疑応答集1
(『マハーヤーナ』より)

◆『マハーヤーナ』No.3より

(質問A)魂の始まりというのは、つまり真我(しんが)というのは、いつどのへんから生まれてきたのですか。
(尊師)あなたの今の立場というのは二元論になっているね。二元論というのは何かというと、生があって死がある。はじめがあって終わりがあるという考えだ。そうじゃないかな。ところが、真我(しんが)というのは、永遠なんだ。もともとあったんだよ。つまり、二元論がスタートしたのは、ビッグバン理論と同じように、真我と三グナの爆発が起きてからなんだよ。それまでにもともとあったんだよ。
(質問A)じゃあ、僕自身もあったと‥‥
(尊師)そうです。君自身というのは君の肉体ではないよ。君の真我(しんが)だよ。

(質問B)真我(しんが)があって、それが三グナに干渉されたわけですよね。そして、また迷いを脱して解脱して、そして真我(しんが)に気がつくわけですね。なぜ、そういうことが起こるのですか。そして、どうして三グナというものが存在していたのですか。
(尊師)いや、もともと三グナというのは存在していたんですよ。そして、この宇宙というものはこの繰り返しなんだよ。だから、例えば百八十億年程たって、この宇宙が消滅して、すべてがマハーヤーナあるいは、ニルヴァーナに入ったとしますね。そうしたらまた、三グナの干渉があるよ。そうすると例えば、あまり次元の高くない魂はまた巻き込まれてしまう。これを繰り返すんだよ。でも、あえて苦を味わう必要はないんだよ、別に。その状態が壊れないものだったら。永遠の歓喜の状態だったら別に苦を味わう必要はないんだよ。マハーヤーナへ帰るのが私達の修行の目的なんだから。

(質問C)もし三万人の仏陀が出たとしたら、どうなるんでしょう。
(尊師)それは素晴らしい世界ができるだろう。核戦争が回避される可能性はもちろんあるね。三万人の仏陀ができたら完全に回避されるよ。今の段階ではまだ難しいよ。なぜならば、私達はこの地球を失うか失わないかの瀬戸際に成就者を出さなければならない。そのためには、環境が必要なわけだよ。ところが、まだ環境は実際には整っていない。ひとつずつ、ひとつずつ用意しているけれどもね。まあ、今オウムのスタッフに無理難題を言って。でも、後は皆さんがどれだけ協力できるかということだ。成就者が出るにしたって、三万人の人数が必要なんだよ。それから、その三万人を生かしていくことも必要なわけだ。だから、一気に三万人という数字は、私の頭の中にはない。少しずつ、少しずつ、組み立てていくしかないと考えているね。それは、ジュニアーナ・ヨーガ的な発想でね。だから、今は確率としては五分五分じゃないかと考えているよ。それは今後のオウムの発展状態、オウムがどれくらい大きくなっていけるかにかかっているような気がします。二人の成就者が出たと言っても、まだ二人しか出ていないとも言えるよ。そうだろう。三万人から二人を引いても、二万九千九百九十八人作らなければならない。結構大変な数字だね、これは。だから君もどうなるだろうかと考えていないで、早く解脱してほしい。

(質問D)自分達が今後修行していくうえでのアドバイスをお聞きしたいのですが。
(尊師)まず、クンダリニーのプロセスについて言えば、オウムの会員は気にする必要はないと思います。と言うのは、オウムの修行法で、必ずやクンダリニーのプロセスは進みます。そうすると、クンダリニーが上がって、アストラルの世界、コーザルの世界へ行く際に、どこのアストラル世界に行くのか、どこのコーザル世界に行くのかが大切になってきます。魔界に入る場合もあるし、神々の世界に入る場合もあるし、あるいは仏陀の世界に入る場合もあるし。要するにどこの世界に行くかというのは、心の浄化と功徳によって決定されるわけです。クンダリニーのプロセスは、オウムで与えられた修行法、例えばヴァヤヴィヤ・クンバカ・プラーナーヤーマとグルヨーガとか、ヴァヤヴィヤ・クンバカとツァンダリーとか、スクハプールヴァカ・プラーナーヤーマとツァンダリーとか、まあいろいろな組み合わせがあるでしょう。どのプロセスで行っても進みます。しかし、もうひとつの大切な「悟り」のプロセス、心の浄化のプロセスをなおざりになさったら大変でしょう。そこがポイントです。それについては『イニシエーション』をお読みください。

