英雄達の憂鬱 平和への軌跡
王都グランセル編
第四十話 クローゼの決断
シェラザードにたっぷり飲まされた次の日、エステルとヨシュアは頭を手で押さえながらしんどそうな顔で遊撃士協会へと顔を出す。
「うーっ、頭がガンガンする……」
「僕もだよ……」
「どうやら、大変な目にあったみたいだね」
そんなエステルとヨシュアの姿を見たクルツが同情したように声を掛けた。
「シェラザードのやつは底無しだからね、あんた達が来てくれて助かったよ」
「僕達は当て馬ですか」
「アイナさんが相手をしてくれればいいのに」
カルナの言葉にヨシュアとエステルはウンザリとした顔で答えた。
そしてエステルは頭を抱えてしまう。
「今夜までに暗号を解かないといけないのに」
「おや、昨日の依頼がヒントになったはずなんですが、まだ解けませんか?」
「すいませんエルナンさん」
エルナンに言われて、ヨシュアは謝った。
「あたしもずっと暗号文とにらめっこしているんだけど、解けないのよね」
「諦めたらそこで終わりさ。最後まで悔いの無いように頑張れ」
「はい、ありがとうございます」
励ましてくれたクルツにヨシュアはお礼を述べた。
「クルツさん達はどんな依頼なの? なんか洞くつにでも潜るような感じだけど」
「ああ、私達は遺跡を調べに行くんだよ」
カルナが答えるとエステルは目を輝かせる。
「遺跡!? 面白そう、あたし達も行きたい! どこにあるの?」
「君達の依頼と同じで詳しい事は話せないんだ。君達もあまり口外しないで欲しい」
「そっか、残念」
クルツに言われて、エステルは残念そうにため息をついた。
そして、クルツ達はエステルとヨシュアに手を振って遊撃士協会を出て行った。
遊撃士協会の受付にはエステルとヨシュア、エルナンの3人が残された。
「困りましたね、私が直接あなた達に暗号の答えを教えれば早いのですが、それではあなた達の為になりません」
「でも、依頼を失敗するわけにはいかないし」
「お願いします、エルナンさん」
渋るような顔をしたエルナンに、エステルとヨシュアは頼み込んだ。
その時、息を切らせたアルバ教授が遊撃士協会の受付に駆け込んで来る。
「大変です、資料館の展示物が盗まれてしまいました!」
「何ですって!?」
アルバ教授の言葉を聞いたエステルは驚いて叫び声を上げた。
「とりあえず、落ち着いて何があったのか話してください」
「はい」
エルナンの言葉にアルバ教授はうなずくと、初めから事情を話し始めた。
アルバ教授はグランセルの歴史資料館でしばらく働かせてもらう事になり、展示物の管理も任された。
しかし、アルバ教授だけが資料館に残った夜、事件は起きてしまったのだ。
「このままでは私が犯人と思われてしまいます、職を失った上に牢屋に入れられてしまうなんてあんまりです」
「本当にアルバ教授が犯人じゃないの? ほら、ギャンブルで借金をしちゃったからこっそり盗んじゃったとか」
「自首をするなら僕達もついていきますから」
エステルとヨシュアがそう言うと、アルバ教授は真っ青になって必死になって訴えかける。
「エステル君、ヨシュア君、悪い冗談はよしてくださいよ」
「これにこりたらギャンブルは止めることね」
エステルはそう言ってアルバ教授に向かって微笑んだ。
「でも教授はよく解放されましたね。資料館の人から軍に突き出されてもおかしくない状況なのに」
「それは犯行現場にこのようなカードが置かれていたからなんですよ」
アルバ教授はそう言ってエステル達にカードを見せた。
そのカードは見覚えのある怪盗紳士のカードだった。
「まあ、このカードも私が作ったのではないかと疑われているんですけどね」
アルバ教授は困った顔でため息をついた。
