジアもアフリカも知らん顔ですよ。
  ロシアは形の上では京都議定書に参加していますが、実質的な削減などしていません。東ヨーロッパや南ヨーロッパもそうです。
  ドイツ、イギリスもEU加盟国として8%削減義務を負ったはずですが、97年までの削減が奏功して、実質的にはそれぞれ11%、5%の増加枠を確保したことになります。
  C0
の削減で苦労しているのは日本だけで、しかも『チームマイナス6%』などというキャンペーンをしながら、現実には14%も増えているのですよ」
  幻想というのは恐ろしいものだと思う。
  このような実態がはっきり存在しているにもかかわらず、世界中がC0
削減の取り組みに一生懸命で成果が上がっている、とアタマから信じてしまっているのだ。
  それをテレビ番組というマスメディアの世界にいる人が軽々しく口にするのである。事実報道をするはずのテレビ局のアナウンサーが「みんながやっている」と言うのだから、その洗脳ぶりは北朝鮮並みと言っていい。
  「そんなことを言っていいのですか」というアナウンサーの言葉はさらに恐ろしい。
  もはや「C0
を出してもいい」は、日本の社会の「タブー」となっているのである。日本は言論の自由、表現の自由、学問の自由が憲法で保障された国家ではなかったのか。

環境問題はメルヘンではない
  「世界は、実はC0
の削減に興味を持っていない」という事実もまた、日本人は直視できない。
  すでに温暖化そのものや、温暖化被害の予測、温暖化の原因がC0
であることの信憑性に、かなり疑問があることを知っていながら、不思議なことに「世界はC0削減に興味を持っていない」「日本もC0を削減する必要はない」と発言すると、まるで「地球の敵」「世界の敵」「トンデモ学説」の扱いになる。
  環境問題は、メルヘンではない。
  科学的に検証し、事実であることがはっきりすれば、本当に有効な対策をとればいい。それでも予測が間違うことはあるだろう。間違ったのなら、政策そのものを改めればよいことである。つまり、何事であれ、仮説があり、検証があり、修正が伴うということだ。
  しかし、不思議なことに、こと環境問題となると「最悪のケース」が常に強調され、3000年後の海面上昇の数値である「海面の6メートル上昇」が、明日にも起こるかのように伝えられる。
  しかも3000年後の話を10年後であるかのように伝えるのは、間違いであり、サギに等しいと言っても、「最悪のケースを考えて対策をとるぐらいのほうがいい」「象徴として扱っている」「もし悪いことが起こらなくても、環境に対する意識が高まったのだからそれでよかった」という理屈になる。
  「最悪のことを考えて備えをし、何も起きなかった場合は、それでよかったと思えばいい」というのは、場合によっては正しい。例えば、「健康保険をかけたけれど病気にならなかった」というような場合だ。
  しかし、健康保険料は何億円もするものではない。これは「安心料」の範囲内で払うものだ。しかも個人の優先順位で選択できる部類の話である。しかし、環境問題はこれとはまったく違う。
  ガンになるよりずっと少ないリスク、それも遠い将来の予測もつかないような事態に対して、今生きている人間が経済成長を放棄するほどの犠牲を強いられていいかどうか、ということなのである。しかも、自分だけは犠牲になりたくないと言っても通用しない。
  世界は温暖化対策にまったく冷たい、というのが現実なのである。屁理屈を言う人は多いだろう。EUは域内で調整して努力している、途上国はやりたくてもできないのだから責めてはいけないなどと言う人もいるが、それは全くの詭弁である。

ひとくちコメント ―― 本書は、東日本大震災に伴う原発事故以来一躍注目を集めている武田邦彦氏の著書です。私は環境問題に関してはこの武田氏の考えに共鳴するところがたくさんあります。また原発と放射能の問題に関しても、小出裕章氏の「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」とともに武田邦彦氏の「武田邦彦(中部大学)」のブログを参考にしてきました。この2つは皆様にもお勧めしたいブログです。
  さて、本書に戻ります。フリーメーソンと思われる鳩山由紀夫元首相が、政権交代と同時に「2020年までに温室効果ガスを25%削減する」と国際舞台で行なった約束は、まさに日本の経済成長を止め、国民を貧困のどん底に落としていくための“悪魔のルール”と言ってもよいものでした。ただし、当サイトがテーマにしておりますように、「終末にはお金や物に対する執着心を手放さないといけない」ということで、「だから、これから失業者が増えるのも、個人の所得が減るのもいいことだ」という考え方をするならば、鳩山元首相の国際公約がこの国の貧困化に拍車をかけることも、あながち悪いことではないかも知れません。
  しかしながら、問題はその“動機”なのです。鳩山元首相は「国民を貧困にして気づきを与える」ということを意図していたわけではないでしょう。「日本経済の発展に足かせをつけて、日本の優良企業の生産拠点を海外へ移転させ、日本の産業の空洞化を推進する」ことを目的とする勢力によって、そのためにもっとも有効な手段の1つを国際舞台で公約させられた、というのが実情でしょう。その結果、この国はどうなるのかということが、この本の中にはわかりやすく、また大変な説得力を持って書かれています。そして、現実にその通りに日本経済はますますデフレの泥沼から抜け出せなくなっています。今回、野田政権による消費税の導入の政策も、日本経済をますます混迷させることに拍車をかけるものと見られます。今なお「地球は温暖化しつつある」「温暖化の原因は二酸化炭素だ」と本気で思っている人にはぜひ読んでいただきたい本です。(なわ・ふみひと)

11
WHAT IS KARMA?
真の自己責任と自己実現の教えとしての新カルマ論
ポール・ブラントン・著  大野純一・訳  コスモス・ライブラリー  2001年刊
カルマの働き
  カルマによる報いや罰を勝手に施したり、下したり、コントロールしたりする、いわゆる超自然的・外部的存在もない。われわれが無意識のうちにそれらの種をまいているのである。好機が来る時、種は芽を出し、実を結ぶ。
                     ◇
  人形使いがつり下げた人形のあやつり糸を引くように、何らかの神秘的な超自然的天使、天神、または神が介入してカルマをあやつるわけではなく、カルマは宇宙の均衡の部分なのであって、その均衡作用のおかげで報いがもたらされ、圧力が記録され、各々の反応がそれ自体のはずみによって起こるようにされるのである。
                     ◇
  カルマの働きは複雑な結果を複雑な原因までさかのぼって突きとめる。
                     ◇
  もしも最期に──時にはずっと以前に──カルマがあなたに結果をもたらすとしても、そのすべてが苦痛なわけではない。不吉な予感でいっぱいになる必要などないのである。なぜなら、あなたが考え、行なってきた良いことは、良い報いをもたらすからである。
                     ◇
  われわれは、みずからの切望によって未来を招来する。われわれは、自分が考え、感じ、行なったことの結果を受け取る。自然はいかなるえこひいきもせず、われわれに当然の報いを与える。
                     ◇
  カルマは、人が実際に行なうことによって固められるのだが、それはまた、人が長い間考え、強く感じることによっても強められる。
                     ◇
  ついにあなたがカルマによって責任を問われる時、あなたは他の人々があなたに授ける性格証明書──良いと認めようが悪いと認めようが──によってではなく、あなたの内心で感じている動機、あなたが守ってきた態度、あなた自身の手でした行為によって判断されるのである。
                     ◇
  出来事と環境は、部分的にはあなたの人となり、およびあなたが行なうこと(個人的カルマ)に従って、部分的にはあなたが必要とし、求めているもの(進化)に従って、また、部分的にはあなたが属している社会、民族または国が行ない、必要とし、求めていること(集団的カルマ)に従って、あなたに引き寄せられる。
                     ◇
  カルマは、偶然に思われるかもしれない出来事を通じて現われる。が、それらは表面においてのみ偶然に思われるのである。
                     ◇
  事物は、その性質に従って動く。〈世界観念(神)〉はこれらの動きを秘密の仕方で記録し、それぞれに相応した結果を反射して返す。そして人の場合も事物と同様である。われわれの各々は宇宙に向かって歌声を響かせ、そして宇宙はそれと同じ調子でわれわれに答える。
                     ◇
  カルマはあなたに、あなたが主として自分自身で作り出したものを与える。それはあなたに、あなたが好むものを与えるわけではない。が、時には両者が一致することはありうる。あなたは部分的にあなた自身の難儀の生み手になることもできれば、精神力によって幸運を自分に引き寄せることもできる。
                     ◇
  あなた自身の過去生からの力が出てきて、あなたを一定の決定、行為および態度へとせきたてることがある。
                     ◇
  ウスペンスキーの永劫回帰説は真実でもあり、偽りでもある。われわれおよびわれわれの境遇は繰り返して現われるが、しかし常に異なったレベルでである。それは螺旋であって、円ではない。人生におけるある出来事または時期は以前のそれに対応しているが、しかしそれと同じではない。未来は過去と似通っているが、しかしそれをそっくり繰り返すわけではない。螺旋は、まったく同じ自己または同じ仕事をあなたに戻すわけではない。それは、対応するものを異なったレベルであなたに戻すのである。
                     ◇
  われわれの外面的不幸は、われわれの内面的挫折の象徴であり、徴候である。みずから生み出したあらゆる苦しみおよびみずから受け入れたあらゆる悪は、避けることができる。どの程度まで出来事があなたを傷つけることができるかは、そっくりあなたにかかってはいないかもしれないが、しかしそれが主としてあなたにかかっていることは確かである。もしあなたがたった一撃であなたのエゴイズムを粉砕する力と、一連の長い因果のスクリーンを見通す洞察力を持っていたら、あなたはあなたの外面的苦労の半分は内面的性格の欠陥と弱さに由来していることがわかるであろう。あなたがあなたの内面的性格の劣等な属性を表出するつど、あなたは外部の出来事にそれを反映させる。あなたの怒り、羨望、憤り、恨みは、もし充分に強く、充分に長く持続すれば、結局は結果として厄介事、敵意、摩擦、喪失、失望を招くであろう。
                     ◇
  幸運を招く所番地や不幸を招く所番地などはない。もしあなたが特定のある家で一連の不幸に見舞われたなら、それはその番地のせいではなく、あなたのカルマのせいである。あなたの悪いカルマがその時に満期になったのであり、たとえあなたがまったく違う番地のまったく違う家に移ったとしても、そのカルマが惨めな経験となって結実したであろう。
  さて、性格から生じるカルマは、もしあなたの性格が改善されれば、結局はある程度まで改善される。それから、かつてあなたに悲しみをもたらした家に再び移り住んでみるとよい。今度は悲しみをもたらさないことを見出すであろう。そのいわゆる不幸を招く番地は、もはやあなたを傷つけないであろう。
                     ◇
  すべてのカルマ的傾向が同時に意識内に存在しているわけではない。いくつかはまだ潜在的状態にあり、活動状態にはない。