(質問E)解脱するには、まず解脱を求める欲望が必要なわけですよね。しかし、解脱というのが欲から離れることであるとすれば、解脱に必要な欲望というものを許しておいていいんでしょうか。
(尊師)それはこうお考えください。エゴというものには二つあります。ひとつは、人間を下降させるもの、もうひとつは、人間を上昇させるもの、このどちらもがエゴです。これはきちんと経典にも説かれています。そして、その上昇傾向のエゴがなければ、私達は解脱しないと言われています。だから、それは肯定してください。インドとかチベットの話をしますと、修行者はグル探しを一生やります。それはなぜかというと、例えて言えば、私達の肉体というのは、コンピューターのボディーなんですよ。しかし、誰もそのコンピューターのソフト、つまり解脱に至るプロセスというのを知らないわけです。そして、成就したグルだけが知っています。で、私達は何をやってもらうかというと、そのグルに、要するにフロッピーのコピーをしてもらうわけです。そうするとスムーズに解脱のステージまで行くことができるということですね。だから要は、コピーしてもらえるだけの、コンピューターの本体の機能があるかどうかとか、あるいは、けちって安物のフロッピーを買ったがためにコピーができなかったとか、そうならないようにすれば大丈夫ですね。

(質問F)子供に対する執着というのはどういうふうに考えたらいいのですか。
(尊師)あってはいけないと思いますね。それはどういうことかというと、愛は必要です。しかし、執着はいけない。大阪で私が相談を受けた中でこういう例があります。息子さんがオウムの修行をしていた。そして私と話し合いになった。その時私はその高校生の息子さんに、大学に行きなさいよという話をした。彼にとってはそれが一番良いと思ったからね。ところが彼は大学には行かないという話をしました。で、お父さんはその時、お前は出て行けと、もうとにかく私の言うことを聞かないならば出て行けと、言われました。これは執着です。つまり、俺の息子であると。そして、俺の息子にはこういう生き方をさせるんだ、というわけです。でもそうではない。そこでよく話し合わなければいけないし、相手を尊重しなければならない。これを私は愛だと思います。で、執着を離れて愛に立つならば、その息子さんとお父さんとの関係というのは良くなるはずです。ところが、執着したがために、親子の関係というのはおかしくなるわけです。つまり、自分のイメージ、間違った自分のイメージを子供に押し付けるがために、子供は反発する。これが執着の根本ですね。それではいけない。そうではなくて、まず冷静に子供を見つめる。そして、この子供はどういう要素を持っているのか、どういう良いところ、悪いところを持っているのか考える。そして、良いところを伸ばしてあげる。それで、例えば子供がこれはいやだよと言った時に、そのいやだよという言葉をとらえるのではなくて、その背景にある原因を考えてあげる。一緒に考えてあげる。一緒に苦しんであげる。それが、私は親子の関係だと思いますね。そして、その関係を全うなさったら、非常に素晴らしい人生になるんじゃないでしょうか。

(質問G)先程シャクティーパットを受けた時に、クンダリニーが覚醒していると言われたんですけれども、まだ経験していない「火と水の洗礼」はこれから来るのでしょうか。
(尊師)これは起きる可能性もあれば、起きない可能性もあると言えますね。それはどういうことかというと、「火と水の洗礼」というのは、ハタヨーガからラージャ・ヨーガに至るプロセスで肉体的変換をもとにして、修行を進めていくプロセスなんです。ところが、今オウムではそれプラスアルファのラヤ・ヨーガの系統を採っています。例えば、ツァンダリーとかグルヨーガがそうです。これは心のプロセスでクンダリニーを進めていこうとしていることなんですね。そうすると、「火と水の洗礼」というのは言い換えればイダーとピンガラの浄化ですから、瞋りあるいは無智というものを心の中から除去してしまえば、別に「火と水の洗礼」は起きません。

(質問H)修行ですべての病気は治せるのでしょうか。
(尊師)人をいじらなければ治るよ。よっぽどひどいカルマの病気でなければね。病というものは、まず、過去世から来た病と、今生でスタートした病と、それから今生の途中でスタートした病と、だいたい三種類に分けられるんだよ。過去世からスタートした病というのは、治りやすい。今生でスタートした病は次に治りやすい。そして、生きている途中の段階でスタートした病というのは治りづらいと言われている。なぜかというと、過去世の病というのは、もう勢いがないんだよ、あんまり。勢いがないということは、カルマの理論から考えたら分かるよね。必ず、慣性の法則、それに摩擦が加わるから、勢いがないものに対して、強烈な摩擦を加えたら、当然そこで病気もストップするわけだ。ところがね、今生でスタートした病というのは、勢いがあるんだよ。だから治りづらい。それで、ある程度年を取ってからスタートした病というのは、今生で積み上げたカルマだから、そのスピードが非常に速いわけだね。だから治りづらいわけだ。だから、その三つのことを考えて治療をするならば、例えば、一番最後の病は、まあ自分ひとりではむりだから、祈とうしてもらうとか、念力をかけてもらうとか、協力してなんとか治そうとすればよろしい。それから、生まれてすぐの病というものは、これは自分で治せるかもしれないし、治せないかもしれない。これについては、祈とうを使うか使わないかというのは、その症状を見てやればいい。それから、もう一つ、過去世からの病については、だいたい治せると思うね、自分でも。ただ、治せるのはあくまでも「胃腸の働きが悪い」というような機能的疾患であって、胆嚢がないとか、肝臓がないとかいう気質的疾患ではない。もうそういう場合には死んでいるけどね。いずれにしても、修行を二、三ヵ月やったら、いかに修行が精神的に、肉体的にプラスであるか分かってくるよ。だから、要は数ヵ月でいいから、真面目に修行をやってごらん。素晴らしい恩恵を受けるから。


