シロクマの屑籠 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2007-01-07

君がキモオタと言われるか否かは、君がコミケに通っているか否かとは関係ない

 

 脱オタ、という言葉はちょっとややこしい。

 

 なぜなら、この言葉は一見すると「オタク趣味を放棄すること」を指しているようにしかみえないからだ。しかし現実には、「脱オタ」という言葉はオタクファッションを改善することだったり、コミュニケーションスキル/スペックを改善させることだったりする場合が多い。*1

 

 秋葉原の大通りを行きかう男性オタク達の服装がまだまだ十分にみすぼらしかった2000年頃において、ピンバッジだらけのリュックを普通のバッグに変えてみる・穴の開いたTシャツをやめてみる・風呂に入る・無精ひげを剃る・電車の中で奇声を発しながらエロゲートークをしない、etc...これらのちょっとした気配りはオタ個人の社会適応を改善するうえでそれなり意義があった(逆に、それらさえおざなりにしていたオタクが多かったとも言える!)。総武線の電車のなかで冷笑される可能性を、脱オタメソッドはある程度減弱させる効果を有していたし、それこそが各脱オタサイトが目標とするところでもあったわけだ*2。そして2007年現在の秋葉原をみる限り、服装やエチケットに気をつけることを達成し、無闇に侮蔑の視線を集めるリスクを回避したオタク男性は相当増えたと思う。彼らは内にはオタク趣味を秘めてはいるだろうけれども、外部の人間から「あいつキモオタUZEEEEE」と呼ばれるリスクは回避している。

 

 そこで以下のリンク

2007-01-03 - Welcome To Madchester

Latest topics > オタクという言葉が指す範囲の変化と、脱オタという言葉 - outsider reflex

 になるわけだが、


 「オタクである」ということや「オタクを自称する」ということと、「オタクと呼ばれる」あるいは「オタクという語を差別的に投げかけられる」、ということには差がある、という事を見過ごしてはいけないと思う。自分が自分をオタクと呼ぶのかどうかと、他人にオタクと蔑まれるのかは殆ど別個の命題に近く、自称オタクをやめるのと、他人にオタクと侮蔑されるのをやめることは意味も方法も全く違ってくる。

 

 オタク趣味をやめるという脱オタは、この点前者に関する問題

 *脱オタクファッションガイド*汎用適応技術研究[index]なんかが言うところの脱オタは後者に関する問題。

 

 

 脱オタ技術論においては、自称オタクをやめるかどうかはどうでもよい。「キモオタヒッキー」と他人に蔑まれることを回避しやすくなるか否かが重要なのだ。とどのつまり、服を変えるだのコミュニケーションをどうにかするだのというほうの脱オタは「他人にオタクと蔑まれることを脱する」という意味の脱オタなわけで、「自分をオタクと呼ぶことを脱する」という意味の脱オタではないわけである。そこの所を混同している人が結構多いようだが、青字のほうの脱オタは、あくまで他称オタクを脱することであり、自称オタクを脱することではない。なので、侮蔑の念を込めてオタクと呼ばれる状態を脱することは、オタクとしての矜持やメンタリティを捨てることとイコールではあり得ず、あくまで別個の命題である。*3

 

 だから、コミケの会場に普通にこぎれいな服装の人がいようがイケメンがいようが全然不思議ではない。彼らはキモオタと他称されることはないかもしれないけれども、自分ではオタクやってるなーと思っている可能性が高い。彼らがどれだけエロい同人誌をトートバッグに忍ばせていたとしても、他人はオタクだと思わないだろう。街ですれ違っても、「きんもーっ☆」と後ろ指をさされる心配はあるまい。

 

 逆に、風呂にも入らず汚い格好をしたせむし男が、キョドキョドしながら、なんだかわけのわからない書物や機材を持ち歩いていたら、その人はキモオタと他称されるだろう。秋葉原にいようが銀座にいようが新宿にいようが関係なしに、その人はキモオタとして侮蔑の視線を集める可能性大である。キモオタ呼ばわりされる為に、わざわざミリタリーやラノベに詳しい必要はない。オタク趣味が好きなほどキモオタ扱いされるのではなく、キモければキモいほどキモオタ扱いされるのである。世間一般からオタクの烙印を押される為にはオタクメンタリティなんて微塵も必要ない。今日日、三十代中盤以下の男性で「理解し難い何かを持っていて」「コミュニケーションできなさそうで」「臭かったりみすぼらしかったりする」ものには、ステロタイプなオタク蔑称がもれなくプレゼントされちゃうのだ。だって「オタク」は世間的には未だ蔑称なんだから。

 