エステル達がカードを見ると、そこには怪盗紳士が書いたと思われる暗号文が書かれていた。
「うーん、いかにも怪盗紳士が考えた暗号ね」
「気のせいかな、この前見たカードと似た感じがするんだけど」
「どういう事?」
「数字が文章の全部の行に1つずつ入っているんだ」
「なるほど、暗号の答えを知っている怪盗紳士が書いた可能性が高いわけね」
「そうでしょう、そうでしょう」
「何でアルバ教授がそんなに得意気なのよ」
「い、いや別に、感心しただけです」
エステルとヨシュアのやり取りを聞いてうなずきを繰り返したアルバ教授にエステルが突っ込みを入れた。
「分かりました、それではこの依頼はエステルさんとヨシュアさんに引き受けてもらいましょう」
「ありがとうございます、助かりました」
話を聞いていたエルナンが穏やかに言うと、アルバ教授は嬉しそうにお礼を言った。
資料館の館長に報告しに行くとアルバ教授が遊撃士協会を立ち去った。
残されたエステルとヨシュアにエルナンが声を掛ける。
「エステルさん、ヨシュアさん、前の怪盗紳士のカードによって指定された待ち合わせまで時間は残されています。今日の夕方まで諦めずに考えてみてください」
「分かったわ、頑張ってみるわ」
「努力します」
エステルとヨシュアはエルナンの言葉にうなずいて遊撃士協会を出た。
<グランセルの街 東区画 ソルベ屋>
意気込んで遊撃士協会を出たエステルとヨシュアだが、怪盗紳士が書いたカードの文章をにらみつけても何も浮かばない。
「うーん、前より文章は短くなっているみたいだけどやっぱりわからないわ」
「数字がヒントだってカンパネルラさんも言っていたんだけどね」
「あーっ、頭から煙が出て熱が出てきそう」
「それは大げさだよ」
「こういう時は頭を冷やすのが一番!」
エステルはそう言ってヨシュアの腕を引っ張った。
驚いたヨシュアは驚いてエステルに尋ねる。
「ちょっと、どこへ行こうとしているのさ?」
「東区画のね、百貨店の向かいの広場にアイスクリームのお店があるって聞いたんだ!」
「あのねエステル、僕達はアイスクリームを食べている場合じゃ……」
そこまで言ったヨシュアはエステルの無邪気な笑顔を見ると続きが言えなくなってしまった。
そして、エステルに逆らう事はできなくなった。
「仕方ない、じゃあアイスクリームでも食べて気分を入れ替えようか」
「それじゃ、レッツゴー!」
エステルはヨシュアをロレント地方のミストヴァルトの森へ虫取りに誘う時のようにヨシュアの手を握ってダッシュした。
自分達は成長したように見えてこんなところは変わらないなとヨシュアはくすぐったい気持ちになった。
東区画にあるアイスクリームの店『ソルベ屋』はカップルに人気のある店のようで、行列の中には体を寄せ合っているカップルが多数並んでいた。
「えっと、この行列に交じると僕達もカップルに見えてしまうよね」
「アイスクリームを食べるためなんだから、我慢しましょう」
ヨシュアの言葉にそう答えるエステルの顔も赤くなっていた。
行列に並んだエステルとヨシュアは、前後をアツアツカップルに挟まれて手をつなぐお互いの手から汗がにじみ出ているのを感じた。
目的の場所に着いたのだから手を放しても良いのだが、周りの雰囲気に飲まれて手を放すことができなかった。
「あたしの手ってさ、ゴツゴツして女の子らしくないでしょ? ほら、こんなグローブまでつけてるし」
エステルが恥ずかしそうにヨシュアに尋ねると、ヨシュアは首を横に振って答える。
「別に女の子の手は綺麗じゃなければいけないってわけじゃないし、エステルらしい手だよ」
「そ、そっか……」
ヨシュアの言葉を聞いて、エステルはますます顔を赤くした。
そしてお互い黙ったまま手の感触だけを感じる時間は過ぎて行き、エステル達の番になった。