◆『マハーヤーナ』No.4より

(質問A)私は結婚していて、主婦業のかたわらアルバイトをしています。オウムに入る前は、アルバイトがあったんですけど、どういうわけか入会してから、その話も来なくなって、余分なお金が入らなくなりました。経済状態を考えるとアルバイトもしたいのですが、いいのでしょうか。
(尊師)アルバイトはやってもかまわないと思います。おそらくそういう状態になったということは、修行の流れに入ったんだと思います。それは、どういうことかという説明をしましょう。ここにマニプーラ・チァクラがあります。下からどんどんエネルギーが上に上がっていって、抜けるようになって来ます。が、実際は抜けてません。ここに溜まって、体全体にストレスが蓄えられていくわけです。その途中の段階で、エネルギーが上がり出した段階でね、功徳がそちらに向かってしまうんです。その段階で経済的ピンチは必ず来ます。例えば、ケイマさんなんかは、彼女の持っていた貯金を全部はたいてしまいましたからね。それは、今成就したSさんも同じです。そして成就というのは、それを引き換えにするもの、いやそれ以上に価値のあるものだよね。経済的に豊かでありたい、そして修行もしたいという人に関しては、あるステージでストップすることになる。たとえばね、それについての、いい話があるんだよ。釈迦牟尼は二つの法を説いているんだね。一つは成就するための法としての六つの極限。もう一つは天界に至る道というのを説いてます。祇園精舎というのは、ご存じですか。祇園精舎というのは、要するに道場のことです。修行者達が定着して、そこで修行できる道場です。その祇園精舎を布施した方というのは、アナータピンディカ長者という、お金持ちの人なんだ。その人には、奥さんも子供も居たし、その人が雇っている人もいたんだよ。だから、その人は抜け出して解脱できる情況ではなかったわけだ。そこで釈迦牟尼が説いた法というものは、
「あなたは、私の与える持戒を守りなさい。そして布施をしなさい。もちろん仕事は一生懸命やりなさい。そして瞑想しなさい。それによって、天界にいくことができる。」
ということだった。そして、アナータピンディカ長者は、兜率天に行きました。兜率天というのは、法の世界だよね。兜率天でもこの世に比べたら、数百倍、数千倍素晴らしい世界です。そして解脱というのは、その世界を完全に超越しています。だから当然上に行けば行く程エネルギーが必要です。あなたの場合は、クンダリニーのプロセスがかなり進んでいるから、アルバイトが来なくなって当然だと、私は思います。
(質問A)そうすると、主人が働いているお金を私が使ってしまってもいいのでしょうか。心苦しい気持ちで一杯なのですが。
(尊師)いや、おそらくご主人もそれによって徳を積んでいらっしゃるのでしょう。だから、まったく気にする必要はない。というのはね、大阪支部にKさんという方がいらっしゃる。彼は、ボーディーサットヴァの会のリーダーをやってらっしゃる方です。Kさんは、オウムの修行、それからオウムのバクティーで、仕事よりも奉仕の方を中心としてやっていらっしゃる。そして、奥さんの経済的な基盤によって支えられているわけだけど、同じ質問を受けたことがあります。その時私はこういう話をしています。
「奥さんも、それをなさることによって功徳を積んでいらっしゃるわけだから、何故それを気になさるのですか。そのかわり、Kさんの役割というのは、奥さんにもっと神聖なヴァイブレーションを出すことです。それによって、奥さんの修行が進むから。」
と。それを話して間もなく、奥さんも入会なさって、今一生懸命修行なさっている。だから、奥さんもご主人を供養することによって、修行が進んだわけだね。そういう流れというものがあるんだよ。つまり、真理を支持するものは、真理に導かれる。それから、悪魔的なものを支持するものは、悪魔的なものに導かれる。これが真理だ。だからたとえば、あなたをご主人が供養する。あるいは、あなたがオウムの修行を一生懸命やる。これは一つの流れだね。しかし、途中で逆転するかもしれないよ。そういうことは、あなたの姿勢、あるいはご主人の姿勢によって違ってくる。だから一切気にする必要はないと思う。もちろんアルバイトをしたければ、それはしても構わないと思う。悪いことではないからね。いいね。

