シロクマの屑籠 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2007-11-15

「ごめんなさい」が言えない大人達

 

 

 「あなたは、身近な人に「ごめんなさい」が言える大人になりましたか?」

 

 確かに、素直に自分の非を認めることの難しい世の中かもしれない。非を認めれば謝った以上のことまで突きまわされたり、責任の程度問題を度外視した見返りを突きつけられる世知辛さがあるかもしれない。でも、そういうのは公の空間でのやりとりや他人同士の商取引的関係のなかでは致し方ないかもしれないけれども、親子関係や兄弟や友人関係においてはどうだろうか。そんなことは無いと思いたいのだが。

  

 パブリックなニュアンスの強い関係や、商取引的なニュアンスの強い関係において、「ごめんなさい」を口にすることがそれなりの困難さと覚悟を要するというのは分かる。けれど、もっと身近な関係や互助的ニュアンスの強い関係のなかでも「ごめんなさい」と言えない大人がどうやら沢山潜んでいるようにみえるのだ。まるで知識だけは一人前の子どものように、誤りを指摘されても言い訳や逆ギレや話題の変更に終始し、「ごめんなさい」と言えない人達を、あなたの周りでも見かけることがありませんか?親子関係や兄弟関係、友人関係の内部においても「ごめんなさい」を決して口に出来ないようなタイプの人を。

 

 このような、「ごめんなさいの言えない大人」と一緒に過ごす人達は、どのような心境を抱くだろうか?家族や恋人や友人が間違うと怒るくせに、自分が間違っても「ごめんなさい」と言えない人と一緒にいたいと思う人は、あまり多く無いような気がする。自分の誤りを認めないというのは、そんなに素敵なことだろうか?周りの人達に憤りを感じさせるだけでなく、自分自身も後味の悪い感触を引きずることになるのではないだろうか?そしてそれらの総体として、自分自身の居場所や心持ちにマイナスに働いてしまうのではないだろうか?損害賠償を求められるような関係ならいざしらず、ごく身近な、お互い様に生きていく狭い関係のなかでは、そんなことをしたってお互いに不快になるだけのような気もするのだけど、なかなか謝れないという人はあるようだ。

 

 身内やプライベートな関係、親子のような関係のなかで謝って失われるものというのは何なのだろうか?何が彼らをして「ごめんなさいが言えない大人達」にしているのだろうか?個々の大人によって理由は様々に違いない。

 

 例えば身内やプライベートな筈の関係すら、もはや商取引的な関係やパブリックな関係に近くなってしまっている人(或いはそう感じている人)ならば、ごめんなさいを妻や子どもにも言えないかもしれない。「自分の取り分を守る為に責任を回避しなければならない」「謝ったら余計な事を背負い込まなければならない」という冷たい打算が、身近な筈の関係にまで浸透していて、しかも“お互い様”という信頼関係や“もたれあい”といった互恵的関係を相手に期待できない人は、なかなか「ごめんなさい」が言えないように思える。

 

 また、「ごめんなさい」を言うことによって自意識がぐらつく人・劣等感が強い人なども、なかなか謝ることが出来ないかもしれない。本来、「ごめんなさい」と謝ることによって自分自身の値打ちが大暴落することなど無いわけだし、ましてお互い知った者同士であれば尚更なんだけれども、脆弱なプライドや傷つきやすい自意識が疼いてしまう人の場合は、自意識やコンプレックスが邪魔をしてなかなか「ごめんなさいが言えない」人というのはあるだろう。「謝ったら負けだと思っている」というわけだ。そう思っているのは当人だけで、実際は、謝って自分の値打ちが下がるなどということは無い筈なんだけれども、劣等感が強ければ強いほど、プライドが脆弱であればあるほど、「ごめんなさい」と口にした時にぺしゃんこな気分に陥る度合いが強いかもしれない。勿論、そういう人は当人も不幸だし、周りの人も何かと苦労することになろう。

 

