Z.尋常小学校授業の思い出

当時の学校の様子を、思い浮かべるままに記したいと思うが、なにせ八十年前のことなので、

先生に叱られて、廊下に立たされたこととか、修学旅行で枕投げに興じたことしか浮かんでこない、

家内や、友人の話などと、竹内途夫著 福武書店 「尋常小学校ものがたり」等から、少しづつ、

おぼろげながら思い出したものを綴って見た。

教育勅語

尋常小学校の教育は全てが教育勅語に準拠したものであったと言えよう。

勅語の扱いは丁重を極め、学校の奉安殿に厳重保管され、四大節をはじめ、学校の主な式典行事

には、必ず奉読された。

式次第で、君が代の斉唱のあと、フロックコート姿の校長が壇上に進み、これまた礼装の教頭が、

三宝にのせた桐の箱に納められた教育勅語を、頭上高く差し上げ、校長の卓上に置く。

校長はこれに最敬礼して、桐箱から勅語を取り出し、最敬礼のあと、勅語の奉読があった。

その間、生徒一同は頭を下げ、自らも暗誦したものである。

四大節とは、元旦の一月一日、紀元節の二月十一日、昭和天皇誕生日の四月二十九日、明治天皇の

誕生日の十一月三日である。

祝日の時、お祝いに生徒に配られる、落雁の紅白のお菓子がもらえるのが楽しみだった。

教育勅語 勅語の全文

尋常小学校の授業

教科書

学校の授業はすべて教科書を中心に行われた。私の場合は、第三期国定教科書で、俗にハナハト本と

いわれた。これは大正7年(1918)から、昭和7年(1932)まで使われた。挿絵は全て線画で描かれ.

黒一色であった。

 

 

 

 