「あの、遊撃士の方ですか……?」
エステルがアイスクリームを注文しようとすると、店員がエステル達の準遊撃士の紋章に気が付いて声を掛けて来た。
「ええ、そうですけど」
「今日、お客様からアイスのお代と一緒にこんなカードを頂いたんですけど、困ってしまって」
そう言って店員がエステルに差し出したのは怪盗紳士のカードだった。
「えっ、これって」
「怪盗紳士のカードのようだね」
「最初は私宛のラブレターなのかなと思ったんだけど、変な文章で意味が分からないし。気味が悪いわ」
驚いて怪盗紳士のカードを食い入るように見つめているエステルとヨシュアの前で、店員の女性は迷惑そうな顔でつぶやいた。
「分かりました、単なるイタズラだと思いますが調べてみます」
「ありがとう、助かったわ。私は店から離れるわけにはいかないから、頼みに行きたくても頼めなかったの」
ヨシュアが調査を引き受けると、店員は安心した顔になった。
「そう言えば、カードを渡したお客さんってどんな人だったの?」
「何か優しげで気が弱そうな男の人だったわ。だから、カードが私宛のラブレターだと思った時は胸がときめいたんだけどね……はぁ……」
エステルが尋ねると、店員はウンザリした顔でため息をついた。
「うーん、さすがに素顔でアイスクリームを買いに来たりはしないか」
「怪盗紳士と言うだけあって、変装が上手いみたいだね」
エステルとヨシュアは顔を見合わせてそうつぶやいた。
「それで、ご注文は何になさいます? 依頼を引き受けてくれたお礼におまけしちゃいますよ」
「じゃあ、アレとコレとアレもソレもコレもお願い!」
「エ、エステル、そんなに食べきれないよ」
戸惑うヨシュアの目の前で、アイスタワーが積み上がって行くのだった。
そして両手にアイスタワーを持ったエステルは、あきれ返るヨシュアと一緒に東区画の休憩所のベンチに座る。
「さてと、どっちが良い?」
「じゃあ、左手に持っている方をもらおうかな」
「はい」
エステルが左手に持っていたアイスクリームを渡すと、2人は黙ってアイスクリームを食べ始めた。
そしてしばらくするとエステルはヨシュアに話し掛ける。
「さ、交換しよ」
「えっ、交換って、エステル、それじゃ……」
「気にすることないのよ、あたし達家族なんだし」
エステルは家族という部分を強調すると、ヨシュアからアイスクリームを取り上げて交換した。
旅に出てから、エステルはヨシュアの事を意識し出したはずだが、こう言うところは変わっていないのかなとヨシュアは思った。
「あーっ、エステルちゃんにヨシュア君だ!」
エステル達がアイスクリームを食べていると、リベール通信社のカメラマン、ドロシーが笑顔で声を掛けてきた。
「今日はドロシーさんだけでお仕事なの?」
「ううん、今日はナイアル先輩が忙しいから、お休みをもらったんですよ。脅迫状が編集部に届いたらしくて」
「脅迫状だって!?」
エステルの質問にドロシーがそう答えると、ヨシュアは驚いて叫んだ。
「アリシア様の生誕祭を中止にしろとか書いてあったみたいですよ。でも、遊撃士の人に頼んだってナイアル先輩が言ってました」
「誰が引き受けたんだろ?」
「多分シェラザードさんかグラッツさん辺りじゃないかな」
ドロシーの言葉を聞いてエステルが尋ねると、ヨシュアはそう答えた。
「ふーん、じゃあ任せて安心ね」
「で、私もアイスを買いに来たんですけど……」
エステルがホッとため息をつくと、ドロシーは物欲しげにエステルとヨシュアが持っていた食べかけのアイスクリームを見つめた。
「よかったら、残りを食べる?」
「わあ、いいんですか?」
「ダメっ!」
ヨシュアはそう言ってドロシーに食べかけのアイスクリームを差し出そうとしたがそれをエステルが止めた。