ひとくちコメント ―― カルマの特徴を余すところなく説明しています。噛みしめながら何度も読んでいただきたいと思います。関連して、以下の内容にもお目通しください。
 @ カルマは身・口・意でつくるもの
 A カルマの清算は待ったなし
 B 逆境は最大のチャンスである
 C 「色即是空、空即是色」の意味
 D テレビがカルマを大量生産している

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日本人の品格
渡部昇一・著  ベスト新書  2007年刊
世界の八大文明の中の独立した文明
  日本では長い間、「日本文化」という呼称が一般的だった訳ですが、ある時、日本やシナの文学をよく知っている一部の西洋人が「日本文明」という言い方をするようになる。それを最初に言い出したのは、私の知るかぎり、『源氏物語』を英訳したアーサー・ウェイリーです。彼は元来、語学の達人で、ヨーロッパの主要な言葉はみなマスターしているほどの人物。大学を出てから大英博物館に勤務し、そこでシナの絵の分類などを担当することになる。水墨画などに書かれていた漢詩を見て、今度は漢詩の勉強をするようになり、たちまちシナ語をマスターし、漢詩の英訳集なども著しています。
  やがて日本の文化にも関心を持ったウェイリーは、1925年から数年を費やして『源氏物語』を英訳し、欧米の文化人らに大いなるカルチャー・ショックを与えました。彼のように、シナのことも日本のことも客観的に知る人が、「日本は文明である」という結論に達した訳です。
  彼はOriginality of the Japanese Civilization(「日本文明の独創性」)というパンフレットの中で、日本文明の独自性を繰り返し強調しています。
  「日本は文明である」と主張した人は他にもいます。戦後、駐日大使になったライシャワーです。彼が戦前に書いた日本の歴史書の中には、「明らかに日本は一つの文明である。それにしては小さいじゃないかと言う人がいるかもしれないが、ギリシアやローマなど、古代の文明もそもそも小さなものだった。そう考えれば、日本列島は一つの文明を築く上で十分な広さを有していた」というような趣旨のことが書かれているのです。
  『文明の衝突』を書いたサミュエル・ハンチントンは、世界の文明を西欧文明、イスラム文明、シナ文明など、八つに分類しています。これによれば、シナ大陸の東側は朝鮮半島までがシナ文明圏だとし、日本はシナ文明圏とは切り離された独立したひとつの文明圏として捉えています。
  こうした分類を見ても、他の文明圏の場合、ひとつの文明の中にはさまざまな国があり、多様な民族や言語が入り交じっている。ところが、日本文明は日本人しかいません。これは大変注目すべき点だと思います。
  では、なにゆえに日本は、世界の国々を知る人たちをして、「単なる文化ではなく文明である」と言わしめたのか。

日本文明の核となるのは、皇室と神社
  朝鮮半島までは明らかにシナ文明、あるいは儒教文化と言ってもいいのですが、ようするにシナの一部です。その中に、朝鮮文化もあれば揚子江文化もあるかもしれませんが、朝鮮半島までは一つの文明圏です。ところが、玄界灘を隔てた日本は、どうしてもそこには入らない。
  何がそこに入らないようにしているのかと言えば、突き詰めれば「皇室」と「神社」の存在があるからです。これは、日本をひとつの文明として捉えざるを得ない根拠の芯になるものだと私は考えます。日本を、あるいは日本人を論じる際には、皇室と神社を絡めて論じなければ成り立たないのです。
  では、皇室の本質とは何か。それは、神話時代から、こんにちまでつづく世界で唯一の王朝である、ということです。つまり、神話の神々も、現代の皇室と連続しているということです。当然ながら中国にも神話はあったでしょうが、司馬遷が『史記』を書くころに古代の伝承はほとんどなくなっています。
  古代のギリシア神話を見ても、アガメムノーンというトロイ戦争における英雄は、系図を辿ると、祖父の祖父はゼウスの神です。このあたりまでは、神話と王朝の連続性がある。ドイツなど、他の文明圏の多くでも、神話の神々の子孫が王家になったという話はあったのですが、みんな消えてしまっている。ところが、日本だけが残った。
  そういう意味では、日本という国は、他では絶滅したにもかかわらず、そこだけぽつんと残された極めて稀な文明と言えるのではないでしょうか。そうした日本のすがたを見て、「日本そのものが世界最大の文化遺産である」と私は言いたいと思っています。
  かつて世界中のいたるところで、人々は自然に対して敬虔な気持ちを抱き、それを八百万の神として敬ったのでしょう。そして、神話という形を通して、神と人間とのつながりをイメージしたのでしょう。しかし、そうした神話の世界の大半は消えてしまいました。永久に不滅のように思えるギリシアの石造りの神殿は、今では廃墟と化しています。
  ところが、日本だけは違うのです。数百年前に建てられた社殿が、補修や住替えを重ねてこんにちまで残り、祀る人々が絶えることがない。祭ともなれば、多くの人々が集い、神社の周りは活気に満ち溢れます。かつては地球上の至る所にあった、人間の最も根源的な宗教の形が、今もなお日本では生きているのです。
  神話的な構造はギリシアと似ているのに、なぜこうも違うのか。その時わかったのは、「日本では古代の神様が死んでいない」ということです。
  どういうことかと言うと、それを祀っている民族が変わっていないということにほかなりません。古代日本の神様は、『古事記』や『日本書紀』を見ればわかるように、皇室と分かち難く結びついている。これが、日本の本質です。
  つまり、神話と結びついた王朝がこんにちまで続いているということです。古代から途切れずにこんにちまで続いていること自体、他の国にはありません。日本は小さな島国だから続いたんでしょう。
  元来、木造や茅葺きの神社は放っておけばすぐに朽ちてしまいますが、石造りのギリシア神殿は廃墟となり、日本の山の中にある木造の神社は残る。この逆説的状況の中に、日本文明の本質があるのだと言えましょう。ようするに、皇室と共に神話の神様が今もなお生きている、それが日本なのです。