昭和8年(1933)頃から、第四期の教科書が使われはじめ、唱歌と図画の教科書を

使うようになった。

この四期の教科書は、色刷りで、俗にサクラ本といわれた。

内容的には、軍国主義の傾向が強くなったといわれていた。

修身の授業

一年の修身は道徳を主体に説いたもので、今の子供にも見させたい本である。

モクロク  一 ヨク マナビ ヨク アソベ      二 ジコク ヲ マモレ

       三 ナマケル ナ             四 トモダチ ハ タスケアヘ

       五 ケンクワ ヲ スルナ        六 ゲンキ ヨク アレ

       七 タベモノ ニ キ ヲ ツケ ヨ   八 ギヤウギ ヲ ヨク セ ヨ 

       九 シマツ ヲ ヨク セ ヨ       十 モノ ヲ ソマツ ニ アツカフ ナ

      十一 オヤ ノ オン          十二 オヤ ヲ タイセツ ニ セ ヨ

      十三 オヤ ノ イヒツケ ヲ マモレ

      以下二十五 まであるが 略 

以上のように、一年の徳目は、自分の身辺に関するものが多く、教科書の一学期はすべて絵

だけで、先生の説明で終った。二学期になると、キグチコヘイノラッパ など忠君愛国の表現が

主だった。

二年になると、特定の人の事例が教訓として上げられた。松平信綱の正直、広瀬武夫の忠義など

があった。

三年になると、忠孝が主体の事例が教材であった。谷干城と谷村計介の西南戦争の忠君、孝の見本

として二宮金次郎、歴史的な本居宣長の話などなどが続いた。

四年になると、教育勅語の暗誦が行われた。明治天皇の遺徳を偲び、北白川宮の台湾征伐の話などが

教材となった。靖国神社についてもこの頃の教材にあった。

五年になると、修身は肇国の神話となり、天照大神の天孫降臨から、神武天皇が教材として、取り上げ

られた。

六年では、義務教育の最終年となるので、国とか社会に関する徳目が主体となった。君恩の重さと、

万世一系の比類なき国家と忠君愛国を説き、楠木一族、乃木希典、伊能忠敬、高田屋嘉兵衛などの

事例が上げられた。

六年の三学期は、教育勅語について、終生この勅語の心を胸に、その実践を諭された。

読本(国語)の授業

寺子屋時代から 「読み、書き、算盤」といわれていたものの、続きで、読本というだけに、まず読むことに

重点がおかれた。当時の小学校の国語は、読み方、書き方、綴り方の三つに分かれていた。

このうち読み方が授業の中心で、それに次ぐものが書き方で綴り方が一番少なかった。

一年の読み方は、カタカナで、当初は、ハナ、ハト、マメ、マス、ミノ、カサ、カラカサの名詞からはじまり、

動詞、形容詞となり、それから簡単な文章となり、その初めが「さるかに合戦」だった。

やがて、「はなさかぢぢい」 「大江山」 と進んでいった。

二年からは、平仮名となり、本の字数も増え、「おののたうふう」の蛙が柳の枝に、とぴつくまで何回も

努力する話などがあった。さらに、那須与一の「扇のまと」や、十郎五郎の「曽我兄弟があった。

三年になると、歴史物や軍国物が主体となり、国家主義的傾向が強くなった。神話の「大蛇たいじ」、

日本武尊の「くまそ征伐」、木曽義仲の「くりから谷」、元寇の「神風」、軍国物として「金鵄勲章」などが

あった。

四年は、五大強国の一つとし、大日本帝国として説いている。今までは国外の題材はなかったが、

4年からは、外国の人物、歴史、産業などが教材として取り上げられた。

「大連」「揚子江」「朝鮮人参」「コロンブスの卵」「アメリカだより」などがあった。また歴史物としては、

「川中島の戦い」「木下藤吉郎」「加藤清正」「塙保己一」「乃木大将の少年時代」などが題材として

扱われた。

五年では、歴史物は少なくなり、実生活に関係するものが題材となった。「養鶏」「物の価」「麦打ち」

「選挙」「銀行」などの授業があった。

六年は、義務教育の仕上げとして、国際感覚を身に付けた人間育成を目途とした題材が多かった。

「孔子」「リンカーン」「諸葛孔明」「トーマス・エヂソン」などがそれである。

社会一般、産業経済に関するものとして、「裁判」「植林」「ゴム」「北海道」「法律」などの題材があった。

算術の授業

この科目は毎日の時間に割り当てられていた。

大抵の子供は、一年に入学する前に、誰に教わったということではなく、自然に十ぐらいまでの加減は

覚えていた。当時駄菓子を買うには、お小遣いをもらって、まんじゅうが一銭、飴が二銭とかで、五銭の

お小遣い残りはいくらと、自然と覚えていたからである。

一年は百までの計算で、足し算、引き算であった。

二年になると、九九を覚えていった。二学期では計算はもっぱら掛け算が中心であった。

三年では、加減乗除となり、暗算もこれに加わった。

四年になると、少数の計算が入り、この辺から生徒の算術の実力の違いが出てきたようだ。

五年で、分数を扱うようになり、直径、半径、円周率とかが教えられ、円の面積、角の面積などの授業

があった。

六年になると、比例とか、歩合の授業があった。

綴り方の授業

この授業は、先生がその都度適当な題材を決めて、生徒に書かせたような気がする。

例えば 「お父さん」 「僕のおかあさん」といった類であった。

日頃の授業より、夏休みの宿題の「綴り方」に重点が置かれていたようだ。

書き方の授業

