【インタビュー企画】「いじめと向き合う―私が伝えたいこと」
いじめを受けていた大津市の中2男子の自殺。もう悲劇は繰り返したくない。子どもたちや大人たちへの言葉を伝える。
尾木直樹さん |
◆人生の幕下ろさないで 法政大教授・尾木直樹さん いじめられている子たちの心の中は、出口がなくて、つらくて、一刻も早く逃げて楽になりたいという気持ちでいっぱいです。そこから死の誘惑に駆られてしまう状況は痛いほど分かります。
僕のところには、かつて死のうと苦しんでいた人からたくさん便りが寄せられています。でも今、生きていて失敗だったという人は一人もいません。「家庭を持ち子どももいて幸せだ」「仕事が楽しくて生き生きしている」「あの時、踏みとどまって良かった」。どれも死ななくて良かったという報告ばかり。
そうした先輩たちに共通しているのは、振り返れば苦しいのはそのクラス、その学年での一時期だけだったということ。だから死ぬことだけは絶対にやめなさい。自分で自分の人生に幕を下ろしてはいけないのです。
いじめられている自分に問題があるとは決して思わないで。問題があるからいじめられるなら、全員が対象になってしまう。悩みを自分で抱え込まず、先生や親に「あいつら、おかしいよ」と言おう。いじめっ子の方がかわいそうだと視点を変えよう。そんなやつらのために大事な命を落とすなんて超もったいない。
いじめている子たちにも言いたい。相手が嫌がることをして喜ぶなんて、人間性がゆがんでいる証拠。僕は中学と高校で22年間教員をやってきたけど、そういう子はいずれ自分の居場所がなくなり、必ず痛い目に遭う。自分の人生を大事にしたいなら他の人をいじめている場合じゃないよ。脱出するなら今だ。
いじめの加害者を指導することは、現場の教員にとって本当に大変なこと。そんな先生方に一つコツをお教えします。それは加害者の親に「いじめ」という言葉を使わないこと。いじめという言葉を使った瞬間、親も硬直するものです。
あくまでも「こんな暴力を振るった」という事実を語り、「そんな子になったのは悲しい。一緒になって何とか救いたい」と呼び掛けましょう。事実で迫り、目的を共有して話す。加害者側の親の協力を得られれば、いじめ問題は解決に向けて大きく動きだすのです。
あさのあつこさん |
■「いじめと向き合う―私が伝えたいこと」5回続きの(2)
◆大人が変わろう 作家あさのあつこさん
大人たち、もっとしっかりしよう。今、一番しっかりしないといけないのは私たちだ。親、学校、教育委員会、PTAだけでなく、子どもにかかわるあらゆる大人が子どもを守るという原点に戻らないといけない。なんでこんな事件が再び起こったのか。過去にも同じことがあったのに、なぜ大人は変われないのか。
いじめは子どもたちの問題と思われがちだが、実はそうではない。大人の問題だ。子どもが変えられるところは自分とその周辺に限られるが、大人はもっと大きなところを変えることができる。
同年代の子どもが集まると、問題やぶつかり合いが起きる。これは時代なんて関係なく、ずっとあったこと。でも、生きる手だてや希望を与えたのは大人たち。自分たちには関係ないことでも、子どもを変えれば何とかなる問題でもない。もう人ごとではない。いろんな立場の大人がかかわることが必要だ。
大人が、子どもの命を守る姿勢、言葉、態度を本気で見せること。これが子どもたちの希望になる。自殺を止める力になるし、いじめている子を減らす力になる。
いじめている子は、自分たちがやっていることはばれない、罰せられないと、世の中をなめている部分があるが、大人はいじめを許さない、そして、いじめられている子を守ってくれると、子どもたちが信じることができれば、解決できる問題はたくさんある。
今、子どもたちの精神の土台がぐらついている。それがいじめを生み、いじめによって死を選ぶことにつながっている。子どもが大人を信じることができれば、子どもは安定する。
いじめの問題は、大人の、社会の在り方を突き付けていると思う。大人がそのことを本当に感じ取れるのか、真剣に受け止めて何かできるのか。亡くなった子に報いるために、二度と同じことが起こらないようにするしかない。子どもたちを守れるのは、私たち大人しかいない。
水谷修さん |
■「いじめと向き合う―私が伝えたいこと」5回続きの(3)
◆多くの力を借りて闘おう 「夜回り先生」水谷修さん
いじめられている子どもたちへ。今は本当につらいと思う、怖いと思う。だから学校には行かなくてもいいし、転校してもいい。逃げてもいいよ。でも大人たちの力を借りて闘おう、いじめに立ち向かおう。明日の笑顔のために。今、多くの大人たちがいじめられている君たちを守ろうと立ち上がっています。泣いていい、叫んでいい。救いを求めてごらん。救いは必ず来ます。
いじめに気付いている子どもたちへ。そのことを、まず親に、次に先生に話そう。見て見ぬふりをすることはやめよう。怖がらずに。それが君たちの大事な友達を守ることにつながり、君たちの生きる力をつくってくれます。