その止めた意味に気が付いたドロシーがニヤケ顔になってエステルを見つめる。
「なるほど、そうですか。確かにヨシュア君が口をつけたものを私が食べるのはマズイですよね」
「そ、そういう意味じゃなくて、最後まで食べないのは遊撃士としてのケジメとして良くないというか……」
「分かったよ、最後まで食べるから。ごめんなさい、ドロシーさん」
「いえいえ」
顔を赤くしてうつむいてしまったエステルに、ヨシュアはおかしそうに笑いながらそう言った。
「じゃあ私は買いに行くね、ごゆっくりー!」
ドロシーはそう言ってエステル達に手を振って屋台の方へ姿を消した。
ドロシーの姿が消えた後、エステルはウンザリしたようにつぶやく。
「まったくドロシーさんってば、あたし達はそんな関係じゃないっていうのに」
「それならどんな関係?」
「そりゃあ、家族であり、遊撃士のパートナーで……そんなところよ」
ヨシュアの質問にエステルはしどろもどろにそう答えるのだった。
<グランセルの街 歴史資料館>
休憩時間が終わり、甘くなったムードを切り替えたエステルとヨシュアはカードがなぜソルベ屋にあったのか考え始めた。
偶然な幸運とは言え、答えが解ったことは暗号解読の重要な手掛かりだった。
そして手帳に数字を書いていたヨシュアはついに暗号を解いた。
各行に仕込まれていた数字は、その行で拾い読みすべき文字を頭から数えて指示していた。
だから先日の怪盗紳士のカードの文章の暗号の答えは後述の通りになる。
『ろうそくの灯りに照らされ踊る1つの影。
5人の見まわりの目をくぐり抜け、我は部屋へと忍び込んだ。
盗みしは10通のメール。
我がルールにより、3時にこのカードを残す。
取り戻したいのならば、6行の文をじっくりと読むのだ。
そして20日の夜に姫自ら指定の場所へ行け。』
1行目→ろ
2行目→ま
3行目→ー
4行目→る
5行目→い
6行目→け
解答『ろまーるいけ』
ロマール池と言えば昨日の釣り場調査の依頼で訪れた場所だ。
ヨシュアが話すと、エステルは納得した顔になったがすぐに疑問の声を上げる。
「でもさ、あそこにはハーヴェイ一座のテントがあって、カンパネルラさんとブルブランさんが居るんじゃなかった?」
「そうだね、怪盗紳士がそのことを知らないとは思えないんだけど」
エステルの疑問にヨシュアも納得したようにうなずいた。
「じゃあ早速クローゼに教えてあげなくちゃ!」
「いや、僕達は歴史資料館から盗まれた展示物を取り戻す依頼をこなす方が先だよ。それに連絡するのはこの暗号の解答が正しいって確定してからにしよう」
「そうね、間違っていたらマズイものね」
そしてソルベ屋の店員から受け取った怪盗紳士のカードの謎も同じ手順で解き明かし、エステル達は次のカードを手に入れた。
その手順を数回繰り返し、エステル達はついに闘技場の控室に隠されていた盗まれた展示物を取り戻した。
「いやあ、本当に助かりました」
事件を解決したエステル達にアルバ教授は深く何回も頭を下げてお礼を述べた。
盗まれた展示品が戻って来た事で館長や資料館のスタッフとも仲直りできたようだった。
しかしエステルには引っかかるものを感じたのか腕組みをしてつぶやく。
「でも怪盗紳士は何で短期間に事件を起こしたのかしら」
「もしかして、何としてでも僕達に暗号を解いてほしいと思って難易度を落とした謎解きを用意したのかもしれない」
「ヒントをくれたって事? そのためだけに巻き込まれたアルバ教授は災難ね」
「いやあ、全くです」
アルバ教授はヨシュアとエステルのやり取りを聞いて、穏やかに微笑んでため息をもらした。
歴史資料館を出たエステル達は、遊撃士協会への帰路を急ぐ。