(質問B)輪廻から解脱して、絶対幸福の世界に入ったとしても、三グナに干渉されて、また輪廻の世界に戻るのならば、解脱しても輪廻から離れられないのではないでしょうか。
(尊師)そういうことはない。例えば、あなたに彼女がいる。その彼女は、すごく優しい人で、あなたを満足させてくれる。しかし、あまり刺激がないとしよう。そこで別の魅力的な女性が近づいて来た時、あなたはその刺激に負けたとしましょうね。しかし、そこでいろんな葛藤があって、やっぱり今の彼女のほうがいいという結論が出たとする。次に、同じタイプの魅力的で刺激的な彼女が近づいて来た時、あなたはそれに乗りますか。乗らないでしょ。それが真我(しんが)の働きです。あなたの言う通り、ニルヴァーナと輪廻は繰り返します。ところが、ニルヴァーナよりも上の世界のマハーヤーナというのはそうではない。すべての経験をし尽くしてマハーヤーナに入っているわけです。だからあらゆる情報に対して正しく判断できるから、三グナから干渉を受けたとしても、そこには入りません。巻き込まれません。よろしいですか。

(質問C)苦しみは何故必要なのでしょうか。
(尊師)苦しんで、それを純粋に観照できなければ、何の意味もないですね。例えば、ここに苦しみがある。その苦しみの原因は何かを、絶えず追究していたら、苦しみは私達に多大な恩恵を与えてくれます。それは言い方を変えれば、横幅を広げてくれるわけです。まわりの人達をいろいろ見ていて思うことは、苦しんでいるのにその原因を考えないで、すべてまわりのせいにしてしまっている。その苦しみというのは何十カルパ、何百カルパ――カルパというものは現代では何十億年くらいで考えたらいいと思いますが――その何十億年、何百億年と苦しんでいて、それがすべて、自己から出ているものではなくて、他から出ているものであると考えてしまっている。原因を追究しなかったら、その人にとってその苦しみは、何の役にも立たないことになってしまう。苦しむことが大切なのではなくて、何故自分は苦しんでいるのかを考えること、そして苦しみというものは、その人の横幅、つまり菩薩としての幅を広げることになると思います。
(質問C)それは解脱してからでは、難しいわけですか。
(尊師)難しいです。解脱をするためには二つの要素が必要です。一つは熱のエネルギー、もう一つは精神的なストレス・圧力なんです。ところが私なんかそうだけど、解脱者は血が出ても全然苦しくないわけです。わかりますか。だから、解脱してからというものは苦がないから、それ以上圧力がかけられないわけです。エネルギーを強めることはできますよ、修行によって。ですから、解脱する前にしか、横幅は広がらない。たとえば間違って解脱してしまったら、自分が入滅する時に、生まれ変わる時に、人間としてまた降りてくればいい。そうすると、そこでいろんな葛藤があって、また解脱するでしょう。大乗の仏陀になるために千生以上かかるというのは、そこなんですよ。つまり、横幅を広げるためには、一生では補いきれないくらいの苦しみがあります。そこで、成就しては降り、成就しては降りを繰り返すわけです。そういう横幅の広げ方と、できるだけこの世で苦しんで、他の苦しみをしょってあげて、亡くなる寸前に解脱するやり方と、二通りあるわけです。自分が肉体を捨てる寸前に解脱ができた場合最高です。怖いのは、他人の苦しみをしょってあげて解脱できなかった場合です。この場合は夜摩天の支配下にありますから、もちろんグルはその審判に立ち会いますけど、間違って天界に行ってしまったら、何百年もロスします。だったら小乗でも解脱した方がいい、ということになるわけですね。解脱者というものは生死をコントロールできますから。だから、そこはすごく難しい問題ですね。一番いいのは、大乗の修行をずっとしながら死ぬ寸前に解脱する。その次にいいのは、小乗でいいから、できるだけ早く解脱すること。ただね、グルがそこにいれば、その人の限界まで引っ張れるんです、横幅を広げるために。そして時期が来たら、解脱をさせるんです。例えば、今度Y君が解脱するでしょう。O君が解脱するでしょう。そしてN君が今、限界点近くまで来ています。もう少ししたら、彼も解脱するでしょう。この三名というのは、私から見て、もう煩悩の圧力に耐えられない、その限界点まで来ている、という状態なんですね。もちろん解脱するためのベースとなる功徳は必要です。そして実際、彼らはそれを持っています。だから解脱できるわけですよ。そこのところを理解できることを、漏尽通(ろじんつう)と言ってます。相手の煩悩を見極める。よろしいですか。

