シロクマの屑籠 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2008-03-15

非コミュのエゴと、コミュニケーション

 

 

 はてなダイアリー

 リンク先の文章に書かれている“非コミュの苦悩と悪意”なるものについて、エゴイストな僕が私見を述べてみることにします。

 

「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」という人と、「自分は言われなくても色々するから、あなたも言われなくても色々してね」という人。

 

非コミュは自然と前者の認識を持っている。けど、非コミュに悪意を向ける人には後者の認識がある。

http://d.hatena.ne.jp/milkmaker/20080314/1205514409

 

 本当にそうなんでしょうか。非コミュ・非モテを自称する人達は、本当に「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」という、さっぱりした人達なんでしょうか。 

 

 しかし、そもそもが職場なり学校なり何某かのコミュニケーション空間において、相互不干渉を守ってくれと願うこと自体が、既に相手に空気を読んでくれと頼んでいることに当てはまるように思え、なんだか相互干渉的に思えませんか。家に引きこもっているのなら問題無いですし、完全なるゾーニングが可能な特殊な場所でも問題は無いかもしれません*1。でも、人と人とが肩を寄せ合って生きている空間・コミュニケーションが間断なく起こっている空間で、「自分は何か言われるまで何もしないから、あなたも何か言われるまで何もしなくていいよ」と願う事自体が、既に自分の願望の押しつけであり、顕在化したエゴそのものではないのだろうかと思えてならないのです。非コミュに対する同調圧力がどうのこうのとは言うけれど、その非コミュ自身が「俺の空気を読んでくれ」と背中と表情で語っているとしたら、なるほど確かに冷戦にならざるを得ませんし、周囲の人達が、そのようなエゴの取り扱いに当惑するのも致し方ないようにも思えます。しかしその場合、非-非コミュ側の悪意だの同調圧力だけをコンフリクトの要因とみなすのは(または道徳的にどうのこうのと言うのは)片手落ちだと言わざるを得ません。その冷戦の最中において、非コミュは非コミュのやり方と願望をもって、「お前ら、俺の空気を読んでくれよ!そして俺の空気に合わせてコミュニケーションしてくれよ!」と言語化しないメッセージを発信しているわけで。空気を読んで欲しいと思ってるのも、俺の態度を尊重して欲しいと思っているのも、それは非コミュ側も非-非コミュ側もさして違いがあるわけではないと僕は思います。

 

多分、非コミュが欲しいのはコミュニケーションスキルじゃなくて、無言の間でも存在する好意。

 ここで言う“無言の間でも存在する好意”というのは、まさに周囲の人に願望を投げかけているものであって、「俺の空気を読んでくれ」という非コミュ同調圧力ではないのでしょうか。もしも、非コミュを自称する人が、このようなモノを期待しているとしたら、これはかなり高い要求水準と言わざるを得ない。このような人がいるとして、その人の期待するモノを周りが満たそうとするとしたら、周りの人は「空気を読んで」「読んだ空気に合わせて」「わざわざ合わせていることを黙って」いなければならないということになりそうです。

 

 一般的には、「自分は言われても何もしないか出来ないけれど、あなたは言われなくても色々してね。少なくとも俺の空気を読んで、配慮してね」という態度が透けて見える場合、コミュニケーション空間において良い評価を得ることは難しいと思います。だけど、上記の「無言の間でも存在する好意」を期待する態度というのは、それにかなり近しいもののように僕にはみえるわけです。これでは、自分が願望する空気に持っていくのが難しいばかりか、煙たがられてしまいかねません。

 

結局コミュニケーションするしか無いんじゃないでしょうか

 