ひとくちコメント ―― 日本が世界の中でも非常に特殊な文化を持つ国であることには、どなたも異論はないはずです。しかしながら、それは「文化」と呼ぶべきレベルのものではなく、まさに一つの「文明」である──というのが、日本をよく知る世界の識者たちの認識なのです。漢字や仏教などに見られるように、この国が他の文明の影響を受けているのは確かですが、それでもそれらの影響を全く受けていない日本独特のものとして「皇室」と「神社」がある、と著者は述べています。まさにこの皇室と神社こそが、日本を日本たらしめている本質と言えるものでしょう。そのバックボーンとなっているのは「神道」すなわち大自然を八百万の神と見なして畏敬する「惟神(かんながら)の道」なのです。その皇室がいま世界支配層の中核にいる“国際ユダヤ”の巧妙な戦略によって抹殺されようとしています。いずれは、日本人が神社に参拝することをも禁止する形で、この国を徹底的に蹂躙する計画になっていると見ています。それから終末の大峠となり、“立て替え”が始まるのです。(なわ・ふみひと)
09
竹内文書
世界を一つにする地球最古の聖典
高坂和導・著  徳間書店  2008年刊
縄文時代の稲作は科学的にも立証されている
  つい2、30年前まで、縄文時代は完全な狩猟採取生活であったと信じられていた。
  最近、青森県青森市の三内丸山遺跡から発見された大量の栗が、DNA鑑定の結果、人工的に栽培されていたことが判明し、考古学上の大発見だと報道されていた。
  それを読んだわたしは、『竹内文書』の記述を裏づける物証がやっと出たかと心が弾む思いがした。
  『竹内文書』によれば、穀類を初めとする食物の栽培技術は日本から世界に広まったのである。にもかかわらず、日本には野生種のイネが存在しないことを理由に、稲作は大陸から弥生人が渡って来たときにもたらされた文化であると信じられているのだ。事実、長い間の発掘調査でも稲作の痕跡はみつかっていなかった。
  ところが、あまりニュースになっていなかったが、縄文時代の穀物栽培は三内丸山の栗畑発見以前にも見つかっていたのである。
  昭和53年に、縄文晩期に属する福岡市の板付遺跡から見つかった水田跡だ。縄文時代に稲作が行なわれていた証拠以外の何物でもない。だが、学会は「稲作=弥生時代の渡来人の文化」という考えに強くとらわれていたため、これは弥生人がいち早く渡来していた跡だという考えに傾いてしまったのである。だが、これを機に縄文時代の稲作の可能性が改めて問いただされるようになっていったのも事実である。
  それから十余年、宮崎大学農学部の藤原宏志教授は、稲作の有無を判定するのに画期的な方法を取り入れた。それは、土器に含まれるプラントオパール(植物珪酸体)の有無を調べるというものである。平成3年から実施されたこの方法が、最近注目を集めている。
  イネ科の植物は珪酸を多量に含んでいるが、これはイネが枯れた後も一部は細胞の形を保ったまま残る。したがって、縄文土器の破片から微細なサンプルを削り取り、洗浄したのち、顕微鏡で観察し、プラントオパールが見つかれば、その時代に稲作があったという判断につながるというわけだ。
  平成8年までにこの方法で見つかったプラントオパールで最古のものは、岡山県美甘(みかも)村の姫笹原遺跡出土の土器片から検出された。今から約四千五百年前、時代区分でいうと縄文中期にあたる。縄文中期のものは今のところここだけだが、縄文晩期まで範囲を広げれば、青森県八戸市の風張遺跡、岡山県総社市の南溝手遺跡でも稲作の痕跡は見つかっている。福岡県福岡市の板付遺跡、佐賀県唐津市の菜畑遺跡では、約二千五百年前の米が完全なまま炭化したものまで見つかっている。もはや縄文時代に稲作が行なわれていたことは否定できない事実となりつつあるのだ。
  なによりもこうした発見は、ごく最近の調査結果でしかないということだ。まだまだ調査範囲も検体も充分とはいえない。今後対象範囲が広がっていけば、さらに古い時代のプラントオパールや米が発見される可能性は非常に高いといえるだろう。縄文前期、縄文早期の遺跡から稲作跡が発見されることも充分に考えられるのだ。
  また三内丸山では、狩猟が中心だったと考えるには、大型動物の骨がほとんど発見されていないことも注目に値する。
  こうした古代の食生活を裏付ける文献証拠をわたしは『上記(うえつふみ)』に発見した。それによると、天皇が東北巡幸の折、土地の人々が肉食をしているのを嘆かれ、実養食事法をご指導になったというのだ。実養とは読んで字のごとく、木の実を主とした食養法のことである。『上記』不合(ふきあえず)第三代の記録には次のような一節がある。
  「なぜお前たちはそのように獣の肉を食べるのだ。体に良くないことなのに」
  「この土地の冬は厳しく、獣の肉を食べなければ体が温まりません」
  「そうか。ならば肉の代わりに榧(かや)・栃・椎などの木の実を米に混ぜて食すがよい。肉を食したときと同じ効果がある」
  こうした天皇の指導があり、人々の木の実の栽培が盛んになったとある。それでも肉の味を忘れられない人も多く、ウサギ程度の小動物は公然の秘密のようにして食べられていたのではないだろうか。
  わたしの知り合いのある明治生まれの女性は青森の出身なのだが、昔は女性や子供が獣の肉を食べることは絶対的なタブーだったと語る。さらに男の人も獣の肉は家の中で調理せず、屋内に持ち込んで食べることもしなかったという。獣の肉の味は忘れられないが、天皇の教えに背くこともできないという民の心情がよく現れたエピソードではないだろうか。

ひとくちコメント ―― 「稲作文化は日本から世界に広がったものだ」ということが竹内文書に記されており、それを裏付ける事実として、縄文中期にはすでに稲作が行なわれていたことが科学的に証明され始めたということです。この本の中で著者は、縄文土器が環境汚染を防ぐ素晴らしい機能を持っていることを発見したと述べています。このように、縄文人は一見素朴でもさまざまな面で高度な技術を駆使していたことがわかっているのです。この本を、人類の由来を考える上で大変参考になる書籍としてお勧めします。(なわ・ふみひと)
08
神示が明かす超古代文明の秘密
「封印された真実の神」の言葉から神国日本の本源を探る!
中矢伸一・著  日本文芸社  1994年刊
大本の「雛型」は、これから本格的に移写する
  じつは、日月神示には、戦争に負けた日本は、再び勢力を盛り返すが、またもや潰れることになると、はっきりと示されているのだ。これは戦後の経済復興と、それに続いて起こる崩壊の予告とみるべきであろう。

 
「まだまだ俘虜になる者沢山あるなれど、今度の俘虜まだまだぞ。いずれ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ。次にまた捕らえられる者出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ。これも因縁ざぞ。神の国は誰が見ても、どう考えても、二度と立ち上がられん、人民みな外国につくようになって、この方の申した事、みな嘘ざと申すところまで世が落ちてしもうてから初めて神力現れるのざぞ」(昭和20年12月18日)

 
「今度捕らえられる人民沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。牢獄で自殺する者も出来てくるぞ。女、子供の辛いことになるぞ。九分通りは一度出てくるぞ。それまでに一度盛り返すぞ」(昭和21年旧1月15日)

  「同じこと二度繰り返す仕組ざぞ。このことよく腹に入れておいて下されよ。同じこと二度」(昭和22年8月2日)

  「出てきてから、また同じ様なこと繰り返すぞ。今度は魂抜けているからグニャグニャぞ、グニャグニャ細工しか出来んぞ。それに迷うでないぞ」(昭和22年8月14日)


  これらの神示は、すべて終戦後に出されたものである。
  さらに、終戦直前の昭和20年6月23日には、

 
「神の国、一度負けたようになって、終いには勝ち、また負けた様になって勝つのざぞ」

  とも示されている。
  日本は戦後、高度成長期を迎え、いまやGNP(国民総生産)世界第2位という、押しも押されもせぬ経済大国となった。だが、その精神的な中身を見れば、日本人としての思想もなく、ヴィジョンもなく、魂の抜き取られた「グニャグニャ」人間ばかり溢れる社会となってしまっている。
  まさに、神示のとおりに事が進んでいるといわざるを得ない。

神示が予言した大食糧危機
  日本政府は、ついにコメの関税化を受け入れた。これにより、日本の米作農業の基盤は、根底から揺さぶられることになろう。
  食糧の自給自活は、じつは死活上の大問題である。食糧の海外依存度を高めることは、きわめて危険である。現在日本は、上から下まで不況にあえいでいるが、相変わらすの飲み食い三昧を改めるようすもない。かりに、食糧の輸入が全面的に停止した場合どうなるのか。大食糧パニックが現出することは目に見えている。
  日本国内では現在でも年間およそ一千万トンもの食べ物が、残飯として捨てられているという。土に対する感謝、五穀に対する感謝を忘れた現代日本人には、必ずや食べ物の尊さ、ありがたさを思い知らされるときが再びやってくる。 その大食糧危機の到来は、すでに『大本神諭』から予告されているのだ。

 
「大切な土地を要らぬことに使うたり致して、人民の肝腎の生命の親の米、麦、豆、粟を何とも思わず、『米や豆や麦は何程でも外国から買える』と申して居るが、何時までもそうは行かんことがあるから、猫の居る場にも五穀を植付ねばならんようになりて来るぞよ」(明治36年8月16日)

  「毎度出口直に兵糧を獲(え)て置かねば成らんという事が、くどう申してあろうがな。『米が有る』と申して油断を致すでないぞよ」(大正元年旧8月19日)

  「日本の国だけでもこれだけ持て余して居りて、他の国の事ども構い立てする暇は有りもせんのに、肝腎の足元は、よい加減な事に致しておいて、『終には共倒れに成る』と言う事に気の付かん様な明盲であるから、(中略)食物は段々と欠乏になるなり。菜の葉一枚でも大切な事に、今に成りて来るぞよ」(大正6年旧11月23日)


  これらは、戦中から戦後にかけて日本国民の体験した食糧不足のことだと思われるかも知れない。だが、それで片づけてしまってよいのだろうか。現代においても、見事に当てはまる警告の言葉なのではなかろうか。そして、日月神示にも同様のことが示される。

 
「一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ、いくら買い溜めしても神の許さんもの一つも身には付かんぞ。着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。早う神心にかえりてくれよ」(昭和十九年六月三十日)

  「元の神代に返すというのは、譬(たと)えでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ。生の物食うて暮らさなならんし、臣民取違いばかりしているぞ。何もかも一旦は天地へお引き上げぞ。我の欲ばかり言っていると大変が出来るぞ」(昭和19年7月9日)