(質問D)安心施をする場合、いろいろ話をしますが、その話の内容に自分の経験などを含めて話してもいいのでしょうか。
(尊師)まず、相手の話を聞いてあげてごらん。どんなに落ち込んでいる人でも楽になるから。ここに苦しんでいる人がいるよね。その人は、だいたい人の話を求めてはいないんだよ。その人は自分の話を聞いてもらいたいと思っている。わかりますか。逆に苦しんでいる人に、こうだよ、ああだよと言った場合、だいたい反発される。そうじゃない人も中にはいるけども。でも、そうじゃない人の場合も相手の苦しみを引き出すようなやり方をしたら、そちらの方が早く苦しみから解放される。それを実践してごらん。そうすると、本当の意味での安心施ができます。まだ選択が正しくないから、へたなことはあまり言わない方がいい。それよりも相手の苦しみを引き出してあげる。苦しみの総量は一定なんです。だから、相手が君に苦しみを言うことによって、君は苦しむわけだ。そうすると、相手は苦しみから少しずつ解放されて、楽になる。それで、君は安心施という修行をしているわけだ。その修行をやりなさい。いいかな。

(質問E)大乗の心を培うには、どのようなことをすればいいでしょうか。
(尊師)第一に「信」でしょうね。たとえば今のオウムの展開している法というものは、真理であると信ずることです。第二には、それを他にいかに広めるかということでしょう。布施の極限、持戒(じかい)の極限、忍辱の極限、精進の極限、これらのステージを絶えず考える。それを考えていらっしゃるうちに大乗の心というものは、培えると思います。大乗というのは、さきほども言った通り、千生とか二千生とかかかる代物だから、わずか十日とか、一ヵ月とかで培えるものではありません。日々の生き方によって、自分の中に入ってくる情報の堆積によって、培っていくしかないわけです。あともう一つは、私が普段説いている、成就に関することと、大乗のボーディーサットヴァになるためにすること、この二つを絶えず学ばれることでしょうね。そして、わからないことがあったら、必ず疑問として提出する。それには、ケイマ大師もA大師も、あるいは私もいます。いつでも構わないから、質問を投げ掛けることではないでしょうか。それによって、疑問がどんどん解けていく。そして真実がわかる。それから信もわいてくる。それらが、回転することによって、あなたのまわりに真実が広がっていく。あなたが真実を広げていくのだったら、あなたはもうその時には、大乗のボーディーサットヴァということができるでしょう。


◆『マハーヤーナ』No.5より

(質問A)私は教師ですが、最近生徒を怒らなければならないと感じて、かーっと怒ったことがあるんですけど、その後とても苦しくて……。ただ、怒ったことによってその生徒自身は非常に自覚して良くなったとは思うのですが、そういうときはどう対処したらいいのでしょうか。
(尊師)冷めて言ってあげなさい。そこは難しいけどね。おおうち、私も怒るよな。
(おおうち) はい、でも波動だけで、目は笑っていらっしゃいますね。

 どういうことかというと、例えば怒る。しかし、顔を反対に向けたときには笑っていられる。こうなることです。つまり、本当に相手の事を考えていたら、そういうことができるわけだ、ね。だから、教師の立場上、怒らなければ困ると思ってはいけないわけだ。子供の立場に立って、この子はここで怒ってあげなければ成長しない、と思ったら怒らなければだめだ。成長しろよと思って怒ることだよ。自分の教師の立場というものがあって、その体面がまずいからとか、そんなことで怒るのとは全然違うわけだよ。だから絶えず、怒りながら考えなさい。この人のためだ。この生徒のためだと。そうすれば即、怒りはおさまります。怒りというエネルギーがあって、それに巻き込まれてはだめだよ。じゃあ、それだと迫力がなくなると思うかもしれないけど、そんなことはない。あの、今度実践しましょうか私が。どれくらいの怒りを私が発散できるかということを。恐いよー。すごく恐いよ、本当に。しかし、その実は相手を慈しむための怒りなんだ。それが実践できるようになるといいね。じゃあ、実際にはどうしたらいいか、という問題が出てくる。「はつぼだいしん」をどんどんやりなさい。すると、怒ってもそれがあなたのための怒りではなく、相手のために怒るということになってくるから。そうすれば、絶対に地獄には落ちません。

(質問B)さっき、お酒を飲むなということが出てきたんですけども、例えばその他のコーヒーとか嗜好品、タバコの方が悪いと私は思うんです。戒には書かれていないけれど、それはお酒とイコールなのか、お酒が特にそういうコーヒーなんかよりも悪いという意味なのか、どうでしょう。

