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政治
【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久 「声なき声」にも耳傾けたい
◆脱原発は安保に匹敵?
「脱原発」を訴え、原発再稼働に抗議するデモが毎週のように、東京の首相官邸や国会の周辺で行われている。20日は鳩山由紀夫元首相まで参加した。
といっても主催者が道路使用許可などを申請したデモではない。多くはインターネットの「ツイッター」の呼びかけなどで集まっており、その参加者数も正確には把握できないほどだ。
それだけに「脱原発」を支持するマスコミや識者からは「これだけの国民が自発的に抗議行動しているのは(昭和35年の)安保闘争以来だ」と、その盛り上がりを強調する声が聞かれる。
「だから政府はその声に耳を傾け、原発再稼働をやめるべきだ」と言いたいようである。
だが、どうしても安保闘争に例えて評価したいのなら、あのときのデモや抗議行動がどんな意味を持ち、何をもたらしたのかをまず検証すべきだろう。
昭和26年に結ばれた日米安全保障条約を改定した新安保条約が日米両国の間で締結されたのは35年1月のことだった。日本が米軍に基地などを提供するだけだったのを、米側に日本を守る義務を負わせたのが改定の主眼だった。
しかしこれを承認するための国会審議が始まると、野党の社会党を中心に「米国の戦争に日本が巻き込まれる」とする反対運動が起きてくる。
◆首相の政治姿勢を攻撃
特に5月20日未明、自民党が衆院で強行採決すると、国会の外にも抗議行動が広まっていく。6月4日、社会党などの「安保改定阻止国民会議」が全国で第1次「実力行使」を行ったのをはじめ、国会周辺は連日、デモ隊に埋め尽くされた。安保そのものよりも、当時の岸信介首相の政治姿勢の方が糾弾されていったのだ。
ヤマ場となった6月15日には約7千人の全学連主流派が国会内に突入、東大の女子学生1人が死亡する事態となった。このため承認後の批准書交換のため予定されていたアイゼンハワー米大統領の来日が中止となり、岸政権は窮地に立たされる。
ところが同月19日、参院では審議できないまま自然承認となり、批准書が交わされるや、抗議運動はまるで潮が引くように収まってしまう。国会周辺は元のように静かさを取り戻した。
5カ月後の11月に行われた総選挙では、安保改定を推進した自民党が解散時より多い300議席(無所属からの入党者を含む)を獲得して「圧勝」する。
反対運動をリードした社会党は解散時を上回ったものの、これは同党から分かれた民社党の議席を奪っただけで、前回選挙から20議席以上減らしてしまった。
◆国民は抗議運動に反発
混乱の責任をとった岸の後を継いだ池田勇人内閣が「低姿勢」路線を打ち出し国民の目をそらせたことも要因だった。だが実は「アンポ反対」自体が国民の民意とは遊離していたのである。
社会学者、竹内洋氏の『革新幻想の戦後史』によると、毎日新聞が国会承認前の35年3月に行った世論調査で36%の人が新安保条約を「よくない」と考え、「よい」の22%を上回っていた。
ところが7月末には49%が安保の発効を「よい」「やむをえない」とし「よくない」より多くなった。政治ストやデモについては否定的意見の方が多かった。むしろ国民の反発を招いたのだ。
このことをただ一人見抜いていたのが岸だった。
強行採決後の記者会見で「私は『声なき声』に耳を傾けなければならない」と述べ、デモには屈しないことを強調した。
さらに国会突入後にも「都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりがない」と強気の構えを崩さなかった。
結局、岸の不退転の決意が安定した日米同盟関係を築いたのである。逆に反対のデモは政治的には何も得ることなく終わった。
それどころか大きな弊害を残した。この後何十年も続く自民党政権が、まるで「羹(あつもの)にこりた」ように、安保改定の後取り組むべきだった憲法改正をはじめ、「国の守り」に関する議論を先送りし続けたことである。
原発をめぐっても、日本の経済のため推進すべきだという意見も多い。本紙世論調査では大飯原発の再稼働を4割近くが評価している。だが「脱原発」「反原発」という「大きな声」の前に、そうした声はかき消されがちだ。
こうした「声なき声」が無視されるようなら、安保闘争同様にエネルギー政策や原発の安全性に関する正面からの議論ができなくなってしまう。ましてや、政府が「大きな声」だけに耳を傾けるなら、将来に禍根を残すだけになるだろう。(さらき よしひさ)
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