2010-05-17
「歳の取り方」が分からなくなった社会
テレビをつけても、街を歩いても、「若さを保つためのテクニック」が溢れている。けれども「歳の取り方」はあまり目にすることが無いし、「歳を取る」ということを肯定的に教えてくれる人にもなかなか出会わない。「歳の取り方」は、いつ、どこで、誰から教わればいいのか?そう考えた時、自分が即座に答えられないことに気付く。
「歳の取り方」のロールモデルは何処へ?
ここでいう「歳の取り方」というのは、生物学的な加齢現象のことではなく、心理・社会的な意味での「歳の取り方」だ。
人間は、まっすぐ一様に老けていくわけではない。社会経験や立場、人間関係のなかで、心の持ちようや振る舞いを年代ごとに変えていく生き物だ。世話される立場から世話する立場へ・教わる立場から教える立場へ……といったように、自分の立場をギアチェンジしながら世代を紡いでいく。少なくとも、かつてはそうだった筈だ。
ところが、今は、「歳の取り方」のお手本となるようなロールモデルが見あたらない。「歳を取るというのも、悪いもんじゃない」「こんな老年(中年)になりたい」といった具合に、肯定的なニュアンスで「歳を取るということ」が示されることが少ない。いつまでも少女や少年でいるための物語や、若さをアピールするための商品なら、それこそそこらじゅうに溢れている。対照的に、加齢していく自分と向き合うこと・壮年期の心の持ちように移行していくこと・老年期の境地と対峙すること、についての商品や物語は、あまり流通していない。
思春期〜壮年期〜老年期という時間の流れのなかで、人は、身体的・心理的・社会的に無視できない変化を経験していく。だからこそ、数年後の自分をイメージし、心理・社会的な将来の目標や展望となるようなロールモデルには一定の価値がある……と言いたいところなのだが、こうしたロールモデルや指標になるような年長世代というのが、びっくりするほど欠落している。「歳の取り方」なんぞくそくらえ、ということなのだろうか。
「歳の取り方」の通過儀礼が存在しない
もちろん、「歳の取り方」を教えてくれるのは、年長世代の存在感だけではない。入学、卒業、成人式、結婚、出産。そうしたライフイベントや通過儀礼もまた、人の心理的・社会的ポジションを規定するファクターとして機能している…筈だった。
しかし、これらも影が薄くなる一方だ。成人式はとっくに形骸化し、結婚した後も思春期を続ける人も珍しくなくなった。ときには出産すら、通過儀礼ではないのかもしれない。子どもをもうけた夫婦が、「子どもを世話し育てる」にギアチェンジすることなく、自分磨きに夢中になっている*1という事例が今ではありふれている。
かつては心理・社会的な節目となっていた人生の道標が、今は機能していない;それ以前に、誰もが成人式に出席する時代でもなければ、結婚や子育てが当たり前の時代でもないわけで、幾つかのライフイベント自体が起こらない人の割合も高くなった。これらの通過儀礼は、ある種の抑圧を伴っていたにせよ、誰に対してもわかりやすく「歳の取り方」を指し示すような役割を果たしていたが、そういう機能はもはや期待薄でしかないようにみえる*2。
誰も「歳を取らなくなった」日本社会
だから、今日日の人は、社会的・心理的には、老いも若きも「歳を取らなくなった」。
生物としては加齢していくし、やがて脳は保守的になっていく。だが、思春期〜壮年期〜老年期を区別する節目がわからなくなるなかで、若い頃の心理的・社会的スタンスを引きずったまま加齢し、そうこうしているなかで保守化していく、というパターンが多くなっているのではないか。
これは、「思春期モラトリアムが延長した」というだけの話でない。三十代になっても四十代になっても若い頃のライフスタイルと価値観を引きずりやすく、「歳をとることをズルズルと回避」するような暮らしが常態化してしまった、ということのようにみえる。社会全体が、松田聖子のようになってしまった。「ここから先は青年」「ここから先は壮年」「ここから先は老年」といった境界が不明瞭で、若さに拘ることが至上命題のような価値観と消費構造のなかで、個人は、人生のギアチェンジをすることもないままに、思春期や児童期や幼年期の面影を色濃く残したまま加齢していく存在となっているようにみえる。
誰も「歳を取らなくなった」に関連する現象としては、例えば以下が連想される。
・30〜40代の女性達の、少女のようなかわいらしさの追求
・男性オタク達の、終わりなき思春期、終わりなき文化祭
・“友達親子”のような、壮年期というより思春期モデルを踏襲した親子関係
・親の庇護から出ることなく、子どものロールモデルを引き受け続ける子
・引退せずにいつまでも働き続ける団塊世代
いつまでも老年期にギアチェンジしない壮年期、いつまでも壮年期を迎えない思春期、そして思春期すら持て余して幼い万能感に退行せざるを得ない人達…。こうした人達をあちこちで見かけるにつけても、今日日、「歳の取り方」が分からなくなっている人達や、分かりたくない人達というのが沢山いる、と推定される。
こういった現在の状況を、『誰もが自由なライフスタイルを選択できるようになった結果としての福音』と主張する人も、いるかもしれないし、そういう主張が一定の説得力を有しているというのも事実には違いない。
しかし、自由な選択の結果というにしては、その自由を持て余している個人や、ライフスタイルのギアチェンジもメリハリも見失った挙げ句、アイデンティティの維持に過大なコストを支払う羽目に陥っている個人*3が多すぎる。誰もが主体的にライフスタイルのギアチェンジを回避しているならまだいい。が、「歳の取り方」が分からないまま、ただ加齢に怯えて今までのライフスタイルに(心理社会的に)しがみついて自分を維持しているだけの人というのも、少なくないようにみえるし、そのしがみつきに失敗した瞬間、メンタルヘルスを損ねるというタイプの人に最近はよく出会う。
「歳の取り方」のロールモデルを見失い、標識になりそうなライフイベントも希薄になった21世紀。それでも時間は容赦なく流れるし、私たちは日々老いていく。若作りのためのテクニックがどんなに流通しようとも、『「歳の取り方」が分からなくなった社会』というのは、それはそれで時代固有の難しさだ、と思う。
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