(尊師)そんなことはない。あなたのおっしゃるとおりだ。つまりイコールです。だから、要するにお酒、コーヒー、タバコ、あるいは覚醒剤、こういうものは本当は良くないね。だから、やめなければいけない。もちろん、ヨーガタントラで成就させる場合には全部ストップさせます。……なんか大変になってきたね、ちょっと。だから、私は浄化法をやりなさいと言っているんだ、徹底的に。例えば、タバコを吸ってもダウティをやれば、少しは肺が綺麗になるからね。そのうちに、あなた方の心と肉体が浄化されたならば、それを全部やめるようになる。さーっとやめられます。ね、おおうち、タバコはさっとやめられたよね。

(おおうち やめましたね。次の日に。やめようと思ってそのままですね。)
で、おおうち君を見てごらん。普通タバコをやめたら太るというけれど、太ってないでしょ。ストレスがないんだね。

(質問C)先生の教えの根本的なところだと思うんですけど、他人に優しく、人に優しくということ、それがかえって自分の首を締めるというか、利用されたり誤解されたりする場合がままあるわけですよね。それでもやはり、優しくすべきなんでしょうか。
(尊師)あのね、そのときはこう考えなさい。私は大変な恩恵をその人から受けた、と。過去において、私はその人を傷つけた。その傷つけたものが、今返ってきてるんだ。私は、これによってカルマを滅することができた、と考えてごらんなさい。その段階でね、もっと人に優しくしてあげようと考えるだろう。ちょっと難しいね。でも、私はそれを実践しているよ。難しいけどね。そして逆にね、私はおおうちがいないときには、おおうちの悪口をしょっちゅう言っているんだ。そして、ケイマのいないときはケイマの悪口を言っている。SのいないときはSの悪口をしょっちゅう言っています。何故かというと彼らのカルマを落とすためです。彼らは私のために一所懸命やっているわけだ。それで悪口をしょっちゅう言われてたらたまったもんじゃないね。でもこれは、それによって彼らのカルマが落ちるということだ。だからおおうちは、この現世にいながらにして、ある段階の悟り、セルフの一段手前だけど、この現象と空というものが同一である、輪廻と涅槃が同一であると悟れたわけです。ただ、おおうちはその言葉を知らないよ。もし、おおうちがそれらを知識で知っていたら、おそらく悟れなかったでしょう。それは、その言葉に引っ掛かるから。おおうちが悟れたのは、私に悪口を言われて、それでもただひたすら功徳を積んだからだね。だから、あなたもそれを喜びなさい。それによって、必ず高いステージに行けるだろう。


◆『マハーヤーナ』No.6より

(質問者1)今回初めてセミナーに参加させていただきます。先生の本を読ませていただきまして、すごく気になることがあったんです。それは、先生は前世で解脱なさったというのに、今回も解脱なさるまでに同じように苦労を重ねられたということです。そのようなことを、なぜ繰り返すんでしょうか? そして、また今回解脱したとしても、この次に来世で解脱するのにはいろいろな修行の苦しみとか、そういった体験をしなくてはいけないんでしょうか?
(尊師)それは二つの道があって、その選択次第だと思いますね。私のような救済者は、生まれ変わって肉体を持つときに完全に封印をされてしまうのです。そういう意味で、来世でもまた解脱しなければならない。しかし、そうではなくてニルヴァーナに入る方、あるいはマハーヤーナに入る方はそのまま一直線に高い世界へ上がることができます。それは選択です。

(質問者1)先生は入らないで……。

(尊師)私はまた人間界に救済者として降ります。私の修行の背景にあるものは、「すべての徳はシヴァ神に、供養として受けとっていただけたらありがたい」という気持ちです。反対に「すべての悪業、すべての苦しみというものは自己が引き受けたい」と。そして、すべての苦悩、すべての悪業というものを私が背負うとした場合、当然、私は人間界へ何回も何回も生まれ変わらなければなりません。

(質問者2)オウムに入る前にはニルヴァーナという言葉はよく聞いていたんですけれど、マハーヤーナという言葉は初めて聞きまして、その違いがまだちょっとわからないんです。マハーヤーナとニルヴァーナとの違いはどこにあるんでしょうか?