 尤も、何でもかんでも「ごめんなさい」と謝れば良いかというとそんなに話は単純ではないし、おかしな謝り方を繰り返していればそれはそれで人間関係をこじらせてしまうこともある。例えば主人と奴隷のような関係を招来するような愚かしい「ごめんなさい」というのもあるだろう。まぁ、馬鹿みたいにごめんなさいを繰り返すことも、ごめんなさいを回避し続けることも、どちらも、人への謝り方を知らないという点では共通しているし、それが対人関係に影を落とすという点でも共通しているのだが。

 

 「ごめんなさい」と言えない大人達。「ごめんなさい」という謝り方を知らないまま育ってしまった大人達。成熟した関係を期待される年頃になってもプライドや自意識が邪魔して謝れないという人や、配偶関係や親友関係のような互恵的で一連卓上的なニュアンスが強い関係の内部でさえ「ごめんなさい」が言えないいう人は、長い目でみた時、対人関係の広がりを制限されたり、緊張や葛藤の少ない居場所に辿り着きにくかったりすると思う。「ごめんなさい」を身近な人にも言えない人というのは、そういう意味であまり幸せになりにくいのではないかと私は思うのだが、もしかしてそういう大人が増えているのだろうか?それとも、私自身が幼稚すぎてよく知らなかっただけで、大人というものが元来そういう不器用な生物だということなのだろうか?もし、近しい筈の人達に対しても「ごめんなさい」を言わない・言えない付き合いが一般化しつつあるのだとすれば、それはとても居心地の悪そうな、自分も周りも緊張と憤りの絶えないような、息苦しい人間関係だなぁと思う。せめて自分と自分の周りの人間関係だけでも、そのような緊張と葛藤の強い地獄絵図を回避するべくあがきたい、と思わずにはいられない。

 

akamakuraakamakura 2007/11/16 01:50 関係が希薄なネットだと顕著だと思います。「ごめんなさい」が言えないのって、その程度の関係というか。
関係があるならばパブリックな場でこそ謝りますよ。たとえば幼稚園の父母会とか、自治会の集会とか。こういう場で悪いときに謝らないとヤバいもの。

p_shirokumap_shirokuma 2007/11/16 21:24 >>akamakuraさん
 パブリックなその状況、というのは計算が可能な状況で、計算の帰結として謝るということが発生するわけですよね。んで、それがもっと近しい関係だったら、どうなのか、といったところです。

gnorthygnorthy 2007/11/17 03:16 最悪ですよ。親なんですが、過去のことは言うなの一点張りです。なんか変な宗教でもやってんじゃないのかというぐらい、理解できません。少なくとも今は理解できません。

i04i04 2007/11/17 08:17 ↑『謝る事で自分の権威が地に落ちる、だから絶対頭を下げない!何があっても認めない!』っていう思考かなと思いますね。メンツに拘るというかメンツが全てのヤクザ社会みたいな発想ですね。古い世代の親には結構それはありがちですよ。親分子分、師匠弟子みたいなノリを家庭に持ち込んでる人は。
ブックマークコメントでも『アメリカ人は謝らない』みたいな事がありましたが、向こうも訴訟訴訟の社会になってて、うかつに『ごめんなさい』と言ってしまうと「そうか、否を認めたな、じゃあ金払え」流れになるから、謝らない。その代わり『そういう結果にはなりましたが、これらは様々な不運が重なった結果であり、遺憾であるとは思います』みたいな物言いをしますね。

akamakuraakamakura 2007/11/17 22:56 なるほどね、たしかにそうかも。

p_shirokumap_shirokuma 2007/11/18 00:40 >>gnorthyさん
 親子関係、のような場面において、謝りを認めないという選択行動を行うことにどのようなメリットがあるのか、考えてみると色々と感慨深いものがあります。

p_shirokumap_shirokuma 2007/11/18 00:43 >>i04さん
 アメリカ社会において、迂闊に謝るということはまさに「謝ったら負けだとおもっている」であって、適応促進的な行動だと想います。メンツというものが重視される世界ではその通りだと思うんですよね。では、あらゆる人間関係をメンツというものに拘って執り行うのが上手い手なのか?それともメンツがつぶれないように手を尽くさなければならないのか?にも考えをいたすと面白いことが色々と浮かんでくるような気がします。