


現在の日蓮正宗と創価学会の抗争は、静かに信仰を続けたいと願う者には、なかなか難しい状況になっています。心の平安を願う宗教が、宗教団体として組織化した場合、どうしても組織の維持発展みたいなものが第一義になってしまいます。大きな組織はどうしても個人の感性と合わない部分が出てきます。参加している個人の中には、巨大な組織に全幅の信頼を置く人もいますが、どうしても組織の体質に合わない人も居るわけです。正宗の一部の講や創価学会は、上意下達の巨大なサークルみたいな感じなのではないかと思います。上意に従ってスケジュールをこなすのが好きな人はいいが、これに合わない人もいるわけです。創価学会の会合に出席させていただいても、あまり面白くないのです。教学の学習といってもあまり学問的な感じがしないのです。確かに創価学会の中には、学識優秀で教学もそうとう出来る人もいるようですが、なかなか普通の会員がそういう人に出会える機会はないだろうと思います。時間をかけて出席した割りにはつまらない話だったりするので、面白くないと感じるわけです。求めているものが違うといえば違うわけですからあたりまえの話です。
創価学会の機関紙などの情報によると、専門の聖職者である「僧侶」の存在に対して否定的なようですが、実際の創価学会員で正宗系の僧侶に会って親しく話しをした人が、はたしてどのくらいいるのでしょうか。本門法華堂の会合に参加して、実際に僧侶の方のお話を伺うと、学識の深さと人間的な大きさを感じます。僧侶ならば誰でもというわけではないのでしょうが、僧侶というのは思った以上に良く勉強しているという感じがします。考えてみれば子供のうちに生家を離れて得度され、大学の仏教学部や富士学林などで教学を学ばれ、長い間かけて研鑚されてきたのですからあたりまえといえばあたりまえのことなのです。この僧侶に対するごく自然な尊敬の念は、本門法華堂の会合に出席して初めて持つことが出来たものです。僧侶を尊敬するという心は、実はなかなか気持ちの良いもので、自分の中から自然に出てくるとても穏やかな気持ちです。信仰を持つ者として、帰依すべき僧侶がいるということはとても幸せなことなのだと思います。昔、どこかのホームページでちらっと見たのですが、「大石寺が好きなら正宗の講に入ればいいし、池田大作氏が好きなら創価学会に入ればいい。国立戒壇を作りたいと思ったら顕正会へ入ればいいし、お寺が好きなら正信会もある。それでも合わなければ一人で信仰を保って、敬服できる僧侶に出会ったら帰依して教えを受ければいい。」というようなことを書いた方が居たと思います。こういうのは共感できる考え方です。
本門法華堂との出会いはいろんな形があるようです。法華堂の方から勧められたという人が多いと思いますが、信仰や組織のことで悩んでいる時に、法華堂の書籍に出合ったり、法華堂の方に出会ったりすることで解決することもあるのです。本門法華堂の書籍は入手しやすいとは言えませんが、一部はネットで購入することも出来ます。手に入らないものもあるので法華堂に直接問い合わせてみるといいと思います。絶版になっていなければ郵送していただくことも出来ると思います。自分自身も関慈謙師や倉光遵道師の著作に触れて、何度も読み返してみることで、信仰について漠然と疑問に思っていたことも自分なりに理解出来るよになってきました。
法華堂の会合に参加したとき、年配のご婦人たちが「この信仰は本当に良い。外圧がないから。」と言っていたのを思い出します。たぶん創価学会でのことを言っているのだと思いますが、信仰に関係のない選挙活動などありませんし、機関紙の啓蒙もありません。組織活動に伴うノルマのようなものがまったくありません。本門法華堂では、講演会や講習会、宗祖ゆかりの地を訪ねる旅行などを行っています。信仰生活を楽しむ部分があるというのも法華堂の特徴です。これは他では類例がないかもしれません。法華堂も日興門流の一つなので、他の富士門流の法門を親戚のように考えているところがあります。時と場合によりますが、同じ仏教用語を使用して信仰を語る者を異流儀としていたずらに激しく廃絶する姿勢を取りません。大石寺の「良き伝統」を尊重するという姿勢にもこのことは表れています。曲がってしまったものは、元に戻せば良いという考え方です。
本門法華堂は他の日蓮正宗系の団体とは体質がかなり違うのを感じます。日蓮本仏論的なものが排除されているため、超越論的なものの考え方がありません。信仰に伴いがちな神秘主義的なものがないので、非常に実証的というか、ある意味で実存主義的な感じすらします。日蓮本仏論という密教的な性格の考え方を排除してしまうとこうなるのかと思えるほど学習的な感じがします。顕教的なものの世界を正しくは知らないのですが、これが顕教的なものの見方なのかもしれません。理解出来ないものに対して無理に神秘主義的な概念をあてはめて説明しないのです。理解出来ないものは学習して少しずつ認識すればいいという姿勢だと思います。古代インド哲学風の摩訶不思議な話もなければ、変な悟達もないのです。なにより絶対的な人がいないので、何かと指導されるということがありません。自分で考え自分で行動するというあたりまえの姿での信仰生活です。
普段の生活の中で宗祖をどうお呼びするかということは、気を使うことの一つです。正宗系の団体では通常は「日蓮大聖人」とお呼びし、短く「大聖人様」とお呼びすることも多いと思います。日蓮宗系は「日蓮聖人」とお呼びしているようです。僧侶の方々は以前から「宗祖」とお呼びしていたようです。本門法華堂で宗祖についてのお話を聞くと、人間としての日蓮聖人を強く感じます。今まで宗祖のお姿というのは、時空を越えた遥か彼方に存在する超越的で絶対的な存在と重なってしまい、どうしても「仏身」と「凡身」のうちの「仏身」という認識であったのです。しかし、今は本当に私たちと同じように生きている人間として感じられるということです。御書の中に記された佐渡や身延での生活の様子など、いままで以上に身近に感じます。宗祖も末法の世に住し、衆生の一人として宗祖御自身の中にしか仏はいらっしゃらない。このことを我が身と共有しているということで、宗祖が今まで以上に人間的に感じられるのです。このことが不敬にあたるとか、信仰を疑われるとかということはないと思います。