(尊師)全体的に見たらニルヴァーナだとお考え下さい。そして、その最高の状態をマハーヤーナとお考え下さい。ニルヴァーナとマハーヤーナの違いというのは、要するにここにグルがいて、ある程度功徳があって、ある程度修行すれば、修行者はニルヴァーナに入ることができるわけです。ところが、マハーヤーナに入るためには「完全な静止」が必要です。それはちょうどこういうものですね。ここにリンゴがある。そのリンゴというのは、大変おいしそうな色をしているとしましょう。このリンゴに対して、私は「きらいだ、きらいだ」と暗示をかけます。そうすると、このリンゴを食べなくて済む。ね、そういう形で完璧にそのすべてを否定した状態で高い世界に行った状態、これを、ニルヴァーナとお考えください。
 ところがもう一方は、ここに同じようにおいしいリンゴがあると、ね。その人はこのリンゴを味わい尽くしている。そして、味わい尽くした上で、これは苦であることを完璧に理解している。つまり、この人にとってはリンゴというものは全く不必要であると。この状態で高い世界へ上がった状態、これをマハーヤーナだとお考えください。
 じゃあ、どういう違いがあるんだというと、ニルヴァーナに関してはね、一回静止します。ところが違った条件で揺さぶりをかけられた場合、また動揺によってこの現象界へ降りてくる可能性があります。ところが、マハーヤーナに関してはそれはないのです。というのは、例えばそのリンゴだけではなく、愛情もそうだし、友情もそうだし、そして親子の愛もそうだし、すべてを味わい尽くして離れていきます。だから、いかなるものが飛び込んできても、その人は動じません。その真我は動じません。これがマハーヤーナです。しかし、自分が望んだときには他の世界へ降りることができます。
 じゃあ、ヨーガのステージで言ったらどうなるかというと、例えばラージャ・ヨーガで成就したとか、クンダリニー・ヨーガで成就したとか、あるいはジュニアーナ・ヨーガ、大乗のヨーガ、アストラル・ヨーガで成就したとか、こういう方々がニルヴァーナの下からずーっと上の段階へ入って行きます。そして、最後のコーザル・ヨーガを完成した人がマハーヤーナに至るわけですね。よろしいでしょうか? だから、その成就の種類によって、ある人はニルヴァーナの下位、ある人は下から二番目・三番目・四番目・五番目というふうに入って行きます。このように、ニルヴァーナというのは大変広い。そしてニルヴァーナの最高峰にあるマハーヤーナというのは最高の絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の状態です。よろしいでしょうか?

(質問者3)マハーヤーナに入っても、自分の意志によってまた現世へ来て修行するとか、そういうふうにいろんな目的のために、自分の意志によって再生することができるんですか?
(尊師)ええ、マハーヤーナに関してはできます。それは自由自在ですから。

(質問者4)初めてセミナーに参加させていただきました。真我は、何をするためにマハーヤーナまで入るのかということと、マハーヤーナに入ってから真我は何をすべきなのかが私わからないんですが……。

(尊師)いや、何もすべきじゃありません。そこには自由がありますし、幸福がありますし、それから歓喜があります。その状態で整っているので、何もする必要がないのです。

(質問者4)そこに行くために真我が生まれて来るということですか?

(尊師)いや、そうではないです。真我はもともと生まれてるんですよ。生まれ出てるという表現もおかしいね。真我とは永遠にあったんです。そして、これからもあるのです。このコーザルの光が生じてから時が成立してるわけで、その時を超える段階に真我はあるのです。真我は、要するに、生まれもしなければ死にもしてない状態ですね。

(質問者5)今まではジュニアーナ・ヨーガで悟りを開いて、その後いろんなヨーガで解脱する、というプロセスだったと思うんですけど、それと今回の説法とで違うようなんですが……。

(尊師)今までは小乗のプロセスだったんだけど、今回はマハーヤーナに入るためのプロセスに話をしぼったわけだよ。マハーヤーナに入るためのプロセスでは、ジュニアーナ・ヨーガは第三番目に位置してるわけだ。ところが、小乗の場合はニルヴァーナに入ればいいわけだから、これはラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、ジュニアーナ・ヨーガと別々のプロセスでいけるわけでしょ。どれからやってもいいんだ。つまり、すべてを否定し、否定につかって行けばいいわけだから。ところが、そうじゃなくて今度はマハーヤーナという最終地点に至るためにはどうしたらいいか、という話ですから、当然すべてを経験しなければならない。すべてがあなた方にからんでこなきゃならない。このとき、ジュニアーナ・ヨーガというのは第三番目にからんでくるステージなんだ。だから、今言ったように単品でジュニアーナ・ヨーガだけとり出してやる方法もあるよ、小乗だったらね。

(質問者5)悟りっていうのはジュニアーナ・ヨーガですか?

(尊師)いや、ラージャ・ヨーガで悟ることもできるよ。少し内容が違うがね。

(質問者6)動物たちはどうやって救われるのでしょうか。動物にもチァクラがあって、シャクティーパットをしてあげられるとか、そんなことはあるんでしょうか?

(尊師)いや、動物は動物のカルマがあって動物になってるわけですから、そのカルマが解き放たれた段階、つまり、死というものが救済でしょうね。わかりますか。

(質問者6)死によって人間に生まれ変わった場合にしか救われないということですか?

(尊師)いや、そういう考えは自惚れだと思いますよ。例えば今、動物かもしれないけれど、来世では天界に行くかもしれませんよ。例えばね、ペットの猫がいて、このペットは寂しい人を慰めていたとしよう。ね、そして食べる物は、キャット・フードであったと、ね。するとこの動物は何の悪業も積まないわけです。殺生はしない。もちろん盗みもしない。それから、もし去勢されていたら邪淫もしない。猫ですから嘘もつかない。当然酒も飲まない。ただ、単にやすらぎだけを与えていたと。そしたら、当然この猫が死を境に天界に生まれ変わる可能性はありますよ。

(質問者6)人間の場合はどうでしょうか?

