◇三国に出現して法華経を弘通した四人の師。
インド、中国、日本を指して、昔は「三国」と呼んだ。
「三国一の花嫁」とは、世界一の花嫁ということである。
当時、この三国は、天竺(てんじく)、震旦(しんたん)、本朝(ほんちょう=日本のこと)と言われていた。
天竺の語源となっているインダス河流域はシンドゥ(sindhu)と呼ばれており、「信度」と音写された。
このシンドゥが、東南アジアの人たちの発音でティンドゥ(tindhu)となり、「天竺」となったようである。ちなみに、インド(印度)もシンドゥが語源である。
震旦とは、サンスクリット語のチーナ・スターナ(cina-sthana)、秦(しん)、あるいは支那(しな)の音写であるという。本来、中国とは「中天竺」のことであり、現代の中国に住んでいた人たちは、インドのことを中国と呼んでいたようだ。
では、当時の中国の人たちは自分のところをどう呼んでいたか。
それは、「秦土辺地(しんどへんち)」と言って、「へんぴな所にあるチーナ」と表現していた。
唐の時代にも、「漢土辺地(かんどへんち)」と呼び、天竺に敬意を払って、自らの土地を「辺地」と呼んでいたのである。
では、日本はどうか。14世紀末の「太平記」には、「わが国は粟散(ぞくさん)辺地の境なり」と書かれ、粟(あわ)をまき散らしたようなちっぽけな国と言っていた。
これらは、昔、世界の中心がインドだった証である。
インドを訪れた震旦の僧・法顕は、「沙河(しゃが=ゴビ砂漠西端)はしばしば悪鬼、熱風が現れ、これに遭遇すればみな死んで、一人も無事な者はいない。空には飛ぶ鳥もなく、見渡す限り広大な砂漠で、ただ死人の骨を指標とするだけである」という記述をしている。
(法顕は、五世紀にインドを訪れた訳僧)
その砂漠を越えても、さらに世界の屋根と言われるパミール高原が聳えていた。
自然、風土、あるいは文化や言語の異なる途方もない距離を、仏法は渡り、この東土の日本に達したのである。
このルートを、サンスクリット語から中国語を経て、日本に法華経が渡ったことになる。
中国の天台大師、日本の伝教大師の功績、さらに釈迦と日蓮大聖人を加え、「三国四師(さんごくしし)」と言う。
顕仏未来記には、この三国四師について次のように記述されている。
「伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり・浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり・天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し・叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云・安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す・三に一を加えて三国四師と号く」(509頁)
この法華経は、日蓮大聖人の仏法としてインドに西還した。
今、創価の「南無妙法蓮華経」は全世界で唱えられている。
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