  「食うものがないと申して臣民不足申しているが、まだまだ少なくなりて、一時は食う物も飲む物もなくなるのぞ。何事も行であるから、喜んで行して下されよ」(昭和19年8月14日)

  「神は気もない時から知らしてあるから、この神示よく読んで居れよ。一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな。米ばかりでないぞ、何もかも、臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、臣民ばかりでないぞ、神々様さえ今度はなくなる方あるぞ。臣民というものは、目の先ばかりより見えんから、呑気なものであるが、いざとなりての改心は間に合わんから、くどう気付けてあるのぞ」(昭和19年8月27日)


  日本対世界の戦争が、万が一にも今後に起こるようなことがあれば、神示に示されたこうした悲惨な地獄絵図は、一気に現実のものとなるだろう。

ついに「立て替え」の時代がやってくる!
  かくして、日本人の大淘汰、世界の人民の大淘汰が始まる。大本の時代からくどいほど発せられていた「立て替え予言」の現出である。

 
「正真の神が御守護にて一度に致したら、二、三分残る。世界で二、三分と申すと、あちらに一人、こちらに一人残るという様なひどい事になるから……」(明治36年3月3日)

  「戦争と天災とが始まりたら、人民が三分に減ると、初発の筆先に書いてあるなれど、茲に成ると世界に残る人民が二分位より無いぞよ」(大正6年9月5日)


  そして、日月神示にもー。

 
「神の国を、足の踏むところない迄に穢(けが)してしもうているが、それで神力は出ぬぞ。臣民無くなるぞ。残る臣民三分難しいぞ。三分と思えども、二分であるぞ」(昭和20年6月18日)

  「あちらに一人、こちらに一人、という風に残る位、むごいことにせなならん様になっているのざから、一人でも多く助けたい親心汲み取りて、早う言うこと聞くものぢゃ。ここ迄神示通りに出ていても、まだ判らんのか。疑うのにも余りであるぞ」(昭和22年8月23日)


  現在のところは、まだその気もないかも知れない。しかし、ことが実際に、誰の目にもわかるようになってからでは遅すぎる。我々は、いまこそ真摯な気持ちで神の言葉を受けとめ、早急に対策を急がねばならない時期にきているのである。
  そして、そのような、人類が二分か三分になるような大変動か起こったあとに実現するのが、「みろくの世」である。その理想像についても、日月神示は『大本神諭』と酷似した描写をしている。

 
「神の世と申すのは、今の臣民の思うているような世ではないぞ。金は要らぬのざぞ。お土から上がりたものが光りて来るのざぞ。衣類、食べ物、家倉まで変わるのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあろうがな。誰でもそれぞれに先の判るようになるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて、水晶の様になるのぞ。悪はどこにも隠れることの出米んようになるのぞ。博打、娼妓(しょうぎ)は無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ。風もよきように吹かしてやるぞ。神を讃える声が天地に満ち満ちて、嬉し嬉しの世となるのざぞ」(昭和19年8月7日)

もっと読んでみたい方はこちらをどうぞ → ひふみ神示  大本神諭
07
ユダヤは日本に何をしたか
我が愛する子や孫に語り継ぎたい
渡部悌治・著  成甲書房  2003年刊
「迫害」という言葉で惑わす切支丹布教
  そもそもキリスト教の日本への渡来は、天文18(1549)年にフランシスコ・デ・サビエルによって始まったものである。彼らが何をしに来たのかといえば、黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ法王の領土にするための尖兵として来日したのである。
  サビエルはカトリック教会の主であるローマ法王の僧兵団の一員であり、東方渡来はジョアン三世の要請によるものであった。彼はローマ法王パウルス三世から聖使に任ぜられ、インドにおける法王の代理としての全権を与えられ、ポルトガルの東方植民地の官吏のすべての上に、一切の俗権を行使できる権能を与えられて来たのである。インドにおいて土民をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し、改宗を強制し、従わない者は惨殺・焚刑に処した。富裕の者の財産は強奪して僧兵団の手に没収し、僧院・教会を建設した。
  天文18年夏、日本は黄金の国であり、数百万の人口を有するジーペンの人たちを改宗させれば、巨億の富が入ると思い定め、日本の首都を目指してマラッカを出帆したのである。
  彼の後、各派各団の宣教師らが渡来した。いずれもサビエルと大同小異の心組みで訪れてきたのである。日本の富と国土を狙って来た者であり、日本人を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりし、ついには島原の民百姓を煽勤して大乱を起こさせている。しかも原城に立て籠もって死んだ遺骸には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会士も、一人のバテレンの遺骸も見つからなかった。煽るだげ煽りたてて死にいたらしめ、自分たちはとっくに逃げうせてしまったのである。
  これに対し豊臣・徳川は布教を禁圧し、宣教師らの国外退去の策に出た。これが国法であり、国禁であり、国をあずかる者の当然の施策である。国禁を犯し、国法を蔑(なみ)する者はこれを罰する。キリスト教が宗教裁判で異端・異教を焚刑・傑刑に処したように、徳川もまた同じことを行なったまでのことである。それを「切支丹殉教」とか「切支丹迫害」などと称するのはおこがましいかぎりである。日本人自らが発するべき言辞ではない。
  彼らバテレンたちは日本の金山・銀山を狙って金堀師らを帯同してきていた。今日でも鉱山の鉱脈の露頭に彫り刻まれた十字の印が見られる。そこには異人の堀り師が潜み、隠れ切支丹らの祈祷所としていたのである。

ローマ法王の工作員、サビエルの挑戦
  サビエルは伝道のためではなく、戦いを挑んできたのだ。サビエルはローマ法王の僧兵の一人なのである。ローマ法王は全世界を支配する皇帝であり、この世においては法王の権威に勝るものはないとされていた。サビエルはその法王から、法王の代理としての全権のみならず、ポルトガルの東方植民地における軍隊と官吏とに対する命令の全権をも与えられていたのである。
  それゆえ東方占領地においてキリスト教に改宗しない土民を殺戮し、財産を奪い、焚刑に処し、寺院を焼き払い、暴虐の限りを尽したのである。異端・異教は悪魔の教えであるとして、愉しければ愉しいほどキリスト教の神は悦ぶとした。欧州・東方・南米において、キリスト教によって虐殺された人の教は一千万を超す。
  私が20代の頃、仙台の東北学院神学部で講義を受けてい教授に出村剛という教授がいた。キリスト教会史の講義の時間にいつも述懐していたことは、キリスト教のこの異端・異教を虐殺した事実であった。そして教授は、キリスト教による異端虐殺史を集大成して世に問うことを念願していると告白したものである。
  異端・異教迫害に関する研究書の頁を開き、挿絵を示してくれたが、女性を全裸にして、陰部から杙(くい)を突き刺し、頭蓋まで貫いていたのを裸馬に跨がらせて練り歩いているエッチングであった。「キリスト教ほど、このような罪悪を犯した宗教はない」と幾度も呟いていたのを60年後の今日でも思い起こす。この絵はローマ法王の命によるカタリー教徒皆殺しのときの情景の一つであった。
  これは異端皆殺しの例であるが、異教の地インドにおけるポルトガル宣教師らの土民虐殺と財宝奪取、南米太平洋岸諸国のスペイン宣教師の手引きによるスペイン軍隊たちの人民殺戮と財宝収奪とは、歴史上顕著な事実であり、西欧諸国のキリスト教宣教師らによる先導によって植民地占領がなされていた事実も蔽い隠すことはできまい。しかし、そのようなことは日本においては果たすことはできなかった。その理由は次に示すイエズス会のドン・ロドリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書に記すところである。
 
「殿下を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」
  と、敵情報告に判断を付して諜報している。
  ザビエルもまたポルトガル国王に、
 
「軍備においては日本はヨーロッパと同水準にあるため、軍隊をもって征服する望みは抱かぬほうがよろしい。それよりも心に訴えて納得させれば、この上なく忠実なキリスト教の下僕となるのだから、もっと智能の勝れたバテレンを派遣せられたい」
  と上申している。武力占拠は断念し、諸藩を貿易の利潤で誘い、キリシタンの布教を公許させる方策に出たのである。いずれも日本乗っ取りの方策の謀であった。
  この書翰に見るように、キリシタン・バテレンたちの正体は、対日諜報員であり、対日工作員であったのだ。日本をまずキリシタンにしてしまってからキリスト教国の属国として占領してもよく、キリスト教国の属国として占領してからキリスト教化してもよかったのである。
  以前、アメリカ・ミッションから差遣されていた宣教師たちが帰米するたび、まず軍の関係機関に立ち寄って報告を終えてからそれぞれの地に帰ったという話を、留学を終えて帰国した日本人神学生に聞かされていた。