(尊師)現代の人間は、まあ大体地獄か、餓鬼か、動物かに生まれ変わるとお考えになって間違いないんじゃないでしょうか。それはなぜかというと、まず殺生をしますね。盗みもします、邪淫はしますし、嘘はつく、酒は飲むと、これはもう救済の方法がないんじゃないかと考えた方がいいですね。
 だから、今は動物に対して優位に立っていられるけれども、一つの生、生命の終わりというのを境として、決して優位ではないですね。逆転してしまうかもしれない。

(質問者6)それからもう一つお願いします。左翼の人達が行なっているような現実改革の運動は、必要ないとお考えでしょうか?

(尊師)現実を改革してもソビエトや中国の二の舞でしょうね。いつだって理想は彼方に行ってしまう。

(質問者6)共産主義は必要ないとお考えですか?

(尊師)私は貧富の差は必要だと考えています。なぜ必要かというと、貧富の差こそカルマだから。だから、豊かな人が貧しい人に恵むことは当然だし、逆に貧しい人が功徳を積むことは当然だし、そういうことが背景となって、その人達のカルマを浄化できるんじゃないでしょうか。そして、実質問題として貧富の差は、今のソビエトにもあるし、中国にもありますね、北朝鮮にもありますね、それはどうですか?

(質問者6)もちろんあると思います。でも、資本主義国ほどじゃないと思います。

(尊師)いや、それは五十歩を以て百歩を笑わばこれ如何ですね。そういう中途半端なことをやっても同じですね。逆に、思想統制というものをされるわけですから、よりいっそう悪いと思いますね。だから、私は共産主義を好きではないとか、嫌いではないとかいうんではなくて、共産主義の良いところは学ばなければならないと思っています。しかし、共産主義は完璧ではありません。いや共産主義社会はもうすぐつぶれるでしょう。あと二十年とか、三十年とか、そんなものでつぶれると思いますよ、私は。

(質問者6)先生は資本主義が最高だとお考えですか?

(尊師)いえ、資本主義が最高だとも考えませんね。私は、功徳による政治というものが最高だと考えています。

(質問者7)キリスト教のイエス・キリストについてお聞きしたいんですけれども……。

(尊師)イエス・キリストですか。キリスト教というものは、夜摩天(注・欲六界の第三天界の神々)信仰です。つまり、仏教的な言葉で言うと、閻魔大王に対する信仰ですね。私がこう言う背景は何かというと、彼は死後の審判を説いています。そして、その死後の審判というものは、どなたでも必ず受けなければなりません。東洋思想でもこれはそっくりです。そして裁きというものは誰が行なうかというと夜摩天が行ないます。いいですか。だから、キリスト教というものは夜摩天信仰です。閻魔大王を信仰しています。言葉が違うにすぎません。まあ、天界の第三天界である夜摩天を信仰しているわけだから、当然エゴがありますね。エゴがある世界だからね、第三天界は。
 したがって、キリスト教というのは完璧なエゴでできている。キリストの教えを見てみるとね、彼らは自分達が救われると説いている、ね。これを信じれば自分達が救われる、と言っている。しかし、それは正しくないよね。エゴだよね。真理というものは、これを信仰することによって他の人を救済し、他の人を幸福な世界へ導かなければならないんだったろう? 死後の審判とエゴがあることから、キリスト教は夜摩天を信仰している宗教だと考えているのです。また、夜摩天は生死をつかさどっているわけだから、当然聖書にあるようにイエスを復活させることもできただろう。これが、私のキリストに対する見解です。よろしいですか?

(質問者7)キリスト教では、裁きの時にイエス・キリストの姿が現われると言われていますね。

(尊師)それは真実です。グルが裁きのときに付き添うのです。キリスト教のグルはイエス・キリストです。だから彼の姿が現われるのです。同様にあなた方のグルは私だから、あなた方が裁きに遭うときには私が登場します、必ず。そして、私は弁護士の役割をします。真実なんだよ、これは。グルというものは、だから最高のものなんだよ。この人は確かに、こういう殺生から酒飲みまで悪いことをやった。しかし、これだけいいこともやったんだから、次の生はそう厳しい罰を出すなと、夜摩天と話し合うんだよ、私は。ね、だからグルというものは大事なんだ。あなた方は本物のグルを持ちなさいよ。あなた方が亡くなったときに、ちゃんと弁護士の役割をしてもらえるような人をグルとして持たなければ、あるいは宗教として持たなければ大変だよ。

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