エステルは怪盗紳士がカードで指定した場所はロマール池だと書いた手紙を待ち合わせ場所の遊撃士協会の前で待っていたジークの足にくくり付けた。
手紙を受け取ったジークは鳴き声をあげてクローゼの元へと飛んで行った。
クローゼだけを行かせるのは不安だったので、エステルとヨシュアは遊撃士協会でクローゼと合流してロマール池へ向かうことになった。
<グランセル地方 ロマール池>
遊撃士協会で待っていたエステル達の所に、クローゼはジェニス王立学園の制服を着て姿を現した。
駆けて来たのかクローゼは少し息を弾ませて穏やかな笑みを浮かべてエステル達に声を掛ける。
「お待たせしました」
「よく抜け出して来れたわね」
「ふふ、王宮を出るときはエステルさん達と同じメイドの格好をして出て来てしまいました」
エステルに尋ねられて、クローゼはクスクスと笑いながらそう答えた。
クローゼと合流したエステルとヨシュアはロマール池へと出発した。
遊撃士協会を出る時、エステルが心配そうな顔をしてクローゼに尋ねる。
「でも外を出歩いて騒ぎにならない?」
「まだ私の顔は知れ渡って居ませんから。今度のお祖母様の生誕祭の時、王女として出席する事になります」
「そっか……」
クローゼの答えを聞いて、エステルは切なげな表情になってため息をついた。
そしてクローゼはごまかし笑いのようなひきつった笑顔を浮かべて話を続ける。
「デュナン侯爵にも以前から公式行事に顔を出すように言われていました。私には王族としての自覚が足りない、身分を隠して学園に通っているのは逃げているのだと」
「そんな、クローゼは国の将来をどうしたら良いかって真剣に考えて、孤児院でもあたしに自分の意見を話してくれたじゃない」
「でもおじ様の言葉も完全に間違ってはいません。王族としての義務を果たしていないのは確かですから」
エステルが落ち込んだクローゼを励まそうとすると、クローゼは凛(りん)とした表情でそう答えた。
クローゼの張りつめた雰囲気に、エステルとヨシュアは気楽に声を掛けるわけにもいかず、静かにロマール池への道を歩いた。
そしてロマール池に着いたエステル達は、生誕祭の興業の準備のために設置されたハーヴェイ一座のテントを訪問したがカンパネルラとブルブランの姿は見えなかった。
「2人ともどこに行っちゃったのかしら?」
「多分、街の方で遊んでいたりするんじゃないのかな」
エステルとヨシュアはカンパネルラとブルブランのサボり癖は知っていたので、驚いたよりも予想通りだと思った。
そして怪盗紳士との約束の時間である夜までテントの中で待つことにした。
自分の家の中のようにくつろぐエステルとヨシュアに、クローゼは戸惑った顔で声を掛ける。
「いいのですか、部外者である私も勝手に入ってしまって」
「構わないわよ、このテントの持ち主もクローゼなら喜んで入れてくれると思うし」
エステルがテントの持ち主は学園祭でクローゼをナンパしたブルブランだと説明すると、クローゼは懐かしそうに目を細める。
「あの時はジェニス王立学園の生徒として、心から学園祭を楽しめました。私にとって大切な思い出です……」
クローゼのつぶやきに悲しげな響きがあると感じたエステルはクローゼを励ますように声を掛ける。
「寂しくなったら、またこっそり王宮を抜け出してくればいいのよ!」
「ふふ、そうですね」
エステルの言葉を聞いてクローゼは穏やかな笑みを浮かべて答えた。
ヨシュアはそんな事できるはずがないじゃないか、とツッコミを入れそうになって止めた。
エステルもクローゼもきっと解っているうえで明るく振る舞っているのだ。
それからエステル達は遊撃士の仕事で起こった事件をクローゼに面白おかしく話し、雑談に花を咲かせた。
自分達がクローゼにできる事はこのくらいしかない思ったのだった。
