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【後藤 光利レポート】第1回 社会経済構造の変遷から人事制度を考える

戦後からバブルまでを振り返る

筆者はバブル時代に大学・就活期を過ごした正にバブル世代である。今思い起こして見ると異常な時代のようにも思えるが、戦後の日本経済勃興の最頂点であったとも言える。

戦後、日本は二度のオイルショックによる不況を経てきたが、大きく捉えれば一貫して右肩上がりの世の中だった。そんな中、日本的人事施策の集大成とも言える「職能資格制度」が世に出て、バブル崩壊まで日本企業の人事戦略を規定してきた。Japan as No1 などと謳われた時もあり、日本企業の強みとして機能してきたことに異論はないところだと思われる。

戦後からバブル崩壊までは、いったいどんな世の中だったのだろうか?そこを振り返ってみることで、現在の日本企業が抱える人事戦略の問題点が浮かび上がってくると考えている。
では、ざっくりと世相を振り返ってみよう。

人口 増え続けていた。
1970年代頃まではおよそ10%前後の増加率だったが、その後徐々に低下し、バブル崩壊時で2%台。(2005年からは人口減少局面に入っている)
GDP 膨らみ続けていた。
第一次オイルショックまでの成長率は平均9.1%、その後バブル崩壊までは平均4. 2%。(バブル崩壊以降は平均0.8%)
社会インフラ 手に入れたいと思っていた。
家電三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)・新三種の神器(カラーテレビ・車・エアコン)という言葉があったように、これらの耐久消費財を手に入れることに喜びを感じていた(=まだ持っていなかった家庭も多かった)。お父さんは、「いつかはクラウン」と夢見ていた。
産業構造 鉱工業が主役だった。
ちなみに、総務省の産業別常用雇用指数データを見てみると、2008年を100とした場合1985年は、鉱業が約450、繊維工業が約380となる。バブルの走りの時期でも、現在とは大きく構造が異なるのである。
大学進学率 一部の人だけが進学していた。
バブル期でもおよそ25%程度(現在は40%を超えている)。受験競争は激しく、大きく見れば大学生とは選ばれた人だった。「学卒」という言葉が重みを持ち、企業はその価値を認めていた。
正規雇用者割合 高い水準で安定していた。
1985年で約84%(2008年では約66%)。就職=正社員の構図が成立していた。ちなみに、1997年 に人材紹介業の規制緩和が実施されるまでは、転職も今のように活発には行われなかった。
 

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職能資格制度が成立・発展した社会経済背景

さて、もうお分かりのように、職能資格制度が有効だった環境・背景・条件は、完全に無くなったのである。それでもなお職能資格制度をベースに人事制度を考えれば、日本企業は、自らの牙を伸ばし続けた為に滅んだサーベルタイガーや氷河期に適応できずに絶滅したある種の爬虫類のように、自らを死に追いやる危険があるのである。もちろん、今でも職能資格制度が最も適しているという会社は存在する。職能資格制度をすべて否定する必要はないことも付け加えておくが、それはあくまで少数派なのである。

次回は、今後(将来)の人事を取り巻く状況をざっくり捉え、課題や改革の方向性を探っていく。

レポート担当

(株)日本経営協会総合研究所 コンサルタント 後藤 光利

機械部品メーカー・テレマエージェンシー・通信機器販売会社・半導体商社を経て独立、Gコンサルティングを設立。大企業から中小企業まで、様々な規模・業種・業界の会社で人事戦略・制度改革・運用に携わる。

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