「○○さんちの息子さんオタクなんですって。嫌だわねー奥さん」

「きんもーっ☆」

「みてみて、あいつ。ほら、あのリュックにポスター刺してる奴。すごいでしょ?でしょ?」

「あいつに告ったら百万円」

 

 こんな陰口、誰だって言われたくない。だから私は脱オタを奨める、その地方の平均的TPOぐらいまではやっといたほうがいいよとはこれからも主張していく。別にモテる必要は無いけれど、回避可能な陰口は回避したほうが精神衛生にも良いに決まっているんだから。

 

 幸い、最近の若いオタク男性は服飾面やエチケット面でかなりしっかりしてきた印象があるし、故にか侮蔑されている人間特有の屈折を持っている人も大分割合が減ってきたような気がする。彼らは他人にオタクとして侮蔑されることが無いか、あっても少なめだろう。だが、世の中には未だ「侮蔑語として他人をオタク呼ばわりする」向きは依然として存在する。おそらく、オタクという言葉が死語になった遠い未来においてさえも、見た目やエチケットが駄目で会話がろくに出来ない人は侮蔑されやすいだろう。だから、脱オタという処方箋が要り様な人は今も存在していると私は確信しているし、70年代〜80年代生まれのオタクのなかには、自称オタク&他称キモオタな人がまだまだ残存していると知っている

 

 タイトルにもあるけれど、もしあなたがキモオタと呼ばわりされたり、侮蔑的ニュアンスを込めてオタクと呼ばれたんだとしても、それはあなたがコミケに通っているか否かとは関係ない。林原めぐみで何回ヌいたかとも相関していない。単に、他人からみて服飾・エチケット・コミュニケーション*4でどうだったかによってキモオタか否かが決定づけられていることをお忘れなく。もし、侮蔑的ニュアンスを込めてオタクと呼ばれたくないなら、脱オタ的メソッドを適用するしかないと思うし、私はそれを奨める。ああ、大事な同人誌はもちろん捨てなくてもいいから。オタクメンタリティと一緒に、大切に温存しておいてほしい。他人から人間扱いされるか否かは、あなたがオタクとして深いか浅いかとはあまり関係ないので*5

 

*1:私の記憶が確かなら、このニュアンスの「脱オタク」「脱オタ」という言葉をある程度メジャーなものにした功績(功罪)は*脱オタクファッションガイド*の久世さんによるところが大きい。

*2:脱オタ=モテ、というのは明らかに2004年以降の、現在非モテ論壇とでも呼ばれているような人々が勝手に思い込んだ誤解でしかない。当初の脱オタは、必要最低限のTPOをそろえることによって街でゴキブリ扱いされるリスクを減らそう、という控えめな目標設定であったことは繰り返し繰り返し申し上げておく

*3:敢えて例外が考えられるとしたら、それはA-boyファッションやnerd fassionとオタクアイデンティティが直結した人々ぐらいだろう。しかし周知の通り、A-boyファッションやnerd fassionは若年男性のアイデンティティを牽引するような流行や主張とはなりえなかったのである。旧態然としたオタクファッションを自らの依って立つアイデンティティとしている人や「俺って格好いいぜ」と思っている人は殆どいないんじゃないだろうか

*4:勿論、このコミュニケーションには相手に何を話したのか、も含まれる。何もわからぬ女子大生に突然Su-27の機動性について滔々と語りだせば、一発死は免れない。

*5:何より、言わなきゃどんなスゴい趣味でも大丈夫

psyqpsyq 2007/01/07 15:12  侮蔑の念を込めてオタクと呼ばれる状態を脱することを「脱オタ」というのは、「オタク」という単語に侮蔑の念を込めることにもつながるのではないでしょうか。それは、オタクと呼ばれている人だけでなく、オタクを自称する人らの首も絞めているように思います。

p_shirokumap_shirokuma 2007/01/07 18:53 >>psyqさん
1.もし、脱オタという言葉がオタク界隈や非モテ界隈だけでなく世間一般に広く知れ渡った言葉であれば、仰るような影響は十分懸念されなければならないと思います。実際には、「コミュニケーションスキル/スペックの向上の試み」と表現するのが無難なのは間違いありません。
2.しかし、最近の私はこうした語義や語調が孕む問題よりもオタク個々人の実際のコミュニケーションスキル/スペックの平均値がどうなのかのほうが遥かに問題として大きいんじゃないかと思ってはいます。こういう文章だけの世界では、そりゃ語義語調について強調されるのはわかります。ですが視覚の世界ではどうでしょうか。
3.ご指摘の件に関する検討は、http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20051201にも詳しく書いてあります。
4.「オタク全体が」という視点に対する解決案と、元来私が追求している、「オタク個人が」という視点に対する解決案は、しばしば対立を含むものと私は考えています。