ひとくちコメント ―― ザビエルの来日の目的は日本の植民地化にあったことが詳しく述べられています。この本は他のページで、ザビエルがユダヤ教徒であった事実も明らかにしています。“黄金の国・ジパング”は、早くから“ユダヤ”の狙うところとなっていたのです。
  著者の渡部悌治氏は明治45(1912)年生まれ。戦前は、東條英機らも属していたユダヤ研究の最先端機関「国際政経学会」の監事を務めた人です。敗戦後は公職追放令によって職を追われ、その後復帰して山形県知事の顧問等を務めた──とあります。国際政経学会は戦後GHQ(占領軍)によって解散させられ、資料類も没収されてしまったということです。このようにして、世界支配層の中核にいる“ユダヤ”に関する研究成果はすべて闇に葬られてしまいました。ちなみに、“ユダヤ”とは今日のイスラエルのことではありません。このイスラエルという国をも裏で操っている“無国籍”のグループのことで、今日ではイルミナティやフリーメーソンという得体の知れない組織の裏に隠れてしまっています。(なわ・ふみひと)

06
ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略
列島支配を目論む「陰の帝国」を暴く!!
太田竜  日本文芸社  1992年刊
親ユダヤ人脈の直系、吉田茂と“吉田学校”
  明治新政府は、長年の間日本が窓口としてきたオランダが、頼むに足りない小国であることを知って、他の大国、列強に乗り替えることにした。その候補がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ(プロシャ、オーストリア)である。
  なお、当時、米英仏の実権はすでに、ユダヤの手中にあったが、ドイツ(プロシャのホーヘンツォルレン王家とオーストリアのハプスブルク王家)では、ユダヤによる全権掌握(王制転覆)をめざした大会戦が展開されているというところであった。
  いずれにしても、日本の指導層もおのずから米系、英系、仏系、独系に分かれて、ある種の派閥に組み込まれている。しかし、日英同盟条約が締結されるに及んで、日本政府の主流は、親英仏・親アングロサクソンに収斂した。日英同盟交渉時の駐英大使・林薫(のち、外務大臣となる)は、このころ、イギリス・フリーメーソンに入会を認められている。このへんから、日本の外務省官僚の出世コースは、ロンドン勤務─駐英大使という相場が決まったようだ。
  この線上に、幣原喜重郎(前述したようにフリーメーソンであることが確認されている)、吉田茂の名前が出てくる。しかし、彼ら日本の親英米派、親アングロサクソン派が、英米の背後にユダヤの地下世界政府が存在している事実を認識していたのかどうか、それはわからない。
  が、少なくとも、日露戦争当時の外相・小村寿太郎は、フリーメーソンが日本民族にとって危険な団体であることを知っていたらしい。安政不平等条約が、半世紀の血のにじむような努力の末に、完全に廃止されて日本の独立が回復されたとき、小村外相は日本国内のフリーメーソン結社が日本人を会員とすることを禁止させた。つまり、日本人が国内においてフリーメーソンに入会すれば、警察によって逮捕されることになった。フリーメーソンは、警察の監視団体となったわけだ。
  幣原や林のように、任地(ヨーロッパ)でフリーメーソンに入会した者も、日本に帰国したあとは、司法官憲に対し、秘密裏に活動しなければならない。
  小村の英断は、日本国内におけるユダヤの活動にある程度の規制を加えた、ということはできる。しかし、山縣有朋の死のあと、天皇を補佐する維新の元勲として、親英米(親ユダヤ)派の西園寺公望ただ一人が生き残った状態になってからは、日本の国家中枢部(「重臣」という便利な言葉で呼ばれる)は、事実上、ユダヤによってコントロールされることになってしまった。
  吉田茂の義父・牧野伸顕はこの西園寺を長とする重臣団の一員であり、吉田はこの人脈の有力なメンバーであったのだ。

“大東亜戦争”の実態は対ユダヤ戦争だった
  昭和16年(1941)12月8日の対米英開戦の詔勅では、この戦争の目的がすこしもわからない。日本は戦争をやりたくなかったのに、米英に経済封鎖され、万やむをえず、戦わざるをえない立場に追い詰められたとしか、そこには記されていない。
  すでに日露戦争終結直後に、ユダヤ・フリーメーソンは、日本を次の「仮想敵国」と定めた。この対日戦の戦争目的は、はっきりしている。日本をアジア・中国大陸から追い払い、中国をユダヤが直接占領することである。こんな程度のことを見抜くのに、たいした知恵も必要としないはずだが、当時の日本国家の中心には、幣原喜重郎に代表されるようなユダヤの工作員がしっかりと植え込まれていた。
  ユダヤは何重もの周到な対日戦略をたて、着々と布石を進めた。そしてその一石ごとに、日本は攪乱され、挑発され、全世界に醜態をさらし、ユダヤの思うツボにはまり込んでいったのだ。
  なかでも、ユダヤの会心の一手は、蒋介石、宋美齢など中国国民党政権の中枢部をフリーメーソンに取り込み、この蒋政権を使って反日・抗日・侮日キャンペーンを展開させたことであろう。この謀略に日本はまんまと引っかかり、中国大陸での泥沼戦争に引きずり込まれた。日中を戦わせ、両国を消耗させ、その隙に東アジアをユダヤが占領するという大作戦の第一波が、日清戦争である。
  さすがに勝海舟は、ある程度その真相を見抜いていたようで、当時、日清戦争に反対している。しかし、この戦争に勝って、日本国民は舞いあがってしまった。中国人を蔑視する態度が民衆の間にも広がっている。このときすでに、日本はユダヤの罠にはまり込んだことになる。
  それからあとは、有頂天になった日本人を煽動し、挑発して、より深くユダヤの仕掛けた罠に追い込んでゆくだけだ。昭和16年の「日米交渉」は、ユダヤにとっては30年にわたる対日謀略の、いわば最後の詰めにすぎない。つまり、このときの日本のほんとうの敵、戦争相手は、ユダヤの陰の世界政府であったのだ。そして、ごくわずかな先覚者を除き、日本人はその事実を知らなかった。
  敵を知り己を知れば百戦危うからず(孫子)というが、日本は肝腎の敵を知らずに戦争に巻き込まれたのだから、百戦百敗の運命は避けられない。
  敗戦とともに、日本人のユダヤ化がはじまる。天皇の終戦の詔勅で日本は連合軍に降伏したが、「国体護持」を叫んで軍の一部は戦争継続を企図している。はたして敗戦後、日本の「国体」は「護持」されたのだろうか?
  ユダヤは日本のいわゆる「国体」について、十二分に研究し、知り尽くしている。そのうえで占領政策が立案され、そして実行に移された。それに反し、日本民族の側は、敵=占領軍=ユダヤの正体を何も知らないのだ。したがって、敵の意図、敵は日本をどう処理しようとするかの状況把握ができないのだ。
  つまり、ユダヤと日本の情報量のギャップ(ユダヤの対日情報力を百とすれば、日本の対ユダヤ情報力は限りなく零に近い)が、敗戦時に潰滅的な結果を日本民族に与えることになってしまったのだ。
  ユダヤ占領軍が第一に狙ったことは、日本人のすべての民族的伝統、民族の神話、歴史、道徳を破壊することだが、そんなことを占領軍が直接やったのではうまくゆかない。彼らは、すでに大正デモクラシー期に日本のなかに植えつけておいたリベラリストと、親ユダヤ的キリスト教徒、それから左翼(特に共産主義者)を使ってそれをやらせた。日本民族を分断し、日本人自身が日本の民族的伝統を解体、抹殺するような仕掛けがつくられたのである。
  昭和20年12月、占領軍は神道指令を出して日本の国家と神道の関係を切断させ、さらに21年元旦の天皇詔勅(人間天皇宣言と通称される)では、天皇の地位が神話に基づくものでないと明言させた。
  この詔勅によってユダヤは、じつは日本民族の生命線に致命的な一撃を与えてしまったのだが、この文章は前述したヘンダーソン中佐の指示に基づき、フリーメーソン会員である幣原首相によって、英文で起草されて、マッカーサー元帥の承認を得てのちに、日本語に翻訳されて公布されたものであって、昭和天皇の意思など表現していない。
  右翼・民族派・国粋主義者も、児玉誉志夫以下、ユダヤ占領軍に魂を売り渡した。占領軍は数十万人の指導層を、「侵略戦争協力者」として公職追放処分にしたが、代りに共産党を“育成”してユダヤのための情報提供に精を出させた。つまり、敗戦と同時に、日本国中がユダヤ(米英あるいはソ連)に国を売る売国奴の一大軍団で充満するようなことになってしまったのだ。そのしめくくりが、昭和21年から23年まで実施された「東京裁判」であった。