いじめている子どもたちに。すぐにいじめをやめよう。もしも君たちがいじめられたらどんな思いがしますか。すぐに反省してほしい。そして、自分のしたことを親や先生に話してほしい。一切隠さずに。そして謝りにいこう。いじめで傷つけた友達のところへ。
いじめは、いじめられた人の心に一生にわたる大きな傷を残します。私のところにも、30代、40代になっても、過去のいじめで苦しんでいる人たちからの相談がたくさんきます。
小中学生のときに、いじめから引きこもりになってしまい、働くこともできず、ただただ、いじめた人のことを憎みながら、今の自分に苦しみながら、生きている人がたくさんいます。いじめは我慢せず、見逃さず、必ず、その時に解決しないといけません。
すべての親にお願いです。この夏休み中に、必ずお子さんに学校でいじめがあるのか聞いてください。もしもいじめがあった場合は、すぐに学校や教育委員会に連絡をしてください。これ以上、いじめによって自ら死を選ぶ子どもをつくらないためにも、ぜひ動いてください。
大谷昭宏さん |
■「いじめと向き合う―私が伝えたいこと」5回続きの(4)
◆先生が防波堤になって ジャーナリスト大谷昭宏氏
私は、教師の皆さんにエールを送りたい。いじめの現場にいるのは、子どもと先生。その中でも、しんどいだろうが先生が頑張ってください。先生は、いじめの芽をつみ取るための最初で最後の防波堤ですから。学校現場に、警察が入るような事態はいびつなんです。
私は教師ほど素晴らしい仕事はないと思っています。例えば、教育委員会の職員は学校の先生を経験した人がほとんどですが、「教室と、役所でのデスクワークとどちらが好きですか」と聞くと、「役所が好き」と答える人は一人もいない。いじめや保護者の対応もない、勤務時間も学校より短い、部活の顧問もしなくていいのになぜ、と聞くと「私たちは子どもの面倒を見てなんぼ。一刻も早く現場に戻りたい」という。
現場に戻りたい、と語れることは素晴らしいと思う。皆さん、そういう志で教師になったはずです。それなのに、いじめを見過ごすとか、ましてや教え子を自殺させるようなことはしてほしくない。先生が子どもをちゃんと見ていれば大丈夫。自分の職業に誇りを持ってください。
子どもは、いじめが起きると、先生がどうしてくれるのかということを見ています。体を張って守ってくれるのだろうか、と。そうした姿を見せることも教育になるでしょう。
いじめを受けている子には、怖がらずに抵抗してみなさい、と言いたい。いじめは、黙っていればエスカレートするもの。自分を偽らず、嫌なことは嫌と言ってほしい。いじめている子は、自分を見つめてごらん。そんなことをしている自分が、君は好きですか。いずれの立場でも、自分を見つめて、好きな自分になってください。
保護者は、学校のことは信頼する先生に任せてください。自分の子どもだけを気にするのではなく、信頼できる学校をつくるためにどうしたらいいか。保護者同士で力を合わせるべきです。
香山リカさん |
■「いじめと向き合う―私が伝えたいこと」5回続きの(5)
◆まず現実を認めよう 精神科医の香山リカさん
「私はいじめられている」と認めるのは、子どもにとってはつらいことだと思う。できれば、そう思いたくない。「なんだ、私の勘違いだったんだ」と思いたい。その気持ちも分かる。
子どもだけではない。親や学校の先生も同じだろう。「わが子がいじめられている」「うちの学校でいじめが起きた」ということは、最後の最後まで認めたくない。うすうす気付いていても、「いや、これは子どもによくあるふざけ合いですよ」という声を、大人たちからよく聞く。
いや、いじめている人もそうだろう。今、学校だけではなくて職場での陰湿ないじめも大きな社会問題になっている。その加害者と話をすると、たいていの人は「私がいじめ? とんでもない。これは愛情ですよ」などと言って、自分がいじめに加わっていることを認めようとしない。
このように人間は、被害に遭っていても、被害を加えていても、「私は関係ない」と現実をなかなか見ないようにする性質を持っている。目の前で起きていることであっても「これは事実ではない」と認めようとしないのだ。
しかし、「そうだ、私が苦しいのはいじめられているからだ」「僕がやっていることは、もしかするといじめかもしれない」と認めなければ、問題が解決することはない。認めるのはとてもつらいことだが、認めることは、決して「負け」でも「悪」でもなく、とても素晴らしいことなのだ。
たとえいじめる側であっても、「そうか、私はいじめをしているんだ」と自分で認め、「これはいけないんだ」と思うことができたら、私はその勇気をほめてあげたいと思う。
「これはいじめなんかじゃない」と目をそらさずに、「これはいじめかもしれない」と考え、認める。そこから一歩を踏み出そう。
(2012年7月26日、共同通信)