話している間に陽はどっぷりと暮れて、月が顔を出した。
クローゼは椅子から立ち上がり、エステル達の方をじっと見つめて話す。
「そろそろ時間ですね。私は外に出て待とうと思います」
「あたし達も側にいた方が良いかな?」
そう言って立ち上がろうとするエステルをクローゼは止める。
「いえ、私は大丈夫です。エステルさん達はここで待っていてください」
クローゼはテントから出てロマール池のほとりに立って月を眺めながら怪盗紳士が現れるのを待った。
しばらくして月明かりを背に受けた人影がエルベ周遊道の方から歩いて来た。
ほとんど足音を立てない熟練された静かな歩き方。
シルクハットに仮面、マントにタキシードを着たその人物は怪盗紳士に間違いなかった。
「お初にお目にかかる、私はちまたでは怪盗紳士と呼ばれる者。今日はクローディア姫にお会いできて光栄です」
「どうして、私をこのような場所へ呼び出したのでしょうか」
怪盗紳士が優雅に振る舞おうとすると、クローゼはそれを物ともせずに怪盗紳士をにらみつけて詰問した。
「それは政略の道具として利用されようとする貴女(あなた)をお救いするためで御座います」
「救うとはどういう意味でしょうか」
「生誕祭で貴女と帝国の皇子との婚約が発表されると聞きました。この縁談を進めたのは貴女の母君であるとか。これは紛れもない政略結婚なのでは?」
クローゼの質問に怪盗紳士が自信たっぷりに言い放つと、クローゼは悲しそうな顔で深いため息をつく。
「確かにきっかけはそうだったかもしれません。しかし私はあの方の愛を受ける事にしたのです」
「貴女は逃げ出すためにジェニス王立学園の生徒になったのではないのですか? 貴女の本心は王侯貴族のしがらみから抜け出したいところにあるのでは?」
怪盗紳士が尋ねると、クローゼはきっぱりと首を横に振る。
「確かに私はあの方の優しさから逃げ出してしまったのかもしれません。でも今は違います」
「貴女が王宮に戻って来たのは自分の意志であるというのですか?」
怪盗紳士の質問にクローゼは首を縦に振ってうなずいた。
「私とあの方が婚約することで世間の方から政略結婚だと見られる事も恐れていました。でも、あの方は逃げた私を許してくださったんです」
クローゼが揺るぎない口調でそう言うと、怪盗紳士は押し黙った。
「そして、前途ある国民のためにも私は決心しました。王族として、上に立つ者として迷いを見せてはいけないと!」
「何と……私の盗みたかった物はすでに盗まれた後だったというのか……」
怪盗紳士は打ちひしがれたようにそうつぶやくと、持っていた10通の手紙をその場において闇に溶けるように姿を消した。
テントから飛び出したエステルとヨシュアが後を追いかけたが、どこにも姿は見えなかった。
「逃がしたか……」
「くーっ、せっかく捕まえるチャンスだと思ったのに!」
ヨシュアとエステルは悔しそうにつぶやいた。
そんなエステルにクローゼが穏やかな笑みを浮かべてお礼を言う。
「今日はありがとうございました」
「でもクローゼ、さっき婚約するって聞いたけど、大丈夫なの?」
エステルが少し心配そうに声を掛けると、クローゼは晴れやかな笑顔でうなずく。
「はい、私の決意を思い切り言うことができてスッキリしました。それにエステルさんとヨシュアさんにお礼ができそうなので嬉しいんですよ」
「どういう意味ですか?」
「ふふ、楽しみにしていてください」
ヨシュアが尋ねても、クローゼは笑顔でそう答えるだけ。
上機嫌なクローゼの姿に不思議そうに首をかしげながらエステルとヨシュアはクローゼを城に送り届けるのだった。
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