ひとくちコメント ―― かつて首相を務めた幣原喜重郎、西園寺公望、吉田茂といった比較的ビッグな名前は「ユダヤに操られた人物」として記憶しておきたいと思います。もちろん、ユダヤの強大な力の前では、これらの人物が「国を売る」行為を拒否することは難しかったと思われます。拒否すれば、本人は少なくとも政治的には抹殺され、代わりの人間が調達されることになっただけのことです。当時から、フリーメーソンやキリスト教という隠れ蓑を使って、“ユダヤ”は世界中にその支配力を浸透させてしまっていたからです。
  戦前の日本では、そのフリーメーソンの裏にいる“ユダヤ”についての研究が進められていたようですが、そのような“反ユダヤ”的な研究に関わっていた人物のリストは、あらゆるところに植え込まれていたエージェント(内通者)たちを通じて“ユダヤ”の知るところとなり、戦後は“戦犯”として血祭りにあげられてしまったのです。その最たる人物が東條英機でした。
  軍の中枢にいて最も“反ユダヤ”的な思想を持つこの“危険人物”を戦犯に仕立て上げるために、開戦が避けられなくなりつつある情勢のもとで、東條英機の首相就任が画策されたのです。戦後、戦勝国が勝手につくった法律によって、東條英機は「共同謀議」という不可思議な罪状で処刑されました。戦後教育を受けた私たちは、東條英機をヒトラーに匹敵する戦争犯罪人と思わされてしまっていますが、真実は「世界支配層(=ユダヤ)にたてついた人物」ということだったのです。
  さらに、彼らにとって「許し難い連中」は戦後の公職追放によって一掃され、その代わりにエージェントを務めてくれた人物たちがあらゆる重要ポストに貼り付けられることになりました。戦前から彼らに手懐けられていた吉田茂などは、彼らの手先となってこの国を好きなように料理させることに協力した人物と言えます。戦後において首相などの重要ポストについた人物ほど、世界支配層(=ユダヤ)に貢献した人物だと考えてもよいでしょう。(なわ・ふみひと)

05
ユダヤと戦って世界が見えた
白人支配の崩壊と「二つのユダヤ人」
宇野正美・著  光文社  1993年刊
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」が示したもの
  アメリカ人、なかでも白人たちにとってアメリカ先住民族、彼らの言うインディアンとは、かつてのスペイン人たちが南米のインディオたちに抱いたと同じイメージであっただろう。野蛮きわまりない者たち、征服されてしかるべき者たちであった。それに拍車をかけたのが西部劇映画であった。
  しかし今日つくられる西部劇には、インディアンが撃ち殺されていくシーンはない。アメリカではそのような映画をつくることすら不可能になってきている。先住民の叫びが大きな位置を占め出してきているのである。
  そのようななか、1991年第63回アカデミー賞で最優秀作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、オリジナル作曲賞、編集賞、録音賞の7部門を制したのは「ダンス・ウィズ・ウルブズ」であった。この映画はまさにインディアンの悲劇そのものを取り扱ったものである。
  この映画はアメリカ人たちの心を揺さぶった。白人たちはいったい何をしてきたのか、インディアンたちは何を失わされてしまったのか、この映画はそれを正面から取り上げた。
  この映画の主演ケビン・コスナー自身、アイルランド系、ドイツ系、それにインディアンの血を合わせ持つ人物である。彼自身1800万ドルを出資し、独立系の映画会社でこれをつくった。
  この映画が完成し、出演したインディアンたちがこれを見たとき、全員が泣いたという。
  映画そのものに感動しただけではなく、独自の規律を持ち威厳と笑いにあふれた過去のインディアンの姿を見て、貧困と悲しみしかない現在の自分たちがもはやそのようになりえないことを思って泣いたというのである。
  数十年前、西部劇映画の撮影にインディアンたちがエキストラとして雇われるときには、「この映画ではインディアンが立派に取り扱われている。君たちの復権に関わることだ。協力していただきたい」と言われたが、実際にその映画ができあがってみるとインディアンたちは必ず裏切られた。白人たちの銃の下に虫けらのように殺されていく役回りにしかすぎなかったのである。
  それでも映画に出なければ、生活が成り立たなかった。インディアン居住区の中の生活は苦しい。行き場がない。そして貧困と麻薬とアルコール中毒……。
  ところが、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」という一本の映画が、アメリカ人や世界中の人びとの意識を変革していったのである。アカデミー賞7部門までがこの映画に与えられたことによってもわかる。
  イギリスのBBC放送も、あるドキュメンタリー番組を次のような言葉で閉じていた。

 
しかしインディアンには救いは訪れなかった。1890年12月、ウンデッド・ニーで合衆国の兵士たちが非武装のスーの一団に発砲した。たちまちのうちに300人以上が殺された。『私にはいまもはっきり見える。虐殺された女と子供の死体が谷に散らばっているのを。彼らとともに泥と雪の中で死んだものがもう一つある。それは人びとの夢である。人びとの絆は断ち切られ、中心は失われた。聖なる木も死んだ』
  このウンデッド・ニーの虐殺で、白人のインディアンへの戦争は終わりを告げた。そしてこれがインディアンがアメリカの歴史のページに登場した最後の瞬間であった。アメリカの先住民族であるインディアンが、白人によってついに打ち負かされたのであった。
 しかし野蛮なインディアンのイメージはその後も残った。生き残ったインディアンたちはそのイメージを背負ったまま白人に服従して生きていかなければならなかった。それは彼らにとってそれまで以上に過酷な試練になったのであった。
  最近の調査では、コロンブス以前に住んでいた先住民族の人口は500万人ほどであり、1890年にはそれがわずか25万人に減少した。同じ時期、白人の人口はゼロから増え続け、7500万人を超えるにいたった。


  このような民族間の軋轢、白人社会と有色人種間の争いを世界的な規模で広げていくと、いま日本が立たされている立場がはっきりと見えてくる。日本は有色人種の代表格の国なのである。

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04
人類を救う霊性と食の秘密
中矢伸一・著  廣済堂  1997年刊
世界の代表的宗教には「食」に関する規定がある
  今、西洋における菜食の歴史は古いと述べたが、日本の歴史とて相当に古い。
  縄文時代の食生活は、日常の摂取カロリーの約8割が植物性の食物から摂っていたというデータがある。例えば、海岸沿いにある千葉県古作遺跡の縄文人の人骨の炭素と窒素の安定同位体比の分析により、主要食料カロリーの80パーセントをクリやクルミなどの植物で補っていたことが判っているし、内陸部にある長野県北村遺跡の場合も、出土した縄文人の人骨の炭素と窒素の安定同位体比を分析した結果、エネルギー源の大部分を木の実に依存していたことが判明している。
  古作遺跡の場合、80パーセントの残り、11パーセントが魚介類で、残りの9パーセントが小型の草食動物である。クマ、シカ、イノシシなどの大型動物はほとんど含まれていない。このように日本人は、縄文時代の頃より、必要なエネルギー源の大部分を植物性の食料から摂取してきたのである。
  西洋での歴史も古く、古代ギリシャにまでさかのぽる。
  彼らが菜食を実践した理由は、彼らの思考に基づいている。つまり、本当に肉体的にも精神的にもに良い影響を与える「正しい」食べ物とは何かということを徹底的に「考え」、肉食が害を及ぼすものであることを「知り」、その結論を、様々な宗教の秘義と共に、思想的に体系化していったのである。
  また、世界の代表的宗教では、たいてい食に関する戒律があり、魚介を含む動物の一切か、特定の動物を食べないという習慣がある。
  仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、イスラム教などはその例で、キリスト教系の団体(セブンスデー・アドベンチスト教団など)にも菜食主義を実践しているところがある。
  仏教では慈悲の観点から、殺生を戒め、魚を含む動物性食を食べないし、同じくインドで生まれたジャイナ教に至っては、不殺生は徹底して実践されており、乳製品は認められているものの、絶対に肉、魚など、殺したものは食べない。
  彼らの道を歩く姿を見ていると、時々千鳥足のように歩くことがある。それは蟻を踏みつぶすことを避けているからである。
  仏教の不殺生については様々な解釈が行なわれており、日本国内には、かつての弘法大師や行基菩薩などの高僧・名僧のように食戒を厳格に守る僧侶は、今日ではほとんど絶無に等しくなった。
  ヒンドゥー教では、牛を神聖視することから、牛肉を食べない。牛以外の肉はその“汚れ度”で序列されており(牛→豚→鶏→羊の順)、カーストの最高位・ブラーマン(ヒンドゥー教僧侶)は、決して肉食をしない。
  ユダヤ教とイスラム教では、豚肉を食べてはいけないとされる。
  ユダヤ教の場合は、食べ物に関しては他にも細かい規定がある。それらは旧約聖書の『レビ記』第11章などに書かれてあることで、敬虔なユダヤ教徒はこれを何の疑いもはさまずに徹底して守る。また、イスラム教ではその思想の根本において菜食を重要視していることが伺われる。
  (中略)
  このように、世界の代表的宗教にはたいてい、食に関する厳しい規定がある。とくにある種の動物や魚を食すことを禁じている場合が多く、すべての獣肉や魚肉を禁じている例もある。つまりは菜食さえしていれば、こうした規定にひっかかることはないわけで、禁忌の対象となっているのは、常に動物性食なのである。

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03
世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰
波田野毅・著  ごま書房  2005年刊
  この国の人々は、今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人々は異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。
  彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。
  驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。
  大部分の人は貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とも思っていません。
                                       ──フランシスコ・ザビエル