 無言で空気を読んでくれというのが無理としたら、どうすれば良いのか?実際の方法としては、「俺の空気を読んでくれ」を言語化して周囲に伝達し、自分を取り囲む環境をどうするのか交渉していく・話し合っていくというのであれば、場の雰囲気や一対一のコミュニケーションに対して寄り添っていく余地が生まれるんじゃないかと思います。言語化することなく黙っているだけで「俺の空気に合わせてくれ」とか「無言の間でも存在する好意」を期待して、それが叶わないからと言って恨んだり問題視したりしてもはじまりません(周りが全員エスパーな超善人でもない限りは)。結局のところ、言葉を交えたコミュニケーションを通して、お互いがお互いのエゴをさらけ出しながら、落としどころを見いだしていく他無いと僕は思います。少なくとも、そういったコミュニケーション抜きにして、自分の願望する空気と周囲の空気が異なることを問題視したってしようがないのではないかと思うわけです。繰り返しますが、お互いがお互いのエゴをぶつかり合わせて、その中で落としどころを見いだす、です。そして「中国の核はきれいな核」なんて無いのと同様に、「非コミュのエゴはきれいなエゴ」なんて事もありません。個人個人のエゴなり損得なりを賭けて、僕らはメッセージを飛ばし合うしかないのでしょう*2

 

 ただ、こういう考え方でいくと、どこまで自分のエゴが通るのかどうかは個々人のコミュニケーションスキル/スペックによって大きく規定されてくる、ということを問題視しなければならなくなります。「僕の空気を読んで欲しい」とメッセージを発信するにしても、誰がどのように発信するかによってコミュニケーションの帰趨は大きく違ってきます。極端な話、突然に「俺は俺の空気でやらせて欲しいんだ!お前らわかってるのか!」とキレてみせるようなコミュニケーションしかとれない人などは、自分のエゴを上手く周囲の人に浸透させることが殆ど出来ないでしょう。コミュニケーション能力の可否によって結果が変わってくるというのであれば、そのような能力に恵まれない人は不利を被らざるを得ない、という視点からみれば、確かに非コミュ問題というのはあるだろうな、とは思います。

 

 それでも僕たちは、コミュニケーションを通してでしか、空気を創り出すことも空気を変えることも出来ません。自分が疎外されていると思ったとしても、それを周りの人に的確に伝達出来なければ、何も起こらない。だとすれば、コミュニケーション能力がボトルネックとなっている人の、そのボトルネック*3に注目していくことに一定の意義があると思います。しかし、エゴの有無や同調圧力の有無で非コミュだけを特別扱いする必要は無いような気がするんです。非コミュは非コミュなりのエゴなり同調圧力なりを持っているし、僕の見知っている限りにおいては、非言語レベルで(例えば無言の背中で)発している場合も少なくない*4。非コミュだって十分にエゴに満ちていると僕は思いますし、空気を読めよというプレッシャーを周囲に発していないわけではないと思うのですが、如何でしょうか。

 

 この辺り、どちらがエゴイストだとか、どちらが道徳的だとか置いといて、言葉を交えて上手くお互いの願望やエゴや空気を調整出来るといいんですけどね。だとしても、その場合に誰がどれだけ上手くメッセージを表明出来るのかいったコミュニケーション能力を“純客観的に”評価することは難しいので、エゴや空気の「公平な調整」がどの辺りなのかを見極めるのも困難と言わざるを得ません。メッセージを介してしかコミュニケーションを行えない以上、そしてその巧拙に個人差がある以上、互いのエゴや空気を「公平に調整」することは不可能に近いようにみえます。現実には、今日も世界中の人間がコミュニケーションの火花を散らしています。この、コミュニケーションという名のこの戦場から、僕らは死ぬまで降りることを許されないのでしょうね。

 

*1:そんなものは、2chスレッドニコニコ動画ぐらいでしか可能ではないと僕は思うんだけれど。

*2:この視点からすれば、非コミュが言葉を媒介物とせずに、ジト目と態度で「空気を読まないお前らは悪い奴で、俺は被害者だ」という態度を表明するのも、メッセージと言えるでしょう。戦術的にそれが有効かどうかはともかくとして、そのような後ろ姿自体は、当然非コミュ自身のエゴと損得に根ざした振る舞いと指摘することは出来るでしょう。