寺子屋からの、「読み書き算盤」 ではないが、書き方は、読み方についで重要視されていたようだ。

一年の後半からの授業で、硯で墨をすり、毛筆で書いた記憶が鮮明に残っている。

私の担任の中村重男先生は師範学校出の若い先生で、ロイド眼鏡の強度の近眼で、黒板に

太い筆で、墨痕鮮やかにと言いたいところだが、墨ならぬ水で実に見事な書を見せてくれた。

未だに見事な筆で裁きと、書体の素晴らしさを記憶に残している。

国史の授業

これは、五年からの授業で、神代の肇国からの題目であった。

天照大神から神武天皇、聖徳太子、源義家、北条時宗と続いた。

六年では、織田信長から大石良雄、攘夷と開港、明治天皇と続いた。

地理の授業

地理も五年からで、五年は主に日本地理、六年で日本外地と世界地理であった。

理科の授業

理科は四年からで、はじめの理科は動植物が主だった。

花なら、花びらが何枚とか、昆虫の足は何本とかという、類のもので、大した記憶もない。

図画の授業

これは一年からの授業で、クレヨンで勝手なものを描いたくらいの記憶しかない。時折校外での写生が

あった。

唱歌の授業

一年の最初の歌は「日の丸の旗」で、♪ 白地に赤く、日の丸そめて、ああ美しい 日本の旗は

と歌ったものである。鳩(ぽっぽっぽ鳩ぽっぽ)、牛若丸、ももたろう、夕焼け小焼け、月(でたでた月が)、

黄金虫(黄金虫は金持ちだ)が歌われた。

二年では、浦島太郎(むかし昔浦島は)、案山子(山田の中の一本足の案山子)、那須与一(源平勝負の

時の場所)、大こくさま(大きな袋肩にかけ)が歌われた。

三年では、春が来た、茶摘(夏も近づく八十八夜)、虫の声(あれ松虫が鳴いている)、村祭りなどがあった。

四年では、春の小川、広瀬中佐(轟く砲音飛び来る弾丸)、花嫁人形など。

五年は、鯉のぼり、海(松原遠く消ゆるところ)、水師営の会見(旅順開城約成りて)、勇敢なる水兵など。

六年では、朧月夜(菜の花畑に入日薄れ)、故郷(うさぎ追いしかの山)、我は海の子(我は海の子白波の)、

荒城の月、非常時日本の歌(非常時来れり内より外より)などがあった。

体操の授業

体操は男と女は別々に行ったような記憶で、男は白のパンツにランニングしゃつで、白でひさしが赤の

帽子であったような気がする。女は白のブルマーにシャツで、赤白の鉢巻きであったようだ。

男の子は鉄棒や、ろくぼくの体技も行われた。

運動会での、赤勝て、白勝ての掛け声で、鞠の籠入れで競った印象が一番に残っている。

運動会での父兄の見学は極一部の家庭で、テントの中での観戦であった。

かけっこの賞品は、ノートや鉛筆類であったような記憶しかない。

昼食もそこそこに校庭での野球遊びに熱中した。野球といっても野球のままごとで、投げたゴムボールを

こぶしに手拭をぐるぐる巻きにしたバットで撃ち返すといったものだった。

それでも、昼休みを皆で楽しく過ごしたひと時だった。

遠足

動物園に行ったことと、修学旅行は、奈良と伊勢神宮で、二見ヶ浦で食べた昼食弁当の豪華さと、

旅館でのまくら投げで楽しんだ経験しか印象にない。

服装

私の通った東京の麻布尋常小学校の生徒の服装は、男組では殆どが木綿の和服で、クラスで二人

位が洋服であった。三年頃になって洋服が次第に増え、六年のときは、和服の生徒は皆無となった。

通学は和服の生徒は、帯のところにハンカチ代わりに、四つ折にした手拭をぶら下げて、白布の肩掛け

カバンに下駄履きといった出で立ちだった。

帽子は黒の学帽で、ここ麻布尋常小学校の学帽につける徽章は今でも不思議に思う位、当時として

画期的なものだったと推測される。それは、地はどうなっていたかはっきりしないが麻布スクールの

 頭文字 A と S を重ねあったマークであった。つまりこのマークが校章だった。

 マークだけを想像して描いて見た。

 

教室に入る時は、下駄箱でぞうり又は運動靴に履き替えた。

女組では、殆どが和服で、六年生になっても、洋服、和服は半々だったような気がする。

カバンは手提げカバンのようだつた。

四大節とか、学校の大切な行事の時は、男女とも和服の生徒は袴を着用した。

先生と生徒

私の担任の(六年間担任)先生は師範学校出の若い教師で、専門教育を受けただけに、全てを弁え、

文字通り生徒の先を行く存在だった。「三歩下がって師の影を踏まず」 ほどではないが。先生と生徒の

距離は相当なものだった。

授業中の質問は自由であったが、生徒は先生の教えをいかに習得するかに、神経をとがらせ、質問の

余裕などは皆無だつた。いまの学校のように、先生と生徒は一線上にあるような在り方ではなかった。

生徒にとって先生は絶対的な存在で、兵隊で言えば、上官と兵との間柄であった。

だからといって、授業中はくしゃみ一つ出来ないという雰囲気ではなく、家庭の父が子を見守るような先生の

勉強の仕方だったので、教室内は和気藹々といった空気に包まれていた。生徒同士がふざけ合うといった

場面もあったが、緊張した授業では、罰として席に立たされたり、廊下に立たされたりした。

私などふざけて、両手にバケツを持って廊下に立たされた経験がある。

今考えれば、これは罰として最高刑であったようだ。

先生の服装は、男は、背広か詰襟の洋服といったところで、女の先生は洋装と和装だったが、和服の方が

多かった。

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