日本人の民度の高さに驚く
  西欧人以外の多くの異人に接してきたザビエルは、日本人があまりにも民度が高く優秀なので驚き、前掲のような讃嘆を繰り返し繰り返し述べています。おそらくザビエルは、ヨーロッパよりも日本の文化の水準の方が高いと感じたのでしょう。
  たとえば、「好奇心が強く、しつこく質問し、知識欲が旺盛で、質問はきりがありません」「とても気立てがよくて、驚くほど理性に従います」「日本の人々は慎み深く、また才能があり、知識欲が旺盛で、道理に従い、その他様々な優れた素質がある」と言い、その優れた資質に驚きをかくしていません。
  日本人は、地球が丸いことや太陽の軌道を知りませんでした。しかし、知識欲旺盛なため、いろいろ知りたいと思い、そのようなことや流星、稲妻、雨、雪のことなど次々に質問しました。そして答えを聞き、説明を受けると、大変満足して喜んだといいます。
  さらにザビエルを驚嘆させたのは「大部分の人は読み書きができる」ということです。識字率は少なくとも自国のスペインの民よりは高そうだし、今まで接してきたインド、中国の人よりも一般日本国民は読み書きができるということに驚いたことでしょう。

清貧を良しとし名誉を重んずる
  また、清貧を良しとし、名誉を重んじるということが、日本人の特徴として特筆されています。「日本人たちは、キリスト教の諸地方の人々が決して持っていないと思われる特質を持っています。それは武士たちが、いかに貧しくとも、そして武士以外の人々がどれほど裕福であっても、大変貧しい武士は金持ちと同じように尊敬されています」「名誉は富よりもずっと大切なものとされています」。
  武士は名誉が大切なため、お金儲けのような不名誉な行為に走ることがなく、よって下から絞りとって、自分を富ませるということもありませんでした。ですから貧乏にはなりますが、不正は少なく、民は潤い、よい社会になっていきます。

西欧の魔手から逃れられた理由
  ザビエルは純粋に布教の希望で日本に来たものと思われます。しかし、植民地化の先兵としての役割をはたしていた宣教師も多かったのです。宣教の名のもとに他国に入り込み、それを足がかりにして侵略していくという手法です。
  明治維新後日本に来たチェンバレンは、こう言います。「わがキリスト教と人道主義をふりかざす人びとが、実は単なる偽善者に過ぎないことを──どの東洋諸国民も知っているので──彼ら(日本人)もまた充分によく知っている」
  大航海時代はその実、ヨーロッパ諸国の大侵略時代でした。東南アジアは多く植民地化され、日本にもその魔の手は来ました。しかし西欧は、他の民族とは違うものを日本に見て、征服することに困難を感じました。その理由は……、
@武士の存在  名誉心が強く、人に誇りを傷つけられるのなら、死を賭してでもそれを防ぐという武士は、征服する側としてはとても手ごわい存在だったでしょう。イタリアのイエズス会巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは「日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら(中略)国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服可能な国土ではない」といっています。
A進取の気風がある  種子島に鉄砲がきて、2挺買い取ったらすぐそれを自らの手で作り上げ、10年のうちに日本に普及させる日本人の凄さ。これは新しい物を取り入れる気概と明敏さがあり、また、伝達網がしっかりしているということです。進取、自主ができない国が一般的で、植民地化されてしまいました。
B民度の高さ  字の読み書きできる人が多く、理知的で理解が早い。高い道徳性で秩序が保たれている。つけいるスキもない。
C上の命令はよく聞き、統率が取れている  いざ戦いとなると手強い存在。
D地理的条件  日本はヨーロッパから遠く、また東南アジアの植民地からも距離があり、海に囲まれ征服の軍を出すにしても陸続きの兵站の供給ができない。さらに前記理由の手強さを見るに、乗り込んでいっても、苦戦し、兵站の供給にも困り、よって勝つのは困難と考えたのでしょう。
  これらの理由により諸外国は、単純な征服は手控えざるをえませんでした。そこで、作戦変更し、まずは宣教または貿易で門戸を開かせ、足がかりを作り、しかる後、戦争にもって行く、そんな作戦だったでしょうが、江戸期の指導者はそれを見抜きいわゆる「鎖国」という政策を実施し、相手が来られないようにしたわけです。
  プロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカテリーナ2世に大きな影響を与えた、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール (1694〜1778)は、『習俗試論』という大著を著していています。その本文の最終章は、なぜか日本についての記述で、「17世紀の日本と同国におけるキリスト教の消滅について」という題で、以下のように述べています。
  「日本人は寛大で、気安く、誇りの高い、そして、その決断に関しては極端な一民族である。彼らは最初異国人たちを好意をもって受け入れた。ところが、自分かちが侮辱されたと信ずるや、彼らときっぱり縁を切った」と述べ、キリスト教の日本壟断の意図に対する日本の英断を称えています。
  インドの首相ネルーは、この時期の日本についてこう述べています。
  「むしろかれらが、ヨーロッパとほとんど交渉がなかったにもかかわらず、宗教という羊の皮をかぶった帝国主義の狼を看破る洞察力をもっていたことこそ、驚くべきことだ」
  このようにして、西欧の恐るべき植民地化の罠から脱した日本は、世界史的にも特筆すべき長期の平和な江戸時代を築きました。

ひとくちコメント ―― 次々と植民地化してきたアジアの国々と違って、日本人は大変手強い国民であることがわかったため、西欧の“魔の手”も江戸時代の日本を侵略することはできなかったのです。しかし、決して日本侵略をあきらめた訳ではなく、やがて戦艦や大砲など侵略用の武器が発達した段階で、決定打としてはペリーによる“黒船の襲来”という形で、日本侵略の橋頭堡が築かれたのでした。250年にわたって続いた江戸時代の泰平の夢はついに破られたのです。
  ところが、その後日本は明治新政府のもとでまたたく間に欧米諸国と肩を並べるほどに国力を高めます。改めてこの国の手強さに脅威を感じた西欧の“魔の手”は、昭和に入って日本を太平洋戦争へと誘い込み、今度はこの国と国民の優れた部分を完膚無きまでに破壊し、支配しやすい国民に作り替えてしまいました。その結果として、今日では自己中心でお金に卑しい人々が増えることになったのです。なまじ日本人が優れていたために、“魔の手”によって徹底的な破壊の対象にされたということです。
  外国人の目に映ったかつての日本人がいかに優れた民族であったかということについて学ぶことがなければ、国民はますます自信を失い、自虐的になって、やがては完全に滅んでしまうことになるでしょう。この本を読みますと、単にこの国の現状を嘆いているのでなく、日本人が本来は大変優れた資質を持った国民であることを誇りに思い、それを若い世代に伝えていく必要性を痛感させられます。(なわ・ふみひと)

02
縄文宇宙文明の謎
太古日本の世界王朝と超古代核戦争の真相
高橋良典・著  日本文芸社  1995年刊
ついに始まった、恐るべき縄文文明の再評価
  いまの教科書によれば、縄文時代の人間は毛皮をまとった狩猟・採集民族だということになっており、縄文時代に現在の日本とほとんど変わらない巨大な国家があった可能性については、ひと言もふれられていない。
  およそ国家といえるものは、大和朝廷が日本の各地に大規模な古墳を造りはじめた紀元4〜5世紀に初めて生まれたものであって、それ以前の日本には邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した女王国の30カ国と、その女王国連合に属さない狗奴(くな)国ほかの70余国があったという程度で、3世紀以前の日本は、村落規模の小さな集落がようやく誕生しはじめた、原始的な段階にあったと説かれている。
  しかし、つい最近、青森県の三内丸山で発見された遺跡や、栃木県の小山市郊外で見つかった寺野東遺跡などの規模をみれば、それらの遺跡が、数百人程度の縄文集落の人間の手になったものでないことははっきりしている。
  石川県の真脇遺跡やチカモリ遺跡で見つかった縄文家屋の柱の太さは1メートルもあり、それより千年以上あとにつくられた奈良県東大寺の大黒柱よりはるかに大きい。
  秋田県の能代市郊外にある杉沢台遺跡の縄文家屋は、長径31メートル、短径8メートルという、それこそ現代人の一般住宅をはるかに超える巨大な楕円形家屋だ。
  そしてこのような縄文家屋に住んでいた当時の人々が、どれほど高度で洗練された生活をしていたかは、福井県の鳥浜遺跡から出土した漆塗りの櫛(略)を見ていただければわかるだろう。
  この櫛は、想像力に乏しい学者によれば、たんに女性が頭につけたヘンテコな飾りものにすぎない。が、これはいまから三千年前にエジプトのカルナックに都を定めて地中海・アフリカ世界を中心に世界を治めたエジプト・テーベ王朝(いわゆる第一八王朝)の女王が身につけていた櫛と同じものなのだ。
  このようなすばらしい櫛が出土した福井県の鳥浜遺跡からは、西アフリカのナイジェリアやガーナでしか自生しない“ひょうたん”の種子が大量に出土している。また、アフリカと日本のちょうど中間にあるインドが原産地の“緑豆”の種子もたくさん見つかっている。
  これらの事実は、いまから三千年以上前の日本人がインドやアフリカと密接なつながりをもっていたことを示しているだけでなく、紀元前10世紀から前8世紀にかけて栄えたエジプト・テーベ王朝ゆかりの人物がインド経由で日本にやって来たことをも意味している。
  エジプトのセン・ネジェム王の墓には左図(略)のように特徴的な船の壁画が描かれているが、これとまったく同じ船の絵が九州の珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画にもある。
  このように特徴的な船は“ゴンドラ”と呼ばれ、エジプト・テーベ文明の広がりとともに世界各地に伝播していったことは、すでにイギリスの高名なエジプト学者であるエリオット・スミスが証明ずみだ。
  そして実際に、日本の大阪湾に面する縄文時代の港の跡から古代エジプトの“ゴンドラ”と同じものが出土したり、鳥浜遺跡がある福井県・若狭湾の別の遺跡から出土しな弥生の銅鐸にも“ゴンドラ”が描かれている。
  奈良県清水屋遺跡(天理市)出土の土器に描かれた古代の船(前頁)が外洋航海に耐えられる大型のゴンドラ船であったことは、新聞報道などですでに周知の事実だ。
  縄文時代の日本人がこのような船に乗って世界各地をかけめぐっていたことは、ようやく最近認められはじめてきたが、当時の日本人の生活ぶりが現代とさほど変わらない高度なものであったことは、いまも相変わらず知られていない。
  が、山梨県の釈迦堂遺跡からは当時の人々が使った水晶製のスプーンが出ているし、茨城県の椎塚貝塚からは上図のようにみごとな急須が出土している。長野県から新潟県、そして北陸地方にかけては芸術的に洗練された“火焔土器”が出ているし、青森県の是川遺跡からも現代と変わらない漆塗りの製品が大量に見つかっている。
  縄文時代の八ヶ岳(長野県・山梨県)一体には、それこそ何十万人もの人が住み、“パン”を食べたり、“蒸し物”を食べていたことが、この地域から出土した土器によって確かめられている。 当時の縄文人が現代人と同じような骨格を持ち、結構虫歯も多かったことは、いまと同じように食生活が豊かであったばかりでなく、現代人と同じような病気に悩まされていたことも示している。