*3:念のため付け加えると、僕がここで問題とするコミュニケーション能力は、言語の操作能力や非言語メッセージの操作能力だけでなく、パーソナリティや気質も含めてのものを想定しています

*4:なかには、その無言の背中を通して、立派に己のエゴを獲得している人だっている。無理矢理空気を読ませて己にとって良い結果を獲得している人だっているように見受けられます

i04i04 2008/03/16 09:49 『今の気分を察してほしいんだけどなぁ〜』と言うのも
それは無茶な話ですね。

しかもそれを一言も口には出さず、仕草や目つきや雰囲気で感じ取れって要求は実にハードルが高い。。。
しかもそれで相手が空気を読めないと心の中で『何なんだこの無神経な奴は!』と怒っているかそれとも『ああ、自分はまた駄目っぷりを発揮してしまった』と凹むか。

そりゃ自分で言葉を発しない、一切アクションを起こさなければ悪者にはならないしヘマをして責任を追求されることも無い。

相手の言葉やアクションの細かいミスを事細かに言葉尻を捕らえてある程度たまったら一気に爆発させ『お前のこういう態度や言葉が人をどれだけ苦しめているか考えたことがあるのか?ええっ!?』と徹底的に被害者・糾弾者の側に回る。

こういう人って、黙っているか怒っているかの二択しかないから凄く怖くて話し掛けようどころか、関わり合いを持とうとも思われないし。
むしろ自分のムスッとした面構えとスタンスが周囲に嫌な威圧感を与えてる事とかあったりするんですけどね。

p_shirokumap_shirokuma 2008/03/16 20:47 >>i04さん
 この辺り、結局は「幾らかなりとも言語化を含んだコミュニケーション」が無い限りは、結局は自分が非コミュだと思っている人の環境は具体的に進展することは少ないと思うし、その責を周りの人間に全て帰するわけにはいかないと思うんです。勿論、言語化をある程度伴ったコミュニケーションというのは、「うまくいくかどうか分からない試行」であり、下手をすればもっと居心地が悪くなるかもしれない、やれば必ず上手くいくとは限らない試行に他ならないわけです。そして、アクションを起こさなければ、さしあたって自分が悪者になったり、「言い負かされるリスク」は負わずに済みます。だとすれば、無言のうちに悟って欲しいなぁという願望に賭けたくなるのは、まぁ分からなくもありません。
 
 ですが、「俺の空気を読んでくれ」のままでは、背中だけで語ろうとしている非コミュ側も、その背中になんだか分からないメッセージを感じつつも、それが分からないもどかしさを感じる周囲の人も、多分、お互いあまり快適ではない状況が持続するんだと思うんですよね。結局、何らかの形で「言語化を伴ったメッセージ」を発しなければならず、しかもそれが成功裏に進まなければ事態が変わらない。

 本文中にも書きましたが、ただ、この考え方で視ていく場合、「コミュニケーションスキル/スペックの多寡によって」結果に随分な差が生じてしまいます。しかし、生じてしまうからと言って、コミュニケーション以外の経路でこうした問題が解決出来るとも思えません。難儀なことです。

kogurashikogurashi 2008/03/16 23:25
どうも、初めまして。
何というか、どんな生き方をするであれ、人と接する上での最低限の技術があるに越したことはないですよね。あとは少なくともコミュニケーションを取る上で相手の気持ちや自分の周囲の空気をきちんと読めて、なおかつそれにある程度の免疫が備わっていればさほど問題にはならないんだよなぁとは、私も思います。

p_shirokumap_shirokuma 2008/03/17 19:08 >>kogurashiさん
 その最低限の技術、というのが現在の生育環境のなかで一体どれぐらい保証されているのか?という事が気になってくるんですが、先天的な要因を抜きにしても、その技術を練磨しやすい環境/しにくい環境 の個人差は大きいのではないかと思っています。ある程度以上の、コミュニケーションのスキル/スペックが、皆にあれば良いのですが...。