ひとくちコメント ―― 縄文時代が現代と変わらぬような高度な文明を持っていたことについては、最近の史跡の分析等から明らかになりつつあります。紀元前の縄文人は世界的な規模で活躍したと見られ、しかも“空飛ぶ乗り物”に乗って世界各地を飛び回っていたとも考えらる、と著者は分析しています。日本の縄文土偶と同じものが、メソポタミアをはじめ黒海の西部からカスピ海の東部・南部にかけての地域でも出土しているのです。さらにこの本では、これまで西洋や中国の学者によって組み立てられてきた紀元前の世界史がほとんど虚構であるという分析もされています。古代史の入門編として興味の尽きない本です。(なわ・ふみひと)
01
古神道のヨミガエリ
山田雅晴・著  徳間書店  1994年刊
高次元存在の正体はサニワをしないとわからない
 近年、日本でもチャネリングやリーディングがブームになっています。
 チャネリングは宇宙の意識や霊的存在にチャンネルを合わせてそのメッセージを聞くことですが、これは一種のシャーマニズムであり、古神道の鎮魂帰神法の変形だと見ていいでしょう。また、いろいろな霊能者が予言やお告げを行なっていますが、これも同様です。
 鎮魂とは自己の魂をきちんと鎮め、コントロールする方法を指し、帰神とは神懸かりを指します。つまり鎮魂帰神とは、神や霊を自分の体に憑からせ、コンタクトすることを言うのです。
 古神道では、鎮魂帰神を行なう場合、必ず神主と審神(サニワ)とがセットになっています。神職の俗称を神主といいますが、本来の神主とは、神と交信するする人物(依り代、台ともいう)のことなのです。そのとき、神主に憑かった神霊が、はたして本当に由緒正しい神なのか、それとも低級霊のイタズラなのか、あるいは降りてきた神示が有益なものなのかどうか、判断する役目をサニワと呼びます。
 サニワは、神事において降臨した神霊やメッセージの真偽・レベルを分析し、判定します。たとえば八幡大神を名乗る神が神主に憑かった場合、サニワは神話や霊学の知識をもとに、さまざまな問答を行ないます。それで神霊の言っていることには信憑性があるとなれば、これは本物の八幡大神だろうと判断し、御神示をうかがいます。しかし、辻つまの合わないことや次元の低いことを言う場合、「おまえは八幡大神ではない!」と喝破することもあるわけです。
 考えてみればあたりまえです。神霊を降ろしたと言っても、それが本当なのかどうか、その神霊の言葉からだけではわかるわけがありません。「私は天照大御神です」と名乗っても、どうしてそれをそのまま鵜呑みにすることができるでしょう。
 一般社会でも、いきなり人の家に訪ねてきて名前を名乗る以上は、身分を証明するものがなければ信じてもらえないのといっしょです。専門的見地からそれを判断するのが、サニワの役目なのです。
 サニワは沙庭とも書きます。もとは清場(サヤニワ)の意味で、神の神官をいただくために清められた場所のことでした。それが転じて沙庭と呼ばれるようになり、その沙庭で神託の意味を判断する人のことをサニワビトと呼ぶようになりました。それに漢字で意味を当て審神者(サニワビト)となり縮まって審神(サニワ)になったというわけです。
 古神道では、何でもかんでも目に見えないお告げをあてにするわけではありません。神と自称するものを信じることの危険性をよくわかつているからです。だから、神主とサニワのペアによる神うかがいという形が、古代から伝承されてきたわけです。
 現在の百花繚乱のチャネリング・神示をみると、チャネラーや霊能者といった神主は数多く存在するけれども、送られてきたメッセージの真偽や有効性、送ってきた存在の正体を見極めるサニワがほとんどいません。そして本当だか嘘だかわからない霊的メッセージを、一般の人が信じこんで右往左往しています。これは精神的にあまり健全な状態とはいえません。私たちの一人ひとりが、しっかりしたサニワという視点を待ち、霊的な問題に充分な判断力を待ちたいものです。
メシア待望論はタナボタ的思考になりやすい
 ニューエイジ運動や終末的宗教活動をやっている人たちには、観念的で現実逃避型の救世主待望タイプが多いように見受けられます。また、社会的な評価が得られなかったり、自分の生活がうまくいかないので、神様やUFOのことに夢中になっている人も少なくありません。
 こういう人たちは純粋な人ではありますが、心の奥にどこか現実を直視したからないところがあるようです。地に足がついていないとでも言ったらいいでしょうか。
 UFO待望論者の思想は次のようなものです。
 「地球まで来れる科学力を待った宇宙人は、今の地球人より高度な文明を待っているのだから、やがて、いまの政治や経済、宗教も、まったく変わってしまう。特に、宇宙人の社会は貧困や災害が存在しないことになっている。いわゆるみんなが幸せなユートピアだ。それが地球にもたらされるわけだから、もうあくせく働くことも人間関係で苦労することもなくなる」
 というわけです。
 宇宙人が空からタナボタ式に、地球に幸せをもたらしてくれるというのですが、これは一種のメシア思想だと考えていいでしょう。地球が危機に陥ったとき、ウルトラマンのように救世主がやって来るという考え方なのです。マイトレーヤ(ミロク)の下生も同じパターンです。
 そうなると人間は、現状を自力で打開しようという意欲が薄れてしまいます。また、選ばれた人間のみが救われるという選民思想にもつながります。ここに問題があります。私自身はUFOや宇宙人の存在を認めていますし、宇宙人が地球人類のいろいろな問題に対してアドバイスするという形で姿を現していると思っています。江戸時代の書物にも空飛ぶ円盤らしきものの目撃談が載っていますし、宇宙人の存在自体は疑いようがないと思います。
 しかし、だからといって宇宙人が地球を助けてくれるというムシのいい考えはさすがに持てません。仮に宇宙人がボランティアの心で地球に救いの手を伸ばしてくれたとして、それにただすがることが、はたして本当に人類のためになるのでしょうか。私はそうは思いません。
 古神道では、ただボーッと待っているだけで救いが与えられるとは考えません。だからこそ行法によって自らのケガレを祓い清め、ナオヒを輝かせようと努力するわけです。そのうえで高次元からのお陰をいただくのが古神道の考え方です。自分は何もしないで、ただメシアを待望するだけではミソギにもタマフリにもなりません。ということは、御魂はケガレたままなのです。
 一人ひとりの魂の向上なくして人類の危機が回避できるとは、とても思えません。

ひとくちコメント ―― 霊界通信や宇宙人からのメッセージの危険性を述べています。日本に古くからある神道の教えでは、サニワ(審神)を非常に重視し、その方法についてもさまざまな研究が重ねられてきたのです。しかしながら、今日のように次元の壁が薄くなりつつある時代においては、異次元(霊界・幽界)の存在からさまざまな形でこの世界の人にアプローチがなされるようになり、全くサニワ(審神)されないままにいろいろなメッセージを取り次いで世を惑わす人が増えているということです。「神様の声が聞こえた」と言って感動するような心のレベルでは、いともあっさりと魑魅魍魎の餌食にされてしまます。サニワの素養もない一般の人が取り次ぐ異次元からのメッセージには要注意です。(なわ・ふみひと)

「サニワ」についてはこちらも参考になると思います。 
→ 太神の布告